ホーム闘病記(大村編)

闘病記(大村編)

2019年3月4日(月)

車を走らせ大村市役所へ。転入届、国民健康保険、就学児童の届け出、子供手当の申請、住民票の交付を待つ時間に慣れない書類業務を一心不乱にこなした。傍らには幼子をあやす妻の姿が。翌日からは長男と次男は学校に通うのだ。午後はその学校に出向き、教頭先生や担任の先生から説明を受け、必要最小限の学用品を買いに大規模量販店に車を走らせる。目の回るような忙しさであるが、日本で新しい生活を迎える妻子のためにと思えば、全ての苦労は喜びであった。その夜は日本の学校を初めて体験する長男と次男の期待と不安をまるで自分のことのように重ね合わせ眠りについた。家族の中で運転できるのも俺だけ、日本語で書類を書けるのも俺だけ、学校の先生と歓談し、子供をあやし、家事を手伝い、時には料理も披露し、嫁と姑の仲を円滑にする俺は正に家族の中心であり必要不可欠な存在だった。

以上は7年前、研究年と言う制度で一年間家族で日本に滞在した時の話である。その時と全く同じ業務をこなしているのだが、7年前との明らかな違いに絶望する自分がいた。

妻は昨年の7月韓国で免許証を取得し、国際免許証を得て日本に来ている。運転が難しいと言われる釜山に慣れた妻にとって走行車線が変わったことは些細な事象だったようだ。

7年の時を経て、妻の日本語能力は格段に向上し、早口で喋る市役所職員の言葉を正確に理解し、誰の助けも借りずに書類作成できるほどだった。

実家の衣食住全ての家事を担い、家族全員の健康と安全に気を配る妻は正に必要不可欠な存在なのだ。

翻って今の俺は、誰かの助けなしでは家の中の移動もままならず、妻の介護なしでは風呂にも入れず、味噌汁やお茶をストローですすり、掛け布団が重すぎて深夜に目覚め、頭が痒くても掻けず、外出するときは縁側からスロープを懸けてもらい車まで移動し、30m以上の移動が必要な場合は車椅子に乗せられ、家事も出来ず、子供もあやせず、妻からは「5人目の子供が出来た」と言われるほど家族の足かせになっているのである。

今日俺が役に立ったことと言えば銀行口座を作る時に本人確認の署名をしたことだけで、市役所でも小中学校でも車の中で妻の帰りを待つだけだった。

風邪ひいた人がしゃがれ声で「大丈夫です」と言うようなもので、まともに話せなくなった俺がいくら強がりを言っても余計に同情を誘う結果にしかならないのだ。そのため、人と会うのが億劫になり、引きこもりがちになる。

ここでは数学ができるということは何の役にも立たない。俺の人生において高い比重を占めていた概念であっても表現できる言葉が無ければ水疱と帰してしまうのだ。毎日のように数学と格闘し学生達と議論していた日常が今は遠い昔のようである。

「韓国で世話になった人々に会えなくて寂しい」
そう妻に告げると、妻は「ほうらやっぱりね」と言いたげな微笑を浮かべた。

2019年3月6日(水)

大村での朝は早い。午前7時に目覚め、寝台の上でリハビリに励む毎日だ。腹筋、両足の上げ下ろし、両腕の筋力維持、首の運動、起き上がる動作の反復、これらを完了してこそ寝台から4輪車へ安全に移行することが出来るのだ。

長女は小学校へ、次男は中学校へ、長男は高校入学の面接会場へ向かい出て行った。

時刻は午前8時、準備万端で4輪車に移行した俺は妻の介助で厠に向かった。俺が入室した後、妻が扉を閉めた。俺は4輪車を手洗い場前に停め、体を回転するための支点を得るために扉にもたれ掛かった。

その時である。固定されていると思っていた扉が開き、俺は4輪車もろとも後方に倒れた。原因は俺の腰が扉のレバーに接触し、レバーが下がると同時に扉も開放状態になったせいである。

慌てて駆け寄る妻を制し、俺はリハビリの一環として、地面に座った状態から立ち上がることを自らに課した。布団を両手で掴み、両ひざを立て、足の指に力を込めて上体を少しずつ寝台側に重ねていき、体を寝台上で反転させ、見事、どん底からの脱出に成功したのだ。

今日は大村での初転倒の日、そして、そこから這いあがった日として記憶されるだろう。

2019年3月8日(金)

「休職中の方は住宅ローンを組めません」韓国語で最悪の悪口が社名である日本の地方銀行の電話案内の職員はそう言った。
世間は厳しい。これから車を買ったり、平坂塾カフェの内装工事をする時の資金は全て現金で調達しなければならないのだ。投資目的で購入しようとしているマンションの購買権さえも確保できそうにない。

焦っているのかなあと自分でも思う。少しでも体が動くうちに、少しでも声が出るうちに、妻子が不自由なく生活できるための経済基盤を築いておきたいという信念が揺らぎつつある昨今である。

国も言葉も異なる新しい学校に通う次男と長女と、家中を大声を上げて走りまくる三男と、関心をインターネットからギター演奏に移行させた長男、子供たちは俺の苦悩とは無縁に日本での生活を楽しんでいるようだ。

午後からは妻と弟嫁の付き添いで病院に赴いた。
神経内科の医者は満面の笑顔で俺にALSの確定診断を下し、介護保険、特定指定難病の医療費補助、身体者障害者年金申請のための書類を作成してくれた。その医者は過去の検査記録を見るや否や
「呼吸器を付けるか、付けないかの決断をされてください。その決断によって対応が変わってきます」と言った。

なんだか、郵便局で配送先に仕分けられて、最後の目的地は自分で選べと言われている感じがした。あるいは、人様の税金で生かされる道を選ぶか、潔い死を選ぶか、というようにも聞こえた。

ALS患者の7割は呼吸器を付けないで死ぬ選択をするらしい。その選択は本人の死生観や介護に対する家族の負担を熟考した上でなされたものだと思う。

俺はつい昨日まで人工呼吸器を付けて延命するのが当たり前だと思っていた。ところが、上記の医者の言葉を聞いて、
「そんなに自分が可愛いのか?」
「『今、死んでも悔いはない』と公言してくせに」
「自分一人が思考に費やす時間を確保するために他人による24時間の労力が必要になるんだ」
「末期で植物人間状態になって莫大な医療費を消費しているのと同じでは?」
「子供たちは俺がいなくても逞しく成長するだろう」
「妻は悲しんでくれるかもしれないな」
「一体誰が垂れ流しになった糞尿の処理をするんだ?」
のような考えが頭を駆け巡り、信念が大きく揺らいだ。

人間というのは弱いものだな。

2019年3月9日(土)

昨日、病院で診察を受けた後、身体障害者認定のための体力テストを受けた。握力計を力一杯握ってみるもののレバーはびくとも動かない。左右とも握力ゼロを記録した。「お前らゼロかー」と叫びたい気分だった。

深夜に寝苦しくて目覚める時は決まって頭のどこかが痒くなる。そこに手を伸ばすのも一苦労なのだが、力が入らないので掻くことが出来ない。そして眠れない夜が続くのだ。

朝、起きた後、4輪車で移動するのだが、その把手を持つ手に力が入らないので転倒の危険に怯えながら移動することになる。最近は腕も上がらなくなっているので、眼鏡をかけるのも、目やにを取るのも、耳を掻くのも、弱々しい手つきになる。

食卓で両手を曲げ伸ばしてほぐすのであるが、全ての指を真っ直ぐに伸ばした状態を維持するのは至難の業である。それゆえ、じゃんけんは出来ない。

一人で外出も出来ないのだが、外出しても財布から小銭やカードを出すことが出来ないので買い物もできない。疲れた妻に飲料水を差し出すような気の利いた行為は出来ない。市役所や病院での順番待ちの時間でも、雑誌を手に取って読む楽しみも消えてしまった。ページをめくることが出来ないからである。

スマホの操作をする時、指が震えてタイピングできないので、震えの無い右手の親指が頼みの綱なのだが、スマホの画面の左端に右手親指が届かなくなっている。頻度の高い「a」や変換候補の筆頭が左端に表示されるので、スマホを扱うのも苦痛そのものなのである。

パソコンに関しては、打鍵速度は落ちるもののストレスなしに操作できる。この文章を書いているのは一日の中で最も心が休まる時間なのだ。

2019年3月10日(日)

ALS患者への新薬として治験中であるロビニロール硝酸塩であるが、闘病記(釜山編)でも書いたように入手し服用していた。実は、韓国での主治医から処方してもらっていたのだ。パーキンソン病患者への薬としては認可されている同薬であるが、ALS患者に処方するのは薬事法的にまずいのではないかと勝手に解釈して公表を控えていた。

今回、公表するに至ったのは先週の金曜日にその薬を処方されたからだ。日本全国にそのようなALS患者はいるはずだ。同薬の効果がどれほどのものか情報交換できたらいいなと思う。

同薬の2mgを服用して三日目であるが、昼寝をしたくなるという軽い副作用はあるものの、前回服用時のような気怠さはない。服用前の懸案事項だった右手の親指の恒常的な痙攣は治まったし、声域の縮小にも歯止めがかかったような気がする。

薬が効いて完治するとは思えないけど、呼吸器装着までの時間を延ばすことが出来るのならば御の字という心境である。

2019年3月12日(火)

新薬を飲み始めて4日目、やや大きめの錠剤を飲み込むのに苦労するようになった。口の中の所定の位置に薬を舌で移動して水で流し込むのだ。一方で、その効果はというと、左手の指が心なしか伸びるようになったことくらいである。

夜、快眠できるように寝る前に服用しているのだが、相変わらず、布団の重さと頭の痒みで睡眠がぶつ切りになるし、舌の長さも短くなったような気がする。実際、歯にこびり付いた食べかすがどう頑張っても除去できなくなっているし、言葉も以前にも増して出にくくなっている。

声が出せなくなると困る職業は数多い。教師もその一つであろう。俺の場合には、ジェスチャーや手話をするための手が動かないし、文字を書いて説明することも出来ない。

こんな状態で、一体どうやって塾を開き教育が出来るのか?

などと色々考えずに、やってみることにした。今日、「平坂塾」の看板のデザインと制作を業者に依頼した。草案が出来るのは三日後らしい。

2019年3月13日(水)

昨晩もよく眠れなかった。布団をかぶる、熱がこもり暑くなる、布団が重いので寝返りが打てない、寝苦しくなり目覚める、手足の力を総動員して布団を移動、寝汗のために頭が痒い、爪で引っ掻いて痒みを軽減、寒くなる、布団をかぶる、この周期を10回ほど繰り返していると、窓の外が明るんで朝を迎えるのである。

どうやら、新薬が睡眠を誘うと思っていたのは誤りだったようだ。今日からは就寝前に服用しないようにしよう。

平坂塾の教室となる部屋の準備が着々と進んでいる。と言っても自分には何一つ出来ることはないので、母、妻、長男、次男の労力に感謝するばかりである。

今日の夕食後、子供たちをその教室に集めて、各々好きなことをさせた。そして、個別に俺の横に座らせ、教科書を読む等の勉強をしてもらった。あんまり言いたくはないのだが。ウチの子達は勉強する習慣が全くついてない。そんな状態になるまで放置していたことを猛省すると共に、「やる気のない子をやる気にさせる」という難題に挑む覚悟でいる。


2019年3月15日(金)

何故、学者の道を志したのか?

よく学生たちに訊かれるのだが、
「大学生みたいな自由な生活を一生続けたかったから」と答えて、希望に燃える彼ら彼女らに冷や水を浴びせていた。そこから続けて、
「一日一ミリでも自分が成長できるような仕事がしたかったから」と述べて体裁を保っていた。

現在、休職中である俺には「何かをしなければいけない」という義務はない。身体的には不自由だが、精神的には自由である。そんな時間で何が出来るか、何を成長させるかを必死に考えている。

物置同然で洗濯物干し場であった一室が整理され、30年以上前に購入したと思われる長机は今も健在で、三方から射し込むブラインド越しの春の木洩れ日を反射し、部屋全体に力が宿るかのようである。ここで、経営者としての経験を積み、時には辛酸をなめ、人間として成長し続けることが出来たらいいなと思っている。そして数学者としてあと一ミリ大きくなりたい。

2019年3月17日(日)

闘病記という題目にはそぐわないだろうが、今日は投資の話をしたい。

生まれ故郷の大村市は、キリシタン大名の大村純忠や隠れキリシタンの殉教の地などの歴史には事欠かないのだが、南北の主要都市である長崎と佐世保に比べて、知名度は格段に落ちる事は否めない。これといった主要産業がなく、平野を利用した農村地帯が広がり、公務員がやたらに多く、のんびりとした土地柄の大村は、その風土と同様な人材を生み、その上昇志向が適当な所で停滞する俺のような人物に共感を抱かせるのである。

映画館がないのも大村だからしょうがない。駅前の商店街はシャッターで埋まっているのも大村だからしょうがない。市内で最も水準が高い高校が定員割れしてるのも大村だからしょうがない。こんな風に大村に対する期待値が物凄く低いので、騒音とは無縁な海上空港があったり、高速道路からの眺めが抜群だったり、森園公園から眺める夕日が美しかったり、などのいい所があると、表立っては言わない密かな郷土愛が育まれるのである。

そんなうだつの上がらない大村であったが、最近では事情が変わってきた様子だ。高速道路網の発達と土地の安さからベッドタウンとしての価値が知れ渡り、この過疎化の時代において、長崎県内で人口が増加している唯一の市町村として脚光を浴びているのである。しかも、着工中の新幹線も大村に停車するらしいのだ。

その勢いを受け、大村市役所周辺の埋め立て地には続々と商業施設が建設され、海を見晴らすマンションも分譲されているのだ。その一世帯の価格は2200万円前後でまだ空き部屋もあるとのこと。その広告を見て俺たち夫婦は色めき立った。先月まで住んでいた釜山ではマンションは分譲されると入居希望者が殺到し、入居後の価格も上昇の一途を辿っているのだ。そして3000万円以下で分譲される3LDKの物件は皆無と言っていい状況なのだ。

こんな時、いつもなら夫婦の意見は割れるものなのだが、今回においては珍しく一致した。そして、大村に移住して間もない平日の昼下がり、三男だけを連れてモデルルームを見学に行った。これは俺たち家族が住むために購入するのではない。入居が始まる7月から月10万円の家賃収入を得るための投資なのだ。一括払いすれば20年で元は取れるし、その時のマンションの価格も1000万円程度の下落に留まるだろうという算段だ。問題はその一括購入するための現金である。現在、釜山に所有しているマンションを売却してもよいのだが性急な判断によって売り時を見誤ることは避けたい。ということで一年後の退職時に発生する退職金で支払い、その間の繋ぎを住宅ローンで賄うことにした。

見学した部屋は素晴らしく、マンション近辺の海沿いの風景は最高で、それだけでも購入する価値があると思えるほどだった。

しかし、その住宅ローンが休職中のため組むことが出来ないのである。全く資産が無くても在職中であれば簡単に組めるものが、休職中というだけで金融機関の審査を通過できなくなり、物件を押さえることも出来ないのである。

今日、その物件の施工会社に呼ばれ、担当者と話をしてきた。彼女はこう言った。
「休職のことは伏せて審査にかけてみましょう。形式な事なのでうまくいくと思いますが・・・」

俺は一秒考えた。おそらく、その時間は投資家と数学者を分け隔てるものであり、俺の運命の分岐点だったと思われる。

「それは出来ません。休職中で審査が通らないなら諦めます。嘘はついていなくても事実を隠し通すというのは自分には無理ですし、あなたの会社にも迷惑をかけることになるかもしれません。今回は縁がなかったですが、今度取引することがあればあなたに担当をお願いしたいと思います」
もごもごとした口調で言い切った。

かくして、マンション購入計画は夢だけで終わってしまった。「使わないことが最大のバイト」という処世術がここに生かされたのは皮肉という他はない。やはり、俺は地道に働いて収入を得る方が向いているのだろう。それも大村で生まれ育ったからなのかもしれない。

2019年3月19日(火)

医療関係者の来訪が相次いでいる。

障害者認定のための面談しに来た職員を皮切りに、居宅介護支援事業所の担当の方との面談と契約、訪問診療の担当医との質疑応答、医療機器の貸し出しの相談、等、先週からほぼ毎日、上記の誰かと会っている。

改めて思うのが。指定された難病患者に対する支援の手厚さである。今後、胃ろうの造設、人工呼吸器装着のための気管切開、等の手術および入院にかかる費用は国の税金から支出されるのだ。それだけで何十万円と掛かるものが、ほぼ無料になるのだから有難い限りである。

その一方で肩身の狭さも感じる。いくら治療を施しても延命にしかならないわけで、定期的に医療チームによるリハビリを受けたとしても気休め程度の効果しかないだろうし、なんだか、「何が何でも生きてやる。そのための経済力を得るために邁進する」という気概が損なわれるような気がするのだ。

居宅介護の契約も済んだし、手摺や車椅子等の医療機器も1割負担で購入できる。俺の目の前で通り過ぎる大きな流れに抗うことは出来なかった。

「生かされるのではなく、生きたいのです」

そんなことを言える俺はもういない。

2019年3月19日(火)

医療機器販売店の仕事は早い。

朝御飯を食べて間もない頃、南側の縁側に電動車椅子が搬入された。購入すれば50万円もする高価な機械を月3千円で貸出してくれるとのことだ。これまでの手動の車椅子では「押すのは簡単よ。楽々」と言っていた妻の言葉を信じていたが、それは単なる強がりであったことが先日判明したばかりなのだ。なので電動に変わったことは願ったり叶ったりであった。

早速、電動車椅子に腰掛け、右手の位置に取り付けられたレバーを握り、操縦してみる。思いのほか馬力が強く、室内の走行でソファーにぶつかってもソファーを押しのけるほどの勢いである。縁側からスロープを使って庭に降りる時も、電動で後進することによって、支持する妻の負担を劇的に軽減することが出来たようだ。

目的地である床屋には先客がいて一時間待ちと言われて、自宅に引き返した。たった10分足らずの短い時間だったけど、妻と三男を視界に入れながら歩く至福の時間だった。

技術の進歩はすさまじい。束の間の幸福感だって味わうことが出来るが、その代償として何かを失っているような気がする。喩えて言うなら、「部品を交換すれば永遠に生きることが出来る機械の体」を拒否する心みたいなものである。

いやいや、眼鏡にしろ、自転車にしろ、自動車にしろ、スマホにしろ、そういうのは世に溢れているはずだ。いっそのこと首から下をサイボーグにした方が幸せに生きられるような気がしてきた。

2019年3月21日(木)

自らを実験台として新薬の効能を確かめる昨今である。

そこで分かったことは服用後4時間は脳と体が活性化し、その後に睡魔に襲われるということである。元々はパーキンソン病の薬なので、ドーパミンを増加させるはずだし、眠気が来るのもその反動と考えれば説明がつく。

それならば就寝時間の4時間前に服用すれば日常生活を阻害されることなく深い眠りを得られると考えた次第である。

作戦通り、午後7時半に服用、同時に客人を平坂塾に迎え入れ、二時間程歓談に興じる。客人を見送った後、就寝の準備をしている最中に異変が起こった。

口の中の唾液が滾々と湧き出し、口から溢れそうになるのだ。仕方がないので、ごくりと飲み込むのだが、食道に唾液が絡まるような感じになり、息苦しくなるのだ。そして、新たな唾液が湧き出して来るのである。

洗面所ででてくる唾液を全て吐き出して、寝台に横になるのだが問題は解消されない。妻を呼んで、電動寝台に傾斜を作り、吐き出した唾液を吸収させるためのタオルを置いてもらうことにした。

その後、少なくとも50回は苔落としのように俺の頭は枕とタオルの間を往復し続けることになる。安眠の日を得るための旅はまだまだ続きそうだ。

2019年3月22日(金)

昨晩もよく眠れなかった。朝になっても寝苦しそうにしていたので、妻が俺の体を横向きにして呼吸しやすい体勢を整えてくれた。それからどれくらい時間が経ったのか分からないのだが、睡眠の最中に突然、咽てしまい、これまでにも3回起こっている地獄からの咆哮が続くことになった。過去との違いは回復するまでの時間である。呻きだして1分以上経っても呼吸は乱れたままで恐ろしいことこの上なかった。傍らの妻もそれ以上に緊張したことだろう。

折よく、今日は病院に行く日だった。特定疾患認定のための書類を貰うこと、肺活量と血中二酸化炭素濃度の検査を依頼すること、今朝の呻きの原因を尋ねることを宿題にして午前11時に病院に向かった。

病状の進行具合の差があるので一概に比較はできないが、ALSに関して働きかけは日本の病院の方が圧倒的に能動的であるように感じた。これは難病に対する助成方法の違いもあるかと思う。韓国では症状が悪化するのを待って患者の要望に従ってしかるべき処置を提示するというやり方だったので、現在の段階で胃ろうの造設や呼吸器の種類の選択を迫り、先手先手で検査をしまくる日本の病院との対応の違いには大いに戸惑った。

担当医は前回と同じくALS患者を扱う時のマニュアルを読み上げるような感じで質疑応答を終え、午後の検査の手順を説明した。呼吸器を付けて生き延びるしかない病気ということを十分に納得した俺にはもはや共感は不必要で対策のみが必要なのだ。そう思うと、主治医が心強い存在に思えてきた。

最初の検査は肺活量である。何と俺の肺年齢は91歳らしい。健康時の70%程度の肺活量しかないらしい。睡眠時間が伸びた理由が数値化されたというわけだ。これからさらに病状が進んで肺活量が健康時の50%くらいになった時、一体俺の肺年齢は何歳になるのか、などの疑問は尽きないが、とにかく俺は並み居る先人達の肺年齢をごぼう抜きにしてしまったようだ。

次の検査は股を流れる動脈に針を刺し採血するというものであるが、採決室に案内されて寝台に寝かされ、カーテンを引かれるまではよかった。そこに入ってきたのは採決器具を手にした担当医だった。ズボンを脱がされるのは許容範囲としても、パンツを脱がされ、陰部を露出したまま動脈を探すまでの間にカーテンの隙間から往来する人に覗かれ、助手の女性看護士にも無防備な状態で晒され続けられたのは参ってしまった。
「女性の患者でも同じことをするのか?」
「タオルを当てるくらいは出来るだろ?」
「しかし、いい年をしたオッサンが『恥ずかしいからタオルを』というのも恥ずかしい」
「下手に意識して元気になっても問題だしなあ」
「無の境地になって堂々としておくのがいいのでは?」
「闘病記が書籍化され、俺が一躍時の人となった時に、看護士Aの証言とか、されはしまいか?」
などと脳内で悟りと妄想が渦巻く中で無事に検査は終了し、結果も良好で即入院という事態を免れたのであった。

2019年3月24日(日)

こんなはずではなかった。

昨年、大村に家族で移住することを決心した時に思い浮かべたものと現実との乖離が激しい。あの頃は杖があれば一人で歩けたし、両手も自由自在に動いたし、三か国語を話せた。平坂塾の開塾に対しても、内装業者と綿密な打ち合わせをしたうえで、急勾配の階段の安全性を確保するための補修工事、看板の意匠の考案、平坂塾の広報活動に邁進するつもりだった。しかし、悲しいかな、声が出なくなり、周囲への影響力と求心力を失ってしまった俺には健康維持という命題しか課せられず、しかもその唯一の命題も実現しそうにないというトホホな現実に直面している。

昨晩は一度目が覚めて厠に行ったものの比較的によく眠れた。生まれて初めて飲む下剤の効果も抜群で、下腹部の張りも解消した。しかし、風邪気味で喉を傷めてしまい、「言葉にならない」状態が続いている。椅子から立ち上がろうとする時も両足の震えが止まるのを待ってからだし、曲がってしまった両手の指ではスマホの画面に触るのも困難になって来た。

この一カ月で病気の進行が加速したように感じるのは気のせいだろうか。夢も希望も奪い取るALSの残虐な行為を記録して後世に伝えることがせめてもの抵抗なのである。

2019年3月26日(火)

長男が大村高校に通うことになった。何を隠そう俺の母校である。

朝6時半に起床、7時に家を出て、補習開始時間の7時半に着席するために、約5㎞の道のりを必死の思いで自転車をこいでいた。土曜日も授業があり、部活は毎日で、夜7時に帰宅、夕飯を食って、風呂に入って、宿題をやって、布団に入るのだが、このまどろみの瞬間は、全てをやり切って眠りにつく極上とも言える幸福な時間だった。

これまでの人生でも睡眠は快楽で、発病後も転倒とは無縁な寝台の上は心安らぐ空間であったのだ。しかし、この1カ月は状況が異なる。深夜に一度以上目覚めるのが当たり前のことになって来たし、呼吸困難への懸念からか夜眠りにつくことに恐怖を感じてきているのだ。

夜よく眠れないと、日中も不機嫌だし、集中力も欠如しがちだ。そのせいか、今日、4輪車で歩行中、例の後ろ向きに引っ張られる力が働き、豪快に転倒してしまった。今月、二回目の転倒である。

2019年3月28日(木)

長崎大学教育学部に在籍されているS教授の計らいで、7月5日(金)に長崎市市民会館で開催される長崎県算数・数学教育研究県南大会で基調講演を任されることになった。

昨日はS教授との事前打ち合わせの日で、はるばる長崎市から大村市の自宅まで御足労いただいたのだ。午前9時30分、応接間でS教授を待つ俺の足は緊張で小刻みに震えていた。

講演をすることが決まった時とは状況が全く異なるのだ。何しろ、声が出ない。その上、風邪の影響でここ二、三日の間、頷くか首を振るかで意思表示をしている状態だったのだ。こんな姿で対面したら大会の運営を担うS教授から
「平坂さん、もう年貢の納め時だ。新しい講演者は俺が何とかするから、養生しなよ」という三下り半を突き付けられることも十分有り得るのである。

俺は講演の原稿を必死の思いで朗読し、最終判断をS教授に仰いだ。彼は両腕を組み目を閉じ、長い沈黙の後、
「レジュメを拝見しました。残り三カ月で病状がどのように変化するかわかりませんが、御講演の全責任は私が持ちます。余計なことは考えず、思う存分講演されてください」
とは言わず、「いいんじゃないですか」と言った。

かくして大役を任された俺は、今日も発声練習のリハビリに励み、子供らの勉強を見てやり、電動車椅子で床屋に向かい、十数年ぶりに剃刀で顔を剃ってもらい、妻と近所のスーパーまで買い物に出かけ、明日への鋭気を養うのである。

2019年3月29日(金)

風邪が治った。声も一週間前の状態に戻った。とは言っても、か行とさ行が濁ってしまうのは相変わらずだ。今日の夕方、二十数年ぶりに数学科の同級生と再会するのだ。その時に意思疎通できるくらいに発音を改善しなければと思い、ひたすら「カ、キ、ク、ケ、コ」を繰り返し発声練習した。

舞台は大村市役所に移る。昨日、在留資格を得た妻が転入届と国民健康保険加入の手続きをするために同行したというわけだ。ここでも人目を憚らず発音練習に励んでいたが、どうにも調子が出ない。どころか、時間が経つごとに発音が悪くなっている気がした。

こんな時の拠り所になるのは釜山のリハビリセンターで受けた変顔実演による舌の訓練法なのだ。口の中で舌を一周させる訓練から始めて、一通りの訓練法を終えてある結論に到達した。それは舌を出して極限まで下方に伸ばし続けると喉の奥がびくつき嘔吐しそうになるのだが、その時の喉の筋肉の収縮を終えると声の通りが良くなるという事実である。

その成功体験に気を良くした俺は市役所で書類が完成するまでの二時間の待ち時間の間中、ずーっとその練習をやっていたのだ。そのお陰かどうかは不明だが、18時半にその同級生を長崎空港に迎えに行ってから10時半に市内のホテルに送り届けるまで、積もりに積もった身の上話を滞りなくすることが出来た。

彼は情報セキュリティの専門家なのだが、俺の若かりし頃の恥ずかしい思い出話も暗号化していて他者による複号を阻止していた。

2019年4月1日(月)

先週の水曜日にNHKで放送された「奇跡のレッスン」を視聴した。この番組は諸分野の(教える)達人が日本の子供たちに短期集中指導を行い、その成果を観察するという構成である。今回の分野は書道で、中国人書道家が講師になって書道歴が長い女子中学生に手ほどきをしていた。

墨汁を含ませた毛筆が真っ白な半紙の上で緩急を付けながら躍動する。その映像を見ていると途端に目頭が熱くなった。年のせいか、病気のせいか、このような感情失禁は今までに何度となく経験してきたが、まさか字を見て泣くとは思わなかった。中学生の書に対する真摯な態度、刹那的な筆の動き、講師の命を吹き込むような筆捌き、水害で被害を受けた故郷への思い、等の感情を揺さぶる要素があったのは確かだが、書が出てくる度に涙に咽ぶものだから家族に大いに不審がられた。

今日は新元号が発表される日であり、平坂塾創設の日でもある。教室となる作業部屋にはUDデジタル教科書体で大書された「平坂塾」の看板が置かれている。午前と午後に、あれほど勉強するのを嫌がったウチの子供達を指導し、夕方には第一号となる塾生を迎える。

泣かないように気を付けなきゃな。

2019年4月3日(水)

愛用の4輪車がお払い箱になりそうな勢いだ。

これまでは主として室内移動の際に用いていたのだが、ガラス戸、ガスストーブ、敷布団、部屋間の段差などの障害物が安全を阻害するので誰かが付き添うことになり、不便を感じていたのだ。

俺の手足はもはや「自分の手足のように」は動かせなくなっている。

そんな時に導入されたのが電動車椅子だった。重くて車への搬入が困難という欠点を除けば、安全性と機動性の両面において、4輪車を選択する理由がなくなってしまったというわけだ。

手動から電動へ、自転車から自動車へ、ウッディからバズへ、世の中そんな事ばっかりだよなあ。

2019年4月4日(木)

久しぶりに夜中に目覚めることのない快眠が実現できた。こんな日は朝の体操にも気合が入る。手足と体幹のフルメニューをこなし、朝食も自力で食べることが出来た。

今日はかかりつけ医が院長である病院に行く日で、同病院のリハビリセンターを見学に行く日だ。心電図と血液検査を行った後、検尿検査を課せられた。車椅子で障害者用のトイレに移動し、手摺が付いた男性用トイレで用を足そうとする時、両手の指に全く力が入らない状態になった。

妻がいたので事なきを得たのだが自力で出来ることをまた一つ失った衝撃は大きかった。これがリハビリの難しい所である。腕の疲労は指の力を急激に低下させるのだ。

リハビリセンターを見学した後、帰りの車中で妻と口論になった。妻は外来でセンターに通い、毎日のように体を動かすことを望んでいたのだが、上記の理由から俺は「病院までの往復と合わせたら3時間を費やす作業にお前を巻き込みたくない」と言った所、「何でそんなに消極的なのよ」と妻の逆鱗に触れてしまったというわけだ。

リハビリ同様、噛み合わない時って有るものなのだ。

2019年4月6日(土)

嘘から出た真という諺がある。その真偽を確かめるためにいくつか書き残しておこうと思う。

バイオジェンBIIB068の治験が成功し、ALS治療薬として承認されること。

闘病記が好評を博し、NHKの朝ドラに採用されること。

2019年4月8日(月)

ここ一カ月の間、声が思うように出ないことが悩みの種だった。すでに平坂塾には三名の塾生が通っているが、自分でも申し訳ないと思う程聞き取りにくい発音で息絶え絶えに説明しているのである。

日によって時間帯によって声の状態が変わるのも考えものだ。毎週日曜日の午前中には家族で大村教会に通っているのだが、元気よく「おはようございます」と言えた日の翌週はもぞもぞと呟くことしか出来なかったりする。

遠方から来られる友人、知人を自宅でもてなす際には事前に入念な発声練習をして臨んでいるのだが、その効果は微々たるもののようだ。

呼吸筋の萎縮と共に声が出なくなるという話なので、医者からは声を保存しておくように勧められている。ツイッターでのやり取りで得られたのは、「コエステ」という単語だった。これはスマホに入れるソフトで指定された文章を読んで録音しておけば、そのデータを基にあらゆる音声を生成してくれるという優れものなのだ。そうしておけば、タイプした文章を俺の声で読み上げてくれるわけだ。

俺は声の状態が最も良いと思われる風呂上りの就寝前の時間帯に雑音の無い作業部屋に籠もり、何十もの文章をコエステに記憶させた。

平坂塾を訪れる皆様へ

どうか俺の元気な姿とだみ声を記憶していただけますように。

2019年4月9日(火)

昨日は長男が通うことになった大村高校の入学式に参席して来た。

車椅子対応に関して事前に連絡した上で、体育館へ向かう通路脇に駐車する。通りすがりの教員や生徒からの「こんにちは」と言う挨拶を受け、会釈と「ごににわ」と言う挨拶を返す。

式の開始の40分前だと言うのに体育館に準備された椅子席の大半が埋まっている。早く着席したいのだが、自転車に乗ってくるはずの長男が到着しないことには受付で登録してもらえないのだ。仕方がなく体育館の隅で意味もなく佇んでいると、小中高の同級生から声を掛けられた。俺の病気のことも平坂塾のHPを読んで知っていたそうだ。

入学式に来る前は「妻が出席するのだから、車椅子に乗ってまで見世物になる必要はないのでは?」と言う気持ちが多少はあったが、思いがけない同級生との出会いによって吹っ切れることが出来た。

実名でHPを運営すると言うこと自体、全世界に私的情報を公開しているのだから「見世物になって恥ずかしい」と思うことが恥ずかしいのだ。むしろ見世物上等と言う覚悟で積極的に公の場に出て行くべきであり、去年の夏も平坂家会議で誓ったことでもあるのだ。

入学式の後は各教室に移動してホームルームに参加する運びらしい。しかし、その教室は南館の2階にあり、エレベーターはないとのこと。しかし、開き直った俺にはそれを避ける理由があるはずがない。結局、大人3人の力を借りて階段を昇り、担任、副担任先生のお話を拝聴し、階段を降りた。お助けいただいた方々にこの場を借りてお礼申し上げます。

余談であるが、4人も子供がいるが、今までに入学式、卒業式には一度も出席したことがなく、授業参観も一度だけで、全て妻に任せきりだった。これからは皆勤を目指して頑張ろうと思う。

2019年4月10日(水)

今週から新学期が始まる。

春休み中、長男と次男は揃いも揃って、夜更かしして朝遅く起きて、朝食は食べず、近くの量販店で買い込んできた辛ラーメンを自分らで作って食べ、「一緒に勉強をしよう」と言っても「頭がさえない」「ちょっと自転車で出掛ける用事があるから」「ギターを30分弾いてから」等あれこれと理由を付けて、作業部屋に来るのを回避し、来たとしても集中せず三男にチョッカイを出そうとし、その有様を見た母から「全然、しつけが出来てない」と言われるほど自堕落な生活をしていたのである。

頼みの妻は家事に加え新学期の準備や俺の病気に関する書類作成等でフル稼働の状態で、長男と次男の生活指導をする余裕はなかったのである。移動の自由がない俺に二階の寝室で夜長々とおしゃべりする長男と次男を監督できるはずもなく、お手上げの状態だった。

しかしである。あれほど心配していた子供達の起床時間であったが、始業式の日と同時に早起きし、朝食を食べ、長女は片道1.2㎞、次男は片道1㎞の道のりを歩き、長男は片道5㎞の道のりを自転車で学校に向かった。今日は三男の初登園日で8時半のバスに乗って行った。

残されたのは、俺、妻、母の大人のみ。本来の俺であれば出勤して家にいないはずだ。なのに今、こうやって午前中を過ごしていることに対して大いなる違和感を抱いている。

しかし、その違和感も夕方になれば解消されるだろう。何故ならば、今週の平坂塾は平日夕方はもれなく塾生への個人指導の予定が入っているからだ。

2019年4月11日(木)

もし俺が年間億単位を稼ぐサッカー選手であったら?

栄養士、語学教師、動作解析の専門家、弁護士、代理人、心理カウンセラー、フィジカルコーチ、技術コーチ、医師、スタイリスト、を金に糸目をつけず雇い、チーム平坂を結成し、万全の態勢で練習もしくは試合に臨んだことであろう。そして、各部門を統括するGMを任命し、月毎に総会を開き、チーム平坂としてのパフォーマンスを最大化したに違いないのだ。

今日の午前中はそんな気分を味わうことが出来た。と言うのは、俺の介護に従事していただくほとんど全ての人々が我が家に集結したからである。居宅介護施設のケアマネージャー、医療機器メーカー役員、作業療法士、二名の言語療法士、難病ネットワークの代表、二名の訪問看護士、という錚々たる面子が質疑応答と議論を重ね、俺の生活の質を改善するためにトイレや階段を大名行列のように歩き、家の構造をつぶさに観察するのである。

これを意気に感じずとは何をか言わんやと言う状況であったが、肝心の俺は「こんなに大勢の人が支えてくれるというのは嬉しい反面、恐縮するというか、筋肉のみならず萎縮しちゃいそうだなあ」ということを心の中でつぶやいていた。

おそらくサッカー選手だったとしても似たような心境になるのではなかろうか?

2019年4月12日(金)

先月の始め、某自動車製造会社の営業であるUさんが自宅にやってきた。ウチの母が車を買う時はいつもUさんの世話になっているのだ。その時は自己紹介をした後、7人乗りの福祉車両を購入したいと伝えただけだった。その後、Uさんは新車と中古車の見積もりを持ってきてくれ、その誠実さと熱意に折れる形で、107万円の中古車を購入することにした。

しかし、その中古車は既に買い手がいて購入できなかった。次善の候補は条件が合わないうえに価格も高いので見送ることにした。その日の晩、某中古車販売会社のホームページ上でその中古車の相場を調べてみると25年式で107万円と言うのはかなりお買い得な物件だということがわかった。逃がした魚は大きかったのだ。

その翌朝、その中古車販売会社の営業から電話が入った。見積もりを請求するために自宅の電話番号を入力したメールを送ったのは事実だが、まさか本当に掛かってくるとは夢にも思わなかった。その営業もUさんに負けず劣らず熱心で、紆余曲折の結果、Uさんが所属する会社のライバル会社の車を購入することになった。

代金を振り込んだ後、Uさんから電話がかかって来た。
「ちょっと古いですけど70万円台がありますよ」
電話を受けた俺はUさんには申し訳ないなと思いつつも
「この前の107万円の車の条件が良すぎて、他のには食指が動かないですね。しばらく静観します」と答えた。

そこから時が流れて、今週の水曜日に目出度く納車されたというわけだ。重くて車への搬入が困難だった電動車椅子も車体後部に楽に搬入できるし、8人乗りなので7人家族全員が余裕をもって座れそうだ。妻はその車名が気に入ったと言っていた。

これがあれば遠方からの来客にも大村の山の上から眺める、陸地、大村湾、再び陸地に降り注ぐ夕陽を見に案内することも可能だろう。

2019年4月15日(月)

長男が朝6時に一階の台所に降りてきた。釜山にいた頃は何度起こしても布団から出てこず、登校時間ギリギリまで家を出ず、妻からの憎まれ口を聞きながら家を出ていたあの長男が朝6時に起きているという事実は俺にとっては正に天変地異とも言える出来事だった。

ドラえもんが安心して未来に帰れるようにとジャイアンに立ち向かったのび太に対して「あののび太が!」と涙するように「あの長男が!」と布団の中で感嘆していた。

その理由は他でもない「補習」である。長男が通う大村高校では朝7時半から補習があり、遅くとも7時に家を出なければ到底補習開始時間には間に合わないのである。かく言う俺も高校時代は補習に出席するために早起きをしていた。この補習と言うのは義務ではないが、「補習に出らずんば大高生にあらず」という覆しがたい雰囲気があり、ほぼ全校生徒が参加していたのである。

あれから約30年経った現在でも当時と全く同じ補習制度が実施されていることに驚きを禁じ得ない。その最たるものが土曜日午前の補習である。このことは大高生を持つ親御さんが月から金まで働いた疲れを癒すための土曜日の午前と言う貴重な時間を朝食や弁当作りに費やすことを意味するのだ。更には補習を担当する教員は土曜日出勤が恒常化するわけで、働き方改革が叫ばれる昨今の情勢と著しく乖離した状況と言えるのではなかろうか。

大村高校の校長先生が「土曜の補習は止めませんか?」と言えば、生徒、教員、父兄がもろ手を挙げて賛成そうな案件だと思うがいかがなものだろうか?週末にインターネットを通じて提出する課題で自動採点してその合計点が内申書に反映されるようなシステムを作れば、学力の低下を招かず生徒に柔軟な時間の使い方を提示できるし、自主性を育てることに繋がると思うのだが。

6時40分に自宅を出発した長男であったが、教室には誰もいなかったとのこと。それもそのはずで、補習が始まるのは2,3年生のみで1年生の補習は再来週からだったのだ。そう言えば30年前もそんな感じだったなあ。大村高校の歴史と伝統を忘却していた我が身を恥じるのみである。

後記:1年生の補習開始日は4月16日だった。両親の勘違いのせいで長男は補習に出れなかった。すまぬ。

2019年4月18日(木)

朝、目覚めると体が重い。そして布団が重い。窓の外は真っ暗だ。隣では妻と三男がいびきをかいて熟睡している。無理もない。妻は朝補習に通う長男に弁当を持たせるために毎朝5時半に起きているのだ。一日中、家事と子供と俺の世話に忙殺されて眠る妻を起こす気には到底ならない。俺は腹式呼吸の練習を繰り返して、頭の痒みと尿意を我慢して夜が明けるのを待った。

不完全な睡眠のまま夜明けがやって来た。俺のまどろみを吹き飛ばしたのは三男の泣き声と10分後に妻から発せられた
「三男の血便が出た。早く病院に連れて行かないと」と言う言葉だった。

俺は狼狽していた。かと言って、起きても何の手助けも出来ないし、病院について行っても足手まといになるだけだと悟り、寝台に寝ているだけだった。

これほど無力を感じたことはなかった。目の前で重大な事件が起きても傍観者でしかいられないのだ。父としての資格を自問自答していると、妻は全ての朝の家事を母に委託して、買ったばかりの車に三男を乗せ救命センターに向かった。俺は、あろうことか、再び眠りに落ち、9時過ぎの妻からの
「ただの腸炎だったみたい。お医者さんは『心配ない』って言ってたよ」の電話を母から間接的に聞き、再び、人としての資格を自問自答するのであった。

2019年4月19日(金)

恥ずかしい話だが、ここ数日風呂に入ってない。その理由は平坂塾の営業時間が17時から21時までで、今週は火、水、木とフルで塾生が訪れたためである。その後に風呂に入ればよいではないかと言う意見もあるかもしれないが、話はそう単純ではない。最近は、腕が上がらず指先も増々動かなくなって、食事の時は「お口にあーん」と言う状態で妻に食べさせてもらっているのだ。そして、自力で湯船から脱出することも頭や顔を洗うことが出来ない俺は妻の介助なしに風呂に入れないのだ。

21時過ぎに、夕食を食べさせて、皿洗いや子供達を就寝させるという仕事を終えた妻はカラータイマーが切れたかのごとく疲れ果てた表情で「お風呂どう?」と健気に聞いてくるのだ。俺は「明日でいいよ。もう寝よう」と言うのが常で、それが繰り返された結果、冒頭の状態に至ったというわけだ。

今日の朝、念願の風呂に入ることが出来、数日分の垢を洗い流した、もとい、洗い流してもらった。その後、市役所に赴き、マイナンバーカードを受け取り、旧浜屋二階で障害者手帳を受け取った。今日は鼻の通りが悪く、いつもに増して喋るのが辛かった。まともに喋れる時間が明らかに減っている由々しき事態である。

今日の予定はそれだけでは終わらず、富の原小学校に赴いて、長女の授業参観に出席して来た。今回もまた、幾人もの護衛を引き連れて階段の昇り降りを遂行した。お助けいただいた先生方、本当に有難うございました。

2019年4月22日(月)

ちょっと前の話になるが、念願の携帯電話が開通した。

釜山にいた時、使用していたのは林檎が社名に付いている会社の製品だった。海外ローミングの手続きを済ませ、3月まではその携帯を日本で使っていたが、月々の使用料が八千円を超えることが分かり、経費節減のため日本の通信会社に切り替えることにした。

その話を弟にしたところ、携帯会社の関係で無用の長物になった中古の携帯を譲るという有難い申し出があった。弟曰く、釜山で使っていた携帯は型式が古く、simカードを入れ替えても使用できないが、この中古品だったら大丈夫だとのこと。

俺は弟から教わった通信会社の月額料金を見て、その安さに驚愕した。しかし、その当時の俺には、simカードの交換が素人にも出来る作業だとは、到底思えなかった。なので、多少割高になっても大手通信会社と契約した方が安全だと思い、アルファベット二文字が社名の通信会社の営業所を訪れた。その営業社員はこう言った。
「契約は出来ますが、お持ちの携帯にsimカードを入れて使えるようになるかどうかは保証できません」随分とやる気のない営業だなあ、と妻共々憤慨して自宅に戻るや否や、上記の激安通信会社への申請をインターネットを通じて行った。

しかし、ここでも問題が生じる。俺が所有するクレジットカードは使用できないというメッセージが来るのだ。致し方ないので、三日で口座が開設され、クレジットカードも発行できるというインターネット上の銀行に加入申請をすることになる。

病院や役所通いで忙しい時期と重なっていたので、口座に入金するまで二週間を要した。そして全ての条件を整え、激安通信会社と契約し、simカードが送付されてきたのが4月の初旬だった。ここで長男が手慣れた手つきでカードを挿入し、いよいよ開通かと言うところだったが「このsimカードは無効です」と言う冷たい通知文が弟からもらった携帯の画面に表示されるのみだった。

この時の絶望感は計り知れない。この通信会社の基準に沿う携帯を購入すればよいのだが、その場合機体価格が高額となり、何のために激安通信会社と契約したのかと言う話になってしまうからだ。

その翌日、弟を自宅に呼んで対策を尋ねたが、「御免、俺にはどうしようもない」と素直に謝られて、さらなる窮地に陥った。

そんな八方塞がりの状況を打ち破ったのは他でもない、数学で培った全てを疑ってみるという姿勢であった。駄目元で釜山から持って来た携帯に送って来たsimカードを挿入すると、見事に三本のアンテナが立ち、電話の送受信も可能になったもである。

冷静に考えれば、韓国で使われている携帯はsimロックフリーなので、日本で定められた機種の型式には依存しないのである。

しかし、念願の携帯を手にしても、一カ月前には生じなかった問題に遭遇する。ALSの病状が進行し、携帯を扱うことに大きなストレスを感じるほど指先の器用さが失われてしまったのだ。

なんか、懐中時計を売って簪を買った夫と髪を売って懐中時計の鎖を買った妻が出てくる短編小説を思い出してしまった(確か、O.ヘンリーだったと思う)。

2019年4月24日(水)

2002年1月、釜山大数学科に専任講師として採用されたとの知らせを受けた。同年3月に着任するまで様々な事務書類を提出するのだが、その中の一つに無犯罪証明証と言うのがあった。この書類は韓国人であれば簡単に発行してもらえるのだが、日本にはこれに該当する書類がない。しかし、この書類無しでは公務員として在籍するための行政手続きが凍結することになり、採用取り消しになることも十分あり得るという話だった。

俺は日本の法務省の担当課に電話し事情を説明するのだが、前例がないために発行できないと言われ、その事情を釜山大に説明すると他に方法がないと言われ、途方に暮れた思い出がある。結局、釜山大数学科から要請を受け犯罪歴を記した書類を郵送するという妥協点が見つかり事無きを得て、初の外国人国立大学専任教員の誕生が現実のものとなるのである。

後記1:その当時、お助けいただいた両国の皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。

後記2:無犯罪証明証は日本の地元の警察に行けば発行してもらえるということを大学時代の恩師の一人に御指摘いただいた。但し、その当時は台湾に住んでいた。

2002年3月某日、釜山大学数学科に赴いた俺を待っていたのは釜山国際新聞の取材だった。俺は釜山大の宣伝役にならねばと言う思いから取材を受け、つたない韓国語で質疑応答した。

その一か月後、日本の大手新聞社の記者であるSさんから取材依頼のメールが届いた。その当時の俺は身重の妻との新生活の整備、韓国語での講義の準備、研究費申請の締め切り、共著論文の執筆、各種の事務書類の提出、等の「しなければならないリスト」が常に埋まっている状態だった。なので「日本の新聞に自分の写真がでたらどうなるか?」ということを真剣に考える余裕がなく、俺の変化を望まない保守的な体質も手伝って、取材依頼を断ってしまった。

それから何年後かにSさんは特派員と言う立場で一年間釜山に滞在され、その期間、俺の自宅に招待したり、Sさんを慕う釜山大生や留学生と食事したり、私的な交流を重ねていったが、取材を依頼されることはなかった。

時は過ぎ、2010年と2012年に日本の他の新聞記者からの取材依頼を受けたが、Sさんに申し訳ないと理由で断ってしまった。

2018年になり、平坂塾の宣伝するためにこのHPを開設したが、当初の目的とは異なり、自分の病状を友人、知人に伝えることが主な活用用途となっている。Sさんにも連絡したかったのだが、メールアドレスや電話番号を探せず、インターネットによる検索でも手掛かりを得られず、今に至っている。

昨日、日本の某新聞社の記者からの取材依頼が来た。見世物上等と豪語したからには断る理由がないと判断し、取材依頼を快諾し、その日の午後に取材を受けた。明日は塾生の指導法を見たいということで再訪されるとのこと。

Sさんとお断りしたお二方には申し訳ないとこの場を借りてお詫び申し上げます。

2019年4月26日(金)

「強くなりたかったら首を鍛えろ」

漫画『プロレススーパースター列伝』でエルサントが少年時代のミルマスカラスに掛けた言葉である。

成人となったミルマスカラスは憧れのエルサントと対戦し、吊り天井固めで絶体絶命の危機に陥った時、首を上下に振って脱出し、逆転勝利を掴む。勝者であるマスカラスはサントに「あなたのレスリング教室の生徒の一人だったのです」と告白すると、サントは「知っていたよ。私が教えた基本に忠実だったからね」と答える。

という、今思い出しても涙が出てきそうな感動的な物語が描写されている。

俺が少年時代にこの漫画から受けた影響は測り知れない。プロレスファンになり、雑誌『ビッグレスラー』を毎月購読し、付録のポスターを家中に貼りまくり、その日のうちに親から全てのポスターを剥ぎ取られ、プロレス中継を食い入るように視聴し、『プロレス必殺技辞典』を購入しあらゆるプロレス技の名称と使い手を記憶し、猪木派になり、新日派になり、古舘伊知郎の「一人民族大移動」「人間エクゾセミサイル」「八面六臂の大活躍」等の語録を覚え、長崎市内のプロレス巡業に行くために小遣いをつぎ込み、兎に角、小学生時代の情熱をプロレスに注ぎこんでいたのである。

高校時代に柔道部に入ったのもプロレスの影響であり、額を床に付けてのブリッジで首を鍛えまくっていた。そのお陰なのか、大学時代から始めた芦原空手の練習メニューの一つだった首相撲では部員相手に負けたことがなく、体格で上回る後輩達をぶんぶん投げていたのだ。

昨年、ALSを発症した後も、首の鍛錬には気を使っていて、暇さえあれば前後左右に首を振り、首周りの筋肉の維持に努めてきた。しかし、ここ最近、真上を向いたときに首の後ろの筋肉に’痛みを感じるようになり、元に戻す復元力も弱くなったような気がするのだ。

数日経って痛みが治まり、「あれは単なる杞憂だった」と言える日が来るのを祈るばかりである。

2019年4月29日(月)

去年までの平坂塾の計画では、高1、高2のみを対象にして塾生を募ると謳っていたのだが、退職予定だったのが休職に変わったこと、病気のために声が出なくなったこと、月謝を取らず無料で個人指導することに方針転換したこともあって、そして、これが最たる理由なのだが、塾生が集まりそうになかったので、対象年齢を広げることにした。

日毎に声が出なくなり、自分でも何を言っているのかわからないような喋り方なので、現在、平坂塾に通いに来ている小四から高一までの6名の塾生一人一人には、聞き取りにくい声で指導して申し訳ない気持ちと、そんな俺の説明に耳を傾けてくれる塾生たちへの感謝の気持ちでいっぱいなのである。

そんなわけで、小学校の算数の教科書を凝視することが多い昨今である。すると、数学者の立場からは相容れない記述や設問が少なからぬ頻度で目に飛び込んでくるのである。

その一例が、平行四辺形の線対称性を問う問題である。教科書には、平行四辺形、ひし形、長方形、正方形が描かれており、その横に線対称の軸の数を書き込む問題であり、その答えは、0,2,2、4を期待しているものと思われる。しかし、上記の四角形は全て平行四辺形であり、長方形でもひし形でもない平行四辺形、長方形でないひし形、ひし形でない長方形、正方形と分類した上でないと上記の答えは導けないのである。

こんな設問がまかり通ってしまうと、正方形は長方形ではないと主張する生徒が続出するかもしれないと危惧している。実際、ある退職した小学校教諭も語気を強めて「二等辺三角形が正三角形になるわけがないでしょう!」と言っていたのである。

2019年4月30日(火)

昨晩、右太ももが痒くなり全身に広がりそうな気配だったので、抗ヒスタミン剤を服用して就寝した。そのお陰で頭の痒みに悩まされることなく、ぐっすり眠ることが出来たのだが、午前9時になっても眠気が取れなかった。

これは以前に何度も経験した気怠さなのだ。リハビリメニューを順調に消化して、体の機能が高まり「このまま回復するんじゃないか?」と期待させて、一晩のうちに絶望の底へ突き落すというのがALSの常套手段なのである。

案の定、俺の両腕は上がらず、それは11時からの通院してのリハビリの時間に如実に現れた。以前なら簡単に出来たことが出来ない、そんな現実を目の当たりにして、いつも笑顔で接してくださる理学療法士の方々にも仏頂面を隠すことが出来なかった。

窓の外は雨だ。連休中だというのに、平成最後の日と言うのに、作業部屋で泣き言を綴っているのが俺の日常なのだ。

2019年5月1日(水)

この病気を患って以来、被害の程度が大小様々の転倒を経験してきた。初期の頃は、道を歩いている時に突然膝関節の力が抜けたような状態になり転んでしまい「なんかに躓いたのかな?」と心配する周囲に言い訳してきたのだった。

サッカーに興じている時も突然方向転換が出来なくなり、ミスを誤魔化すために「もう年かなあ?」と吹聴していた。「これはもしかして深刻な病気かな?」と思い始めた時、数学科の建物内を10mダッシュして自分を安心させようとしたのだが、見事に転んでしまい、不安が募った。

あまりにも頻繁に転び、立ったままで靴下を履こうとする時にもよろめいていた時、NHKのとある健康番組で「加齢による男性ホルモンの低下で筋肉枯れが起こる」と報じられているのを見て、合点がいき、下半身の強化に全精力を注いでいたのだ。

大病院で検査入院した後も、歩くことは普通に出来ていた。体が暖まれば全力疾走も可能だった。そんな矢先、駐車場に車を停め、下車しようとする時、足の踏み場が平坦でなかったからなのが、豪快に転んだ。顔をコンクリートに打ち付け、眼鏡はひしゃげ、目の下からの出血が止まらなかった。

この闘病記を書き始めてからも月にニ、三回の頻度で転倒しているのが見て取れる。しかし、先月は一度も転倒することはなかった。電動車椅子に座っていることが多いのがその最たる理由であろうが、安全と引き換えに機能の低下を招いているかのようで複雑な心境である。

2019年5月3日(金)

先月の29日に開催された全日本柔道選手権を視聴した。組み手争いに終始して技を掛けない、掛け逃げが多い、判定勝ちを得るための姑息な戦術が幅を利かせるようになった、等の理由から大幅なルール改正が行われたのだが、実際にテレビ画面の中で起こっているのは、一般の視聴者だけでなく、柔道歴3年の俺さえも失望させる試合内容とテレビ解説だった。

言うまでもないことだが、全試合が退屈だと主張しているわけではない。体重差を覆す加藤対斎藤の試合のように柔道の醍醐味を堪能できる試合も多かったと思う。しかし、日本柔道界のピラミッドの最上層に属し、地方予選では神々しいまでの強さを発揮しているはずの出場者が、勝利のためにこすっからい柔道を展開し、テレビ解説者がそのような戦術を当然であるかのように肯定するのを見ると、非常にやるせない気持ちになるのだ。

アマチュアなのだから観衆を魅了する必要はなく勝利に徹すればよい、実力差や体格差を埋めるためには致し方ない、塩試合があるからこそ一本の価値が高まる、勝利のための時間稼ぎも時として美しい、等、俺自身もしょうがないと納得している部分はあるのだが、物申したいと思い綴るに至った。

余談であるが、鈍重に見える無差別級の選手たちであるが柔道場の中では「あんなにでかいのにどうしてあんなに素早いの?」と言うくらい動きが速いのである。うらやましいなあと心から思う。

2019年5月5日(日)

今日の夕食はチキンカレーだった。三週間前に塾生を指導しながらカレーをかき込んで消化不良を起こし、救急車を呼ぶ一歩手前まで行った事件があったのだが、それ以来のカレーである。

俺の実家では「リンゴとハチミツ」が連想させるカレールーの甘口しか使用されなかった。だからと言っては角が立つが、牛肉以外の具材が液体化しているレストランのカレーを非日常的な味と認識していた。

大学生になり、福岡での一人暮らしを始めた俺は、何時でも好きなものを食べてもいいし、食べなくてもいいという食生活の自由を得た。その代わりに送られてくる仕送りの範囲で生活するという縛りがあった。俺は「痩せの大食い」と呼ばれた飽くなき食欲を満たすために自炊を始めた。その定番メニューだったのがポークカレーだ。肉屋で買った豚肉500gとスーパーで買った野菜を残さず鍋に放り込み、炊飯器で炊いた3合の御飯を夕方と朝で空にするを繰り返し,同じメニューで三日過ごしていた。この時、生卵を熱々の御飯に乗せ、その上から煮えあがったカレーをかけるという技を覚えた。

夏になって、その作ったカレーを翌日に腐敗させたときの皿洗いの経験が引き金になり、自炊するよりは学食で済ますほうが経済的だし栄養のバランスも良い、腹が減ったら「だいせん」でわらじ大のとんかつ定食を食えばよい、と食糧政策を大転換するに至った。

そこからが福岡市のカレー店を舞台としたカレー大航海時代の始まりである。しかし、悲しいかな、通う店は安くて量が多い店に限られていた。その中でも箱崎の「ドリアン」には足繁く通った。

留学先のイスラエルでは一度もカレーを食べる機会がなかった。韓国ではカレーと言うメニューはあるものの、味は日本のカレーとは異なるので、注文して食べることはなかった。その後、行った台湾ではとても暑くてカレーを食べる気にならなかった。このようなカレー暗黒時代であったが、結婚を機に再び料理に目覚め、創作カレーの道を邁進することになる。

この間、インドからの訪問教授による直接指導やシンガポール出張の影響もあり、欧州風和風からアジアのエスニックカレーに傾倒していく。そして、あらゆる種類のカレーの要素を取り入れたカレーが完成する。釜山では子供を含めた20人規模の夕食会を自宅で催すことがあったが、俺が手掛けたカレーは「次元が違う」との評を得るまでに至るのである。

箸さえも碌に握れなくなった今となっては俺の料理の腕前を確かめる術はなかろうと思い、好き放題自慢する次第である。

前置きが長くなったが、半熟の卵焼きが乗ったチキンカレーを目の前にして、以上のことが脳内で蘇り、冒険心が湧いたのか
「今日は自力で食べてみようかな」と言う言葉が自然に出た。

結果は、右手が上がらず、超低空の犬食いを試みるも、あえなく匙に乗ったカレーの上澄みを舐めることしか出来なかった。救いは食卓にいる全員がカレーを美味しく平らげ、子供の日を話題に家族団欒の花が咲いたことであろうか。

いや、それ以上何を求めると言うのか?

2019年5月7日(火)

今日の午後、長女の担任の先生が家庭訪問にいらした。その時話題になったのが家庭内でのスマートフォンの使用状況についてだった。

十年前、俺は携帯電話さえ持っていなかった。しかし、学科長の順番が回って来て、業務連絡が滞ると支障が生じるという理由で折り畳み式の携帯を購入したのだった。首に縄を付けられたようで、あまりいい気分ではなかったが、三人の幼子を抱えていた妻からの非常連絡に対応できるという意義を認識し、それ以来、学科長の任期を終えても、手放すことはなかった。

それから8年間、「何故スマートフォンに変えないの?」という周囲からの同調圧力に屈することなく、妻と共にネットに接続することがないガラパゴス携帯を愛用して来た。このことは、当時、中学生だった長男の「学年でスマートフォンを持ってないのは僕だけなんだけど・・・」と言う要求に対して「お父さんでもガラケーなんだぞ」と突っぱねる際に有効だった。

しかし、二度目の学科長の順番が回ってきた時、同僚教授からの「平坂教授もSNSに参加すれば韓国語が上手くなるのに」と言う一言が心に刺さり、スマートフォンの購入を決意する。その後は、坂道を転がるようにスマホの利便性に目覚め、今に至る。

その間、妻もスマホに転換し、長男と次男が様々な理由を付けて、妻のスマホを触ろうとし、インターネットを通じて対戦するゲームがインストールされ、最早、誰が所有する携帯なのかわからなくなる有様で、粛清と権利闘争が繰り返され、長男はスマホを与えられ、次男は通信費が発生しない中古の携帯を購入し、今に至っている。

今年の三月に大村に移住してきたが、幸いなことに市内の小中高は学校への携帯の持ち込みを禁止していて、家庭内でも携帯の使用を制限するように働きかけているとのこと。

個人的には、酒と煙草が成人にのみ許されているように未成年にはインターネットへの接続時間に対する制限があるべきだと思うが、そういう大人の浅知恵は、漫画やテレビやビデオゲームが子供を駄目にするものとしてあつかわれてきたような、歴史の遺物と化す可能性があるのも事実である。

子供に携帯を与えその功罪を学習させるのと子供を携帯から遠ざけるのでは、その子供の人生に天地の差をもたらすかもしれない。どちらが正しいのかの結論は今の俺には出せそうにない。

このままでは闘病記にならないので追記するが、リハビリの先生方が明るい笑顔で接してくださり今日も元気をもらった。

2019年5月9日(木)

幼少の頃より快眠体質で不眠とは縁遠かった俺だが、大村に移住してからの一カ月間は寝苦しさと息苦しさに苦しめられた。しかし、先月から劇的に不眠が解消されて、今朝も手足のしびれはあるものの、快適な朝を迎えることが出来た。

その要因として、ロビニロール硝酸塩の服用を止めたこと、気候が涼しくなり布団が軽くなったこと、歩行器の使用をやめ電動車椅子に移行したことで夜中にトイレに行くのが容易になったこと、腹式呼吸を習慣づけることで睡眠中の酸素摂取量が増えたこと、痒みを感じたら直ちに抗ヒスタミン剤を服用していること、妻の睡眠時間を確保するために夜更かしを止めたこと、子供達が学校に行きだして生活にリズムが出てきたこと、平坂塾で長いときは一日4時間教えているので適度に疲労していること、が挙げられる。

これらに加えて特筆したい重要な変化があった。

それは寝台の購入に伴う寝台マットの交換である。以前は敷布団を敷いていただけだったので柔らかすぎて寝返りするのにとても苦労していたが、医療機器販売会社の推薦でレンタル中の寝台マットは適度に硬く、適度に弾力性があり、寝返りが苦にならないばかりか寝心地も非常に良いのである。

今までは寝具や健康器具に全く関心がなかったのだが、不眠に悩んだ経験から人々が安眠のために高価であるが品質の良いものを買い求める理由が分かった次第である。

2019年5月11日(土)

自宅の庭には何本も椿の木が植えてある。毎朝庭に降りて季節の花々を鑑賞することが日課である妻がこう言った。
「葉っぱが虫に食われているね」
その情景を想像して背筋に悪寒が走った。何を隠そう、俺は毛虫が大の苦手なのである。その理由は明確であり、今でも心の奥底で蠢き俺を恐怖に陥らせることがあるので、克服するために文章化しようとする次第である。

『毒虫小僧』
この見るからにおどろおどろしい漫画を読んだのは小ニの夏だった。長崎に住む従姉妹が叔母の家に置き忘れていったものだが、当時、漫画であれば無条件に面白いものだと信じて疑わなかった俺は、テーブルの上に置いてあるお菓子をつまみ食いする感覚でその単行本を手に取ったのである。

その漫画は紙箱で多数の毛虫を飼育する少年の描写から始まる。ある夜、毛虫を可愛がっている最中に毛虫に指を噛まれ就寝するのだが、翌朝、その少年はおぞましい巨大な毒虫に変身してしまうのである。両親に助けを求めようと寝室から降りてくるのであるが、その両親はその変わり果てた姿に気付くはずもなく、猟銃で毒虫を打ちまくるのであるが、毒虫は被弾しながらも排水溝に逃れる。

この後も物語は続くのだが、恐怖のあまりそれ以上頁をめくることは出来なかったし、それ以降、その単行本を視界にいれることはなかった。何が怖いかと言うと、「起きたら姿が変わってしまう」ということで、大場久美子主演のドラマ『コメットさん』の「少年が朝起きたら怪獣になっていた」と言う話を視聴していた時も結論を見ずに退散してしまったし、カフカの『変身』もまだ読んだことがないのである。

高一の時、旧校舎の教室に迷い込んだ毛虫を衆目を気にせず革靴で踏みつぶすというサイコパスな行動をしたこともある。

しかし、40年の時を経て、俺の毛虫に対する感情もこうやって文字として出力できるほど和らいでいるのも事実である。

今だって眠った後にどんな機能低下が起こるか、怖くてしょうがないのは変わらない。だからせめて毛虫だけでも克服したいのである。

2019年5月13日(月)

「今日のリハビリのついでに肺活量の検査をされてはどうでしょうか?」

午前9時、かかりつけの病院から電話が来た。先日の往診で呼吸補助器のカタログを貰った記憶が蘇る。院長先生はこうも言った。
「呼吸筋を休ませるうえでも睡眠時の呼吸補助器具に慣れておくのは無駄ではないと思います」

「あのパンフレットはそのための布石だったのか?」
「とうとう年貢の納め時か」
「闘病記に『よく眠れるようなった』なんて書くんじゃなかった」
「ダースベイダーのような呼吸音が一晩中鳴り響く部屋で妻は安眠できるのか?」

いつもの妄想癖は健在で、戦々恐々としながら妻の運転する車に乗り込み病院に向かった。

検査室に通された。3月末にも別の病院でやったのと同じ、円筒形の物体を口にくわえ、最大肺活量を測る検査だ。思いっきり息を吸い込み吐き出すのだが、自分でも悲しくなるくらい短い時間でついえてしまう。

検査結果はリハビリ後に診療室で知らされるとのこと。

俺はまたしても表情管理が出来ず作業療法士さんの前で不機嫌そうな顔をしていたようだ。五個のビー玉を瓶に入れる作業が上手くできない自分にも腹立たしかった。言語治療の時はタ行とサ行の発音時の舌の位置についての講義を受け、大変有益だったが、理論と実践が異なることを実感した。

全てのリハビリが終わり、診療室に通された。
いつ呼吸補助器のススメが発せられるのかと緊張していたが医師からの第一声は意外なものだった。
「肺年齢が91歳から72歳に若返ってますねえ」
今まで「若く見られたい」とは一度も思ったことがなかったが今日ばかりは嬉しかった。

その後、表情管理が出来ず浮かれる俺に院長先生から
「計測の誤差もありますし、環境が改善されて数値が上がるのもよくある事ですね」というぶっとい釘を刺された。

2019年5月16日(木)

今日はリハビリの後に嚥下の検査がある。小型カメラ付きのチューブを鼻の穴に入れて、とろみをつけた水やご飯を飲み込み、気道の開閉具合を撮影するのである。

検査室では、水色のビニール手袋をはめて黒色の細長い小型カメラを手にした院長先生が立っていた。その脇を固めるのはえんじ色の制服に身を包んだ4名の看護士と理学療法士だった。

リハビリ前に検査の同意書に署名したことを後悔してももう遅い。鞭のように先端が丸くなっているチューブ状の検査器具、あんなものが鼻の穴を貫通するなんて正気の沙汰ではないぞ。俺は恐怖におののき、「ひぇー、ひぇー、ひいぇー」という嗚咽笑いを漏らす。それをなだめるかのようにニッコリと笑う院長先生の表情が更なる恐怖を呼んでいた。

車椅子に座った俺が暴れ出すのを止めるためだろうか、看護士達が俺の背後に立ち、俺の両腕を軽く押さえている。竹竿のような弾力を持つ物体が鼻から侵入し、鼻腔を貫通し喉に届いた。笑って顔が振動すると、チューブが顔の中の骨に当たり、不快さと息苦しさのダブルクリックに襲われる。そんな状態で約20分間、スポイトで各種の液体を口内に投下され、撮影された映像を観察して眉をひそめる院長先生の表情に怯えながら、指示されるがままに咀嚼と飲み込みを続け、涙を流しながら検査を終えた。

撮影された映像を見て、また驚いた。開閉する気道弁は映画『エイリアン』に登場する怪物よりもはるかにグロテスクなのだ。自分の体内にこんな恐ろしいものが潜んでいることを想像すると不眠が再発しそうなほどだ。

検査を総括して院長先生がこう言った。
「経過を観察するためにこれかからも定期的にこの検査をしますね」

強くなりたい、心からそう思った。

2019年5月18日(土)

便秘三日目の今日は開放デーだった。そのため腹の調子が気になって外出せず、家に引きこもっていた。時刻は午後7時、パソコンの前で講演の準備をしていると、買い物帰りの妻から
「とにかく外に出てみて」と半ば強引に誘われて、縁側のスロープを伝い庭に出た。

雨上がりの夕暮れ時、東側に黒雲が見えるものの、中空は雲一つない。その吹き抜け感も手伝って、いつもよりも空が高く突き抜けて見える。西側の雲は茜色に染まり、空全体が劇場になったかのように俺らを異世界に導くのだ。

妻は「虹が出た」と家族全員に声を掛け、南側の住宅地のやや上方に位置する雲から覗き出ようとする巨大な月に嬌声を上げる。最初は妻のはしゃぎようを冷めた目で見ていた俺も、この日の夕焼けの美しさに感嘆し続けていた。

大村に住んでいると、こんな日がたまに起こるのだ。

「この病気もそのうち快方に向かうかも」とふと思った。

今まで「なってしまったものはしょうがない」等の達観発言ばかりしてきた俺だが、この日ばかりは妻のペースに乗せられたみたいだ。書いたことが実現するドリームノートになるといいなあ。

2019年5月20日(月)

今日はいつもに増して声が出ない。そんな時、俺は日本語に非常によく似た言語を用いている。その最大の理解者である妻はその言語を日本語に翻訳するのだが、今日はその妻から何度も聞き返されるほど発声が悪かった。奇しくも今日は新たな塾生との面接の日なのだ。塾生が増えるのは嬉しいことだが、この声を聴きとれる生徒は限られているのでは、と言う不安が常にある。

声量ゼロになる日がいつかは訪れるだろう。そんな時でも塾生が集い学習できる環境を整備しておきたいと常々考えていたのだ。

理想は学校における部活動である。部活動の練習は顧問の先生がいなくても自主的に始まるし、先輩が後輩を技術指導することが体系化されているのも素晴らしいと思う。

現在、平坂塾では個別指導のみで塾生同士の交流は皆無である。学年も科目もバラバラなので、今更、集まって同じことをしようと言うのは無理な注文というものだろう。

昨年の後期開始時、板書が出来ないという窮地に追い込まれて編み出したのが平坂メソッドであった。やむにやまれぬ決断ではあったが、その発案のお陰で結果的に四カ月の講義を完遂することが出来たのだ。

そう言えば、あの時も雨だったかなあ。
「転んでもただでは起きず」と平坂塾の壁に大書している、
わけではないが、そうありたいと常々思っている。

2019年5月22日(水)

最近は就寝時にカーテンを開けて横になるようにしている。琵琶色に輝く月の光を愛でながらまどろみ、眠れない夜は隣家の屋根に月が隠れるまで月光欲に興ずるのだ。

今朝、妻が諫早市にある年金事務所に電話を掛け、障害年金受給の相談の予約を取り付けた。何でも申請の際には初診日が重要とのことで海外での受診をどのように証明するかが事を難しくしているらしい。

予約日は来週の月曜日、今日は自宅で妻と書類を確認する作業に費やすはずであった。のだが、妻が再度年金事務所に電話し、午後は予約者がそれほど多くないということで、予約なしで馳せ参ずることを提案して来た。日頃から「早く働きに出て家計を助けたい」と公言している妻にとっては障害年金受給が優先課題であり、そのための労苦を惜しまないという心情を慮り、同意して車で年金事務所に向かった。

早く受付するのが最優先と言うことで、昼食も摂らず窓口で受付を終える。23番の番号札を渡された直後、予想待ち時間の表示が60分から90分に変わった。近くに売店もコンビニもない。退席すると順番が後回しになると言われ、仕方なく空腹のまま待つことになった。

こんな時、昨年であればスマホでメールを確認したり、文章を書いたり、数学の問題を考えたり、空いた時間を有効活用できたはずだった。しかし、今の俺にはスマホを操作するのが苦痛なのだ。そして、長らく「理解するのに高度な集中力を要する数学」から遠ざかっていたため、俺が有する数学の泉は枯渇してしまっていたのだ。それは衝撃であるはずなのだが、反発心も湧いてこず、90分と言う長い時間を車椅子に座ったまま、時には居眠りをしながら過ごしたのだ。

過去に妻から買い物の同伴を頼まれた時、両者に流れる時間の速さの隔たりのために何度も衝突したことを思い出した。今の俺の時間は月を眺めながら寝るほど、ゆっくりと流れている。肉体のみならず精神まで老衰が進行しているのだ。

そんな自分を肯定している自分に嫌気がさしながら、確たるものを提示してくれない年金受給の相談を受けた結果、なぜかしら「何かを変えたい」という反発心が湧いてきた。

妻に向かって「障害年金なんて申請しなくていい。まだまだ稼げるから、大船に乗った気でいなさい」と言い放ち、忙しい毎日を送るのが当面の目標である。

2019年5月24日(金)

先週末、次男が通っている中学校から電話があった。
「お子さんの進路に関して保護者面談を開きたいのですが、来週、お時間ありますでしょうか?」

個人情報の守秘義務というのがあるので詳しいことは書けないが、今月初旬の三年生を対象とした実力試験で次男が理科と社会の答案を白紙で出したことへ警鐘を鳴らすための呼び出しと推察された。

次男は反抗的な態度を示すために白紙で提出したのではない。漢字が分からないので問題の内容が分からず何も書けなかったのだが、いくら何でも白紙はまずいだろう。大村移住の被害者の惨状にその首謀者である俺は大いに心を痛め、今まで放置していたことを大いに反省した。

次の日から、嫌がる次男を呼び出し社会の教科書にフリガナをかき込む作業をやらせている。千里への道の一歩目が始まったというわけだ。

昨日、中学校に出向いた俺と妻を待っていたのは、担任の先生、学年主任の先生、教頭先生、そして次男だった。
「この成績じゃ落第も視野に入れてもらわないと」
「この学力で受験しようなんて大甘もいいとこですな」
「我々も最大限努力してるんですけどねえ、・・・」
等と言われはしないかと冷や冷やしていたが、さにあらず、
先生方からは異口同音に、
次男の国語力の欠如を心底憂慮していて、そのための対策を親御さんと共有したい、と言う有難いお言葉を受け、感激のあまりむせび泣きが出るのを唇を噛みしめながら堪えていたのだった。

勉強を嫌がる次男との闘争は今日もまた始まる。

2019年5月26日(日)

土曜日の午前、母は長女を連れて姪が出場する保育園の運動会へ、長男は部活へ、帰宅部の次男は中総体の応援に、残された俺、妻、三男は作業部屋のエアコン設置工事を見守るための留守番だった。

天気は快晴、予想最高気温は30度だが風は涼しい。このような長閑な週末は弟からの一本の電話によって終わりを告げる。
「今から手術だから子供を預かってくれ」
事情がわからないまま、携帯を開くと、そこには母からのメッセージがあった。金曜日の晩、弟嫁が胸の痛みを訴え、病院に行ったところ、肺気胸と診断され、即入院したとのこと。

弟は姪を連れてきた後、踵を返し病院へと向かった。弟の携帯に電話すると
「出血が止まらんけん、手術中、終わったら連絡するけん」と言う返事が返って来て即座に切られた。事態の深刻さを悟った俺と妻と母は、身をもがれるような焦燥感と無力感で手術が終わるまでの三時間半を過ごすことになる。

弟から「手術は成功しました」との報を聞いて、家族全員が安堵し、弟の帰還と共に、再び平穏な時間が訪れた。

翌日、弟から「集中治療室から一般病棟に移ったよ」との知らせを受け、早速、見舞いに行くことにした。体を切り刻まれ青息吐息の弟嫁の姿を想像し、本人には会わずに帰る予定だったが、病室に行く途中の共同待合室では、弟と姪と弟嫁と思われる人影が見えた。

近年の医療技術の発達はすさまじく、おなかに三カ所の穴を開けるだけで内視鏡手術が可能らしいのだ。弟嫁は病院食を平らげ、独力で立ち上がり病室に入って行った。

その帰りに、姪を連れて、大村公園で催されている菖蒲祭りを見に行った。打ち寄せる大村湾のさざ波に目をやりながら、新緑で覆われた桜を日傘代わりにして、目の前に桜の大木、目の向こうに城壁、その間に咲き誇る色とりどりの菖蒲を鑑賞した。 

ある人は「淋しいときには、花がきれい見える」と言った。一方で「心が落ち着いてこそ、美しいと思える」とも言える。しかし、菖蒲にとっては「そんなの知ったことじゃない」のだろう。

2019年5月29日(水)

指の関節が曲がったままの状態が常態化して来た。何かを掴もうとする時、右手の指が思うように開かないので、寝台から車椅子への移乗、電動車椅子の前後左右移動レバーの操作、眼鏡の装着、マウスの操作、タイピング、右目をこする時、用を足す時、等の生活全般に渡って不便を感じるようになった。

以前、この闘病記を書く時間が心安らぐと書いたが、それは撤回することにする。腕が上がらないので、掌の何処かを支点にしてのピボット運動で打てる範囲のキーしか届かないので、芋虫のようにもぞもぞと支点を動かして打つという涙ぐましい努力をして文書作成をしているのである。

足の筋肉は幸いに維持できているのだが、足首を回して方向転換するときに10秒ほどの時間を要するようになった。先週の金曜日、車椅子では越えられない段差があるお宅を訪問する機会があり、お払い箱になっていたはずの4輪車を使ってみたのだが、両足が動くたびに交差するので、二人の介護者に両脇を支えられるという現実を突きつけられた。

頼みの綱は呼吸筋であるが、下手なことを書くと悪化しそうなので怖くて書けない。

このままでは暗い事ばかりなので話題を変えてみよう。日曜日の浦和対広島のJリーグの試合を視聴したが、広島の柏好文選手の活躍が物凄かった。あんな選手が代表にかすりもせず、海外からも声が掛からないのはある意味すごいと思った。

2019年5月31日(金)

父と祖母が他界して以来、家に4台あったテレビは徐々に減らされ、ついには1台のみとなった。そのテレビはケーブル式で多種多様な番組を視聴できる。

今年の3月に実家の人口は7倍に増えたため、唯一のテレビをめぐって熾烈なチャンネル争いが起こることは火を見るよりも明らかだった。と言うのは俺の勝手な思い込みだった。

母は動画配信サイトの落語や音楽、妻は聖書の朗読、長男はギター、次男はオンラインゲーム、長女はイラスト、三男は韓国語の動画、それらが余暇時間の過し方の有力候補で、誰もテレビには見向きもしないのである。

1998年に日本を離れて以来、頭を空っぽにしてくつろぎたいときには海外向けNHKにチャンネルを合わせていた。今年の3月に帰国し、久しぶりに民放を視聴する。しかし、その面白さに引き込まれる一方で、頻繁に流れる広告の時間の長さに耐えきれず、結局は、NHKを始めとする広告がない放送を嗜好するようになった。とはいっても、持ち運び可能な小型エアロバイクをリハビリとして漕ぐ一時間が一日の視聴時間なのである。

今週の月曜日、いつものようにペダルに足を掛け、何気にテレビのスイッチを押すと、画面下の「新古今ハカ集」という文字列が目に飛び込んできた。駄洒落を解説することは無粋であると心得ているが、ハカとはNZのラグビーの代表チームが試合前に自軍を鼓舞し相手を威嚇するための儀式で、それらを収めたビデオクリップ集を新古今和歌集になぞらえたというわけである。

印象的だったのは集団で舌を出す振り付けと「人間の舌ってあんなに伸びるものなのか」と嘆息するほどの舌の長さだった。

今日は、クリーニング店、百均ショップ、書店、レストランの下見、図書館、食料品買出しに出掛ける妻のお供として、二時間弱、車の助手席に座っていた。ある時は携帯に内蔵されている青空文庫の頁をめくり、またある時は、サイドミラーに映る自分の顔を見て、舌をどれだけ長く伸ばせるかに挑戦していた。

想像とは異なり、俺の舌はほんの3㎝程度口の外に出るだけだった。口内を舌で掃除するとき、以前は届いた場所が今では不可触地域になっていること、今日は輪をかけて発声が悪いこともあり、舌筋の萎縮が可視化された形になり、心が重くなった。

そのことを買い物から帰って来た妻に告げると、
「あたしだって、こんなものよ」と舌を出して、悩む俺を笑い飛ばした。真実なのか「嘘も方便」なのか定かではないが、兎にも角にも、気分を取り直すことはできた。
その一方で、前述の「新古今ハカ集」の映像が頭に蘇り、嗚咽的笑いが止まらなくなった。

2019年6月2日(日)

三人の強敵(と書いて「とも」と読む)と固い握手を交わした後、自宅に戻ったつい一時間前の出来事である。いつものように自宅の庭から電動車椅子に乗ったままスロープを使い縁側まで上ろうとしたその時、右側の後輪がスロープの縁から外れてしまう。そうとは知らず、前進レバーを押しっぱなしにしていたため、車椅子は右後方に傾いてしまい、後方からやって来た妻の悲鳴と共に体が28㎏の車椅子の重量を伴って地面に叩きつけられた。

幸いに怪我はなかったが、一歩間違えば首の骨を折ったかもしれない大惨事に繋がる事故だった。そういうギリギリのところで人は生かされているのかもしれない。そんな思いを強くした出来事だった。

2019年6月5日(火)

今夜、ワールドユースの試合が放送される。

ワールドユースとはFIFAが主催する20歳以下の男子が出場するサッカーの世界大会である。1979年には日本でも開催され、マラドーナやディアスを擁するアルゼンチンが優勝を飾っている。今年はポーランドで開催され、グループリーグを突破した16カ国が決勝トーナメントで雌雄を決するのだ。

日本は一勝二分の成績で16強入りし、今日の夜、24:30開始の一回戦に挑む。グループリーグ第二戦のメキシコ戦のみを観戦したのだが、パスを受けて止める技術が歴代の代表と比べて明らかに向上しており、堂々たる内容で、難敵メキシコを3対0でくだしたのだ。

しかし、今日の試合は開始が遅すぎる。妻の睡眠時間を確保する観点に立てば、到底許される行為ではないのだ。そう思い観戦を諦めていたのだが、アルゼンチンを破って16強入りした対戦国からのサポーターが大挙して我が家に駆け付け、彼らのたっての希望を妻が受け入れる形で深夜の視聴が承認されたのだ。

ここで彼らの訪問に敬意を表したい。今夜は日本にいながら完全アウェイの雰囲気を味わえそうである。

2019年6月6日(木)

平坂塾の教室として使用される作業部屋は四方に大きな窓がある。見晴らしがよく風通しがいい反面、陽当たりもいいので、夏は蒸し風呂のような状態になり、塾生にサウナ料金を請求できるほどである。

季節感豊かな学びの場もやぶさかではないのだが、近年の小中学校にエアコンを設置すべきと言う世論に従い、平坂塾でも文明の利器エアコンを導入することに相成った。

昨日は猛暑であったが、額に汗して作業部屋の玄関に入って来る塾生に涼を提供し、学習時の集中力と塾への求心力を得ることに成功した。塾生が帰路についた後も次男と長女がやってきて、教科書を開き宿題を始めるというエアコン効果も出始めた。

俺もその傍らでパソコンで教育日誌を整理していると、長女から
「お父さん、どうして『ううん、ううん』て言うの?うるさくて宿題できないよ。や、め、て、ください」と言われた。そう言われて我に返ったのだが、確かに唸り声を上げながらタイピングしているのである。以前にも書いたが、両腕共に重力に逆らう動きが困難になり、人差し指と中指が線形従属になってしまい、リターンキー、シフトキー、スペースキーを多用する日本語の文書作成のための時間と労力が倍増しているのだ。そのストレスが無意識の唸り声を生んだに違いないのだ。

昨年末、腕の筋力の低下のため箸を持つのがストレスになり、美味しいものを食べても全く美味しく感じないという逆説的状況に陥っていた。現在は妻に食べさせてもらっているので、食べたいものを自由に選べないという欠点はあるものの、美味しく味わうことが出来ている。

それと似たようなことがタイピングにも起きているのかもしれない。しかし、発声が怪しくなっているので代筆はより多くのストレスが生じそうである。「寝たきりになっても出来ること、それは文章を書くことに他ならない」と思い起ち上げた当HPであるが、作業に伴う苦しさが文章そのものを忌避させる可能性は大いにあるのだ。ひいては、呼吸をすることが苦しくなれば人生そのものを忌避させる力が働くのも道理であろう。

昨日は「ALS患者の7割が人工呼吸器を付けない」という事実とその理由を考えさせる一日だった。

2019年6月7日(土)

先週の木曜日、お世話になっている作業療法士のSさんのお力添えで視線入力装置の操作を体験することが出来た。瞳孔の動きを読み取る棒状のセンサーをノート型パソコン画面の下部に取り付け、手を使わずに視線のみで文字入力を行うのだが、これが思ったよりも簡単ではなかった。

まず、度数が高い眼鏡をかけているせいか、はたまた目が細いせいなのか、センサーが瞳孔を認識してくれないのだ。業者さん曰く
「今回のデモ機は旧式で最新版だと数十倍も感度が上がります」と言うことだが、Sさんや言語聴覚士のKさんの瞳孔はしっかり認識されていた。

次に、視線を動かそうとすると頭も動いてしまい、ポインターを固定することも困難なのである。難病支援団体代表のTさん曰く
「画面から60㎝の距離で角度が垂直になるように頭を固定してください。そもそも、頭を動かせる人には向いてないんですよね」だそうだ。

その後、何回か使ってみたが、捜査の難易度が改善されそうな兆しが全く見えず今に至っている。以前書いたコエステーション’では、テキストを自分の声で音声化できるのだが、反対に、俺の出鱈目な発声を矯正してテキスト化してくれるソフトがあればいいのになあと思った。

2019年6月10日(月)

本日をもちまして、闘病記(大村編)は終了します。

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