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心野動記

2020年10月23日(金)

諌早にある年金事務所に行って来た。障害年金の受給が決定し、去年納めた年金の免除申請を行うためだ。諦めが悪いようだが書いておく。この病気の治療法が確立されて機能が回復し、障害認定されなくなり、障害年金が停止され、年金を再び納める日がやってくるという予言を。

「年内に一家で釜山に引っ越す可能性が高まった」と書いたものの、転校に関する書類の準備、航空券の予約、電動車椅子の確保、荷物の梱包、等、遣ることは山積みなのに何も進んでないし決定もしてない。

帰り道のレインボーロードと名付けられた農道を走っている時、妻が
「私は緑が見れれば満足、そんな単純な性格なのに、釜山での都市生活に適応できるかなあ」と言い出した。妻にも多少の未練はあるのだろう。妻は家事と育児と介護で手一杯で、膨大な仕事量が必要になる引越しに費やす時間や労力は限られている。

しかし、俺は何も手伝えない。この病気を呪うのは正にこういう時である。

2020年10月19日(月)

インターネットで「未満」の反対語を調べてみた。出てきた答えは「超過」だった。

高校の数学では二次不等式がよく出て来る。例えば、(x-1)(x-3)<0の解は
1<x<3なのだが、それを読み上げようとすると、「1より大きく3より小さい」となる。等号が付いている場合は「1以上3以下」となり、音的にも字数的にも短くわかりやすい。なので、「1超過3未満」のような使い方が出来ればいいのにと思った次第である。

しかし、このように「超過」が使われているのを見たことはただの一度もなかった。

スポーツ選手の評論等でよく耳にするのが「~以上でもなければ~以下でもない」という表現である。例えば、年間20勝を挙げた野球の投手に対して、「彼の勝ち星は20章以上でもなければ、それ以下でもない」と評し、20勝という数字の重みを強調するのに用いられる。だが、ちょっと待ってほしい。「20勝以上ではない」ということは「19勝以下である」ということで、「20勝以下ではない」ということは「21勝以上である」ということで、両者の条件を満たす自然数は存在しない。

ちなみに「~超過でもなければ~未満でもない」と言えば数学的には正しい。では言語学的にどうなのかを国語学者の方にお伺いしたいものである。

2020年10月18日(日)

あれは中三の頃だった。F山君の自宅に招かれた時の話である。F山君は音楽に造詣が深く、自室は音響機器で埋め尽くされ、流れる音楽は刺激に満ちた激しいものだった。その時に聞いた曲が耳に残り、高校に入学した後、帰り道の貸しCD屋で、その曲が収録されたアルバムを手に取ることになる。そのアルバム名はアルファベットとΦを用いて表記されていた。その日から毎日、そのアルバムだけを流し続け、最後の曲が終わってから眠りにつくようになった。高校でΦは空集合を表す記号であることを学び、そのアルバムと同名のバンド名の由来も「何処にも属さない」と言う意味が込められていることを知って、「なるほど、気が利いているな」と思った記憶がある。

異変に気付いたのは大学に入ってからである。{1,2}の部分集合全体の集合というのが出てきて、それは{Φ,{1},{2},{1,2}}であり、何処にも属さないはずだった空集合が属しているのだった。

数学を基礎から学び直して俺は次のような結論に辿り着いた。
「空集合を特徴づけるキャッチフレーズは『何処にも属さない』ではなく、『何も属さない』等にすべきである」

多少のこじつけはあるが、この件がきっかけになり、世の中全てのことを疑いの目で見るようになり、検証する習慣がついた。

大学院生になり、M先生とのセミナーを通しての指導を受けて、自らの疑う力も検証する力も浅薄で穴だらけであることを知らしめられ、自らの数学を再構築し続ける日々が始まった。

数学力と言うのは筋肉細胞と同様に死滅と再生を繰り返して鍛えられるものなのかもしれない。萎縮しているのは筋肉だけではないと感じる今日この頃である。

2020年10月16日(金)

今週の出来事をまとめておこう。

火曜日の日本対コートジボワール戦は放送時間が深夜に及び、試合終了の時刻に誰かを起こして寝台まで運んでもらうのは人道に反すると判断し、視聴を断念することにした。試合のダイジェストを見た限りでは見せ場も多い好試合で、終了間際の劇的決勝ゴールという特大のおまけも付いていたようだ。あんまり関係ないのだが、迷っている人の背中を押す時によく用いられる「やらずに後悔するよりはやってから後悔する方がいい」という励ましは恣意的に活用可能だなと思った。「寝る」も「見る」のどちらも「やる」ものだからである。

告知したように、水曜日のクローズアップ現代+で俺の映像が流れた。何人かのALS患者の様子が紹介されたが、俺以外全員呼吸器を付けていて、動くのも目を開けることさえも困難に見えたし、介護者の苦悩も紹介されていた。彼らの言葉は重く、身が引き締まる思いだった。俺や妻の映像は笑顔の場面が多く、その対比が番組終盤の問題提起に説得力をもたらしていた。その中の一つの「地域格差」を深堀したいと思う。

難病にかかり要介護認定されると、介護保険と重度訪問介護が適用され、一割負担でヘルパーサービスを受けることが出来る。その上限額はなんと月額37万円で、医療保険と組み合わせると24時間介護も可能な金額である。しかし、介護事業の保険適用基準は各自治体に委ねられており、このことが地域格差を生む一因となっている。都市部では患者数が多いので認知度が高く手続も円滑である反面、前例がない地域では、役所と介護事業者との間でたらい回しになり、制度自体を知らず呼吸器装着を断念する患者も多いし、患者とその家族は前例作りのために膨大な労力を強いられる。

この事を全国放送で指摘したのは意義深いことだと思う。

木曜日はその反響に応答し続けた一日だった。しかし、入塾希望者は一人もおらず。

金曜日に妻が大村高校に赴き、上の子二人の今後について担任の先生と面談しに行った。そこで生活態度や成績についての客観的な説明がなされたという。その内容を聞く限り、釜山の学校に転校するのもやむなしと思うようになった。その時期はまだ決まってないが、「少なくとも年内」に一家で引越しする可能性が高まった。

2020年10月12日(月)

今週水曜日の午後10時にNHK総合で放送予定の「クローズアップ現代+」にチョイ役で出演予定である。インタビューは大村の実家で三回に分けて撮影された。その時の制作現場に立ち会って、映像を作る者たちの熱意と誠意に触れたことで、普段何気なく見ているテレビ番組を見る目が変わった。10分の映像の背後にはその何十倍もの時間の撮影とスタッフの労力が潜んでいるのだ。それが報われるのは多くの人の目にとまることに他ならないと思うので以下を告知しておく。

https://www.nhk.or.jp/gendai/schedule/

オンライン指導の入塾希望生が増えるといいなあ。

2020年10月9日(金)

久しぶりのサッカー日本代表の試合、しかも日本時間で午後9時キックオフという眠い目を擦らなくてもいい時間帯で、少なくとも俺は注目していたし試合内容にも期待していた。

1992年のアジアカップ日本大会からほぼ欠かさず日本代表の試合をウォッチし続け、試合ごとに一喜一憂してきた。その経験から今日のような親善試合では、大きすぎる期待は裏切られるのが常だということも重々承知していた。

しかしなあ、前線からの守備も軽くいなされ、疲れることを目的に走り回っている感じだったし、前線で小気味よくパスが回った場面は皆無だったし、昔みたいに一方的に攻められることはなかったものの、大迫や柴崎は持ち味が出せず、若手も将来性を示せず、見所が少なかった。

カズがいた頃の代表は今と比べてはるかに弱かったけど、試合をするたびに雪だるま式にサッカーファンが増えていくような熱量に溢れていた。今回の試合は
「まあ、こんなものだろ。伊東が良かったな」くらいの冷めた感想しか湧いてこない。

とか言いながら、次のコートジボワール戦を見てしまうんだよなあ。

2020年10月7日(水)

NHKのニュースで、今回のサッカー日本代表はヨーロッパに滞在中の選手のみから召集されると言っていた。隔世の感とはこのことである。日本がW杯アメリカ大会予選を戦っていた時、ヨーロッパの主要リーグでプレイする日本人は一人もいなかった。ブラジル帰りの数やラモスを通して世界との距離を推し量っていた時代だった。
代表の試合で負けるたびに、足のリーチの長さに戸惑う声や、身体能力の差、決定力の無さ、経験不足を嘆く声が噴出し、
「農耕民族である日本人はサッカーに向いてない」という主張が幅を利かせていたのだ。

その当時はイタリアのプロサッカーリーグの全盛期であり、ジダンやルイコスタやゾラのような優雅で技巧的な選手たちが泥まみれになってボールを奪い合うことを強いられる苛酷な、且つ、七姉妹と呼ばれる世界的強豪が鎬を削る世界最強リーグだった。そこに挑戦して行ったのがカズであり、地上波生中継された初戦でバレージとの競り合いで鼻骨を折り、復帰後も期待に見合った活躍が出来ずに終わった。

だからこそ、日本代表内で政権交代を果たした中田がイタリアで活躍した時の衝撃が大きかったのだ。カズが開拓した国内市場を中田が海外に展開する。そんな構図で、名波、小野、中村、小笠原と言う日本を代表する攻撃的MFの海外移籍が相次ぎ、城、西澤、高原、柳沢、大久保、松井と言うFWが後に続く。彼らの大半は言葉の壁にぶつかり、定着できず、ヨーロッパを後にする。

時は流れ、若手選手の海外移籍の流れが加速し、各ポジションで二名以上の海外組がいる。懸念されていた国内リーグの空洞化も起こっていないどころか、古橋、三苫、松尾、坂元のような次世代スター選手も台頭している。

そんなわけで、今週の金曜日のカメルーン戦が楽しみな今日この頃である。

2020年10月5日(月)

2014年に公開された映画『インターステラー』は長男のお気に入りの一つである。彼は劇場でも三回、BTV(韓国の有料動画配信システム)だと30回以上は視聴している。その頃は自宅の液晶テレビは延々とその映像が流れていた。そんなわけで、部外者だった俺の記憶にその映画の細部まで刻まれるようになった。

概要の一部始終を書くときりがないので割愛するが、宇宙飛行士である主人公はブラックホールに吸い込まれ、時空が交錯する空間に遭遇し、物理学者になる娘に重力波を用いて交信を試みる。最初は幽霊の仕業と思っていた娘が形見の腕時計の秒針の震えが父からのモールス信号であることに気付き、ブラックホール内部のデータを得て、特異点の謎を解明し、環境汚染により滅亡する運命だった人類を救うのである。

前置きが長くなったが、最近、左手の薬指の痙攣が尋常ではない頻度で起こっている。その震え方も不規則で誰かが何かを語っているようにも見えなくはない。
もしかしたら、二つの素数の和で表されない4以上の偶数の二進数表示か、素数冪位数以外の射影平面の存在か、五番目のフェルマ素数の二進数表示か、27個目の散財型単純群の乗積表か、四番目のムーアグラフの隣接行列か、はたまた、ALSへの根本治療薬の生成法を未来にいる誰かが教えてくれているのかもしれない。

解読のためにモールス信号でも勉強してみようかな。

2020年10月4日(日)

昨日は長崎ペンギン水族館に行って来た。その道中、後部座席に座る長女と三男の間でひと悶着があった。長女曰く、
「人間の欲望を満たすために飼育されているペンギンはかわいそうだ」
それを聞いた次男がすかさず、
「何言ってんの、お姉ちゃん。ペンギンたちは餌も貰えるし、安全に暮らせるから幸せに決まってるよ」と言うと、
「そう見えるだけよ。自由がない生活が幸せなわけがない」と長女が応酬するも、
「それなら学校だって同じだよ。お姉ちゃんは自分が不幸だと言いたいの?」と小学一年生とは思えない背理法を用いた議論で反駁した。その後、互いに一歩も引かない議論が延々と続いた。

俺は内心、
「もしかして自分のことを議論しているのではなかろうか?」
「テレビにも取り上げられたからなあ」
「見世物になっても金を稼げるペンギンに比べて俺ときたら・・・」
「カブトムシやカニを自然に放つ事件に長女は影響されているのかも」
「三男ははるかに年上の兄弟に鍛えられているとはいえ凄いことを言うなあ」
「そう言えば『名探偵コナン』のポーズを真似していたしなあ」等と考えていたが、何か言えるはずもなく、無言を貫いた。

三男は水族館の水槽を泳ぐ魚たちを見て「わあ」と歓声を上げ、館内の土産物屋でペンギンキーホルダーを自分の小遣いで購入してご満悦だった。三男の子供らしい面を見て、大いに安心した。

そのあくる日の今日、三男が通う小学校の運動会を参観しに来ている。各児童に対して父兄は二名までで、奇数学年と偶数学年のほ前半と後半で入れ替わるというコロナ対策が施された。

担任の先生に率いられて行進する列の先頭には三男がいた。昨日見たペンギンの行進が頭に蘇り、妻と顔を見合わせて笑い合った。作業部屋監禁事件をおこすほどハチャメチャな三男であるが、学校では別人のようにおとなしくしている様子が見て取れた。

徒競走で三男は最下位だった。これも42年前と同じだ。血は争えないものだなあ。

2020年10月1日(木)

「涙で枕を濡らす」という表現があるが、ここ数日、無意識に垂れ流される大量の唾液で枕を包む厚手のタオルがぐっしょりと濡れるようになった。唾液がよく出るのは今に始まったことではないが、飲み込む力が弱くなったことと口周りの筋肉が緩んだことの相乗効果で、体内に吸収されるはずの唾液が体外に出始めたということだ。

夜中に顔の側面に冷たい何かを感じ目覚めることもしばしばで、秋も深まり布団も重くなり、身動きが取れない苦しさで何度も妻を起こす日が続いている。我慢して左手で顔を掻いていると気が紛れるし、時間もつぶれるのだが、筋委縮により、手首の力がゼロに近い状態になり、掻くための指を固定できない状況に陥っている。

事態を重く見た妻は一計を講じた。寝る時の枕元にうがい用の小さな洗面器を配し、枕二個で挟むように固定した。横向きで寝る俺の口の真下には洗面器があるので、唾液で枕を濡らすことはないし、向こう側の枕に顔をこすりつければ痒みも和らぐのだ。

諸葛孔明を彷彿させる妻の創意工夫を三顧のお礼で感謝したい気分である。

2020年9月30日(水)

韓国では今日から五連休である。旧暦で8月15日に相当する日が明日であり、その前後も祝日になるからである。日本のお盆のように帰省し親戚同士で集い墓参りに行く期間で「秋夕(チュソク)」と呼ばれている。しかし、コロナ禍の影響で韓国でも移動の自粛が求められているとのことだ。釜山大数学科の同僚達も連休中は自宅で何もせず過ごすとのこと。

そのことは昨日のzoom会議で知ることとなった。前回は移動中のスポット参加だったKH教授が旗振り役となって、LY教授、CH教授、JI教授、LD教授、KJ教授、PJ教授、CY教授、JD教授、KS教授、LM教授が参加した一時間の近況報告会である。パソコンの画面に自分の顔が映る。笑顔なのはいいけど、如何にも辛そうに聞き取りようのない声を発している。最早、他人の目にどう映るかなんてことは考えなくなった。笑顔で接してくれる同僚達との時間を楽しむことに集中していた。

同僚達のコメントに返答しようと傍らの妻に話しかけるが、
「ごめん、何を言っているかわからない」と匙を投げられる。その場では笑ってごまかしたが、日常生活においても人生においても最も重要な妻との意思疎通が出来ないという事実は会議後、心に重くのしかかった。妻が俺の発声機能を訓練しようという意図は理解できるのだが、もうそんなことを言っている段階ではないと思う。時間が掛かって面倒くさいだろうが文字盤を使ってほしい。もし泉さんなみの速さで意思伝達できれば講演も可能で、職業選択の可能性が広がると思うのだが、いかがなものだろうか。

脱線してしまったが、数学科の同僚との歓談は非常に楽しかった。連休前の最後の講義が残っている忙しい時期に時間を割いてくれた同僚達に改めて感謝申し上げたい。

2020年9月27日(日)

今日は長女が通う中学校の運動会が開催される日である。5時起きで弁当を作った妻は
「韓国ではありえない」と憤慨していた。それもそのはずで、カトリックとプロテスタントの信徒数が人口の5割を超える韓国では礼拝がある日曜の午前に学校の行事が組まれることはまずないのだ。更には、コロナ禍対策で、三年生の父兄のみ参観可能と言う状況で、リレー選手になった長女を拝めないだけでなく、弁当も一緒に食べれないのだ。

それはさておき、小学生の頃から抱いていた疑問をこの場で開陳しよう。

運動会に向けて生徒達はその準備をする。行進の練習から始まり、各種競技の予行演習や全体練習に少なからぬ時間と労力を費やしている。教員側も同様である。その割には心に残るものが少ないと思うのは俺だけであろうか。普段から接している級友たちの勇姿は五輪競技並の感動と記憶を残してもいいはずなのに、そんな光景は少なくとも俺の頭の中には浮かび上がってこない。

その理由は、主役であるはずの生徒が競技者としても観戦者としても中途半端な位置に据えられているからだ。リレーの選手でない一般の生徒にとって真剣勝負の場は徒競走しかない。その徒競走も負けて失うものもなく勝って得られる栄誉もたかがしれている。ゴール間際の緊迫した場面を間近で見れるのは貴賓席に座るお偉いさんで、生徒達は遠く離れた場所から他学年の徒競走を眺めるだけである。

以下ではその改善策を示す。

従来であれば徒競走は身長順に組み分けされるが、それを廃止し、スポーツテストの短距離走の記録順に組み分けし、走力が拮抗した者同士で競わせる。最速組は学年代表を決める予選を兼ねており、注目が集まるように別の時間帯に実施される。プログラムの最終盤で学年代表を決めるレースを行い、間髪入れず、四名に(三年生は二名)よる校内最速決定戦を行い、金銀銅のメダルの表彰式やインタビューを実施する。生徒たちはトラックの中に入って声援を送る。

こうすれば真剣度が高まり、一生の思い出として語り継がれるのではなかろうか。
「あの時の~君は速かったねえ。今では見る影もないけど」みたいな感じで同窓会があるたびに話題になると思うんだけど。

蛇足であるが、運動会の様子をYoutubeで生中継とかすれば仕事で来れない父兄も喜ぶし、スポンサー企業も付いて、一人一本清涼飲料水を提供できる資金も集まるし、準備や片付けもイベント業者に外注することが出来て、合理化が進むのではなかろうか。もっと言えば、弁当文化も見直して、手ぶらで来ても美味しいものにありつけるように教室を食堂として開放して外食を堂々と楽しめるようにすれば弁当を作る負担も減ると思うのだが。

2020年9月25日(金)

午後2時に訪問看護のOさんがやって来た。同時刻にWさんが先日放送された番組を録画したDVDを渡すためにやって来た。妻がWさんに応対し、俺が手足の関節の曲げ伸ばしの施術を受けていると、俺の気管切開拒否宣言に驚いた弟がやって来た。

施術を早めに終えて、Oさんを交えてお茶菓子と共に歓談しようと提案するも、規則でマスクを外しての飲食は出来ないと断られた。施術が終わる頃、Oさんが
「主人の仕事の関係で来月から愛知に引っ越すので、私が来るのは今日が最後になります」と言われた。

唐突だったし、喋れないので何も言えず、動揺した心のまま寝台から車椅子に乗せられ、お茶会の会場である台所に連れていかれた。そこにはパソコンが置いてあり、妻がエアマウスとプラケーススイッチの準備をしてくれた。

その後、何が起きるか十分に予測がついた。祖母や父の葬式でも取り乱すことのなかった俺が弟やWさんの前で恥ずかしい姿を見せるわけには行かないという思いもあった。しかし帰ろうとするOさんを無言で見送ることは出来なかった。
「Oさん、今までよくしていただいて本当にありがとうございました」
たったこれだけの文字を入力するのに、どれほどの時間を費やし、涙と鼻水をぬぐうためにどれほどのちり紙を費やしたかわからない。見送った後、弟は
「兄ちゃんがあんな風に泣くのを初めて見たよ」と呟いた。

Oさんは俺に喋らせるのもリハ’ビリになるという信念から施術中にも豊富な話題から様々な質問を投じていた。最初は受け答えが出来ていたが、いつの日からか聞き取り不能になり、「はい」か「いいえ」で答えられる質問に変わり、声も出せなくなって首振りに変わり、それも寝台では難しいということで、瞬きに変えたのが今日だった。

Oさん、リハビリのし甲斐の無い患者で申し訳ないです。大村に戻ることがあれば、遊びにいらして今日の歓談の続きに参加されてください。

2020年9月23日(水)

午後6時、普段はテレビを見ない母が珍しくテレビの前に陣取っている。合わせるチャンネルはNHK総合、10分が過ぎ地方のニュースを取り扱う「イブニング長崎」と言う番組が始まると、母が次男に俺を連れてくるように命じ、まだ帰宅してない長男を除く子供達を呼び集め、待つこと30分、お目当ての映像が流れると、台所で料理中の妻も呼び出され、大村に移住して初とも言える「お茶の間での家族団欒」が実現した。

その映像は本欄で何回か登場したWさんが制作した10分間のドキュメンタリーである。その主題はALSで、患者である俺と介護する家族と主治医が紹介されたというわけだ。

テレビ越しに見る自分はずいぶん痩せていた。そして表情が硬い。会話中に視線が宙を舞うまごううことなきALS患者だった。一年前には
「すわっていれば健康な人と変わらない」と言われていた俺の姿は見る影もない。妻はとにかく明るい。家族もいつもどおりだ。

主治医のN先生のインタビューが映り、気道切開に関する葛藤に話題が移った。テレビの中で俺は
「人工呼吸器をつけない」と答えていた。この件に関しては様々な理由があっての決断である。
「今でも妻は腰痛を訴えているのに俺の足の力が無くなれば介護負担が増大するはず」
「呼吸器を付ければ24時間の介護が必要になり、家庭に大きなひずみを生んでしまう」
「飛行機での移動が困難になる」
「そんな周囲の苦しみを黙って見ていることしか出来ないこと」などである。

だからと言って早く死にたいわけではないし、呼吸苦の恐怖に打克つ自信があるわけでもない。ひとの心は移ろいやすく弱いものである。このようなとりとめのない結びも揺れ動く心の動きによるものなのだ。

追伸:この場を借りて、呼吸器の問題を考える契機を作ってくれたWさん、この番組の制作に関わったスタッフの皆様に感謝申し上げる次第である。

2020年9月21日(月)

高校2年と1年の長男と次男のうちの誰かがが
「日本語が難しくて高校の授業について行けない。このままだと未来が見えないから、手遅れにならないうちに韓国の高校に転入したい」と言い出したと仮定しよう。俺が健康であったら、最初は反対して、子供の決意がどれほどのものか確認した上で。渋々ながらも送り出したことだろう。しかし、俺の今の状態は健康とは対極の位置にある。しかもコロナ禍で渡航には制約があり、罹患した場合を鑑みると、親元を離れて一人暮らしはさせたくないというのが親心だろう。となれば、一家全員で釜山の実家に戻る案が浮上してくる。

元々、大村に移住して来たのは、俺のわがままから来たもので、二重国籍を持つ子供達が日本の学校に通うことでどちらの国でも生活基盤を築けるようになって欲しいと目論んだからである。そのことを決断した時、長男と次男は進路を真剣に考える年齢ではなかったし、俺も元気で家長としての影響力が残っていた。

喋れなくなり経済力も失った俺は老いた雄ライオンのような存在で、子ライオンが群れを離れる時期が来るのも自然の摂理なのだろう。それも悪くない。いたわられるより、踏み台になる方がいい、と言うのは父親としてのささやかな自尊心である。

2020年9月20日(日)

朝、起きて、妻に起こしてもらい、車椅子に腰掛ける。寝ている時には硬直していた手足の筋肉が椅子に座ることでほぐれる。その心地良さと共に頭を後方に傾ける。妻は顔を拭くためのタオルを準備しに台所に向かった。ちょっと前までは蒸し暑かったのに今朝は肌寒いほどだ。そのせいかくしゃみが出る。そんな時は決まって、動きが鈍った舌が上下の歯によるギロチンの餌食となり、鼻水で鼻腔が充満する。そのままでは息がし辛いので、鼻に空気を集め、鼻水を外に出した後、鼻腔に残った鼻水を吸って飲み込むことになる。

今朝はその残りの鼻水の量が多かった。粘り気のある液体はまるでアメーバのように気道弁にまとわりついた。息を止めてもしばらくは平静を保つことが出来る。苦しくなれば咳き込めばいいのだが、その咳をするための空気が得られない。幸いに妻が戻って来て異変に気付き、俺の口に指を入れてその粘着物質を取り除いてくれた。その間、約一分足らずだったが、この上ない恐怖を味わった。

食べ物でなく鼻水で咽るとは。痰を吸引器で除去するのはこんな気持ちだったのか。異変が気付かれなかった可能性も十分にあったのでは。仮に寝ている時にこの現象が起こったらどうなるのか。単なる風邪でも引いたら大ごとだな、等と色々なことが頭を横切った日曜の朝だった。

2020年9月19日(土)

大村湾内のとある半島に位置するキャンプ場に来ている。実は先週末にも訪れたのだが、再訪したのには理由がある。そこには入江があり、小岩を捲ればカニやエビなどの海の生き物に容易に出会える。先週末、妻と三男がそこでカニを数匹捕まえてきて虫かごに入れて飼育していたが、「可哀そうだから故郷の海へ返してあげよう」という話になったというわけだ。

キャンプ場の駐車場入り口には相変わらず、捨て猫行為を戒める
「動物遺棄は犯罪です」と書かれたポスターが貼ってある。

コロナ禍の自粛期間中には閑散としていた同地だったが、駐車場は車で埋まっており、キャンプ場も色とりどりのテントが張り巡らされていた。暑くもなく寒くもない絶好のキャンプ日和で、ある者は椅子に座り薪をくべ悠然と波打ち際を見つめ、またある者は炭火のバーベキューセットを組み立てアイスボックスから肉と野菜を取り出していた。
「優雅な時間だなあ。こういう所では何を食べても美味しく、何もしなくても楽しいものなのだ」と思う反面、
「今日の夜は冷えそうだなあ。快適性を維持しようとすると不測の事態に備えて通常の二倍三倍の手間を強いられるのが野宿なんだよなあ。まあ、それが醍醐味なんだろうけど」との思いが頭をかすめた。

「故郷に帰ったカニたちは幸せに暮らしていけるのだろうか」と帰り際に思いを馳せていると、妻が
「まさか、動物遺棄でつかまったりしないよね」と普段は俺が言いそうな物言いをした。

ここ一年で夫婦の各々が果たす役割が変わってしまったことの断片なのかもしれない。

2020年9月18日(金)

本欄の9月4日付で紹介したIさんの写真と記事が17日付の長崎新聞に掲載された。普段のIさんは頸椎カラーの影響で顔の下半分が圧迫されて、やや怒っているような表情なのだが、掲載された写真は表情が柔らかく優しい印象でとても幸福そうに見える。おそらく、発病する前もこんな風に笑っていたんだろうなあ。

今日の午後、ヤフーにその記事がリンクされているという情報が入った。より多くの人々に泉さんのことを知ってほしいと思うので、当HPで二カ所目となるリンクを貼っておく。

https://news.yahoo.co.jp/articles/0b398f02e48f383241eeb3fc8d45d7777f557ed7

2020年9月17日(木)

新総理が誕生し、新内閣が発足した。先日の閣僚会見では「デジタル庁の創設」と言う言葉も聞かれた。

以前にも書いたが、これだけIT技術が発達しているにも関わらず膨大な数の紙の書類が跳梁跋扈している現状は変革されてしかるべきだと思う。パっと頭に思いつくだけでも
「なぜ保険証を月が変わるごとに病院に持参しなければならないのか?」
「本人確認さえできれば運転免許証を携帯しなくてよいのでは?」
「学校から送られてくる重要度が異なる書類の数々を一元化して整理できないのか?」
「生徒を介した集金は是正すべきでは?」
「キャッシュレスを推進して領収証をペーパーレスにすべきでは?」
「官公庁が率先して紙の書類を電子化し印鑑を電子署名に変えるべきでは?」
「通知や公共料金の請求書等の配達費用は削減できるはず」
「教科書や参考書や辞書はタブレット端末一台に収めて鞄の中身を減らすべき」
等の疑問や改善点が次々と湧いて来るではないか。

一部の企業では電子書類や電子署名は導入済みで、釜山大学もまたしかりだ。初期投資して導入さえすれば大幅な省力化が見込めるはずなので、新政権の指導力に期待したい。個人的にあったらいいなと思うのは「書類マネージャー」の導入である。

政府管理の下で、セキュリティを強化したメールアカウントをマイナンバーカード所有者に配布する。学校を含むあらゆる公共機関からの書類はそのメールアカウントに送られて初めて効力を発揮するものとする。送られた書類は書類マネージャーによって、重要度や期限や発行元等の項目で分類され整理される。受信者はスマホを片手に電子署名付きで返信すれば、書類の送受信者共に便利だと思うのだがいかがなものであろうか?

2020年9月14日(月)

とある方の、と言ってもWさんなのだが、依頼を受けて、俺の過去の写真を提供することになった。手のひら大のハードディスクには妻が撮りためた膨大な数の写真や動画が記録されている。働いていた時は決して見ることがなかったが、改めて見返して見ると「時間泥棒」と叫びたくなるほどに視聴にハマってしまい、今もなお抜け出せずにいる。

当たり前だが、動画の主人公はその当時の家族の最年少構成員である。ある動画では、一歳にも満たない三男が誰に近づいていくかという遊びをやっている最中に呼び鈴が鳴り、黒い上着を着た俺が玄関から入って来て書斎に消えていき、その遊びが再開されるという場面があった。
「おい、歩いてるよ。笑顔だし、しゃべっているじゃない。しかも弟の声にそっくりだ」久しぶりに見る元気な頃の俺は幸せそうに見えた。

別の写真では俺が作ったシーザーサラダが映っている。この年になると、
「美味しいものを食べたい」から
「人が美味しいものを食べて喜ぶ姿を見て美味しい」と感じるようになるものだ。
もっと遡れば、子供が生まれた瞬間から、人生の主人公から通りすがりの脇役になるまでの緩やかなスロープに足を掛けているのだ。

過去を振り返るのは、成長した子供との対比と言う観点から見ると楽しい行為だが、老衰した自分との対比は快いものではないことを学んだ一日であった。

2020年9月11日(金)

今日の日付は言わずと知れた史上最悪のテロ事件が起こった日である。遡って2001年4月、俺はとある女性と出会い、7月に結婚し、8月から国立台湾大学で任期付きの研究員として台北に滞在し、9月の中旬に同大学で開催された国際研究集会に参加していた。

その最中に起こったのが、ニューヨークにそびえるツインタワーにハイジャックされた旅客機が体当たりするという映画でも見られないようなテロ事件だった。映像を見た後でも現実感は希薄で、東日本大震災の時に湧き上がった胸がつぶれるような感情もなく、脳の活動は目の前の講演内容の理解に費やされていた。

その頃の俺は結婚したばかりで子供も宿っておらず、定職は無いものの研究者として上り坂の位置にいて、数学を考えることが楽しくて仕方なく、費やした時間の分だけ研究成果が上がり、家に帰れば妻の笑顔と手料理が待っている、という充実と幸福を絵に描いたような生活を送っていた。

裏を返せば、苦労を知らなかった。それゆえ、映像で惨劇を見ても被害者やその遺族の心情に心が及ばず、対岸の火事としてしかとらえることが出来なかったのだ。子供が生まれることは喜びであるが、育てるには苦労と心配が付きまとう。それから19年が経ち、四人の子供を授かり、二度の流産に心を痛め、父と祖母の葬式で弔辞を捧げ、義理の妹が精神病にかかり回復するまでの一部始終を心に刻み、同僚の親族の葬式に幾度となく参席し、ALSに罹り、今に至る。それらの共感や苦労が人間らしい感情の表出に一役買っているのだろう。

余談であるが、同時多発テロが起こった日の週末、台北は物凄い規模の台風に襲われ、家屋が水没するなどの甚大な被害を被った。俺が住んでいたアパートは1階だったが、丘の中腹に立地していたので、床上浸水は免れた。それでも、排水溝から水が逆流し、慌てて水を汲みだしていた。中国語のニュースを見てもわからないので、そんなに強い台風が来ているとはつゆ知らず、妻と二人で。
「台湾の台風は凄いね」と感嘆しながら笑顔でその夜を過ごし、翌日の日程が中止になったとは知らずに、大学まで足を運んだのであった。

知らないことは罪でもあり強みでもある。降りそそぐ太陽の光のように眩しかった台湾での生活は、いつ思い出しても楽しい心の財産となっている。

念の為に書いておくが、「とある女性」は本欄で頻繁に登場する「妻」と同一人物である。

2020年9月10日(木)

筋肉細胞は過度な負荷を与えると死滅してしまうが、超回復が起こりそれ以前よりも筋肉が増強される。しかし、「筋肉細胞が死んだ」と言う情報を脳に伝え「筋肉を増やせ」と言う指令を筋肉に伝える役割を担う神経中枢に異常が生じると、超回復は起こらず筋萎縮が起こる。
これが俺の頭の中で整理されているALSのメカニズムである。素人目には「筋肉を増やせ」と命令する化学物質を抽出して各部位に投与すればいいのではと思うのだが、そう簡単にいかないのが難病と呼ばれる所以なのだろう。

パソコンの作業をする時は両足を伸ばした状態で寝台の上に置いている。むくみ防止のためだ。視界には、パソコンの画面とパソコンを置く移動式の台、その下に俺の両脚が伸びている。今日、気付いたことだが、両足のふくらはぎがやせ細り、骨が浮いていた。左腕上腕部にも痛みがあり、どの位置においても落ち着かない。首も一度後ろに傾いたら歯を食いしばってでないと前に戻らない。妻によると、背中の肉も薄くなっているとのことだ。頻繁に起こる貧乏ゆすりや左手薬指の痙攣は
「今から筋肉を狩りに来てやる」という病魔の囁きのようだ。

昨日は、多数のお客で家がにぎわった。非常に楽しかったが、一夜明けると、祭りの後の虚脱感が待っていた。
「二年前までは毎日がお祭りのような生活だったのになあ」と昔を懐かしむのは年をとった証なのだろうなあ。

2020年9月5日(土)

台風10号が近づいている。テレビのニュースではさかんに「これまでに経験したことのない」という枕詞を用いて警戒を呼び掛けている。近所の住宅の窓はガムテープが英国旗のような模様で貼り付けられ、家財量販店でもベニヤ板やブルーシートが売れまくっているそうだ。弟家族も台風対策の遅れを心配して訪問してくれて、エアコンの室外機をどうするか、雨戸が付いていない窓をどう保護するか、車高のため車庫に入らない車をどこに置くか、停電停水対策は万全なのか、という議論がなされた。

しかし、窓の外の天気は平穏そのもので、生暖かいそよ風が吹く程度で、テレビ画面に映し出される暴風雨や高潮が明日明後日に目の前で起きる現実とは到底思えなかった。
これがよく言われる嵐の前の静けさなのだろう。そう思いながら、食事等の不可欠な日常生活を淡々とこなし、就寝に至った。

前置きが長くなったが、本日の主題に入ろう。座っている時は気にならないが、寝台に横になった途端に噴出するものがある。それは頭の痒みである。頭の表面の各部位が協奏曲を奏でるかのように痒みだし、終わる事のない物語が始まるのである。手が動かない俺は黙って耐えるか、横で寝ている妻に頼んで掻いてもらうしか手立てがない。これが不眠の一因となっていたのだが、数カ月にも及ぶ試行錯誤の結果、とある解決策が確立された。

次男は夜遅く作業部屋で学校の宿題をし始める。勉強の邪魔をして悪いなと思いつつも就寝時に次男を呼んで、毛先が粒状のプラスチック製のヘアブラシで当右飛を最大強度でガリガリと掻いてもらっている。その所要時間が五分だろうと十分だろうと嫌な顔一つせずやってくれるのが有難い。次男はアトピー持ちなので、痒さに苦しむ人の気持ちがわかるのかもしれない。

これをやると深夜に我慢できない程の頭の痒みに襲われることもなく、不眠の時間が劇的に削減される。次男には感謝するばかりである。そのお礼で数学を教えてあげたいのだが、面倒くさがってやりたがらないのが歯がゆい点である。

2020年9月3日(木)

何の気なしにLINEの新規メッセージを確認していると、赤ん坊の顔写真が目に飛び込んできた。
「はて?『次女が誕生しました』と書いてあるけど、送り主はIさんだろ。そんなはずは・・・」のように数秒間、混乱した後、
「え、え、えええー、全然、知らなかった!」と心の中で大声を上げた。

昨年末のALS協会長崎支部会で、口文字盤を通して尋常でない速度で言葉を紡ぎ出すIさんと奥様に度肝を抜かれた記憶は未だに鮮明である。その時に言葉を交わしたのが縁で、家族ぐるみの交流が始まり、我が家にも二度遊びに来られた。

ご本人の承諾を得たので、簡単にIさんの経歴を紹介しよう。Iさんは長崎県庁職員として長年勤務、結婚後、長男を授かるも、2001年にALSを発症、長女を授かり、絵本を出版するなどの活動を営む。ALS協会長崎支部の起ち上げに尽力、口文字盤の開発も手掛ける。現在は、介護事業所を起業し、家族を養うための収入を稼ぎ、自らの介護も家族以外の職員に委ねるという、財政的にも精神的にも自立したALS患者なのだ。

そんな人間の強さを体現したようなIさんでも、毎日のように
「死にたい」と思う時期があったという。気管切開後、愛してやまなかったはずの家族と離別した期間である。他人の俺でも胸がつぶれる思いに駆られるのに当の本人はどれほどの絶望感に悩まされて来ただろうか。

Iさんと話す度に感じるのは、Iさんが体験して来た、そして将来俺が体験するであろう、ALS患者としての苦悩を乗り越えてきた者の先知性である。そして、人生の葛藤をも乗り越えた者の強さである。安楽死を望んだ時期は新たな伴侶との出会いによって終わりを告げる。しかも、再婚後の長女の誕生に続き、今回の次女の出産である。世界で見ても、気管切開したALS患者が結婚し二児を授かるというのはIさんだけかもしれない。

そのことを妻に伝え、
「やっぱり、Iさんは凄いなあ。事業所の経営なんて、山ほど出て来る書類に目を通し、それらの書類を作成する業務もあるし、人手不足になりがちなヘルパーの確保やコロナ禍への対応、法改正にも敏感でないといけないし、何と言っても、事業所の経営や不祥事に全責任を負う立場だからなあ。尊敬しちゃうよ」と感慨に浸っていると、妻が
「Iさんじゃなくて、Iさんの奥さんが偉いんじゃない」と返答した。

それはそうかもしれないね。同性に感情移入するものだからね。とは言え、この場を借りてIさんご夫婦に祝福の言葉を述べたいと思う。

第二子誕生、本当におめでとうございます。

2020年9月1日(火)

先月、コロナ禍によって平坂塾英語教室が閉鎖の危機に立たされているということを書いた。予想に反して、お盆明けの大村市内の感染者が増えなかったこと、講師であるAY先生が存続に対して前向きであったこと、そして塾長である俺も実体を伴った学びの場は塾には必要な要素と言う思いを強くしたことで存続することを決定した。

昨日は三週間ぶりの英語教室が開講された。去年の9月1日に英語教室が始まったので一周年記念の日でもある。そして、補助教員として参加されていたR先生とのお別れの日でもある。ジャマイカ出身のR先生は近隣の小中学校で英語の補助教員として勤務され、今秋から一橋大学への入学が決まり、木曜日に大村を発つとのこと。将来の夢は外交官、明るく気さくで知的でバランス感覚に優れたR先生の夢は現実のものになると確信している。

今日の授業の後半はR先生のための歓送会で各塾生が英語でメッセージを準備して来るのが宿題だった。その前にR先生のワンポイントレッスンが始まる。
「肯定文の後に『Me, too』と返答するのはいいけど、否定文の時は『Me, either』を使うべき」だそうだ。そんな事とはつゆ知らず俺は『Me, too』を連発していたのだ。知らぬが仏とはよく言ったものである。

和やかな雰囲気に終始した歓送会だった。長男はR先生と映画やポップスの話をすることで「英語で話せる」という自信を深めていたし、R先生とも親しかった。長男はギターを弾きながら歌い、歓送会に花を添えた。音痴と思っていた長男の歌を聴くのは初めてである。
「おかしい、俺が知っている長男は人前で歌ったりするような奴ではないのに」
R先生への惜別の思いを伝えたいが故の行動なのだろう。普段は奇声を上げて三男をからかっている長男をそこまで変えるR先生が残して来たものの大きさを見る思いだった。

2020年8月31日(月)

大学教授の仕事は、研究、教育、学内行政が主なもので、その内訳や比率は各教員ごとに異なる。俺が釜山大に赴任したばかりの頃は「学内行政」が一体どのようなものかよくわかっていなかったが、在籍年数を重ねるにつれその重要性がわかるようになった。

端的に言えば、学科行政を疎かにすると、その学科の活力が失われ、大学院が空洞化し、競争力が落ち、大学内での序列が下がり、新規教員が補充されなくなり、老齢化が進み、更に活力が落ちる、という負のスパイラルから抜け出せなくなるのである。

2004年、釜山大数学科はある決断を迫られていた。BK21と呼ばれる大学院生向けの大規模助成金へ数学科として申請すべきか否かという議案である。学科教授会議では
「国内の数ある数学科の中で採択されるのはわずかである。ライバル校の動向と申請書作成のための労力を鑑みたら、見送るのが賢明ではないか」という意見が支配的であった。これに真っ向から異を唱えたのがLY教授だった。そして、LY教授が申請書作成の責任者となるという条件で申請することになった。

その日から連日のように若手教員全員が一部屋に集められ、深夜まで申請書作成のための話し合いが開かれ、膨大な資料を整理し、採択後の運営方針や学生の評価方式に頭を悩ませ、図表やレイアウトに細心の注意を払い、一か月後、電話帳並みの分厚い申請書が完成した。

俺は書類作成において寄与できず、タイピングを担当する学生の肩もみが主な仕事だったが、申請書作成の一部始終を目にしたのは意義深いことであったし、JI教授、KH教授、そしてLD教授と店屋物の夕食を一緒に食べて、意見をぶつけ合ったことで、連帯感と信頼感が醸成された。

その苦労の甲斐もあって、釜山大数学科はライバル校に競り勝ち、年間数億ウォン規模の助成金を7年分手にすることとなった。その翌年から大学院に入学してくる学生の質に変化が見え始め、その前までは他大学へ進学していた学部生の受け皿となり、留学生も増え、年を経るごとに学究的雰囲気が高まるのを肌で感じることが出来た。

その一方で各教員の行政的負担は急増した。BK21は大学院生のための助成金であって、教員のための研究費ではない。短期的に見れば、
「苦労が増えて研究時間が減った」と思いがちなのだが、長期的に見れば、事業を推進することで事務職員を雇用でき、次々と生み出される事業実績を記録し整理することが容易になり、申請書作成の心理的負担が激減し、次回の採択に繋がるのである。

想像してみてほしい。一度採択されたBK21が中間評価や不採択で止められた時のことを。留学生は生活に困窮し、大学院生が入れ替わる数年後には大学院生室の雰囲気は初期化されるであろう。そんな恐怖と戦いながら、事業を実績を上げるための不断の努力を強いられるのである。正に政府の意図している競争社会の実現に加担している状況なのだ。実際、釜山大数学科は名称を変えた第二次そして第三次BK21にも採択され、現在に至っているのだ。

今日はLD教授の呼びかけで、JI教授、KH教授、PJ教授、YJ教授、CY教授、JD教授、KS教授、LM教授が集うzoom会議に参加した。いつものように笑っているだけで傍らの妻が応答する展開だったが、非常に楽しかった。JI教授曰く、
「第四次BK21に採択された」とのこと。KH教授曰く、
「数学科の長年の悲願であった事務職員が増員された」とのこと、その他にも昇進や就職等の慶事盛り沢山の話題で賑わった。

俺の渾身の自虐ネタである
「俺が出て行ってから万事うまくいってますねえ」が冗談として受け取ってもらえるといいんだけど。

2020年8月28日(金)

本欄でも何度か紹介したが、パソコンを操作する時はプラケーススイッチを用いてクリックを行っている。これを扱う時には握り方が重要で、右手の薬指がスイッチのスイートスポットに当たるように握らないとうまくいかないのだ。その握り方を再現出来るのは妻の専売特許であったが、時節と教育を経て、長女と金曜日午前訪問のヘルパーさんにまで拡大した。

今朝もヘルパーさんの介助でパソコンの準備をして、プラケーススイッチを握ったのだが、指に力が入らず、かと言って全く押せないわけでなく、渾身の力を込めればなんとかなるのだ。

ヘルパーさんに食事や歯磨きの介護をしてもらった時は文字入力した「ありがとうございました」を機械音声で再生しているが、クリックごとに力んでしまい、そのせいでポインターが定まらず、時間を要するようになった。

これは今までに幾度となく経験して来たALSの残虐さなのだ。いつの間にか右指に残ったわずかな力ですら容赦なく奪い取ってしまうのである。今日、パソコンに触れている時間はストレスそのものだった。
「こんな状態では文字入力は到底無理、通信教育も看板倒れに終わりそうだ。心野動記も代替案が出て来るまで休止だろう」と暗い気持ちになった。

それではなぜこの文章を入力することが出来たのか?

今年の5月にプラケーススイッチの不調で更新できなくなった時期があった。その時に購入したプラケーススイッチの一つは感度が良すぎて長押しした時に同じ文字を二回以上入力してしまうという欠点があり、お蔵入りになっていた。それを覚えていた妻が現在のものと交換した所、思いのほか良好でストレス無しの文字入力が復活したというわけだ。

しかし、一文字消去キーをうっかり長押しして文書消失と言うことも起こり得るので油断は禁物である。

2020年8月26日(水)

釜山大数学科に来年三月赴任予定の方とテレビ電話で通話した。と言っても、他人が理解できる言葉を発することの出来ない俺は、予め準備した韓国語のテキストを読み上げるだけで、その繋ぎの部分は話し上手で聞き上手な妻が担った。初対面だが、同じ数学者である。専攻や研究分野など話題には事欠かないはずなのだが、会話はいつも俺の所で止まってしまう。そんな時は同席のLD教授に画面が移り満面の笑顔で言葉を投じてくれた。

LD教授は一歳年上で、同じ代数分野専攻ということもあり、専攻別の教科目編成会議や各種の委員会で議論する機会が多かったし、学科行政に関して苦労し合った盟友とも言うべき存在である。

現在の、表情に乏しく、首がふらつき、よだれが流れたままの俺の姿がLD教授の目にどう映ったか定かではないが、その曇りのない笑顔を見た時、気分が非常に楽になったし、
「笑顔は人を幸せにする力があるんだ」と改めて思った。

俺はその新任の方に
「数学科をよろしくお願いします」というメッセージを送った。所属しているだけで何の貢献もない俺がこんなことを言うのは不遜なのかもと思ったが、他に適当な言葉が見つからなかった。

常々、次々と任用される優秀な若手教員が研究に集中できる環境を整えるのが先輩教員の役割と思っていたが、その跳び箱の踏み台にもなれないのは寂しい限りである。

2020年8月25日(火)

ALSと言う病気は全身の筋肉が萎縮し、知覚は維持されるというのが定説である。そう思っていたのだが、とあるインターネットの記事によると、ALS患者の約二割が認知症を患っているという統計が示されていた。

一口に認知症と言っても、軽度から強度まで症状は様々だろうし、高齢になってALSを発病する割合も高いので、
「ああ、俺も5人のうちの一人になったらどうしよう」と不安になったりすることはない。とは言うものの、パーキンソン病やアルツハイマー病も深刻な認知症を引き起す神経内科の病気だし、治療法はおろか原因さえ不明の運動神経病であるALSに対して、
「知覚への影響はない」と断言できるようなものでもないだろう。

現に、感情が抑制できなくなる感情失禁や一つの物事に囚われて非常識な言動に終始してしまうことはALS患者の特徴として広く知られていることなのだし、俺自身にも思い当たるふしが大いにある。

昨日も、妻によるシャワーの介護の後で、鼻水がこびりついたまま新しいシャツを汚すのが嫌だったので、
「はなみずをふいて」と自分では言ったつもりなのに、眉間にしわを寄せた妻が
「はあ?あんぜんべると?」と伝言ゲームの諧謔を凝縮したような答えたために笑いの感情失禁が起こり、顔は陰鬱なのに横隔膜が笑っている時のように波打つ症状が現れ、それが収まっても執拗に
「は、な、み、ず」を繰り返した。五回目でやっと伝わったが、妻は不満そうに
「そんな厳しい表情で何か言っているから緊急の用事だと思ったじゃない」と言った。

弁解するが、あれは病気のせいなのだ。本当に。

2020年8月22日(土)

来週から小中学校が始まる。従って今日は夏休み最後の土曜日である。
「子供を外に連れて行かないと。家にいてもスマホしかしないよ」とは妻の弁。それはごもっともであるが、すでに補習が始まっている長男と次男のために早起きを強いられる妻が休む時間を削ることになるのではないかと言う懸念が頭をかすめる。昨日見た天気予報では
「土曜日の午後から天気が崩れる」と言っていたし、それを聞いた妻も
「しょうがない。子供達には宿題させよう」と言っていたではないか。それから一夜明けて午前の天気は薄曇り、ある意味、海水浴には適した気候である。そのことが妻の背中を後押ししたのか定かでないが、
「午後から伊王島に行くから道順とかインターネットで調べておいて」と言い残して買い物に出掛けた。

伊王島とは長崎市の郊外に位置する島で、本土とを結ぶ橋が架かってからリゾート開発が進み、長崎市内から車で30分と言うアクセスの良さもあり、格を急速に高めつつある観光地である。ちなみに俺は橋が架かってから行ったことがないし、架かる前にも行った記憶がない。

この際、「雨が降ったらどうしよう」と言う疑問は捨て去ることにした。どのみち、少々の雨では妻の燃え盛った炎を打ち消せるはずもない。出発時間は長男が部活から帰って来る午後1時半だ。ここで二人の来客を迎える。一人は英国の大学の数学科卒業という経歴を持つWさん、もう一人は視線入力でお世話になっているU先生である。U先生との約束は日曜だったが、「気を使わせてはならない」と言う配慮故のフェイントからか約束の時間より24時間早く来られた。Wさんのことを紹介しようとすると長くなる。Wさんに
「ブログに書いてもいいですか?」と許可を求めた時に
「ほどほどにお願いします」という返事が返って来たので、そのことを遵守しようと思う。この日、Wさんは動画撮影用のカメラを片手に妻とU先生との診療時の医師の接し方に関する議論を記録されていた。

U先生に視線入力ソフトが内蔵されたパソコンをお返ししてU先生を見送った後、子供4人を連れて伊王島に向けて出発すること相成った。ちなみにWさんはご自身の車で伊王島まで同行するとのこと。時刻は午後2時、天気は薄曇りのままである。

車内では長男が至上の名曲と信じてやまないレッドツェッペリンの『天国への階段』が鳴り響く。車は高速道路を駆け抜け、長崎市内へと通じる山間部に入った。その時、耳をつんざくような轟音と共に豪雨がフロントガラスを打ちつけた。
「思い出した。長男は我が家きっての雨男なのだ。伊王島まで往復するドライブだけの行事に終わりそうだな。しかし、この雨ではロクに景色も見えないぞ」と心の中で呟いていたのだが、平野部に入ると雨はピタリと止んだ、というか、雨が降った形跡がなかった。

我々が目指す場所は入場無料の海水浴場である。体を洗うための野外シャワーが無料で、涼を取るための海の家の造りも南国風で機能的である。砂浜は白く輝き、海水は澄んでいる。コロナ禍のせいか人影もそれほど多くない。妻はこの海水浴場を絶賛し、三男と遠浅の海で遊んでいた。

俺は海の家のテラスで車椅子に座って、Wさんと上三人の子供達との会話を聞いていた。時刻は午後5時、遠方では雷が鳴っている。
「これは予め車に乗り込んだ方が良いかも」と思い、避難したその瞬間、激しい夕立が襲って来た。

帰り道の車内で次男が、
「日本語が分からないので、授業を聞いてもさっぱり理解できない」と訴えた。俺は一言も発することが出来なかった。それは物理的に声が出ないからではない。父親としての統率力の欠如を自覚していたからだ。

こうやって、人間は物言わぬ石になってしまうのだろうか。それは意思伝達の技術的な問題ではなく、俺の心の問題なのだ。Wさんのカメラにはそのことが記録されているのだろうか。

2020年8月17日(月)

食べられなくなると、食に対する関心が失せるものだ。
「もう、美味しいもの見ても何も感じないのだろうな。これも一種の防衛本能なのだろう」と思っていたのだが、どうも最近、その様相が変わりつつある。

子供達が朝食に食べる食パンが失われし日々の記憶を呼び起こす。焼き立てのトーストにバターを塗り、手で半分に割いた時の鋭利な切断面は口内を刺激し、バターの香りと共に「さくっ、さくっ」と噛み砕かれ、味壺を満たし、飲み込まれていく。そんな想像が脳内を駆け巡り、よだれが物理的に溢れ出すのだ。

猛暑日に野外で食べるアイスクリームもまたしかり。キンキンに冷えたアイスクリームは実際に含有されている糖分程の甘さが抑えられ、口内に涼をもたらすと共に体内にカロリーを行き渡らせる。

炭火で焼く肉塊も言うに及ばず。肉の上面に肉汁がにじみ出す時が返しのタイミングである。味付けは塩のみ、分厚い肉を前歯で噛み切り、奥歯で潰す。その過程で生じる肉汁が口の中に広がる。

炭火の前でビールで涼をとる友人の姿が見える。
「ああ、なんて美味しそうに飲むんだろう」
コップ一杯の水をストローで飲み干すことさえ容易でない俺には拷問に等しい光景である。

この事が一年前に予知できていたら、多少無理をしてでも食い道楽を極めただろうに。やらないで後悔することが多い人生の後半戦である。

2020年8月14日(金)

今日は平戸に行って来た。詳細は漫遊記で綴っている。

出発の時間は午前7時、6時に起床するも出るものが出ず、大人用おむつを装着し車に乗り込んだ。目的地である生月島まで2時間を要する。健康であった時から胃腸が弱く、長時間のバス移動などのトイレの自由が制限された旅行では細心の注意を払って来た。今回は自家用車とはいえ、障害者用のトイレが設置してある場所は限られているし、便意をもよおして、車を停めて、妻が後部トランクから車椅子を出して、移乗し、トイレまで移動するのだが、使用中であることも無きにしも非ずだ。
「そういった状況で人間としての尊厳を保てるのか?」と言う葛藤と前日から蓄積された時限爆弾を抱えながら助手席に座り、過ぎ去る風景を眺めていた。

一回目の休憩時間では何の予兆もなかった。このまま何も起こらず、翌日に持ち越されることはたまにある。
「そうさ、きっとそうに違いない」と自分に言い聞かせ、車から降りずに休憩所を後にした。

目的地の近くのコンビニでで買い出しをすることになり、同行のM家とA家の面々がマイクロバスから降りてきた。その時である。腹圧が上昇するのを感じた。ガンダム風に言うならば、
「か、感じる、このプレッシャー」というやつである。妻にそのことを伝えると、機転を利かし、単独行動で海水浴場近くの道の駅に駐車し、これまでに何百回とこなした熟練の早業で移乗を済ませ、無人の多目的トイレに入ることができた。何かが一つ狂えば大惨事となりかねない苦境をギリギリのタイミングで回避することが出来た俺が天にも昇る気持ちだったことは言うまでもない。

この旅行の言い出しっぺであるM君は小学校以来の友人で、現在は特別支援学校で教員として働いている。喋れなくて車椅子に座っているだけの俺が三家族からなる子供達が海で遊ぶ姿を見て幸せな時間を過ごせたのは彼の細やかな配慮があったからこそだろう。この場を借りてお礼申し上げたい。と書いたが、本来であれば軽口を叩き合い、昔話や家族自慢に話の花が咲くような仲なのだ。彼は相変わらずだが、俺は変わってしまった。もう二度と戻ってこない日々のことを思い出し、この病気の残酷さを噛みしめていた。

2020年8月12日(火)

流れ星なんかそうそう見られるものではない。天体観測が趣味の人ならともかく、俺のような星空に関心がない者は夜空を見るより、パソコンを見るだろうし、星が輝く日はめったに訪れるものではない。運良く満天の星空であっても、流れ星が見えるなんてことはまずない。

そう思っていた若かりし頃、小学校以来の友人の案内で、五家原岳という山の展望台に行くことになった。事前情報を知らない俺は
「さすがに、山奥で見る星はきれいだなあ」くらいの感想だったが、しばらくすると、夜空を大円で横断する流れ星に遭遇した。
「おい、今の見た?あんなに滞空時間の長いのを見たのは初めてだよ」と言っていると、新たな流れ星がやって来た。それから30分弱、
「流れ星を見るのはもう飽きた」というくらい数多くの流星が飛来し、消えて行った。

これが流星群との初遭遇の顛末である。

ニュースでは、今日と明日が流星群発生のピークだそうだ。
「子供達にも追体験してほしい」との思いから、
「夕食を早めに済ませて、8時に出発な」と大号令をかけ、家族全員が車に乗り込み、出発と相成った。この時点で星は見えず、薄い雲が中空を漂っている。
「風が吹いて、目的地に到着する一時間後には一時的に星空が現れ、流星の一つや二つは拝めるという展開も無きにしも非ず」と願いを込め、大野原自衛隊演習場を目指して、車は農道を駆け抜ける。

気になる空模様は好転の兆しが全く見えない。それどころか、山道に入ると、雨粒が落ちてきて、目的地に着く頃にはワイパーをフル稼動してもぬぐえない程の土砂降りに変わった。

なんてこった、行きたくないという長男と次男を無理やり連れてきてこの有様だ。大村に帰ってくると、一粒の雨も落ちておらず、雲の間に星が見えるではないか。
「夜のドライブは楽しかったよ」と妻が言ってくれるのが救いであるが、俺の選択により家族の運命が変わることを象徴する出来事だった。

2020年8月10日(月)

昨年9月1日に開講した平坂塾英語教室であるが、現在、苦境を迎えている。その原因は言わずと知れたコロナ禍である。先月まで感染者ゼロだった大村市であるが、徐々に感染者数が増え、幼児を含む20例が確認されている。

「ウチは少人数で週一回だから大丈夫」
「学校の部活もやっているし、休業要請があるわけではない」
「致死率低いし、交通事故で死ぬ確率の方が高いのでは」
という開国論がある一方で、
「不安視する声が上がれば開講し続けるのは困難であろう」
「お盆休みの後は更に感染者数が増えそうだ」
「この暑さで窓を開ける等の感染予防策を徹底できそうにない」
という鎖国論も幅を利かせている。

奇しくも、今日の英語教室は大盛況だった。いつもの塾生だけでなく、塾生達の幼い兄弟達もやって来て、台所のテーブルで勉強会が始まった。

多くの人々が勉強しにやって来るなんて、平坂塾の理念そのものではないか。しかし、そんな日も今日が最後になるかもしれないのだ。

2020年8月9日(日)

長女は今日と言う日が来るのを心待ちにしていた。同級生の友達と一緒にプールに行く日だからだ。大村に来て一年半、友達が家に遊びに来ることは数回あったが、中学校に入学して新しい交友関係はまだ形成中のようだ。初めてと言っていいイベントを前に興奮と期待を隠そうとしない長女が健気だった。

約束の時間は午後1時、場所は大村市民プールの駐車場である。礼拝が終わり、教会を後にしたのが12時20分、車での移動なので、どう考えても遅れるはずがないのだが、余裕があり過ぎたため、あれこれ用事を片付けることになり、2分ほど遅刻してしまった。長女が笑いながら、
「ああ、どうしよう、どうしよう、パニック状態だ。みんなに『すみません』って謝らなきゃ」と韓国語でまくしたて、車外に飛び出していった。

しかし、友達の姿は見つからない。その時分かったことだが、友達は一人ではなく、何人か連れ立って行くとのこと。
「コロナ禍で中止になったかもしれない」
「あるいは長女を待たずに入場してしまったのかも」
「いずれにしても、長女に連絡が来なかったのは事実」
「どうして他の友達の連絡先を聞いておかなかったのか」
「前日に電話で確認させるべきだった」
「この事で友達に対する不信感が芽生えたりしないといいのだけれど」
「まさか、意図的にハブられているのではなかろうか」などと、悪い想像が膨らんでいき、体は動かないのに心は激しく動揺していた。頼みの綱であった友達の母親の携帯も受信されないし、外から見ても友達の姿は確認できなかった。

待っていても埒が明かないと思った妻は長女と三男と俺を連れ、プールに入場する。長女は三男のプール内での保護者となり、増波プールや流水プールで三男を遊ばせていた。すると、その友達から妻の携帯に
「延期の連絡をメールで送ったんですけど」と言う連絡が入った。

帰り際、激しい夕立に襲われ愛用の電動車椅子がずぶぬれになったが、先に車で待っていた俺は難を逃れた。雨に打たれて車に乗り込んできた長女が開口一番こう言った。
「お父さん、今日は本当にね、楽しかったよ」

何もしてやれない俺だけど、炎天下と夕立の中、プール場と駐車場を何度も往復した妻を前にして言うことではないけれど、
「子供の喜ぶ顔は最高の薬だな」と心の中でつぶやいた。

2020年8月8日(土)

最近は将棋の中継をインターネット上で視聴する時間が増えている。先日の王位戦第三局の木村王位と藤井棋聖との三十歳差対決や名人戦第五局の豊島名人と渡辺王将との頂上決戦など、好取組が目白押しなのだ。

これまでの拙文では、
「囲碁や将棋の対局で人工知能による優劣判断がおおっぴらになされるのはプロ棋士の神秘性を損なう」のような感じで、人工知能の導入に対して懐疑的だった。しかし、それはあまりにも守旧的な考えだったようだ。画面上に最善手の候補が表示され、優劣が一般視聴者の目にガラス張りになることで、応援にも熱がこもるし、地雷だらけの終盤戦で、最善手を外さないプロ棋士への畏敬の念さえ生じてくるのだ。何より、解説陣も唸ってしまうような「人間の目には見えにくい妙手」を人工知能が発見してくれるので、次の一手の表示に釘付けになってしまうのである。

でも、これは現実逃避なんだな。
「そんな暇があるなら、将来、富を産むような活動に時間を費やそうよ」なんて声が何処からか聞こえてきそうである。

2020年8月6日(木)

今日は広島に原爆が投下された日である。中学校の社会の授業の時に、
「国家総動員法により、民間人と軍人の区別が無くなり、合法的に爆撃されるようになった」と教わったことが記憶に残っている。その真偽はまだ調査しておらず、また確かめる術もないのだが、だからと言って、何万人もの命を一瞬で奪う行為を正当化できるのだろうか。

小中学校時代に受けた平和教育の時間では、原爆の恐ろしさや被害の大きさを
「ああ、許すまじ原爆を、みたび、許すまじ原爆を、我らの空に」という歌詞とともに学んできた。この平和教育は暗に前段落の末尾以降の追及は出来ないと語っているのである。

戦後から数えて75回目の夏、小学校で平和教育を受けた三男は飛行機やヘリコプターの音で空がざわつくたびに
「核爆弾が落ちたらどうしよう」と言って、泣きそうな顔で彼の母の下へ寄って来る。

平和だなあと思う今日この頃である。

2020年8月4日(火)

第二波がやって来た。と言ってもコロナウイルスのことではない。首が安定せず、文字を入力するのに時間がかかるだけでなく、精神的なストレスも生じている。午前中は平気だったのに午後になると突然首がふらつきだした。頸椎カラーを巻いても、いつもとは異なる違和感が抜けない。

訪問リハビリの時も、先週は上手くいった視線入力も今日は全然駄目だった。これだけの文字を打つのでも相当な時間を費やしている。これが一時的なものであることを祈るばかりである。

2020年8月1日(土)

九州地方では梅雨が明けたらしい。例年であれば、大村駅周辺では夏越し祭りが開催され、大勢の人々で賑わったはずなのだが、コロナ禍により中止になり、先日、大村初の感染者が出たばかりなのに、昨日は新たに8人の感染者が出たというニュースが入って来た。

東京では一日の感染者数の最高記録を塗り替えたそうだ。今までの休校や自粛や自宅待機は一体何のだったのだろうというくらい、感染者数が急増しているのに、営業自粛の声は聞こえてこない。若者の致死率は極めて低いことが知れ渡り、タガが外れたように夜の街へ繰り出す光景が目に浮かぶ。しかし、これ以上の経済規模の縮小は国家にとって致命的と判断されているのだろう。

小中学校は昨日が終業式、高校は来週である。昨年の今頃は家族全員で釜山の空き家となっていた自宅に滞在し、親戚や同僚や友人や学生と会い、楽しい時間を過ごしていたのだった。しかし、これもコロナ禍により、成田ー仁川経由で往復一人20万円、しかも入国後二週間の隔離生活と言うおまけまで付いているので、往来できる状況ではなくなった。

もう喋れないし、よだれを流し、表情も暗くなった俺でもお世話になった韓国の皆さんに会いたい思うのだから、妻と4人の子供達が故郷をどれだけ恋しく思っているかは推して知るべしであろう。

昨日から体の不調を訴えていた妻が今日になって、寝込んでしまい、ねじが切れたかのように夕方まで眠り続けた。無理もない。平均睡眠時間は5時間で、昼寝もせず、家事、育児、介護、来客への応対、の全てを異国でこなしているのが妻なのだ。俺は罪人になったような気持ちでパソコンの前に座っていた。

夕方になり、妻に回復の兆しが見えたのは幸いだった。罪人の俺が言うのも何だが、シャワーの介護や外出時の介護とかしなくていいから空いた時間には昼寝をしてほしい。定期健診も受けてほしい。何でも自分で抱え込まないでくれ。

2020年7月28日(火)

先々週の土曜日、視線入力ソフトがインストールされているパソコンが我が家にやってきた。このパソコンはNさんが担当されていた、今は亡きALS患者所有のパソコンである。Nさんによると、その方は驚くべき速度で言葉を紡ぎあげていたとのこと、御遺族の御厚意とNさんの働きかけにより、お借りしている次第である。

これまでに何度か視線入力の練習を試みたが、初回ほどの感度が得られなかったことは以前に書いた通りだ。不完全燃焼のまま、返却日を迎えることになり、パソコンを回収しに来られたU先生の前でソフトの不具合を説明しようとするのだが、それまでの不具合が嘘のように正常に作動した上でに初回と同様の精度が得られた。それを見たU先生が電話をかけ、貸出期間の延長が決まった。

今日も言語療法士のN林さんの前で、視線入力を披露し、概ね良好だった。ポインターが定まらない、エアマウス程の精度は期待できない、ここの文章を打つような作業はサポートされてない、等の問題はあるものの、俺の視線入力に対するネガティブな印象を払拭できたのは大きな収穫であろう。

2020年7月26日(日)

「一応」という枕詞が付くものの俺も教会に通っている。今日は日曜日、午前中は礼拝に参加しに教会に赴く。笑顔であいさつし、いつもと同じ席に座り、讃美歌の歌詞を目で追い、稲葉先生の説教を聴き、献金をして、教会を後にする、いつもと変わらぬ光景だった。

五カ月ぶりに大村教会を訪れたのには理由がある。一年半に渡って車で一時間の距離にある西海市から大村教会に通い続け、クリスチャンになるために勉強を続けてきたKさんの受洗式に参加するためである。その期間は俺ら家族が大村に移住してから現在までの期間に一致する。

いつもと異なり、受洗式の前にKさんが「あかし」と呼ばれる壇上に立っての独白を行う。いつも笑顔で朗らかなKさんの心に起こった悲しみや葛藤を涙ながらに告白する姿を見て、もらい泣きしてしまった。最後列に座っていたのが幸いで、久しぶりに会う大村教会の皆さんの後ろ姿を見ながら感慨に耽った。

礼拝が終わった後、Kさんと稲葉先生が俺の両脇に座って、手を握られた。Kさんにマスク越しに「おめでとうございます」と言いたかったが伝わらない。察した稲葉先生が伝えてくれたが、言葉が聞き取れたわけではなかったようだ。同じ言葉を正教師就任を祝福するために稲葉先生に発しても聞き取ってもらえなかったからだ。

いつもと変わらない暖かい雰囲気の大村教会であっても、時は流れるのだ。

2020年7月23日(木)

「ALS患者を薬物投与で殺害」という見出しのニュースを見た。これはALS患者がSNSを通じて医師二人に自殺ほう助を頼み、薬物を投与した医師二人が逮捕された事件である。

もやもやした気持ちのまま激しい雨が降り続く午後を過ごしていると、ツイッターの画面の封筒マークに「1」の文字が付いていた。それは公開されない私信が一通届いたことを意味する。何だろうと思ってクリックしてみると、とある新聞社からの取材依頼だった。

俺は去年の一月に長年放置していたツイッターを再開した。他のALS患者と情報交換したいと思ったからだ。まだ歩くことが出来ていた俺には、先輩ALS患者の体験談は衝撃的だったし、いつか自分にもやって来る現実として捉えることが出来なかった。ツイートし合うのも進行の度合いが近い人だけで、tangoleoさんのような24時間介護が必要な方には畏れ多くて、コメントしたい時でも出来ないでいた。

上記の取材依頼で分かったことは、記事の見出しのALS患者がtangoleoさんということだった。日頃から、尊厳死の必要性を主張し、マンションに一人暮らしで、24時間他人の介護を受け、首は曲がったままで慢性的に痛み、呼吸するのも苦しい生活から解放されたいと、全身の力を振り絞って行う視線入力でツイートしていたのである。

とりあえず自分でできることを始めようと思う ラコール以外の摂取(プロテインなど)を止める カフアシスト(肺の拡張リハ)、週2PTのリハも呼吸に関わる範囲は止めてもらうことにした これでどれくらい肺が弱まるか? 息苦しくなるだろうな、、」

これは去年の9月18日付けの彼女のツイートで、心配で居ても立っても居られなくなり、
自分の未来と重ねながら、tangoleoさんのつぶやきを読んでいます」と返信した。

彼女は人工呼吸器を装着しないことを決断した。それはALS患者が尊厳死を選択したということである。だのに、彼女には死が訪れず、時間の経過と共に苦しみだけが増大していった。彼女はそんな人生に幕を引いただけなのだ。

以下は彼女からもらった返信である。
「人により随分進み方が違うので 参考程度に、、 なぜか他の患者さんには治る希望を持って欲しいと思う。勝手なものですね」

tangoleoさん、今は安らかにお眠り下さい。

2020年7月21日(火)

貸し出し中の視線入力ソフトの練習をやってみた。しかし、初回のような感度を得られなかった。おそらく、パソコンの角度や高さの調節がうまくいかなかったせいであろう。先週の土曜日にNさんも仰っていたことだが、初回ではNさんのセッティングがあまりにも自然でさりげなかったので、他人には再現困難であるとは夢にも思わなかった。

こればっかりは練習してどうにかなる問題ではないと思う。そういう微調整の技術が明文化されて、少なくとも家族は再現できるようにならないと、実際の使用は難しそうだ。

2020年7月20日(月)

午後2時半に訪問看護のUさんがいらした。連続して座っている減らすために寝台で横になって、手足の関節の曲げ伸ばしや背中や首の筋肉をほぐす施術を受けている。それから一時間が経った頃、訪問ヘルパーのKさんが集金にいらした。妻とKさんが来月の時間割りについて議論していると、訪問リハビリのSさんがいらした。今日は訪問リハビリの予定はないが、道すがら、視線入力ソフトの仕様が上手くいってるのかどうかを確認しに来たとのこと。


かくして、六畳ほどの寝室に、訪問看護、訪問リハビリ、訪問ヘルパー、そして妻が一同に会することとなった。言わば、介護者のフルハウス、麻雀で言えば四暗刻である。被介護者である俺は惑星直列のような珍しい光景に呆然とするばかりであった。

いつか謝恩会を催したいなあ。勤務時間外でも集まってくれるか、妻の労力なしに謝恩会の準備が出来るか、等の問題が山積みなのだが。

2020年7月18日(土)

毎月一回往診に来られるU先生の勤務地は佐賀県嬉野市内の病院である。今日はその病院で言語療法士として勤務されるNさんを連れ立っての訪問を迎える日である。U先生曰く、
「仕事としてではなく、遊びに行くだけなので、あんまり期待しないでくださいね」とのこと。なんでも、Nさんは視線入力ソフト指導の専門家で、そのソフト持参で、直接指導していただけるとのこと。将来、病気が進行して瞳孔しか動かなくなった場合、今までのようなエアマウスを使った入力方法は用をなさないだろう。それを見越して早めに視線入力を習得しておくべきであろう。そんな使命感を抱いて、勤務時間外の週末に時間を割いてお越しいただいたお二方の御厚意は頭が下がるばかりである。この場で改めて感謝申し上げる次第である。

思えば、ちょうど一年前も視線入力ソフトの試用会が催されたが、視線認識の段階でつまずき、「視線入力は俺には使えそうにない」という結論で終わっていたのだ。一年前との違いは数多い。その中の一つが首の筋肉の衰えで、頸椎カラーと言う形で可視化されている。そのせいで、首は固定される。
「もしかして視線入力には有利に作用するかも」という淡い期待を抱きつつ、視線入力ソフトの技術指導が始まった。

一年ぶりの視線入力ソフト体験だったが、以前よりもはるかに正確にポインターを上下左右に動かすことが出来たのは自分でも驚きだった。これならば、ある日突然エアマウスが使えなくなる日が来ても、その次の日から視線入力に移行できそうである。

その時のための予行演習が明日から始まる。貸し出し期間は一週間である。

2020年7月16日(木)

前回に引き続き、将棋の話題である。

王位戦第二局の死闘を制した日の明後日の今日、藤井七段は棋聖戦第四局を戦う。勝てば、最年少タイトル記録を塗り替えることになる。対するは、渡辺明三冠であり、羽生善治永世七冠が無冠となって以来、現役最強として恐れられている棋士である。

渡辺三冠の先手番で、戦形は渡辺三冠の得意戦法である急戦矢倉である。初タイトルがかかり、第二次藤井フィーバーというほどの過熱報道に晒されている状況で、17歳の若者が平常心で対局に挑めるのか、という要素を加味すれば、円熟期に入った渡辺三冠が星を五分に戻すと予想を立てていた。

しかし、勝ったのは藤井七段、新棋聖の誕生である。この一局も藤井七段の驚異の終盤力の影に怯えたかのように渡辺三冠の攻め手が鈍りだし、攻守が逆転し、そのまま藤井七段が押し切った。

あの渡辺三冠であっても17歳の若者の壁になれなかったのだ。藤井七段がこれから訪れる人間の成長に伴う停滞や葛藤を乗り越えれば、タイトル独占も現実のものとなるだろうし、最強AIにだって勝てるかもしれない。

願わくば、実力の拮抗したライバルが現れてほしいなあ。

2020年7月14日(火)

「とんでもないものを見てしまった」

藤井聡太七段が木村一基王位に挑む王位戦第二局を見終えての感想である。

王位戦は各八時間の持ち時間で二日に渡って一局を戦い、先に4勝した方がタイトル獲得となる将棋の棋戦のことである。
「名人戦、竜王戦ならともかく王位戦のくせに生意気だぞ」と言いたくなるほどの長時間対局で、一手指すのに一時間以上かかることもあるのだ。よほどの暇人か将棋好きでなければ観戦しようとは思わないはずだ。かく言う俺も未だかつてプロの将棋の対局をフルかつリアルタイムで観戦したことは一度もなかった。そもそも、一昔前は将棋の対局の生中継とかなかったし、長らく日本にいなかったので、日本国内限定のインターネット中継も視聴できなかった。それより何より、仕事や家庭が充実していたので、そんな娯楽に興味と関心が向かなかった。

幸か不幸か(不幸だと思うけど)、働けない身分になってしまったが故に将棋観戦という道楽が実現したというわけである。しかし、対局の間中、生中継の画面を凝視するわけでなく、パソコンの前で他の仕事をしながら、一手指すごとに解説に耳を傾けるという具合である。

対局後に棋譜を見直すだけなら10分くらいの無料動画で事足りるのだが、棋士の考える姿や表情や一手に賭ける情念を鑑賞できるというのは生中継ならではの醍醐味であろう。特に、持ち時間が切れて一分将棋になった時の切迫した終盤の攻防は非常に見応えがあったし、「ひまじん」と揶揄していた観戦者が「世紀の一戦を見守る立会人」に格上げされるほど、張り詰めた刹那的な雰囲気を醸し出していた。

序盤の優位を拡大し大差をつけて終盤を迎えた木村王位、いつ投了してもおかしくない戦況で、逆転を秘めた辛抱の手の連発でかろうじて徳俵に留まっていた藤井七段、これだけ長い時間にわたって最高水準の集中力を維持するのは容易ではないはずなのに、死力を振り絞って考え続ける両雄の姿はどこまでも神々しく、序盤の劣勢に抗えない藤井七段と一分将棋で無難な手を選ばざるを得なかった木村王位はどこまでも人間味に溢れていた。

第一局に続き第二局を大逆転で制した藤井七段、当分の間、彼を中心にして将棋界は回っていくのだろう。木村王位の将棋は初めて見たが、47歳と年齢が近いこともあり、その経歴や棋風や風貌と相まって、応援したいと思うようになった。木村王位の第三局での巻き返しに期待したい。

2020年7月13日(月)

朝、起きたばかりだというのに瞼が重い。昨晩、よく眠れなかったせいであろうか。眠れない原因の一つは今までに散々書いた顔と頭の痒みである。以前との違いは左手の薬指の働きである。爪を顔に当てることの出来る範囲が狭まって来ており、額やあごの横側の部分に左手を動かすと、その重さに耐えられない腕の筋肉が痙攣を起こすのだ。布団がない状態での寝返りも右手が付いてこずに背中に張り付いてしまい、助けを求めることがよくある。

首や肩の疲れで寝台の上で過ごしがちになることは前にも書いた。重力に逆らって直立歩行を始めたのが人間であれば、日毎に重力に抗えなくなっている俺は一体何なのであろう。

2020年7月12日(日)

先日、三男としりとりをして遊んでいることを書いた。昨年の2月まで韓国で育った三男は日本語が全く話せなかった。子供には日本語しか使わなかった俺とは会話が成立せず、病気の進行に伴い体を使ってじゃれ合うこともなく、そのうち声も出づらくなって、
「ああ、子供と一緒に遊べないのは情けなくもあり、淋しくもあり」と我が身を嘆いていたのだ。

昨年、日本に来たばかりの頃は意図的に日本語を避けていたふしもあった三男であったが、日本の幼稚園に通い始め一年が経つと、自然に日本語が出るようになった、そして、小学校に通い始め、ひらがなを学び、ようやく、しりとりが出来る下準備が整ったというわけだ。ちなみに、
「えのぐ、グレープフルーツ、つめきり、りんご、ごりら、らんどせる、るーれっと、とまと、とまる、るすばんでんわ、わに、にんじゃ、じゃがいも、もち」が今日のしりとりの一部である。

子供が知っていて、且つ、次に答えやすい文字が語尾に来る単語を探すのは意外と難しい。動詞の使用を認めると、「とまる」のように「る」が頻発し、「る」で始まる単語は「ルール、ルーレット、ルビー」くらいなので途端に行き詰ってしまうのである。
昔、テレビで見たのだが、日本語限定のしりとりで本気で勝とうとすると、語頭に少なく語尾にやたらと多い「り」が争点になるのだそうだ。
「あり、いかり、うり、えり、おり」のように何が来ても「り」で終わる単語で攻め続ければ相手は答えに窮するという塩梅だ。

いつか、三男に使う日があるいは三男が使う日が来るかもしれない。

2020年7月9日(木)

インターネットに繋がっているパソコンは俺にとって命綱のようなものである。非常時にはLINEで助けを呼ぶことも出来るし、機械音声を用いて、
「眉毛の間の部分が痒い」
「寒いからエアコンの温度を上げてくれ」
「右肩が痛いので両肘を広げて」等の細かい指示を子供達に出すことが出来る。
更には、長男と次男が数学の問題を写真に撮って送ってくれれば横に座らせて添削指導したり、長女に地理の教科書を読ませ漢字の読み間違いを書き留めたり、三男としりとりをして遊ぶことも可能である。なので、起きている時の大半はパソコンの前に座っている。しかし、ここ最近は首と肩の痛みと疲れで、
「しばらく横になっていたい」と自ら申し出て寝台で休むことが増えてきた。

今日は朝起きてシャワーで体を洗ってもらったが、下を向き続けている姿勢による疲労を感じ横になり、夕方には右肩に痛みを感じ横になり、といった具合で移乗を繰り返していた。以前と異なるのは声量が極端に落ちたことである。そのために目一杯大きい声で「おーい」と叫んでも誰も来ないのだ。寝室の隣の台所では食器を洗う音や話し声が聞こえるので誰かいるのは間違いないのだが、そのような生活音は俺の魂の叫びを無力化するのである。

呼び出すことを諦めて誰かが来るのを待っている間、今朝見たニュースが頭に蘇って来た。知人男性に会うという理由で母親が三歳の女児を自宅に一週間閉じ込め放置し餓死させるという殺人事件である。俺が放置されたのはわずか五分程であるが、それなりの絶望感や無力感に襲われるものである。その女児の絶望を抱え衰弱していく様子を想像し、心が痛んだ。

2020年7月7日(火)

学生時代、球磨川に遊びに行ったことがある。川下りの後、身の丈を越える水深の川で泳ぎ、キャンプを楽しんだ記憶がある。その球磨川が氾濫し、多数の犠牲者と浸水による甚大な被害が出たというニュースが流れた。

昨日は、早朝から滝のような豪雨が続き、
「こんな雨の中、歩いて学校に行く子供たちは大変だな」と思いながら布団の中で待機していると、妻と母が四人の子供を車で送った。この日ばかりは、子供の安全を第一に考えるべきであろう。

午後になっても雨は止まない。どころか、昼間だというのに薄暗く、雨は激しさを増している。家の防災ラジオで警報が流れたので、今日の英語教室の休講を決定した。しかし、その最悪な天候状況で14時からの訪問看護が始まった。この危険な状況でキャンセルの連絡を入れず来させてしまったことへの後悔が募る。

妻は子供を迎えに行くと言う。子供も心配だが妻も心配である。外出中の母も気になるところだ。16時になり、家族全員が帰宅し、一安心するものの、テレビを点けて、また不安になる。何と、全国区のニュースで、
「数十年来の豪雨で、大村市の河川が氾濫」と映像付きで流れているではないか。更に大村市の全世帯に避難勧告が出されている。
「平地で、最寄りの川からも3㎞以上離れているから、まあ、家にいても大丈夫だろう」と楽観していたが、そういった楽観が通用しない事例がここ数年で見られるのも事実である。

夜中にも豪雨が続き、郡川が氾濫し、床上浸水で目覚め、車も使えず、移動も出来ず、水が引くのを待つ、なんてことが現実にならず、ほっとしている。一方で、川が氾濫した鈴田や郡川下流の福重は浸水の被害が出たそうだ。

子供の頃によく遊んだ郡川が激流となって民家を襲うのは想像したくない。近隣のみならず、全国各地で起きる水害に心を痛める日々である。

2020年7月3日(金)

昨晩はよく眠れなかった。しかし、生理現象により目が覚めた。妻の介護を受けた後、二度寝して、ヘルパーさんが来る午前9時に起こされた。寝起きの無防備の状態で家族以外の誰かと会うのは憚られるものだが、そのような羞恥心はどこかへ行ってしまったようだ。目ヤニが付いた寝ぼけまなこのまま、ヘルパーのNさんの介護で寝台から車椅子へ移乗、髭を剃ってもらい、同じくヘルパーのYさんから顔を拭いてもらった。

朝食はお粥で、妻がお手本を示した後、前回のように交替でヘルパーさんたちに食べさせてもらった。その間、俺は眉間にしわを寄せて、食べ物と格闘をしていたが、ヘルパーさんたちはとても明るく笑顔を絶やさない。それにつられたのか妻も饒舌になるり、話に花が咲いていた。

ヘルパーさんに限らず、訪問リハビリや訪問看護で来られる方々は仕事で疲れた様子は微塵も見せずに笑顔で接してくれる。もしかしたら、私生活で悩みがあるかもしれないし、職場や訪問先での人間関係に疲弊しているかもしれないのに、俺のような被介護者に陰鬱な表情を見せることがあってはならないという矜持がそうさせるのだ。

逆に俺のような夢も希望もないような表情で仕事をされたら被介護者はたまったものではないだろうと思う。しかし、ヘルパーとて同じ人間、心の中のどす黒い部分を剥き出しにして後ろ盾を持たない被介護者を虐待する人だっているかもしれない。

そう考えると、「おれはいつも人に恵まれているなあ」と思うと同時に、病気の進行と共に笑顔を失いつつある自らの境遇を恨めしく思うのである。

2020年7月1日(水)

平坂塾数学教室は毎週水曜日19時半から21時半に開講している。といっても、オンライン指導なので、塾生達は自宅で自主学習に取り組み、質問をインターネット経由で送り、俺が返信している。そのため上記の時間帯はパソコンの前で待機することになり、食事も家族とは別の部屋で摂ることが多い。

今日もそれに違わず、文字を入力しながらお粥を口に運んでもらっていた。
「うん?この清涼感のある懐かしい味わいは何だろう?」
妻はお粥の上に焼き魚の身をお粥に載せて食べさせてくれる。だが、さっきの味わいは焼き魚とは思えない。だとしたら一体何だろうと首をひねった視線の先に二尾の魚が盛られた皿があった。
「南蛮漬けかあ」忘れていた味がその名称と共に蘇った瞬間である。

南蛮漬けとはアジやタイなどの魚を丸ごと油で揚げて酢漬けにした料理である。俺の実家の正月のお節料理には必ず出てきて、幼少の頃は箸を付けなかったが、ある年を境にその美味しさに目覚めて以来、好物の一つとなっている。

マリネ等の料理と共通して言えることだが、海産物の旨味が染み出して酢がまろやかになり、極上のソースと化し、本体と絡まるのだ。しかし、17年間滞在した釜山では南蛮漬けもしくは類似した料理に出会うことはなく、日本の居酒屋で南蛮漬けと言うメニューがあるわけでもなく、妻が南蛮漬けを知っているはずもなく、実家のお節料理も合理化が進み、南蛮漬けは出なくなり、本当に長い間味わう機会がなかったのだ。

今日の南蛮漬けはスーパーマーケットで買って来たものということ。このHPが「願いを書けば必ず実現する」ドリームページになる第一歩目となる実験をして見よう。

今週末あたりにタイの南蛮漬けを味わえますように。

2020年6月30日(火)

改めて思うが、障害者や重病患者の生活の質の向上において医療機器が果たす役割はとてつもなく大きい。俺の場合でも無くなったり故障したりすると途端に困る医療機器ばかりである。それらに対する感謝の気持ちを込めて一覧表を作成してみた。

1.電動寝台:備え付けのスイッチで高さと上半分下半分の角度が調整できる。寝台から車椅子へ移乗する時は上半分を起こし、車椅子に座って足を伸ばしたい時は寝台の高さを低くしている。

2.医療用寝台マット:通常の敷布団であれば足の踏ん張りが効かずに寝返りが打てず不眠を引き起していたが、医療用に変えてから劇的に快適性が向上した。仮に健康が回復したとしても使い続けたい一品である。

3.リクライニング式の手動車椅子:首の筋肉が衰え、直立座位の姿勢を保つのが困難になって来た。リクライニング式だと体を後ろに傾けることが出来るので、下を向きがちな視線を水平方向に変えることができる。

4.電動車椅子:自宅の縁側と地面との段差を可動式のスロープで解消しているが、その昇降時には電動の力が必要になる。レバーを押す力に応じて速度が最適化されるので非常に操縦しやすいとのことだ。

5.可動式スロープ:幅1m長さ4mの大きさだが軽量で動かしやすい。通常は南側の縁側に折りたたんだ状態で置かれているが、作業部屋への階段の上に設置して俺が作業部屋に行く事を可能にしている。

6.体洗い用椅子:脱衣所で車椅子から移乗して座ったままシャワーの介護を受けている。回転式で手置きも出し入れ自由なので非常に便利である。これまで無事故の実績もある。

7.入浴補助器具:風呂桶の端に設置して、俺が座り足を回転させることで、安全な入浴を促す。この器具を導入してから妻だけの介護での入浴が可能になった。それ以前は長男か次男の補助が必要だったので、夜しか入浴できなかった。

8.頸椎カラー:伴天連を思わせる襟巻は首の筋肉を休めるのに一役買っている。車で移動する時は欠かせないアイテムである。難点は暑苦しいことで夏場での使用は汗疹を覚悟する必要がある。

9.エアマウス:耳の上に取り付けたセンサーを首振りで動かし、パソコン画面上のポインターを操ることができる。この技術がなかったらこのHPの更新も昨年で途絶えていたであろう。ほぼ一年使い続けて故障なしと言うのも頼もしい限りである。

10.プラケーススイッチ:右手のわずかに残った握力を利用してクリックの実行を可能にする。iPadであれば画面上を縦横に動く直線を用いてスイッチのみでも文字入力のみならず全ての操作が可能とのこと。指が駄目なら歯によるスイッチもあるらしい。

11.福祉車両:助手席が回転しながら車外へ降りてきて車椅子からの移乗を容易にする。今年3月まではあまり使用していなかったが、最近は車に乗る度に使用している。ちなみに車から降りる時は使用していない。

12.移動式便器:今朝納入された12番目の選手である。寝室のトイレの入り口は車椅子が入るギリギリの大きさで、便座に座るために多大な時間と妻の特殊技能を要した。ヘルパーの導入に伴い購入するに至った。

2020年6月28日(日)

漫画家手塚治虫の代表作品の一つである『ブラックジャック』は無免許の天才外科医が主人公の漫画で、一話完結形式でありながら、その一話一話の内容が示唆に富んでいて、勧善懲悪とは限らない世の中や人間の真実矛盾を読者に問うてくる。それゆえ、子供の時に読んだときは釈然としなかった話の内容が大人になってから突然思い出されることがある。

今から紹介するのもそんな話の一つである。

ある女性がブラックジャック(以下BJと略す)のもとを訪れ、「女優になりたいから自分の顔を整形してくれ」と懇願する。BJは平安時代の美人の基準を示しその女性の翻意を促すが、結局は手術することになり、その女性はお目めぱっちりの現代的な美人に生まれ変わり、女優としても大成功を収める。その後で、彼女はBJの家を訪れるが、部屋の壁には整形以前の彼女の写真が飾ってあり、彼女の心は打ちのめされ、女優を引退するという話である。

子供の時は
「やっぱり、整形手術はよくない」くらいの感想だったが、中年になった今は
「もしかしてBJはかなりの『ええかっこしい』なのではないか?」と思うようになった。というのは、どのように整形するかはBJの美意識に委ねられているわけで、BJの理想の美人像が投影されているに違いないのだ。会ったばかりの女性の写真を保管しているようなセンチな人物設定ではなかったのに辻褄が合わないという疑問も残るし、あえてそれをするということは
「自分は人工的な薔薇より野菊の方が好きなんだ」と言うことを強調して、本当の嗜好を隠そうとする行為に見えてしまう。

元を正せば作者である手塚治虫に起因するのだが、彼の描く女性の多くは聖母のようであり時になまめかしく、やはり、作者の美意識と嗜好が反映してしまうもので、彼に限らず全ての表現者は出来れば公にしたくない秘めたる内面を露出するか隠匿するかの葛藤に向き合っているのである。

文章であるとは言え、俺も注意しなきゃな。なんて書くこと自体が暗に手塚治虫と自分を並び立てる恐れ多い行為なのだ。文章は書くのは本当に難しいと感じる今日この頃である。

2020年6月26日(金)

午前9時、先週いらしたKさんとYさんに加えてNさんのヘルパー三人衆が我が家にやって来た。これはALS患者の事情を熟知するヘルパーを増やすことによって、妻が仕事を始めた場合に平日の朝に出勤可能なヘルパーを確保するためだそうだ。

朝起きた後にトイレを済ませたので、今日も第一線を越えることはなかった。いずれはそういう事態もやって来るだろうが、避けたいのが本心である。しかし、仕事に出たいという妻の後ろ髪を引っ張ることも本意ではない。

先週と同じく移乗の練習をしてもらい、文字盤の練習もやり、食事の介助を妻が実演した所で1時間が終わった。そして、同じメンバーが12時半にやって来る。介護保険にはヘルパーの勤務は一件あたり1時間以内で同じ人を訪問する場合は2時間以上空けなければならないという決まりがあるのだ。その理由は定かではない。

妻は午後に書類提出のために外出することになった。妻が作った韓国風に味付けしたソーメンを食べさせてもらうことになった。丼に入ったソーメンを箸でつまみ、匙の上に載せて口に運んでくれるのだが、三人が交替でやり、他の二人が
「今のは上手く丸まった」
「だんだん、上手くなってるよ」
「Perfect」とか批評し合うので笑いを堪えるのに必死だった。ひとたび笑いが始まれば食事が出来なくなるどころか口に含んだものを噴き出す大惨事に繋がりかねない。俺は視線を合わせないようにして数式を頭の中に浮かべ、ある意味で放射性物質である笑いを封じ込めることに成功した。

やはり、数学の力は偉大である。

2020年6月25日(木)

福岡在住の友人であるNさんから手紙とDVDが届いた。Nさんはテレビ番組の制作の仕事に携わっておられ、そのDVDはNさんが責任者として制作されたものとのこと。昨晩はそのDVDを鑑賞したので、あらすじと感想を綴っておく。

結婚し二人の子供を授かった熊谷寿美さんは27歳の時にALSを発症、声のみで主婦として家庭を切り盛りし、育児を終えるも、人工呼吸器の装着により、その声も出せなくなる。家族は寿美さんの呼吸音の微妙な変化から寿美さんの言葉を読み取り、寿美さんの日常生活を支える。夫は職場から歩いて5分の距離にあるマンションに引っ越す決断をし、長女は近隣の病院で看護士として勤務、寿美さんが舌の動きに反応する赤外線探知機を用いて動かす通信機器で緊急時の呼び出しを可能にしている。番組では長女の結婚式の場面があり、結婚を躊躇していた長女を長男が「俺が家にいるから大丈夫」と説得したり、自宅でALS患者を介護する日常の葛藤が描かれる。

感動と絶望と希望が入り混じってしまい最初から最後まで号泣していた。そのせいで、妻は俺の目と鼻を拭うので大変だった。

2020年6月23日(火)

「胃ろう」とは胃と皮膚を結ぶチューブのことで、飲み込む力が衰え口から栄養を摂取出来なくなった時の栄養補給の手段となる。手術は簡単で30分程度で済むそうだ。去年の今頃、月二回往診に来てもらっているかかりつけ医のN先生から胃ろう造設を勧められたのだが、のらりくらりかわし続け今に至っている。

全くの結果論なのだが、「医者の言うとおりにしないで本当に良かった」と思っている。しかし、このことでN先生への信頼と尊敬が揺らぐことはない。ALS発症後三年以内に気管切開して人工呼吸器のお世話になる場合はざらにあり、そんな最悪の事態に備えて先手を打つことは医者として当然の行為なのだ。その一方で、ALSの進行の部位や期間には個人差があり、杓子定規には事が運ばないのである。

実は胃ろうを巡ってひと悶着が去年の夏にあったのだ。地元の総合病院に勤務する、形式的な主治医ではあるけれど手術して入院した時にお世話になるであろうI先生の診療を受けた時、言葉が出ない俺に代わって説明した妻とI先生の意見が衝突し、
「あなたがご主人の生命を危険に晒しているんですよ」
「今、『あなた』って言いませんでした?」
(韓国語で「あなた」は喧嘩になった時に相手を挑発する時に使われる)
「『あなた』が気に入らなければどうしましょうか?『あなた様』ならいいですか?」
という言い争いに発展したのだ。しかし、俺も妻もI先生に対する悪感情は皆無で、冒頭のI先生の言葉も患者の生命を守るという使命感の発露として肯定的に受け止めていたのだ。

今日の午後、N先生からの勧めで、ほぼ10ヶ月ぶりにI先生の外来診療を受けに行った。肺活量や血中二酸化炭素濃度等の検査の指示はなく、
「次回の診察はU先生が見ることになります」と言われ、打ち切られた。この決定がI先生の事情によるものか
「医者の言うことを聞かない患者は診たくない」と言う意思表示なのか定かではないが、I先生に対する信頼と尊敬は不変であり、今後も主治医としてお世話になりたかったということを強調したい。でなければ、N先生に紹介状を頼む時に他の先生を指名したはずである。

2020年6月22日(月)

俺が子供の頃、白血病は不治の病だった。ドラマ『西遊記』で三蔵法師を演じた夏目雅子も白血病で若くしてこの世を去ったはずだ。時が経ち、様々な治療法が確立された現代になっても、幼少期における刷り込みの効果は今も健在で、その病名を聞くだけでおろおろしてしまう。

昨年末、数学科の後輩で同じ分野を専攻していたF君から連絡があった。F君とは2012年の大相撲九州場所の会場である福岡国際センターで偶然出会った翌日にメールを送ったきり、消息を聞く機会はなかった。その昨年末のメールを見て驚いた。何とF君は白血病にかかり抗がん剤治療のために入院していたというのだ。その副作用は比較的軽かったと書いてあったが、心配になった。

一昨日は、同じく白血病で八ケ月闘病していた親戚が退院したとの報せを受けた。高齢ということもあり治療の副作用で体重激減し、歯も全て抜けてしまったということだが、寛解という望みうる最良の結果が得られて、とりあえずは一安心という状況だ。

父と祖母が間質性肺炎という病気に罹った時でさえ、他人事の様にしか思っていなかった俺なのに、ALSに罹って以来、他人の病気に感情移入するようになった。

この年になってようやく人間らしい思考が芽生えつつあるのかもしれない。

2020年6月20日(土)

昨晩の食卓に白身魚と海老の揚げ物が並んだ。玉ネギの酢漬けを刻みマヨネーズを和えたソースは妻の得意とするところだ。学校から帰ったばかりでお腹が空いている様子の長男は珍しく先に食卓に着き、呼んでも来ない他の兄弟に怒声を上げている。パソコンで作業中の俺は配膳を終えた妻に促され食卓に向かうが、子供達は配分された揚げ物を全て平らげ、彼らの祖母が遠慮して残した海老フライを巡る争奪戦が始まっていた。

俺は揚げ物は食べられない。丼一杯のお粥を約30分の時間を掛けて妻に食べさせてもらう。妻が気を使って衣を取った白身魚フライを食べさせてくれるのだが、それはもはや白身魚フライではない上に咀嚼に時間がかかるので美味しいとは感じられなかった。

餓狼宴にも書いているように、俺は食べることが好きで、高級料理でなくとも食べる感動があったものだが、病気の進行と共に舌が動かなくなり飲み込む力が衰えると、それまで美味しいと感じていた食べ物に対する興味や執着が消え失せてしまった。おそらく、神戸牛(食べたことないけど)のステーキが目の前で焼かれても、寿司屋のカウンター席に座り、目の前でのどぐろ(食べたことないけど)を握られても、食欲がわかないしし、唾液も分泌されないような気がするのだ。

昨日、ヘルパーさんに
「奥さんの料理で何が一番好きですか?」と聞かれた時も答えに窮してしまった。あんなに好きだった妻の手料理の味覚の記憶さえ喪失させるALSは本当に恐ろしい病気だと思う。

今、一番食べたいものが、以前は食べず嫌いだったヨーグルトというのも皮肉な話である。しかし、自家製のヨーグルトに蜂蜜をかけた時の味は格別で、三分以内に完食出来て疲れも残らないのだ。

2020年6月19日(金)

午前9時、介護事業所から派遣されたヘルパーのKさんとYさんが自宅にやって来た。これまでに何度かKさんがいらしたことはあったが、それらは介護内容や訪問時間の打ち合わせのためであり、実際に介護を受けるのは今日が初めてである。とは言っても、妻の介護の実演を披露するだけで約束の一時間が終わってしまった。

昨年にもヘルパーさんに来てもらおうという話があったのだが、排泄や入浴の介護を他人に任せたくないという妻の意向のために進展しなかったのだ。今回は、いや、今回もと言うべきか、外に働きに出たいという妻の意向のため、急遽、ヘルパーサービスを利用するようになったというわけだ。

人工呼吸器を装着し痰の吸引が随時必要な状態になるとそれこそ24時間の介護が必要になるらしい。その時は、医療保険、介護保険、重度障害保険を組み合わせて、猫の目のように多くの介護者が出入りすることになるらしい。

今日、気付いたことは、普段何気なく受けている妻からの介護が被介護者の事情を考慮した工夫と最適化の蓄積だったということと、介護の専門家であってもその知識は被介護者ごとに更新されなければならないということだ。例えば、寝台から車椅子に移乗する際には、両足を寝台外部に位置させて、リモコンを操作し寝台を直角に屈曲させる。そのままだと上半身が倒れてしまうので、支えながら座ったまま回転し前かがみの姿勢を作る。妻は滑るのを防止するため俺の足を踏み、斜め45度の位置に設定している車椅子を微調整し、わき腹を抱え上げるように持ち上げ、上半身を回転させ、捻りで絡み合った両足のまま車椅子に尻を落とす。

今日は練習だけで排泄の実践をすることはなかったが、次回はどうなることやら。妻の職探しも不透明なままである。

2020年6月16日(火)

信仰心の厚い妻は子供達を諭す時にしばしば旧約聖書のヨブ記を引き合いに出す。

ここで悪い意味での信仰告白をすると、妻との結婚を境に教会に通ってはいるものの、聖書を通読したことは一度もなく、旧約聖書に至っては内容を理解しながら読んだのは創世記と出エジプト記のみで、残りは断片的に読み流すだけで何一つ頭に残っていない。ヨブ記もその中の一つでヨブと三人の友人との解読し難い問答が延々と続くために途中で読むのを放棄してしまっていた。

ヨブ記のあらすじは以下の通りである。

神のしもべであり、七千頭の家畜を有し、子宝にも恵まれたヨブは、ある日、突然、他の部族の強奪により、全ての財産と妻以外のの家族を失ってしまう。それは「ヨブの信仰心は財産や家族に由来するものだ」という悪魔の疑念を神が否定したいがため「試しにやってみろ」というやり取りの後に起こった出来事である。それでもヨブは神を呪う言葉を発しなかった。悪魔は更にヨブを全身が痒くなるという原因不明の難病にかからせるが、ヨブは潔白を貫く。それから見舞いに来た友人達との問答が始まる。

なるほど、ALSの発病と共に家族の財政基盤が崩壊し、全身が痒みに襲われている俺の境遇はヨブと類似しているではないか。妻がどのように子供達を諭しているか定かではないが、ヨブ記の結末くらいは知っておくのも悪くないと思い、問答が続く第4章から第41章までをすっ飛ばし、最終章である第42章を読んだ。

正真正銘、今日、初めて読んだヨブ記第42章であったが、その結末は、
「最後の時を迎えたヨブを神様は天国に導かれた」という『フランダースの犬』のような終わり方を期待していた俺の予想を大きく裏切るものだった。なんと、神はヨブが所有していた財産を二倍に増やし、140歳まで生きながらえさせ、新たに子供を10人もうけさせるという、「大判小判がざっくざく」という『はなさかじいさん』のような終わり方で幕を閉じるのだ。

これは納得がいかない。あれだけヨブに苦しみを与えるのに加担した神が世俗的な祝福で帳尻を合わせようとするのには大きな違和感を抱く。俺がヨブと同じ仕打ちに会ったら、家族が殺された時点で、罵詈雑言を吐いて神を呪っていることだろう。

「信仰って一体何なのだろう?」
そんなことを考えさせる力が聖書にはあるようだ。

2020年6月15日(月)

インターネット上で「AI定石」なる言葉が目に止まった。これは囲碁の話で、長年の歴史で培われた最善手と思われる一連の応手は定石と呼ばれており、プロも含めて碁を打つ者のほとんど全てがこの定石を上達の拠り所として頭に叩き込んでいたのだった。ところがである。アルファ碁に端を発する人工知能が囲碁のトッププロを蹂躙し、人間にははるかに及ばない高みに達した人工知能同士の対戦の棋譜が公開され、従来の定石が人工知能が導き出す評価値を基に再検証されて出来上がったのがAI定石なのである。

プロの碁やネット碁を見ていると、星の一間ビラキに覗いたり、小目に二間開いたり、奇異と思っていた手が当たり前のように打たれているのだ。それもそのはずで、ネット上にはAI定石を解説する数多くの動画が無料で閲覧出来るのだ。情報弱者で定石嫌いの俺は今までそのことに気付かなかった。

今までにも、見ず知らずの対戦者から奇異な戦法を仕掛られ、相手の注文にハマり、
「なんか不利だなあ」と思ったことが何度もあるが、それらはAI定石だったと合点がいった次第である。

一口にAI定石と言っても変化は膨大で習得は容易でない。複雑な変化に対応できる人工知能だからこそ可能な芸当であり、変化が比較的に単純で習得しやすいものが従来の定石だった感もある。

こんなにも早い時期に「AIとどのように付き合っていくべきか」という課題に直面するとは思わなかったというのが正直なところである。

2020年6月14日(日)

昨晩、寝室でパソコンの作業をしていた。寝台では長女が毛布にくるまり、スマホで遊んでいた。
「こんなに蒸し暑いのに変な子だなあ」と思っていたが、妻が不審に思い、長女の体温を測ると、39.5の数字が体温計に表示された。長女は
「ちょっと体が重い」と言っていて、それ以外の症状は無さそうだったが、寝る前まで高熱が続いたので、妻が長女を救急病院に連れて行くことになった。

午前一時に妻と長女が帰って来たが、その間は気が気でなかった。健康な時もそうだったが、子供が病気に罹る事ほど辛いものはない。今の俺は子供のために何もしてやれないのが余計に辛く感じた。

幸い、朝になると長女の熱は下がり、いつもと変わらない様子だった。しかし、用心のために家族全員外出を控えることになった。そのため、午前の教会での礼拝にも行けず、午後の大村教会での稲葉先生の正教師牧師就任式にも参加できなかった。

教義に対する解釈の違いが原因で通わなくなってしまった大村教会であるが、大村教会の信徒の皆さんに会いたい、稲葉先生を祝福したいと常々思っていたので、今回の不参加は返す返すも残念である。この場を借りて、大村教会の活力の源泉として奮闘しておられる稲葉先生に応援と祝福と感謝を表したい。

2020年6月11日(木)

昨日までカンカン照りの真夏日がつづいていたのに今朝目覚めると耳をつんざくような雨音が天井と屋外から聞こえて来た。どうやら今日を境に梅雨入りしたようである。テレビのニュースでは「この雨雲はインド洋から来ていて、東南アジアから上がって来る梅雨前線とぶつかり、日本各地で大雨と暴雨が予想される」と伝えていた。

当たり前のことかもしれないが、海面の水分子が気化して雲となり、風と共に地球上を漂い、雨粒となり地に落ち海に帰るという循環を繰り返している自然の営みに畏怖の念を抱いた。

目覚めても妻は四人の子供の登校の準備で忙しいので、全てが終わるまで横になったまま待機し、時には二度寝したりしている。
「はて、この豪雨の中、子供達はどうやって学校に通うのか?」

俺の実家は4つの小学校の校区の境目にある。そのため通りを一本渡ると通う学校が異なるし、学校までの距離も遠い。その昔、俺は親に手を引かれ歩いて竹松小学校の入学式に参席し、1.5㎞の道のりを歩いて引き返した。その日は入学した喜びよりも
「こんな長い距離を毎日歩いて通わなきゃ行かないのか」という絶望感の方が強かった。実際、その日以来、雨の日も風の日も猛暑の日も極寒の日も一人で歩いて登校した。その当時は両親も祖母も働いており、それぞれ車を持っていた。にもかかわらず、ただの一度も学校まで車で送ってくれることはなかったし、俺も送迎を要求したりしなかった。昔は交通量も少なく、交通事故や誘拐事件を心配する風潮もなかったし、「親に送ってもらったら恥ずかしい」と言う子供間の共通認識もあった。

それから四十年経った今、時代は変わり、親も子も登下校に積極的に車を利用するようになった。長男と次男は雨中での5㎞の自転車通学を諦め、彼らの祖母の車で登校、三男は妻が車で送った。長女のみが傘をさして歩いて登校した。
「俺は歩いて登校し続けたから自立心と我慢強さが身に付いた」と子供らに言いたいが、
「部活での猛練習のお陰で今の自分がある」という成功したスポーツ選手が語る根性論と類似していることに気付き躊躇してしまう。そういった猛練習は強靭なエリートを生み出すこともある一方で弱者に不必要な労苦を強いている面もあるからだ。

やらなくていい苦労はしない方がいい。そもそも、自立とは対極の生活を送っている俺が自立について語っても説得力があるはずがないのだ。

2020年6月10日(水)

今日の夕食はハンバーグだった。妻はミンチ肉をこねて作ったハンバーグを再びミンチ上にしてケチャップをつけておかゆと一緒に食べさせてくれた。あと一口で完食というところで、肉片が気道に絡み壮大な咽に襲われた。

種数(数学用語)が増える日が近づいているのかもしれない。

2020年6月7日(日)

大村湾内のとある半島の海岸沿いに位置するキャンプ場に行った時の話である。その日の目的はキャンプではなく、夕涼みと浜遊びである。

駐車場に入ると、目に見える範囲だけで十数匹の猫が車の下や駐車場で無気力そうな表情で寝そべっていた。目立つところに看板がかかっていて、そこには
「動物遺棄は違法行為です」と書いてある。察するに、近隣に民家がなく、管理人が常駐しているわけでもなく、監視カメラが張り巡らされているわけでもなく、同種の染色体をもつ仲間が多数いて、自然が豊かで飢え死にしなさそうなこの場所は、元飼い主の良心の呵責を和らげる絶好の捨て猫スポットなのだろう。

断っておくが、俺は犬や猫を飼った経験がない。猫は好きでも嫌いでもないが、近くによって触りたいとは到底思えない。しかし、毛が抜けて如何にも不健康そうで、空腹で歩けないようにも見える駐車場の猫たちを見ると同情してしまう心が生じるのは否定できない。しかし、可哀そうだから引き取って育てようとも思えない。なので、猫に対しては何もせずに帰途につくのであるが、心に宿題を課されたような気分から解放されない。

次回、この場所に来て猫が見当たらなかったら、保健所で殺処分されたということだし、そのままだったら負の循環が続くことを意味する。猫好きの人が餌を与えても、食べ残しの散乱や糞尿被害や繁殖による個体数の増加が無視できないほどになれば、美観や衛生面を危ぶむ声が出て一網打尽にされるのが目に見えているではないか。

猫たちの本音や猫たちにとっての幸福が何なのかは猫たちにしかわからない。カブト虫とも事情は異なるだろうし、人間だってそうだ。

2020年6月5日(金)

先週の土曜日、自宅から車で5分の距離にある古賀島サッカー場に行って来た。その日は近隣の高校のサッカー部が対戦し合う練習試合が催されていて、とある高校のサッカー部の副顧問であり、古くからの友人であるN君に会うこととサッカー部に所属する二名の塾生の勇姿を見るために覗いてみた次第である。

せっかく会っても首を振ることしか出来ない俺とは双方向の会話が成立しない。俺が何か言っても聞き取ってもらえないし、俺は苦笑いを浮かべるだけだった。しかし、N君はめげずにスマホを取り出し、五十音表を俺に見せ、俺の首振りのみの情報から俺の言葉を復元しようとした。

昨晩は次男を捕まえて文字盤を持ってこさせ、
「うでたてふせできる?」という文を復元してもらおうとしたが、難航を極めた。まず、次男が濁点の場所を認識できてなかったためその先に進めず、タ行の文字が連続したので「たて」が「て」になり、更には次男が「腕立て伏せ」の意味を知らなかったので、文章が完成しても何のことか分かってもらえなかった。

今日、新しくレンタルしたリクライニング式の車椅子に座ってこの文章を書いている。腰の角度と座席の傾斜角をアナログに調整できる優れものであるが、最も快適な姿勢を再現するのは言葉が話せない俺には甚だ困難であり、移乗する時は前かがみの態勢に戻さなければならない。そのため、普通に座る角度を維持したまま使用している。

なんだか人間関係にも似たような面があるなと思った次第である。

誰だっていびつな形をした椅子には座りたくないだろう。それでも椅子の形に合わせて座る人もいるものだ。短い時間であってもそれは椅子にとっては感動的な出来事だったのだ。

2020年6月2日(火)

昨年の三月に我が家にやって来た電動車椅子は一連の闘病記において数々の逸話を残してきた。スロープ転倒事件しかり、真夜中の月面旅行、滑落救急車事件、何処に行く時も一緒にいた生活必需品であり相棒だったのだ。しかし、昨日を境に彼は忽然と姿を消してしまった。代わりに座っているのはリクライニング式の新しい手動車椅子と他動で軽量の外出用電動車椅子の二台である。

事の経緯は一週間前に遡る。小学校に入学したばかりの三男を迎えに行った時に、電動車椅子に座り、頸椎カラーを巻いた俺に他の児童の好奇の視線が集まった。
「首を怪我してるの?」
「生まれつき歩けないの?」
「鼻水が出てるよ。あ、違う。よだれだった」
話せない俺に代わって妻が必死にフォローしてくれたが、肝心の俺は
「笑わなきゃ」と思うほど、表情はこわばり、
「よだれを止めなきゃ」と思うほど、唾を噴き、
「首を真っ直ぐにしなきゃ」と思うほど、頭は傾き、
正門前の横断歩道後の悪路で上記の諸問題が一斉に現れ、車椅子から下半身が滑り落ち、安全ベルトが腹に食い込み、「ひいいっ」という悲鳴が出た。この悲鳴は妻の気分を害したようで、「無理やり連れて来たのを非難するためにわざとやったんでしょう」みたいな感じで帰りの車内でいびられたのだが、話せない俺は弁解することも出来ず。無言を貫いたが故、それがまた火に油を注ぐ結果となった。自宅に帰り、パソコンで文字を打ち、誤解を解くことに成功し、一件落着となったが、妻は事態を重く見て、車椅子改革に乗り出したというわけだ。

しかし、リクライニング式はかさばるし、スロープの昇降時の安全面に不安があるので室内専用であり、新しく来た電動車椅子は軽量で安価というだけで快適性は落ちるので根本的問題は先送りされたままである。

2020年5月31日(日)

夜中に顔を掻くために顔を枕の上で回転させなければならない。その動作が繰り返されて枕が寝台上を大移動することになる。枕なしで仰向けになると息苦しくて眠れないので、必然的に俺の頭部は枕にくっついていくことになる。その結果、寝台の横幅に収まるように丸まった寝相になり、苦しさで唸り声が出て妻を起こしてしまうことがよくあった。そこで
「枕を滑らないようにしてほしい」と妻に頼んだところ、
「じゃあ、私の枕と交換しよう」と言われ、実行した所、一年半ぶりに途中で目覚めることがない7時間睡眠を達成することが出来た。

よく眠れると気分も良いものである。一時期は口に食べ物を含むたびに咽ていたが、最近は大分改善され、おかゆのような流動食でなくとも食せるようになってきた。

今日の夕食は妻の得意料理の一つであるビビンバで、御飯と野菜を盛りつけた七杯の丼が食卓に並んでいた。最後の仕上げに半熟の目玉焼きを載せて特性の醤油ダレが注がれ、食欲が高められた。この日は、教会に行く日だったので神の御加護があったのかもしれない。何と、俺は一度も咽ることなく、野菜がひしめくビビンパを完食したのである。俺は食べる喜びを味わった感動と共に食後の水を飲み干し、意気揚々と寝室に向かった。

事件が起こったのは正にその時であった。ゲップと共に腹から湧き上がった水分が気道を直撃し、史上最大級の咽を引き起した。車椅子に乗っていた俺の体は一文字になり硬直し、妻の助けも空しく、俺の尻は座席から床へ滑り落ちた。

こういった時の対処法は咳を繰り返して異物を外に出すことである。咳をする力がまだ残っていたのは不幸中の幸いだったし、家族全員がいたので引き上げ作業も容易だった。

「好事、魔多し」を地で行く一日だった。

2020年5月29日(金)

妻が大村市内の埋め立て地に位置する店舗で箱入りのカブトムシのつがいを買って来た。
「全部合わせて千円で安いと思ったから買って来たよ」とのことだ。確かにカブトムシを捕まえて来る時間と手間を考慮すると安いのかもしれない。

俺が子供の頃は早朝のラジオ体操に参加した後、公園内の樹木に横蹴りを入れると睡眠中のカブトムシとクワガタがばらばらと落ちてくるほど身近にいたものだが、時代は変わったのだろう。近所で目にする昆虫はチョウかセミぐらいのもので、カブトムシを見るのはデパートや博物館等の室内施設に限られている昨今である。

三男は買って来たカブトムシを見て大喜びだった。妻は家にあった大きめのプラスチック製の虫かごにおがくずを敷いて二匹のオスとメスの新しい棲家を作り、引っ越させた。

寝室に置かれた虫かごは意外にも静かだった。ご存知の方も多いと思うが、夜中のカブトムシは不審者が侵入して来たと錯覚するほどけたたましい物音を立てるのだ。

夜が明けると妻は
「カブトムシを自然に返してあげないと」と言い出した。通常であれば、
「ええ、一日鑑賞するだけで千円はいかがなものか?」
「三男は納得するのだろうか?」
「弱肉強食の自然界よりも餌と安全が確保されている虫かごの方が幸せなんじゃあ?」
「ひょっとして妻は介護に追われる自らの境遇をカブトムシに投影しているのか?」
「地球から鉄郎を連れて来たメーテルを想起させるなあ」等の疑問や考えが噴出してきて、混乱に陥る所だったが、長年連れ添った経験から妻の行動を在るがままに受け入れることが出来るようになっていた。

昨日、妻は長女と三男を連れて出掛けたが、任務を達成できなかったようだ。何と、カブトムシのオスが虫かごから脱走し行方不明になったというのだ。妻はカーテンを開け、寝台の下を覗き、懸命の捜索活動を続けたが見つからない。諦めかけていたが、昨晩、三男が素っ頓狂な声を出して妻を呼んだ。何と、寝室の白壁に張り付いている黒い物体は捜索中のカブトムシだったのだ。

今日の夕方、高良谷牧場へ向かう山道添いの森林に二匹の写真を撮影した後、自然に帰した。自らの羽根で飛び立っていったとのことだ。

2020年5月28日(木)

昨年の今頃は七人の塾生を指導し、ほぼ毎週、来訪客を迎えて歓談し、講演の準備をしたり、病気の進行を忘れさせるような充実した日々を送っていた。平坂塾の様子が新聞に掲載され、当HPの閲覧数も倍増し、この調子で閲覧数が増えれば書籍化の声がかかるかもという夢と期待を膨らませていたのだ。

来訪客が途絶えたのはコロナ禍のせいだけではない。遠方からわざわざ来ていただいているお客様をもてなすことが出来ない俺に原因があるのだ。言葉の発声はほぼ壊滅状態で、「頭が痒い」「トイレに行きたい」「パソコンをしたい」等の使用頻度が高く、推測可能な言葉しか聞き取ってもらえなくなった。塾生を指導しお客をもてなす空間であった作業部屋へも行きづらくなった。笑うことは出来るが、よだれも同時に出て来るし、笑い過ぎて頭が後方に倒れると自力で起こせなくなるし、そういった痛ましい姿を見せたくないという心理が働いて、ますます人を遠ざけてしまうのだ。

リアルな世界では言葉を交わせない俺はパソコンとインターネット上で意思表示と自己表現を行っているが、それすら無価値と思い始めたのが先週末の鬱の原因ではないだろうかと分析している。

一年前には見えた希望が今は見えない。慣れ親しんでいた釜山での環境を捨てさせ、異国での生活を強いられている家族のことを思うと余計に心が重くなるし、対策を講じれない自分にも腹が立つ。

「信は力なり」と言い続けるのも限界があると言うものだ。

2020年5月26日(火)

就職活動の時期である。希望する職種や企業に就職したいのはやまやまであるが、需給バランスや企業との相性や適性等の条件の下、妥協に妥協を重ねた結果、就職先を決めた人は少なくないであろう。それまでの期間は挫折と葛藤の連続であろう。

かく言う俺は大学院進学を目指していたため学部時代に就職活動を経験しなかった。博士号を取得するまでは研究のことばかりで、その先の進路については深く考えようとしなかった。蝶を追いかける少年のように研究に邁進していれば何処からともなく
「~大学で助手のポストが空いているんだけど行かない?」という声が掛かり、生活費に苦労することなく、助手として研究実績が積めるものだと思っていたのだ。しかし、それは大学院進学率が一割にも満たない時代のおとぎ話に過ぎなかった。俺らの時代は大学院定員拡充元年と言うべき年で、新設の数理学研究科の修士新入生の定員が50名を超えていたのだ。そのうちの約20名が退路の無い博士課程に進学した。数年後にポストが準備されない過渡期における過当競争が起きるのは火を見るよりも明らかだった。

イスラエルでの一年の修行を終え日本に帰国した俺はその現実に直面する。職がない俺は無給の研究生で、学割も使えず、貯金が減っていくだけのじり貧状態に陥っていた。大学の公募に出してもかすりもしなかったし、三年上までの先輩方も就職難にあえいでいた。

それからちょうど三年後、浦項や台北でのポストドクター経験を経て、釜山大学に就職を果たすのだが、
「自分は数学者として箸にも棒にもかからない存在ではなかろうか」
「数学の世界はコンピューターと同じで新しいほど性能が高いのかも」
「だとすれば若手に追い抜かれる日が来るはず」
「数学科の同級生は社会人としてバリバリに働いているのに俺ときたら」
「市場の評価は冷酷である。俺が無価値であると言われているかのようだ」
「プロスポーツと同じで競争はあって当たり前。誰もが認める研究結果を出せば余裕で就職できるだろう」等の葛藤と闘う日々だった。

言いたいことは就職活動と言うのは自分と向き合うことであるが故に心理的消耗が激しいということだ。

現在の俺は在宅勤務でパソコンを使った文字入力しかできない。そんな俺の市場からの評価を知りたいと思い、インターネットを介した就職斡旋業者に登録することにした。これも無価値と言われることに免疫があるから出来るのであろう。

2020年5月24日(日)

今週末、原因不明の鬱状態に陥っていたのだが、妻に
「そんなこと言ったらただじゃおかないからね」と一喝され、元気を取り戻しつつある。

2020年5月22日(金)

先々週の金曜日に初めてzoom飲み会なるものに参加した。zoomとはインターネットを介した遠隔会議支援ソフトのことで、画面上で互いの顔を見ながら話しも出来る。コロナ禍で外出自粛が叫ばれている時勢の後押しもあって実現した飲み会であった。

話せないし飲めない俺は顔だけ出して首を振り文字入力に徹するだけであったが、それでも十分に楽しめた。唸ったり咳き込んだりしても消音できるし、笑って唾液が放射されても迷惑になることはない。黙って人の話を聞くのも楽しいし、そうしていることへの心理的負担もない。とにかく、俺にとっては良い事ずくめの飲み会だった。

先週の金曜日もzoom飲み会に参加した。ただし、二つの飲み会の参加者の集合たちの共通部分は俺のみからなる集合である。これも非常に楽しかったし、旧交を暖めることができた。

またの機会があれば是非参加したいし、以前のように釜山大の同僚や学生達との会合での楽しい雰囲気を味わう機会が来るとよいなあと思う。

2020年5月19日(火)

筋肉狩りの予兆とも言える痙攣が左手と両足と首に出始めている。主治医によると、筋肉が萎縮してしまえば痙攣は治まるとのことだ。救いようがないとはこのことであるが、差し迫る現実に対する心の準備をするための痙攣と思えばいいのだろうか。

この一ヵ月だけ見ても変化は激しい。首の痛みが頻発し、頸椎カラーを導入し、首に安らぎが戻ったのはいいが、首を支える筋力は低下し続けている。自力で曲げ伸ばしが出来ていた左腕も肩からぶら下がっているだけのものに成り下がってしまった。両足で立ち上がる力が衰えたのは移乗を介護する妻が良く分かっていることだろう。その妻が今週に入って腰の痛みを訴えるようになった。「大丈夫?」というねぎらいの言葉も聞き取ってもらえないし、そんなことを言うこと自体が「盗人猛々しい」態度に映ってしまう。新緑を眺めてうらやましいと感じるのは心までも弱っている証左なのだろう。

こういうどん底の時に良い事が起こるのが世の常である。コロナ禍も収まりそうな気配だし、子供達も学校に通い始めた。今までの俺の人生でも浮き沈みはあったはずだ。「今がどん底なんて誰が分かるんだよ」という意地悪な数学者の声が聞こえてきそうであるが。

2020年5月18日(月)

プラケーススイッチの故障後、新しいものを二個調達した。しかし、以前のものと比べると使い勝手がよくない。これは製品の不具合ではない。スイッチを押した後、戻す動作が出来ない俺の指の不具合によるものだ。以前のものは良い加減にバネが効いており、戻すのに苦労しなかったのだ。

先週は改善のための試行錯誤の期間だった。行き着いた結論は、右掌を上に向け、スイッチの根元を薬指の腹に接するように置き、土台になるように左手を添えるのが現時点で最良の持ち方だということだ。ただし、文字入力の速度は落ちたままであるし、その持ち方を再現できるのは妻しかいないという難点も抱えている。

コロナ禍の影響で在宅勤務が奨励されている昨今である。現在、休職中の身で病状が劇的に改善すれば復職したいと思っているが、そうならない時に備えて、自宅で文字入力するだけで収入が得られる方法を模索していた。そういった内職の受注を一手に請け負うインターネットのサイトもある。閲覧して分かったのが、仕事量の割には悲しくなる程単価が安く、しかも二割の手数料がかかることである。替えの利かない特殊技能や商品が売れるような宣伝文を書くスキルが無い限り、お小遣い程度の収入しか見込めないようだ。

やはり、現実は厳しい。

2020年5月11日(月)

プラケーススイッチの不調によりしばらく更新出来ません。来週頃から再開する予定です。

2020年5月8日(金)

今朝、パソコンを扱おうとしたら愛用のプラケーススイッチが反応しなくなった。エアマウスによりポインターの移動は可能なのだが、クリックが出来ないのだ。代わりに妻が試みても駄目だった。早速、非常事態宣言が発効し、医療機器会社に在庫の有無を問い合わせた。
「おかしい、昨日まで動いていたものが急に動かなくなることがあるのか?」と疑問に思い、妻にプラケースの別の部分を押すように頼むと、あら不思議、いつも通りにクリック出来るようになった。

この文章が打てるのもプラケースの秘孔を発見した故なのだ。今後の一週間で、更新や連絡が滞った場合はプラケーススイッチの不調と思っていただければ幸いである。

2020年5月6日(水)

釜山でアパート暮らしをしていた頃、妻は口癖のように
「子供を庭で自由に遊ばせ家庭菜園を楽しめる家に住みたい」と言っていた。しかし、庭の維持には費用や労力が必要になるのである。隣家に迷惑を掛けないように、ずぼらに見えないように、とか言い出せば剪定業者を呼ぶことになるし、雑草の処理、害虫の駆除、水撒き等の労力はバカにならない。

今日は連休最後の日、自宅の庭の中央に置かれた石食卓には紺色のテーブルクロスが敷かれている。
「一体、何が始まるのだろう?」そう思っていると、母と長女が食器を庭に運んでいる姿が見えた。妻が
「夕食できたから集まって」の号令と共に怠け者の男たちが二階から降りてきた。妻の付き添いの車椅子に乗って庭に下りた俺を待っていたのは、黄色のオムレツが盛られた六枚の大皿と南東から上り始める満月だった。

蚊もいない涼しいこの時期だからこそできる野外での夕食会は舌鼓の伴奏の下家族の笑顔で彩られた。妻が提案し、準備した企画は大成功に終わった。本来であれば、妻に
「何にもしなくていいから庭で珈琲でも飲んでろ」と言い放ち、野外バーベキューセットの前で団扇を片手に肉を焼き、給仕を長男と次男に命じて、妻の日頃の苦労を労うのが俺の役割だったのだ。

そんな幸せを与える喜びとは縁遠くなってしまったことに寂しさを禁じ得ない。

2020年5月4日(月)

釜山版メモリーゲームを公開した後、方々から(一件も方々の範疇とみなす)
「大村版メモリーゲームを作成してほしい」という声が寄せられたので18カ所を選定してみた。異論がある方はご連絡ください。

1.仏舎利塔から見下ろす三浦半島
2.本当は誰かが住んでいるかもしれない臼島
3.大村桜越しの大村城城壁
4.菖蒲が満開の時の大村公園
5.移転の噂がある市庁舎
6.大観衆で埋まったさくらホール
7.夏真っ盛りに人々で賑わう大村市民プール
8.森園公園から見る夕陽
9.箕島大橋から望む大村全景
10.飛び上がろうとする飛行機が背景に映る長崎空港
11.大村駅構内に停車するシーサイドライナー
12.琴平スカイパークから飛び立つパラグライダー
13.放水中のかやぜダム
14.シャクナゲ越しの裏見の滝
15.木々に囲まれた野岳湖
16.高台の菜の花畑から眺める大村湾
17.松原の海岸
18.買い物客で賑わうアーケード(ちょっと苦しいか)

2020年5月3日(日)

夜10時過ぎ、突然降りだした激しい雨が家屋の屋根を打ちつけ、室内では雨音がこだましていた。間髪入れずに稲光が窓を明るくし、「どおーーん」という轟音が家屋全体に鳴り響いた。就寝前の子供達は恐怖と好奇心の狭間にいるのか、布団に潜って窓の外を凝視している。妻が
「二階の窓からはもっとよく見えるよ」というや否や、子供達は雷よりも大きな音を立てて階段を駆け上がって行った。

それから10分間、まるで花火を見ているかのような嬌声が天井越しに聞こえてきた。一人残された俺は以前ツイッターに投稿した川柳を心の中で呟いた。

「雷よ 我が身を貫き 元の身に」

2020年4月30日(木)

古くからの友人であり幾つかの論文の共著者であるZ教授が韓国を訪問した時にメモリーゲームというお土産を貰った。Z教授の家族はドイツ北部の港湾都市キールに住んでいる。メモリーゲームとはキールの名所旧跡を写真に収めた18種類のカードが二組、合計36枚のカードで遊ぶ神経衰弱ゲームのことである。これで子供と遊んだ回数は数知れない。トランプと異なり、写真を記憶するのは困難である。少なくとも俺の場合はそうだった。それゆえ、子供相手に本気で挑め、子供にも十分勝つチャンスがあるので、親子共々白熱するのである。

メモリーゲームが終わった後は決まって、
「釜山版メモリーゲームを作ったら一儲けできるかも?」と妻に話したものだった。

時は流れて2020年、擦り切れてボロボロになったキール版メモリーゲームは釜山の自宅の本棚に置いてあるはずだ。今日は極私的見解で釜山広域市にある18カ所の観光地を選定してみた。異論がある方はご連絡ください。

1.海雲台の砂浜(海水浴客とビーチパラソルで埋め尽くされる真夏がいい)
2.海雲台の高層ビル群(ライトアップされた夜に下から見上げるように撮ってほしい)
3.ヨットハーバー(色とりどりの帆を張ったヨットの群れを撮影)
4.釜山港(建造中の大型船)
5.多大浦海水浴場(遠浅で砂粒が光り輝く広大な海辺)
6.太宗台の岸壁(その昔、岩壁画があったらしい)
7.金井山(山の尾根から見える山城)
8.広安里大橋(花火大会の日に撮影)
9.チャガルチ魚市場(魚介類売り場が延々と連なる風景)
10.釜山アシアード競技場(ワールドカップで韓国がポーランドを下した場所でもある)
11.社稷野球場(熱狂的な応援はあまりにも有名)
12.梵魚寺(青空を背景に本堂を撮影)
13.釜山KTX駅(数あるプラットフォームを見下ろす角度で)
14.市庁舎(実は行ったことがない)
15.洛東江(両岸に広がる湿地が見えるように)
16.三楽生態公園(渡り鳥と一緒に)
17.龍頭山公園(タワーが見えるように)
18.甘川文化村(釜山のマチュピチュらしい)

2020年4月29日(水)

一昨日紹介した「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」を読み終えた。一般向けに書かれた本なので、数学者である俺があれこれ言うのはお門違いだと思うが、そのことを前置いた上で感想を列挙してみる。
「IUT理論の創始者ともいえる望月新一教授と著者である加藤文元教授との交流を描写した部分が一番面白かった」
「IUT理論に背を向ける数学者の心情に関する記述があったが、俺も『難しすぎてわかんない』と思っていた口なので、そこから一気に引き込まれた」
「身近な例を用いた直感に訴える説明は素晴らしいと思った」
「その一方で、繋がれる宇宙と宇宙の具体例を拝みたかった」
「群論入門の部分は冗長に感じた」
「『たし算とかけ算が複雑に絡まり合った世界』と言う言葉が、当たり前のことを気付かせてくれるという意味で非常に魅力的だと思った」
「博士論文の課題として提案された課題を20年の歳月を経て完成させたのが今回の論文であるという記述に感動してしまった」
「年は俺と三つしか違わないのに、この彼我の差は一体何なのだろう?」
「こうやって感想を書いていること自体がファン目線なのだから比べること自体がおこがましいのかも」
「結局の所、本当に理解するためには途方もない時間と労力を費やして勉強しなおすしかないんだよなあ」

やっぱり、読書っていいなあ。しかし、電子書籍は無料ではないどころか実物と同じくらいの費用がかかる。パンドラの箱を開けてしまった気分である。

2020年4月28日(火)

日頃からお世話になっている作業療法士のSさんの手引きで、首を保護するための頸椎カラーの試用会が開かれた。どこにでもあると思ったらさにあらず、頸椎カラーを取り扱う会社は大村市内にはなく、エアマウスの購入でお世話になった長崎かなえ社から職員のIさんがサンプルをもって来られた。

その頸椎カラーは暑苦しくて蒸れそうな外観であったが、首に巻いてみると悪くないと感じた。首の筋力の低下と共に首をある位置で固定するのが難しくなっていたが、カラー装着時は顎がカラーで支えられ、頭が下がらなくなった。

妻は「こんな分厚いものを四六時中付けていられない」と思っていたようだが、その時以来、食事や寝るとき以外はずっと装着している。車で移動する時の振動が和らぐし、文字入力の時もポインターがブレなくなった。

俺としては大満足であるが、夏場に蒸れそうという問題が待ち受けている。ともあれ、サイボーグ化にまた一歩近づいたようだ。

2020年4月27日(月)

今日、我が人生で初の電子書籍購入を果たした。と思ったが、よく考えたら二回目だった。一回目は海外出張先で購入した「Finite Reflection Groups」という本で、実物を自宅に置き忘れたため講義の準備に支障が生じそうだったのでやむなく利用した次第である。しかし、和書に限定すれば最初であるのは間違いない。

信用カードの追加登録や居住地の変更手続きをインターネット上で済ませ、加藤文元著「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」の購入に至った。まだ四分の一も読んでないが、著者が受けた感動を共有したいという思いがひしひしと伝わって来た。そして、俺が学部生の時に聴講したB教授(御本人の承諾があれば実名で書きたいのだが)の講義が思い出された。両者の共通点は「数学の面白さや感動を数学専攻者のみならず一般の人々にまで伝える力が尋常でない程強い」と言うことである。

これは非常に大事なことだとわかっていたが、駆け出しのころから今まで俺は自分の研究内容を一般の人々に伝えることを全くと言っていいほどやってこなかった。それには以下のような理由がある。

1.自分の研究を説明する上で「群」の概念が必要になる。それを一般向けに、がロア、五次方程式、対称性、あみだくじ、等のキーワードを用いて説明することは可能である。しかし、そのような権威にすがるのは虎の威を借りるような気がして二の足を踏んでしまうのだ。「なるほど、面白そうですね。では、あなたは群の研究をしているのですか?」と聞かれた時に「いや、群そのものじゃないんですね」と答えることになり、自分の研究領域を意図的に遠ざけているような気もするからだ。

2.もちろん、自分の研究分野は面白いと思っているし感動もあるのだが、それを伝える前に、「荒れ地を開墾し、種をまくだけで芽が出て、皆が収穫を楽しめるように分野を開拓しておきたい」という気概が、伝える作業を躊躇させる。こういった場合、往々にして力量不足で開墾できず荒れ地のまま放置される。

3.何らかの有名な未解決問題を解いているわけでもないし、応用に繋がるわけでもないので、「iPS細胞で医療が進歩した」「重力波を観測した」「AIを開発した」「量子コンピューターを作った」のようなわかりやすさがないことを自覚して内省的になってしまう。

このように理屈をこねても、「一般の人々に数学の面白さを伝える」ことを実践する人の前では全て言い訳となる。今までの不為の罪を悔い改めても、神は許してくれないだろうなあ。

2020年4月26日(日)

今日も首の痛みで二時間程寝込んでしまった。起きた後、妻から
「車で何処かに行こう」と誘われたが断った。流れる景色を見るのは楽しいけれど、コロナ禍の自粛ムードと喋れないもどかしさや運転時にかかる首への負荷等のマイナス要素に囚われたためである。

妻が下の子二人を連れて外出している間、パソコンの前に座っていたが、テレワークの依頼が来るわけでも、新たな塾生がくるわけでもなく、かといって気晴らしが出来るわけでもなく、せっかくの妻の誘いを断ったことを後悔しながら、悶々とした時間を過ごした。

餓狼宴に綴っているように妻は健康に気を使った美味しい料理を作ってくれるのだが、食事の際の最重要課題は誤嚥しないように飲み込むことで、味わう余裕は全くない。こんな緊張と疲労を強いられるのなら、胃ろうを造設し栄養分を流し込んだ方が楽かもしれないと思ったりもする。

夜は寝台に横になると頭と顔が痒くなり、妻が寝息を立てるのと同時に痒みに耐えながら眠りに入る時までの時間を過ごさねばならない。しかも今夜は二時間の昼寝の影響で眠気が来そうにない。

気が滅入る事ばかり書き連ねたのには理由がある。ちょっとした良い事を幸せに感じるようにするためだ。今日は三男に『ヒカルの碁』というアニメを見せて囲碁に興味を持たせることに成功した。無料で見れるのが五話までなのが残念なのだけど。

2020年4月24日(金)

昨晩、夜9時に始まるニュース番組を視聴した。
「新型肺炎の感染拡大を防止するために5月の連休中は外出を控え家で過ごしましょう」という呼びかけとテレワークが話題に上がった。

「三度の飯より~が好き」と言う人、あるいは食べ歩きが趣味の人は多いと思うが、そういった人々が欲求を抑えて公共のために足並みを揃えるのは驚くべきことだ。自由主義と資本主義が国是とされる国々でも不自由を我慢し経済を統制させることが出来るのだなあと思った。

日本では感染者数が一万人を超えている。そのうちの一人がサイコパスな人格で昨今の閉塞した状況を楽しむ輩がいるかもしれない。電車やバスになにくわぬ顔で乗り込み、飲食店や病院や歓楽街を積極的に訪問しウイルスをまき散らしたら、その他大勢の自粛が水の泡となるのだ。陰謀論っぽく言うと、日本転覆を狙う集団がウイルスを培養し、収まったころ合いを見て作り出されたウイルス感染者が集団の中を行き来すれば複数のクラスター感染が生まれるだろうし、その感染者が罰せられることもない。

恐ろしい世の中になったものである。

テレワークの映像がニュースで流された。自宅でパソコンの前に座り、通信機能でガラス張りになった勤務状態を本社に管理されながら働くのは大変だなと思った。ふと、パソコンの画面を見て文字入力する業務であれば今の俺にでも十分可能ではないかと思った。しかし、一般の人が即座に代数の講義が出来ないのと同様にテレワークの職種の専門性を持たない俺が即座にこなせるものでもないのだろう。

八方塞がりとはこのことである。しかし、数学教育関係のテレワークの需要があれば働きたいなあと常々思っている。今は休職中なので報酬なしで奉仕出来ることも追記しておく。

2020年4月22日(水)

ここ一週間、俺の頭は「首」でいっぱいだった。俺が健常者と同様に自己表現できるのがインターネットの世界でその入り口となるのがパソコンである。闘病記でも書いたように文字入力は頭に装着したエアマウスという感知器を首を振ってパソコン画面上のポインターを動かしスクリーンキーボード上で静止させクリックすることにより文字入力を行っている。したがって首の不具合は文字入力の不具合に直結するのである。

最初に異変を感じたのは先週の月曜日だった。首を左右に振ると肩や首に痛みが走り、首振りどころか座ったまま首を支えること自体がしんどくなり、2時間ほど寝込んでしまった。通常であれば目を開けたまま2時間もじっとしているなんて退屈で死にそうになるのだが、その日に限っては体が温まるにつれて首が癒されるような至福の時間だった。幸い、横になった後は痛みも治まり、パソコンを扱えるようになった。

問題は首の疲労が慢性化しつつあることだ。その日から今まで四回も上記のような事例が起こっている。こんな時に頼りになるのが訪問看護や訪問リハビリでお世話になっている方々である。事情を伝えると即座に補助器具を手配してくださり、昨日、車椅子用の背もたれと座クッションの試用会が開かれた。背もたれは確かに楽だ。それまでは背もたれなしの車椅子でも全く不便を感じなかったが、いざ背もたれを外すと体重の行き場がなくなり、後方に宇宙空間が広がっているような不安な気持ちになった。首に関しては何もしてない時は後方に凭れて首周辺の筋肉を休ませることが出来る。しかし、長時間エアマウスを使用すると首の動きが重くなり、疲労が溜るのは変わらない。

投手の肩と同様に首も消耗品と考え惜しみながら使う方が良さそうだ。

2020年4月20日(月)

非常事態宣言が全都道府県に拡大された。そのため、明日から5月6日まで県立高校は臨時休校になる。部活動も禁止だし、図書館にも入れない。それどころか、不要不急の外出を自粛と言う原則に則れば、高校生たちは家に閉じこもっていなさいということなのだ。

学校は緊張を強いられる場所で家はくつろぐ場所と境界線を引いている人は少なくないだろう。その延長で休校期間を自堕落に過ごしてしまうのは無理からぬことであろう。このような自由時間を与えられた時にどのように過ごすかがその人の生き様を物語るのではなかろうか。

運動も旅行も人に会うのも憚れる期間に高校生が家でやるべきことは何だろうか?元日本代表の右サイドバックの選手が語るようにその答えは学習である。これはある意味で「やらされる勉強から脱却する良い機会」とも言えるのである。

塾生諸君、君達にその意志があるのなら塾長である俺は全力で応援する覚悟です。さしあたっては俺が高校生だったらどのように勉強するかを提示します。

午前9時までに朝食と着替えを済まして机の前で待機(これが一番大事かも)、新しく覚える英単語を10個選ぶ。その一つ一つを辞書で引き、その説明を音読、例文を一つ選び、機械に読ませて、リンキングを考えながら真似して読んでみる。1語に5分として、50分経過、10分休む。10時からは英文字幕付きのニュースをインターネット上で視聴、わからない単語があってもそのままにして、聞き取りと大まかな内容の把握を目的とする。視聴時間は30分に留め、学校の英語の教科書を開き、予習を兼ねて英文読解に挑戦してみる。塾で習ったスラッシュリーディングを駆使して文法構造を見極めながら和訳をしていき、和訳が出来ない時は線を引き、わからない単語を集めて、翌日に覚える英単語として用いる。

ここまでが午前11時、昼御飯まで国語の勉強と思って読書をする。小難しい本を読んで眠くなったら昼寝をすればいい。昼食を摂って昼寝をして頭がすっきりしたら数学を始める。教科書の中でまだ授業でやっていない単元の部分を音読してみる。初めて見る記号や概念が出て来るのでわからないのが当たり前である。そんな時は教科書に
「何でこうなるの?」
「全くわからん」
「眠くなってきた」等の愚痴を書き込もう。そうやって自分が分かっていないことを認識しておくことが狙いである。疑問を持って授業に臨むことで集中できるし、授業の有難味も実感できることだろう。次に授業で習った単元を復習する。重要な語句は太字で書かれている。それらの定義が頭に入っているか確認してみよう。例えば、「内心」と言う言葉が出てきたら、それは「与えられた三角形の三辺に接する円の中心」のことであるが、内心と言う言葉の裏に三角形が潜んでいることは教科内容を理解してないと出てこないものだ。そして教科書に出て来る定理の証明を追ってみよう。それだけでも十分に復習になるし、定理を手足のように使えるようになる訓練にもなる。残りの時間は演習問題に挑戦してみよう。演習問題の難易度は習熟度に合わせて調節する。わからない時は平坂塾の通信教育を利用してくれたまえ。

重要なことは積み重ねることである。二週間後には世界が変わって見えるほど十代の若者の成長は早いのである。

2020年4月19日(日)

「コロナ、岩盤規制に風穴、オンライン初診、医師会が譲歩」という題目のニュースを見た。この記事によると、「慢性疾患で三ヵ月以上通院している患者のみにオンライン診療を保険適用できる現行の規制に風穴が開きそうだ」と言う内容だった。これに対して疑問点を列挙する。

1.日本医師会ってそんなに力を持っているのか?
2.現行の規制はオンライン診療の制度を骨抜きにするためのように見えてならない。
3.オンライン診療であれば病院施設無しで診療報酬を得られるし、身体接触による感染のリスクもない。医者にとっても利点は大きいのでは?
4.仕事が忙しくて病院に行かない人、外出が困難な人、離島などの遠隔地に住む人にとってはいいことづくめだろう。
5.検査等が必要になるから地域の医療がオンライン初診の導入で崩壊することは考えにくい。

俺が釜山大で働いていた時、何度か病院のお世話になったことがある。ちょっと風邪気味かなという時に耳鼻科に行くと大勢の患者が待合室で順番待ちをしており、1時間程待たされて診療は5分にも満たないことがよくあった。俺が必要なのは処方箋だけだったのに貴重な研究時間が削られて損をした気持ちになったものだ。これがオンライン診療だったらどうなるか。スマホの画面の案内に従い問診票を作成し、スマホのライトを点けて喉の内部を自撮りした動画を添付し、送付すれば数時間後に処方箋と共に返信が来て、病院での治療が必要な場合や原因不明の場合はその旨が知らされるだろう。

花粉症や皮膚のかゆみ等の命に別条がない場合はマニュアルに従った流れ作業で十分事足りるのではなかろうか。逆に、癌などのような重大な疾患であっても初診のハードルが下がることにより早期発見に繋がるのではなかろうか?

実時間で双方向の対話が必要な場合は、インターネット上で対話が可能な医師の一覧の中からクリックし、時間当たりで診療費を設定すればよい。それが嫌なら通常の病院に行けばよいのである。需要が高まればレントゲンや血液検査専門のインターネットカフェだって出て来るだろう。そこでは体温計や血圧計が準備された個別ブースでオンライン診療を受けられるのである。従来は病院ごとに必要だった受付や経理や検査施設を統合化すれば医療費の削減にも繋がるのではなかろうか?

上にも書いたように障害や疾病のために外出が困難な人や僻地に住む人が高度な医療を享受できる夢のような制度の実現を阻む理由は何一つないはずである。

もっと踏み込んで、検索業界最大手の会社が人工知能を駆使した無料のオンライン診療システムを構築したらどうなるかと夢想したりして見る。これまで貧しくて医療を受けることが出来なかった人々が治療にかかる費用の見積もりができるようになるだろう。誤診も頻発するだろうが、膨大な医療データと地域性と民族性が加味されて精度は上がっていくだろう。もしかしたら町医者では感知できない体の異常を見つけ出すことだってあるかもしれない。人類の普遍的な医療福祉を実現するという高邁な理想に共鳴してお金を出したいという企業は後を絶たないと思うのだがいかがなものであろうか?

2020年4月17日(金)

困ったことになって来た。首が痛くて左右30度くらいしか回せなくなった。パソコンで文字を入力することは楽しみの一つだったけど、痛みが伴う分、苦痛に感じるようになった。何故ならば現行のエアマウスを使うには左右の首振りが必要不可欠だからだ。

今週の月曜日も同じ症状が出て、火曜日には痛みが治まったので
「一時的なものでよかった」と安心していたが、そうではなかったようだ。
移乗の度に頭が揺れ痛みとむち打ちの恐怖を感じている。

これがこの病気の常套手段なのだ。何度も欺かれる俺が間抜けなのだろう。

2020年4月13日(月)

このところさえない。体が動かないのは病気のせいだけども心までもが動かない。

「家族を路頭に迷わせないようにするにはどうしたらいいのか?」

これは大村に移住すると決心してからずっと考え続けてきた命題である。給与の六割が出る休職期間は絶好の猶予となるはずだったが、その一年間でやったことは障害年金の申請のみである。休職二年目に入り給与の4割が出ているが、それもあと一年限りである。まだ一年残っているとはいえ、衰え行く体で何が出来ようか。日々の生活はただ時間を潰しているだけで未来への投資になってない。そうなってしまった自分を深く恥じる。

何かやろうとしてもコロナ禍で世界全体の経済が収縮している状況で自分だけが上手くいくとは到底思えない。それどころか世界恐慌レベルで働きたくても働けず路頭に迷う人々で溢れかえる可能性も無きにしも非ずの状況なのだ。

先の見えない閉塞感の漂う嫌な世の中になったものである。

2020年4月12日(日)

車椅子に座っている時は手が上がらないので顔を自分の手で掻くことは出来ない。しかし、横になって寝る時は左手を曲げて顔の近くに固定することが出来るので顔に指が届くのである。ちなみに右手は五本の指の関節が曲がったままで自力では伸ばせないので、いわゆる、爪を隠す状態なので顔を掻けない。左手の場合は薬指だけがまっすぐに伸びる。それゆえ、左手の薬指が、額、眉毛、鼻、顎などの顔面内で輪廻転生のように移り行く痒みとの攻防戦を一手に引き受けているのだ。その奮闘の証として左手の薬指の爪には垢と汚れがこびりついている。

毎晩のように掻くのでわかるのだが、指の力が落ちてきた。指で圧力を掛けられないので掻いている感じがしないのだ。今、この文章を書いている時でもクリック補助用のスイッチが重く感じるようになった。もっと深刻なのが首の筋力の低下である。頭を後ろに倒すと「頭ってこんなに重かったの?」と驚愕するほどである。

悩んでも何の解決にならないのがこの病気の特長である。日々のスポーツや娯楽のニュースが気晴らしになっていたんだなと実感する今日この頃である。

2020年4月9日(木)

マスク不足が叫ばれて久しいが、布マスクであれば家内手工業で1日50枚くらい作れるのではなかろうか。1枚300円で一日の売り上げは1万5千円である。それでなくても学校の家庭科の時間にマスクを作って老人ホーム等の福祉施設に寄付すれば大変喜ばれると思うのだが、いかがなものだろうか。

スマートフォン等の普及と共に決済や手続きの方法は簡略化されているのに、大村市のような地方都市の学校の書類業務は未だに「紙」が中心である。それでいて緊急連絡は電子メールが用いられる。入学式で「紙面に印刷されたQRコードをスマートフォンで読み取って所定のアドレスに空メールを送って下さい」と言う説明があったが、そんなことを義務付けるくらいなら学校のホームページで個人認証を行った上でエントリーシートに必要事項を記入させて、口座振り込みやカード決済の案内を載せればいいのにと思うが、いかがなものだろうか。直筆の書類だと同じ事を何回も書かないといけないし、従来の生徒を現金の運び屋にする方式は差額が生じた時に事務組織を疲弊させるだけなので、現金の授受を減らす方向に動くべきではないのか。

学校行政に関しては30年前とほとんど同じだが、長男と次男が通う高校では伝統の朝補習が今年度から廃止されることになった。そのかわり、正規の授業時間が5分長くなるということだ。私事で恐縮だが、朝6時半に起きて、文字通り雨の日も風の日も自転車をこいで朝補習に通ったことで忍耐力は身についたが、削られた睡眠時間は授業中のどこかで補填されていたので、朝補習があってもなくても学習量は変わらないと思われる。ともあれ、革命的とも言える補習廃止の英断に拍手を送りたい。

2020年4月8日(水)

昨日の長女の入学式の後、妻は頭を抱えていた。翌日までに提出しなければならない書類の山を渡され途方に暮れていたのだ。今日は長男の始業式、次男の入学式、三男の入学式が重なる日で、制服と靴の準備、小学校の入学式用の服の準備、六人分のマスクの準備、次男が提出する書類の最終確認、に加えて夕食の準備と片付け等の家事と俺の介護もある。

妻が不憫でならない。俺は加勢するどころか足を引っ張ることしか出来ない。そんな忙しい夜に俺は消化不良で胸が苦しくなり夜中に妻を何度も起こしてしまう。妻は午前3時に起きて、作業部屋に籠もり書類を書き上げ、手縫いでマスクを作り、長男の弁当を作り、6時半に熟睡中の長男と長女を叩き起こし、朝食を準備し、俺と三男に服を着せ、小学校に車で向かった。

「入学式へは歩いてくるように」というお達しがあったが、身障者がいる場合は許可が出る。小学校の校門に立つ誘導係の先生の指示に従って体育館脇の空き地に駐車することになった。車の窓を開け後進している時、体育館の開放された窓から
「おい、車で来たらいかんやろ。死ねや」と罵声が聞こえてきた。妻には聞こえていなかった。誘導係の先生には聞こえていたはずだったが聞こえたそぶりは見せず無視していた。

補足説明をすると、上記の様な表現は俺が子供の頃からよく使われていた。車椅子対応と言うことが分かればその声の主も反省してくれることだろうし、俺が健康であれば「そういう輩もいるだろう」と受け流す余裕があったはずだ。しかし、今日の俺はそうではなかった。会場である体育館に入って、その声が発せられた周辺に座っているガラの悪い保護者を勝手に犯人とみなして心の中で悪態をついていた。

午後からは次男が通う高校の入学式に出席した。式典が終わり、PTAの説明が始まる前のわずかな時間に妻と三男が韓国語でおしゃべりを始めた。おしゃべりと言っても周囲がざわついているので決して迷惑になるような音量ではなかった。すると横に座っていた男性が低い声で「静かにせんばですよ(しなければならないの方言)」と言った。すかさず妻が「すみません。気をつけます」と言ったため、その男性はバツが悪そうに前を向きなおし横を向くことがなかった、

その一部始終を見ていた俺の心に怒りが沸々と湧いてきた。三男を連れてきたのは家で三男を見る人がいなかったからである。コンサート会場でもあるまいし、誰かがスピーチしている最中でもない。父兄同士も雑談している時間に幼児の退屈を紛らす行為はとがめられることなのか?俺が話せる状態だったら
「一緒の空気を吸いたくないから移動しよう」と聞こえよがしに言ったことだろう。

帰りの車で妻にその話をしたら妻は
「意味が分からない韓国語だから煩く聞こえたんじゃない」と言い、気にしている様子は皆無だった。以前、闘病記(釜山編)で、妻が食堂や入国管理局で烈火のごとく怒った事件を紹介したが、今、その理由が分かった気がした。妻の母国である韓国において異国人である俺に不快な思いをさせたくないという心理が働き怒りを呼び起こすのだ。俺が釜山にいる時はすぐ怒る妻を「国民性の違いかなあ」と揶揄していたが、それは撤回する。


そんな事ばかり考えていたせいで入学式の内容や雰囲気は頭に残っていない。自宅の庭で撮った写真が残っているだけである。

2020年4月7日(火)

新型コロナウイルスの影響で東京を筆頭とする日本の主要都市では休校が延長されるそうだ。それはすなわち入学式、歓迎遠足、部活動選び、日々の授業、新しい交友関係、等の俺達が当たり前のように享受して来た教育と成長の機会が遅延することを意味する。新入生だけでなく、3月から数えて約二カ月間、学校にも行かず部活も出来ず、脳への刺激が乏しい状態で過ごさなくてはならないのだ。

俺のような中年と異なり、若い頃の貴重な二カ月あるいはそれ以上の期間がコロナの記憶で埋めつくされてしまうのである。それは給付金をもらっても取り返せないものではなかろうか。

今日は長女が通う中学校の入学式の日だった。大村市の全ての学校が開校したことを喜び、長女の制服姿に目を細める一方で、大勢の若者達のかけがえのない時間が奪われたことに心を痛める日々である。

ここまで書いて思い浮かんだことだけど、戦時中は時間どころか命まで奪われていたのだ。そんな理不尽を経験した世代が戦後の復興を支えたように、生きてさえいれば、いつでも失地回復の機会は訪れるような気がしてきた。

2020年4月6日(月)

平坂塾英語教室での指導を担うAY先生から塾の運営に関して相談を受けた。それは感染予防処置を施した上で授業をすべきではないか、と言う提案だった。一カ月前なら「そこまで心配しなくても大丈夫だろう」と言うことが出来た。しかし、東京都では毎日百名を超える感染者が出て、世界各地で感染者数が拡大し、医療崩壊が起きているニュースが連日のように報道される昨今では情況が全く異なる。御父兄の方から大事なお子さんを預かる立場を顧みると俺だけ楽観的では済まされないだろう。

俺なりに感染予防対策を立ててみた。
「窓を全開、全員マスク着用、授業の開始前と開始後の入念な手洗いとうがいの徹底、人と人の間の距離を2m以上空ける、授業後の教室を消毒」
俺が出来ることは一つもない。俺が授業を続けようとすれば、我が家の医療従事者が疲弊し医療崩壊を招くことは火を見るよりも明らかではないか。かくして、英語教室は4月いっぱい休校することにした。AY先生や塾生達には大変申し訳なく思っている。

その一方で俺が担当する数学教室は存続させることにした。
「感染予防対策はどうするの?」という声が聞こえてきそうだが心配ご無用、既に数学教室は通信教育に移行しており、教室で集まる必要性は全くなかったのである。

これから毎日のように塾長からメッセージが送られることだろう。塾生達からは「あー、面倒くさい」という声が聞こえてきそうだし、暖簾に腕押しに終わる可能性も大であるが、めげずに学問に対する姿勢を伝えて行きたいと思う。

2020年4月4日(土)

今まで何十回も繰り返されたことなのだが、よく眠った後に体の機能が損なわれていることに気付くことが多い。一定の期間においてダメージを受けながらもかろうじて繋がっていた運動神経がある日突然ぶっつりと切れてしまう感覚である。

今朝もそんな感じだった。起こされて妻が車椅子の準備をするわずかな時間でも座っている態勢を維持することが出来なかった。朝食時も不必要な唾液が大量に出て飲み込みに苦労したし、それまでは普通に噛み切れていた沢庵も咀嚼に時間がかかった。

こんな日は自然と不機嫌になり無口になる。そうは言っても、発する言葉のほとんど全てが理解不能なので、はた目には平時と何ら変わることがない。今日は家族全員に母の姉を加えた八人で花見に出かけた。長崎県内で10人目の新型コロナウイルス感染者が出たというニュースを受け、気分が今一つ高揚しない中、野岳湖公園に咲く満開の桜を鑑賞しながら弁当を食べた。人気はまばらだが、春の陽気に誘われた親子連れが目立った。心が弱っている時は、そんな幸せな光景が妬ましく見えるものである。父らしいことを何一つしてやれない自分が情けなかった。
「せめて電動車椅子でも操縦出来たらなあ」と、昨年秋に放棄したはずの技能を恋しがった。

帰り際、弟夫婦が現れた。親族10人で写真を撮ってお開きになった。車椅子から車の座席に移乗する時、今日一つ目の事件が起こった。俺の膝が伸びず、かといって俺の体重を小柄な妻が支えられはずもなく、お尻の下に何もない状態で膝が曲がって行った。妻が慌てて長男と次男を呼び、事なきを得たが沈んでいた心は更に重くなった。

自宅帰ると、妻の勧めもあり、夕食の時間まで横になることにした。この短い間の睡眠中にも、何かが失われていくような気がした。わかっていても止めようがないのがこの病気なのだ。今日二つ目の事件は夕食時に起こった。

一口目に食べた刺身が噛み切れなかった。今までにそう言うことがあっても無理矢理飲み込めば何とかなっていたのだがこの日は違った。飲み込んだ刺身がピンポイントで気道にへばりついたのだ。飲み込む動作を繰り返すがその刺身は微動だにしない。30秒くらい経って息が出来ないことに気付いた時の恐怖は半端なかった。あと少しで人生の走馬灯が回ろうかという時、異常に気付いた妻がとっさの判断で俺の喉に指を入れた。それが嘔吐に繋がり、その力で刺身が勢いよく出てきた。その後に地獄からの咆哮が続いたのは言うまでもない。

妻の機転が無ければ、呼吸困難が続き、一命にも関わったかもしれない。
「俺は生かされている」と普段は我が身の境遇を嘆く言葉が、この事件以降、感謝の気持ちを伴うようになった。

2020年4月3日(金)

いつものように俺が助手席、妻が運転席、下の子三人が後部座席に座り、ドライブが始まった。後ろから手が伸びて俺の口元で止まった。横を向くとその手の指に豆らしきものが挟まれているのが見えた。

ただの豆ではない。これは大村名物の茹で落花生である。走行中に食べ物を口に入れるのは大変危険である。過去にもイワシの蒲鉾を喉に詰まらせたことがあったではないか。しかし、今回は一粒の落花生、噛み砕きさえすれば何のことがあろうかと思い、口に含んだ。

案の定というべきか、杞憂は現実に変わる。噛み砕いた豆の粒子が気道に絡み軽い咽が起こった。幸いに咳が出て事なきを得たが、車での走行中の飲食は厳禁という教訓を再確認する出来事だった。

その豆の味わいついては餓狼宴「ゆでピー」をご覧下さい。

2020年3月31日(火)

天気は曇り空で小雨模様だ。こんな日は家の中でインターネット上に投稿された無数の数学論文の題目に目を通す作業が晴耕雨読という言葉にしっくりくる。だが、妻の考えは違っていた。
「今日、大村公園の前を通ったけど五分咲きって書いてあったよ。外に出て見ない?」
「雨だから車椅子の出し入れが大変だよ」
「そんなに降っていないから大丈夫。一日中家にいたら子供達の健康に良くないよ」
「ぐぬぬ」
流石に妻は子供を持ち出せば何も言えなくなる俺の属性を知り尽くしている。そんなわけで下の子二人を連れたドライブが始まった。

妻が目指したのは大村公園ではなかった。ローカルな話になるが、自宅から竹松駅横の踏切を通過し、黒木に向かう444号線と農道であるレインボーロードが交わる交差点で左折し野岳に向かおうとしていた。妻の気まぐれは今日に始まったことではない。その行動を理解しようとするのは間違いであり、ただ感じなければならないのだ。そう思っていると、妻は突然右折レーンに車を移動させ、細い脇道へ入って行った。妻は
「行き止まりになる前に何処かでUターンしよう」と言っていたが、知り尽くしたはずの大村であっても初めて通る道路は新鮮に見えるものである。民家の石垣は非常に高く歴史を感じさせるものだったし、道路わきを流れる郡川が間近に見えたし、遠方に花見に行く必要のない見事な桜並木があったり、際立つ美しさの桃の花が咲いていたり、新しい発見に満ちた寄り道だった。

この事に味をしめた妻は感性の赴くまま普段は決して通らない道に入って行った。長らく大村に住んでいたが、この山道を走るのも初である。けばけばしい色で塗られた看板が一つも見当たらず、高台から見下ろす樹木の群生の様子が実に雄大で西洋的なのである。道路わきには栽培されているわけではない白い菜の花が咲き乱れ、山あいから見下ろす大村湾も見事であった。車のナビゲーションでは道が表示されておらず、山の中を現在地を示す矢印が彷徨っているだけだった。そうこうしていると、分岐点が現れ、右側は細い山道、左側には「高良谷牧場」と書いた看板が立っている。妻は
「霧が立ち込めてきたから引き返そう」と言ったが、俺が
「ここまで好奇心を煽っておいて『引き返す』はないだろう」と主張し、長女もその主張に乗っかってきたので、車は街灯も民家もない上り坂をひたすら走った。そして、目的地である高良谷牧場に到着したのだが、牧場内部に通じる道には鎖が張られていて車が侵入できないようになっていた。

日も暮れてきたのでそこで引き返すことになり、木々の間から牧場の一部を覗くに終わった。今度は牧場で飼われている家畜を見学したいものだ。いや、論文を読んでおかないと。

2020年3月30日(月)

日本では来週から新学期が始まる(予定である)。韓国での新学期は通常であれば三月初旬に始まるが、今年はコロナウイルスの影響で延期になり、授業はオンラインでなされているとのことだ。

嗚呼、「授業」という響きが懐かしいなあ。小学校に入学してから数えきれないほどの授業を受けてきたが、それらが俺の人生に少なからぬ影響を及ぼしているのは疑いようがない。実際、俺は九大教養部で受けた線形代数の授業が強く作用して大学教員を目指すようになったのだ。担当のI山教授は東大出身であるという経歴も手伝って、知能指数が600くらいありそうに見えた。その授業は「無知な民衆に神の言葉である数学で語りかける」という感じで、わかったふりをする学生には容赦なく論理の刃が向けられた。講義ノート無しで必要なことを黒板に書いて、学生を無作為に指名して学生の理解度を確認しながら進行するのがI山教授の流儀であった。俺もよく指名され、出来ない学生の代表としてやり玉にというか血祭りに上げられていた。この時、俺は生涯で初めて論理の恐ろしさを知ることになる。そして、この体験は「いつか自分も論理の使い手となり、I山教授の方式で学生達を苦しめたい、もとい、啓蒙したい」という願望を生成した。

その願望が実現する日がやって来た。時は2002年3月、場所は釜山大数学科の建物である。赴任したばかりの俺は修士一年の必修科目である代数学を担当することになった。その頃は身重の妻と新居を探して引っ越したばかりで、新しい環境に適応するために一分一秒が惜しいと感じるほど忙しい時期だった。英語で授業してもよいと言われていたが、I山流を実践するためには学生の反応が重要と考え、韓国語でやることにした。妻によると、その当時の俺の韓国語は三歳児水準だったらしい。

俺は、授業で発する言葉を日本語でタイプして、機械翻訳を用いて韓国語の原稿を作成し、妻の前で練習し、機械翻訳の変な部分を矯正してもらう、という作戦を立て、実行した。妻は最初の十分は熱心に聞いてくれたが、それを過ぎると、瞼が下がり始め、舟をこぎ始めた。
「うーむ、恐るべし数学の催眠パワー。一対一でこの調子だと先が思いやられるなあ。やはり、何事も一朝一夕には行かないものだよなあ」と思い、それから17年間、I山教授の授業の幻影を追い続け、志半ばにして病に臥し、今に至るのである。

俺って何でも中途半端で終わっているよなあ。

2020年3月28日(土)

漫画『ドラえもん』に出て来る「もしもボックス」は公衆電話型で仮想を体験できる道具である。例えば、「お金のない世界へ」と受話器に話しかけるとその世界が実現するという具合である。

東京での外出自粛令をうけて渋谷や新宿などの繁華街は閑散としているというニュースを見た時、前述の「もしもボックス」が思い浮かんだという訳だ。それほど、現在コロナウイルスによってもたらされている閉塞感が現実離れしていると感じた次第である。感染というのは厄介なもので、衛生管理が行き届いているはずの福祉施設にいた者全員が陽性だった事実は、集団免疫が確立されるまで空気感染で方々に拡散していくことを意味する。日本での致死率はそれほど高くないし、時間が経てば特効薬やワクチンが開発されるだろうからいつかは収まることだろう。

俺が恐れるのは、「もっと致死率が高い感染力の強いウイルスが年毎に現れる世界」である。想像したくないが、外出時は防護服着用、人の集まりは厳禁、意思伝達は全て電子情報でなされ、家に閉じこもって娯楽はテレビかインターネット、学校も仕事もオンライン、陽性反応が出た者とその家族は収容所行き、なんてことも十分あり得るような気がしてくる。

話は脱線するが、人の集まりと言うのは都会ほど多種多様で不可避である。エレベーターで乗り合わせた人たち、バスや電車などの同乗者たち、飲食店に集まる人々、サウナやエステに集う人々、遊技場やスポーツ観戦に集う人々、その他諸々の娯楽ごとに人の集まりが生じることだろう。だから都会は刺激が多く楽しいということを「空気感染が起こり得る人の集まり」からなる集合族の濃度と言う観点から再確認した次第である。

脱線ついでに「集合という概念の無い数学の世界へ」ともしもボックスで呟いたらどんな世界が現れるのかが、想像の種になっている。

2020年3月27日(金)

妻が運転免許証を取得したのは一昨年の八月だった。その頃はまがうことなき初心者で、
怖くて速度が出せない、高速道路で流れに乗れない、車線変更が出来ない、駐車に時間がかかる、等、とても妻一人で車を運転できる状態ではなかった。しかし、昨日述べたアルファ碁並みの学習能力を発揮して、妻は運転技能を向上させていった。ここで言う運転技能とはレーシングドライバーに求められるものでなく、公道を走る上での安全を確保する術のことである。

俺は以下の点において妻の運転を非常に高く評価している。
1.右折時に対向車との距離の見積もりの安全度が高く決して急がないこと。
2.右折時に横断歩道を通過する時必ず徐行すること。
3.車道を走行する自転車を追い抜く時、十分な側方間隔を空けること。
4.山道などで後続車に道を譲ること。
5.駐車する時、安全を優先して何度も切り返すこと。
6.停車時にブレーキを三回に分けて踏み、同乗者に反動を感じさせないこと。

最後の項目に関しては俺が口を酸っぱくして徹底させたのだが、最近、助手席に座って感じるのは、停車と発車する度に首が前後に揺れ、乗車時の心地良さが感じられないということだ。妻の運転はいつも通りなのに何故だろうと疑問に思っていたが、今日の訪問看護のリハビリで首の筋力の低下を指摘され、疑問が氷解したというわけだ。

しかし、どうしようもないんだな。なるべく長い期間首の筋力が維持できることを祈るのみである。

2020年3月26日(木)

「Alpha Go-The Movie」という題名のドキュメンタリーを鑑賞した。御存じない方のために説明すると、2015年10月に実現した、人工知能対イセドルの囲碁による対決の記録である。これは無料動画配信の最大手会社で公開されているので興味がある方はご覧下さい。ただし、英語と韓国語が飛び交う字幕なしの動画である。

この対戦が呼び水となり、人工知能の有用性と汎用性が全世界に認知されるに至ったのは記憶に新しい。それから4年半経った現在にアルファ碁のことを語るのは「今更過ぎる」のでこの映画に関する感想を羅列しておこうと思う。

1.イセドルは当時世界レーティング二位の強豪である。一方で、威張ったところが全くなく、謙虚を絵に描いたような人だった。少年時代の映像も出てきたけど、子供の純粋な心を持ったまま囲碁界の頂点に昇りつめた凄い人と言う印象を改めて抱いた。あと、声が高くて、雰囲気が釜山大数学科の同僚によく似ている。

2.アルファ碁の開発チームの面々はどれくらい碁を打てるのか気になる所である。筋斗雲に乗って世界を駆け巡る孫悟空は称賛されるべきなのに、お釈迦様の手の間を往復しただけという屈辱を味あわせるのは心の痛む話である。

3.対局中のイセドルの表情全てに見応えがあった。降参して感想戦をしようとしても独り言になるだけなのだ。そんな虚しさや敗戦の悔しさがにじみ出ていた。おそらく、どの俳優を起用してもあんな表情は出せないだろう。

4.大盤解説のオーバーアクションがアルファ碁の着手の衝撃を物語っているように見えた。

5.開発者のデミスハサビスは底知れない、もしかしたら、人類史にその名を残すような人物ではなかろうか。数学を含む科学技術に人工知能が活用され、これまで人類が考えようともしなかった問題や研究テーマが人工知能によって提示されるようになるかもしれない。

6.4勝1敗でアルファ碁の勝利に終わる。わかっているにもかかわらず、映画の中でイセドルが一勝した時は涙ぐんでしまった。「人工知能は全て読んでいるのでは?」という疑心暗鬼にさらされながら、よくぞあの勝負手を打てたものである。三連敗で心が折れず敢闘精神を捨てなかったところが感動的だった。

2020年3月25日(水)

大村市に隣接する諫早市内にある年金事務所に来ている。ここは年金受給の申請を日本年金機構に送る前に書類の書き方などの相談に応じる機関である。書類の世界でお仕事をされてきた方々はご存知のことかと思うが、手書きを強いる書類の様式、日付に関する理不尽な制約、専門家でないとわかりようがない細かい決まり事、等の抗いようのない要求に対し、大人の態度をもってして書類を準備しなければならない。

俺がその書類の作成が出来れば、例の大人の態度でさくさくと書類作成したことだろう。しかし、障害年金申請にあたって実務の大半を担うのは妻なのだ。代理であることに加え、母国語でない言語を扱うことの困難さや日韓の制度の違いもあり、妻に大変な負担をかけていることに心を痛めている。横で妻が書類を書いていても声が出ない俺は何の助言も出来ないのだ。

年金事務所で相談をしていた90分間、車内で俺らを待っていた長女と三男を連れて、諫早市内にある長崎県立総合運動公園で昼食を摂ることにした。

公園内の木陰に敷物を敷いて、家族四人で買って来た弁当を食べた。春休みに入ったばかりだからか、平日だというのに公園内は多数の親子連れでにぎわっていた。春の陽気と眩しい日差しの下、全力疾走で駆け抜ける見ず知らずの子供達を見るだけで幸せな気持ちになる。

しかし、そのような長閑なひとときさえ一瞬のうちに奪い去ってしまうのがALSの恐ろしさである。ストローで珈琲を飲んでいたその時、豪快にむせてしまい、珈琲を噴き、気道から起こる咆哮を大音量でまき散らすことになった。俺は気道から珈琲を出すのに必死だったので周囲を見る余裕がなかったが、その異常なふるまいはコロナウイルス流行と相まって周囲の注目を大いに集めたようである。一分以上続いた咆哮が治まった後でも背中に視線を感じたし、前方からは土管の内部に寝そべった三人の少年少女の好奇の視線が注がれていた。

追い打ちをかけるかのように、その少年が「あ、変なおじさん」と謳いながら踊りを繰り返し、吊り目ポーズまで披露されてしまった。名誉棄損で告訴したいところであったが、相手は幼児である。俺が笑うと、三人とも笑い、「だるまさんが転んだ」という遊びをする時のように一歩一歩近づいてきた。こんな時は若い頃幼稚園で仕事をしていた妻の出番である。
「お名前は?どこから来たの?いくつ?」と質門を重ねながら打ち解けてしまった。その三人はこっちが心配になるくらい人懐っこく、妻が
「韓国語で友達のことをチングと言うんだよ」と教えると、別の意味を想像したらしく、にやにやと笑いながらその単語を連呼していた。それから、二時間、ウチの子供達と、迷路に入ったり、綱で出来たジャングルジムで遊んだり、鯉に餌をやったりして楽しい時を過ごした。

こんな天真爛漫な子供達も大人になって書類を書くのに汲々とするのかなと想像すると、やるせない気持ちになった。

2020年3月22日(日)

昨日の昼間、車椅子に座りパソコン画面を長時間見つめていた。それが原因と言うわけではないだろうが、胸とお腹の間に苦しさを感じるようになった。
「消化不良かなあ。痛いわけではないから時間が経てば治るだろう」と思っていたが、一向に良くならない。そのうち、背筋を伸ばして座っているのも辛くなって状態を折り曲げるのだが、腹筋がよじれて更に苦しくなった。過去の経験から、
「こういう時には酸っぱいものを食べれば即座に治る」と考え、妻に柑橘類を絞ったジュースを準備してもらった。しかし、それを飲むと症状が更に悪化し、吐き気を催すようになった。以前、夜中に嘔吐した経験から
「こういう時には思い切って吐いてしまった方がいいかも」と思い、妻にビニール袋を用意してもらい、舌を出して嘔吐を試みた。しかし、出るのは納豆のように糸を引く唾液ばかりで、一向に気分は良くならない。以前、救急車で運ばれた時に飲んだ薬の効果がてきめんだったことを思い出し、妻に持ってきてもらい服用した。

薬を飲んだという安心感からか苦しみによる呻きは収まった。良くなったのを確認した後、当初の予定であった「歩いて三男の通学路を辿ってみよう」ツアーに同行することにした。しかし、中間地点である上原口公園で三男がブランコやシーソーに乗ったりするのを遠くから見つめていると、またしても吐き気に襲われ、公園のトイレではこうとするが出るのは唾液のみだった。そのまま自宅に引き返し、寝台で横になった。寒気を感じたので、日頃は暑いと言って蹴飛ばしている布団を二枚重ね、四時間程寒さに耐えながら横になっていた。

そこでようやく苦しさから解放されたが、食事をする気になれず、妻に林檎をすりおろしたものを作ってもらい、食べた後、就寝した。その翌日である今日、体調は戻ったが、コロナウイルスの世界的流行のニュースのこともあり、気持ちが沈んだままである。

2020年3月20日(金)

今日は三男が通う幼稚園の卒園式がある日だ。共働きの夫婦でも出席できるように祝日である春分の日に開催するということだ。前日の夜「俺は家で留守番しておくよ」と妻に伝えていた。と言うのは、その幼稚園にはエレベーターが無く会場となる教室に行くためには階段を上らなければならないからだ。

朝、目覚めると、妻が三男に制服を着せていた。寝ている俺に妻が
「今日、どうする?行く、行かない?」と聞いてきた。俺は一度口にしたことを変更するのを好まない。それを熟知しているはずの妻が何故聞いて来るのか疑問に思ったが、
「階段を上らないで下で待機していようかな。三男の卒園式だけ欠席するのは公平性に欠けるし、卒園後は幼稚園内に入ることはまずないだろうから、俺も通った幼稚園を見納めるのも悪くはないだろう」という思考が働き、
「やっぱり、行こうかな」と言ってしまった。

日頃から俺に「言ったことをすぐ覆す」と非難されている妻はここぞとばかりに
「昨日と言うことが違うじゃない。前もってわかっていたらもっと早く起こして準備するのに、ああする、こうすると、言うことがすぐ変わるんだから」と攻勢をかけてきた。俺が防戦一方だったのは言うまでもない。妻が仕掛けた巧妙な罠に引っ掛かってしまった俺が悪いのだ。ともあれ、準備を終え、定刻に間に合う時間に家を出発することが出来た。

幼稚園の裏門から園舎に入ると、待ってましたと言わんばかりのタイミングで幼稚園バスの運転手と思しき男性職員四人が集まり、総重量百キロ弱の俺と電動車椅子を御輿のように抱え上げ、講堂へ続く階段を上った。この場を借りて感謝申し上げたい。

今週は、中学校と小学校の卒業式と今日の卒園式に出席したが、その全てで奇声を上げながら泣いてしまい、妻に注意された。これはALSの症状の一つである感情失禁というやつで自分にはどうしようも出来ないのだ。ただでさえ、「さようなら幼稚園」の合唱や最初から涙ぐんでいる保護者代表の挨拶や担任の先生のお別れの言葉など、泣きの要素がてんこ盛りの卒園式なのである。健康な状態でも目頭くらいは熱くなったことだろう。

そんな場面でも友達とふざけ合ってけたけた笑う子供達は無邪気でいいなと思った。

2020年3月18日(水)

俺が小学校に入学した日に撮った写真がある。子供用の半ズボンの背広姿だが、それ以降、一度も着た記憶がない。七五三しかり、大学の卒業式しかり、成人式しかり、一生に一度しか着ないのにも関わらず衣服に大枚をはたいてしまうことはよく見られる光景だ。しかし、制服がある中学校や高校には当てはまらない。

何が言いたいかと言うと、小学校の入学式や卒業式で子供が着る服を「皆もそうしているから」という理由で新調するのはおかしいのではないかと思ったからだ。育ち盛りの児童、中学に行けば礼服は制服で事足りるのに、似合ってもいない、没個性のブレザーやスーツを買い与えることは無駄そのものだと思う。もし「卒業式は普段着で出席するように」という通知が出たら保護者の大半はもろ手を挙げて賛成すると思うのだが如何であろうか。

今日は長女が通う小学校の卒業式に出席して来た。つい三日前に弟嫁から「小学校の卒業式での生徒の服装はこんな感じですよ」と動画を見せられ、長女と妻が慌てふためいた末に、近隣の衣料店を探し回ったが、気に入った服が見つからず、古着屋で買ったブラウスと妻が持っていたジャケットを合わせて急場を凌いだのであった。長女は
「普段着でもいいけど自分だけ目立つのも嫌だなあ」と言っていたので、
「気に入る服が無かったら普段着で行けばいい」とは言えなかった。

思っていることや主張したいことを口に出して実行するのは容易ではないのだ。

2020年3月17日(火)

今日は次男が通う中学校の卒業式に行って来た。コロナウイルスの影響で、会場となる体育館の窓は全開、卒業生は全員マスク着用、保護者のほぼ全員が自主的にマスク着用、校長先生を始め、礼服や大正袴に身を包んだ先生方もマスク着用、卒業式授与は代表者のみ、送辞は録音したものを放送、各教室での最後の学活には保護者は入れず、と言った具合の厳戒体制下での卒業式だった。

株価は暴落、各種イベントは中止または延期、外食業や宿泊業は大打撃、世界各国に感染が広がり、収束の気配はまるでなし。たった一ヵ月でここまで世の中が変わるとは想像もしていなかった。

この世界の変化を鑑みると、卒業式が開催されただけでも有難く感じてしまうのだから人間の心理と言うのは不思議なものである。簡素であったが、涙ながらに答辞を読み上げた卒業生代表、卒業生全員による合唱という見所がある素晴らしい卒業式であった。開催に向けて尽力された学校関係者の方々に敬意を表したい。

一年間、何度も中学校を訪問したが、その度に車椅子対応をしてもらった。今日も男性教員四人がかりで俺が乗った電動車椅子の上げ下ろしをしてもらったのだ。そして、帰国子女である次男を根気強く指導していただいた先生方と進路指導時に大変お世話になった担任のI先生に深く感謝申し上げたい。

と言っても、四月から長女が入学するのでまたお世話になるのだけれど。

2020年3月16日(月)

前回に引き続き囲碁の話をしたい。

B教授との六子局に勝利した一局は、今振り返ると、完全なまぐれだった。ツケノビ定石を打ったことで「こいつは初心者ではないな」という警戒心を与えることに成功し、俺の強気な着手に読みの裏付けがないことを悟らせなかった故に生じたものだった。

俺は気晴らしに読む小説を囲碁の手筋の問題集に替えて来たるべき再戦に備えた。数学の研究におけるB教授は天空から地形を俯瞰し獲物を探す鷹の目を持っていた。少なくとも、地面しか見えず行き当たりばったりで餌を探す蟻の目しか持たない俺にはそう感じられた。置き碁の勝負においてもまたしかりで、局面しか見えない俺が大局を制するB教授に捕食される結果となり、六子のハンデは長い間据え置かれた。

俺は戦略眼を養うために囲碁の定石書を購入し読んでみたが、これが全く理解できず全く面白くなかったため、10頁も読まないで書棚に葬り去られた。なんだか俺の戦略性の無さを象徴する出来事であり、年月が経った今でも定石を知らないままである。それでもB教授との初対戦から四年後にはハンデは四子になっていた。相変わらず、碁を打つ相手はB教授、I教授、後輩のT君に限定されていて、その頻度は年に一、二回だった。その頃は俺も釜山大数学科で職を得て、晴れて数学者と呼ばれる身になったところだった。身辺はそれまでの数倍忙しくなり、その後十五年は四子の壁を破れなかったが、「雨滴石をも穿つ」の格言通り、2017年二月に三子に昇格して、今に至るのである。

その後、俺はALSを発病し、両手の筋肉が衰え、碁石さえ握れなくなった。B教授への挑戦もここで終わりかと思っていた矢先、インターネットを介して碁が打てることに気付いた。もちろん、それよりはるかに前からネット囲碁の存在は知っていたが、俺もB教授も職を持つ身、ネット囲碁に時間を費やすのは背任行為にあたるような気がして、そっちの世界に踏み込めなかったが、B教授も今は自由の身ということでネット対局を申し込んだというわけだ。

改めて情報技術が発達した現代に生まれてよかったと思う今日この頃である。

2020年3月15日(日)

囲碁のルールを覚えたての頃、母方の祖父に手ほどきを受けたことがある。黒番の俺が隅に打つと、祖父はその黒石を別の墨に置きなおしてから白石を打った。対称なんだからどこの隅に打っても関係なさそうだが、祖父によれば一手目は右上に打つのが慣例とのこと。定石書を見ながら碁を並べていた祖父にすれば、孫であっても看過できない慣例破りだったのだろう。それから何回か置き碁で対局したが、傍らで見ていた父が
「勝てるわけなかろうが」とくさすので、
「何も分からんくせに黙っとかんね」と不快感を露わにした思い出もある。

その時は知らなかったが、囲碁には上手が下手にわざと負けてやる文化があるのだ。政治家がプロ棋士と打って引き分けたり、半目勝ちしたりするのは全て上手の手心によるものなのだ。俺が四目置いて祖父に勝ったのも推して量るべしである。とにかく、俺が囲碁にのめり込むことはなかった。勝敗が明確な将棋と比べ、領地を囲い合って何処で戦っているかがはっきりしない囲碁は好みではなかったし、前述のわざと負けてやる文化が受け入れ難かったからだ。

「囲碁はチマチマ領地を囲ってばかりでつまらない」
それはド素人が陥りやすい大きな誤解だった。そのことに気付いたのは九州大学で博士の学位を取得してからだった。

俺の指導教官であったB教授は囲碁が趣味で、夏ごとに開催される草津有限群論セミナーという合宿形式の研究集会では長年の碁敵であるI教授と火花を散らすのが風物詩であった。その二人の碁を打つ姿勢があまりにも真剣だったので、重力で引き寄せられるように野次馬の一人として横に座ってしまった。そこで展開されているのは大石を取り合い雌雄を決する喧嘩碁であった。まだ序盤と言うのに、十分を超える長考の連続で一人二人と野次馬が消えていき、最後に俺一人が残った。打音は高く、魂を込めて打ち合う姿は感動的ですらあった。ただ、悲しいかな、その当時の俺はその熱戦を鑑賞し続ける知識と忍耐が備わっていなかったために、対局途中で退散してしまった。

その時を境に俺の囲碁を見る目が大きく変わった。しかし、俺は職に就けるあても研究実績もない半人前の身分だったのだ。優先してやるべきは数学で、囲碁について考えるのはB教授宅でのホームパーティのような特別な場合に限られていた。

その頃、大学院に上がって来たばかりのB教授研究室の後輩たちは囲碁も将棋も嗜み、B教授の対戦相手を務めているという噂だった。ある日、研究室の遠足の帰りに囲碁や将棋をやるという催しがあって馳せ参じた。B教授と後輩達との対局を見させてもらったが、高まった好奇心と冒険心を抑えることができず、後輩たちの敗戦後、B教授に六子局を申し込んだ。ちなみに六子局というのはかなり大きいハンディキャップで、下手が安全に地を囲えば自然に勝てるので、上手は何処かで無理を通さねばならない。加えて俺には秘策があった。その前日、生まれて初めて囲碁の本を購入し、ツケノビ定石を予習して来たのである。「星に黒石があって、隅の地も確保でき中央にも厚い」という特徴を持つこの定石は置き碁にはうってつけのはずだった。

B教授は置き碁の経験があまりないので、
「一体、どうすればいいんだ」とぼやいてはいたが、対局姿勢はI教授と相対峙する時とほぼ同じで、一手ごとに時間を使い、その姿は「獅子は一匹のうさぎを狩るのにも全力を尽くす」という言葉が彷彿された。俺は真剣勝負の緊張と感動に震えながら全身全霊を賭けて対局を終え、僅差ながら勝利を手にすることが出来た。これが上手の手心だったかどうかは不明であるが、その時は嬉しくてたまらなかった。

結局は、この一戦で勝利したことが、その時から現在まで約二十年にも及ぶB教授への挑戦の歴史に繋がっていくのである。

2020年3月14日(土)

前回、「将棋を意図的に遠ざけていた」と書いたが、それは競技者として積極的に対戦機会を作ろうとしなかったという意味であり、新聞の将棋欄やプロ棋士の動向には関心があった。

九州大学に入学してからは、望みさえすれば町道場や将棋サークルなどで腕を磨くことも可能だったが、そんな気は微塵も起こらなかった。その代わりに、降りかかる火の粉は払わさせてもらった。数学科の九重合宿では腕自慢の助教授を負かしたし、大学院に入ってからは、京大囲碁部出身の同僚にも勝ったし、浦項工科大に行く前に開かれた送別会での髪切りデスマッチも制した。もちろん、負けることもあったがここでは書かない。

少年時代の憧れのプロ棋士は自然流の中原誠だった。谷川浩司が「光速の寄せ」で政権交代を果たしこの世の春を謳歌している時期に羽生善治がプロ入りし、それから三十年もの間、唯一無二の存在として将棋界を牽引して来たのだ。単に強いだけでなく、羽生マジックと称される独創的な着想で逆転勝ちを飾ったことは数知れず、その華のある棋風に大いに魅せられた。

羽生の全盛期が終わった時に台頭して来たのが人工知能だった。そして、現代では人工知能に勝ち越せる人類は存在しなくなった。数年前にタブレットPCにポナンザという将棋ソフトをインストールして対戦してみたが完膚なまでに叩きのめされた。これは中学生の時にM君と対戦して味わったのと同じ感覚だった。

想像するに、多くのプロ棋士も人工知能との対戦で、一生努力しても届かない壁の存在に気付き、俺が抱いたような鬱屈した心理に陥り、将棋を指す意欲を喪失したのではなかろうか。無冠になった羽生を見ると余計にそう思う。

救いは連勝記録で華々しいデビューを飾った藤井聡太である。人工知能を飼いならす藤井がタイトルを席巻し、復活した羽生が挑む光景を見たいものである。

2020年3月13日(金)

前回の心野動記で将棋のことについて書いたが、本来書こうとしていたことは囲碁とインターネットとの関わりについてだった。その前口上として将棋との出会いを書き始めた所、筆が乗ってしまい、止まらなくなった。前回は「苦しんだ末に結局は勝つ」という某少年誌の編集方針を地で行く展開で自慢話の羅列だったが、それで終わりではない。本当の挫折はこれから綴られるのである。

六年生になって、通っていた竹松小学校は人数が増えすぎたために新設の富の原小学校とで校区が分割されることになった。Ka君とKo君は竹小に、俺は富小に行くことになった。懐古禄にも書いているが、その頃はサッカーに熱中していて、将棋熱はやや冷めつつあった。なにしろ、将棋を指す相手がいないのである。

中学に入ると、これも懐古録で触れたように、思春期の自分を制御するのに手いっぱいの状態で、将棋への優先度は落ちる一方だった。それを知ってか知らずか、父は独断で諏訪にある将棋道場に日曜日に通うように仕向けた。

その将棋道場は退職教員であるH先生が主宰しており、集まったものだけで対局し合う週もあれば、月例会という総当たり戦を一日で消化する週もあり、席料が一日単位だったので朝10時から夕方6時あるいはもっと遅い時間まで指し続けるのが通例だった。集うのは十名前後の将棋愛好家達で、T君のように対戦相手を罵倒する人はいなかったが、棋力的にも性格的にも一筋縄ではいかない強者揃いだった。その中にはM君とU君という同学年の会員もいた。その二人は他の会員から一目置かれる存在で、特にM君は無類の強さを誇り、道場内での最強の座を独占していた。三年間で俺はM君には一度も勝てなかった。

それまでの俺であれば打倒M君に闘志を燃やし、勝てないまでも棋力を向上させていたはずだ。しかし、「将棋の世界でてっぺんを目指すには才能が足りなすぎる」という事実を認めざるを得ない現実を突きつけられ、競争から降りることで、自尊心を保っていたのが俺であった。些細な事であるが、持ち時間が20分しかないチェスクロックを用いた対局は俺の性には合わなかったし、週休一日制の時代に貴重な休日である日曜日に休めなかったり、将棋を指すだけで言葉を交わすこともない俺の社交性の無さもマイナスに作用していた。

この挫折とも言える経験は「自分の限界を自分で設定して自分で諦める」という鬱屈した心理を生み、それ以降は、将棋を意図的に遠ざけるようになった。

年を取った今だからこそ、それもまた大人になる過程だったということが出来る。
「M君に勝ち越すことは出来なくとも負かすこと」という弱者の戦略をひとかけらの躊躇なしに遂行し、
「一年やって駄目なら十年で」という時間に縛られない敢闘精神を本業である数学に生かすことが出来たからである。

2020年3月10日(火)

俺が小学校に入学した年の夏、何の前触れもなく両親から将棋の駒が買い与えられた。封を開けてみると、プラスチック製の箱があり、その中には飴玉ほどの大きさの五角形をなす板切れが多数入っていた。よく見るとと各々の大きさがまばらで、表と裏に黒と朱色の漢字が書き込まれている。これが俺と将棋の駒との最初の出会いだった。

振り返れば、日曜の午前中は教育テレビの「将棋の時間」を布団に入ったまま視聴するというの父の習慣であった。だとすれば、俺も将棋なるものを目にしていたに違いない。更には、将棋はそのルールもさることながら、駒の形状もまた人の心を惹きつけるものがあるのだろう。それらの要素が脳内で結合した結果、俺は駒を目にした瞬間、猛烈に遊んでみたい衝動に駆られた。

しかし、父はあいにくの外出中、弟は2歳に満たないので将棋をやるには幼すぎる、というわけで道を挟んだ向かいに住むK君の家に馳せ参じた。K君の家は昔ながらの縁側があり、その前でK君の名前を呼べば取り次いでもらえるのだ。面倒くさそうな表情で縁側に出てきたK君に将棋の駒を見せ一緒にやろうと提案した。すると、K君は辺りを見渡して、
「将棋盤は?」と聞いてきた。不意を突かれて狼狽した俺は苦肉の策として、箱の底面に折りたたまれて忍んでいる紙製の将棋盤を差し出した。
「これじゃあ、将棋はできんよ」とK君に言われて途方に暮れていたところ、家の中からK君の親父さんが出てきて、無言で紙の将棋盤を手に取り、納屋の奥に消えて行った。

この後の記憶が曖昧で、その日なのかその翌日なのか定かではないが、その紙の将棋盤は升目が引かれた木製の手作り将棋盤と共に俺の下に帰って来た。その盤の裏面には後年「御将棋盤、平坂貢」とマジックで大書され、表の面では父との激闘が繰り広げられることになる。

小学三年生くらいになると、休憩時間を過ごすための室内ゲームが流行する。一枚の紙に領地を定めミサイルや波動砲などの兵器を描いて鉛筆を滑らして敵地を爆破する遊びに皆が熱中したが、先生から「戦争を賛美するとは何たることか」という理由で禁止令が出されると、方眼紙を用いた五目並べが流行するといった具合だ。将棋もそれらの流行の一つで、将棋の学級内への持ち込みが先生から黙認されていたため、流行の期間は比較的長かった。学級内において将棋で負けたことはなかったが、好敵手は学級外にいた。彼ら、Ka君とKo君、との出会いは竹松住民センター図書室でなされた。そこでは『将棋入門』『次の一手』という題目の本が閲覧貸出可能だったため、貸出で競合する彼らと顔を合わせるようになったからだ。お互いの家に遊びに行き、囲碁、チェス、八方桂や安南将棋のようなルールを変えた将棋を楽しんだが、それらは所詮お遊びで、本将棋こそが己のプライドを賭けて挑む唯一のものという位置づけだった。

この頃から大人向けの将棋の本を購入して読むようになった。そこには、矢倉囲い、美濃囲い、穴熊囲い、銀冠、カニ囲い、舟囲い、などの小学生の好奇心を刺激してやまない陣形や、棒銀、角銀中飛車、腰掛け銀、石田流三間飛車、横歩取り、雀刺し、などのプロレス技並みの多様な戦法が解説されていた。好敵手が新しい戦法で勝ち始めると、すぐさま対策が練られるというイタチごっこを繰り返すことで、俺ら三人の棋力は飛躍的に高まった。

四年生の終わり頃、俺は将棋で父に負けることはなくなった。五年生になると、Ka君とKo君と同じクラスに入り、週一回行われる小学校のクラブ活動では三人そろって将棋部に入った。

正に順風満帆な将棋人生だったが、この時期にその将棋人生で最大の屈辱を味わうことになるのである。

次回につづく。


小学校の将棋クラブは顧問の先生と30名ほどの高学年生から構成されていて、学期を通した総当たり戦で競われていた。俺は六年生の新たな好敵手との出会いを期待していたが、その期待は叶えられることなかった。俺は毎週のように手ごたえのない相手と対戦し、無人の荒野を歩むが如く白星を積み上げていった。一学期の終わりになり、Ka君とKo君との対戦が迫ろうとする時に事件が起こった。

ある日のクラブ活動の時間が終わり、顧問の先生も職員室に戻り、将棋盤を片付けて下校しようかという時、将棋クラブのメンバーではない六年生の男が乱入して来て、対戦要求を突き付けてきた。その男の名はTと言った。受けて立ったのはKo君だった。Tは早指しで、口が悪かった。Ko君が指す度に「にゃははは」と嘲笑し、悪口を浴びせていた。「そんなことは言わせておけ」と言えるのは優勢を維持できる間だけである。差し手が進むにつれて、Tに形勢が傾き、悪口は罵倒に変わり、無言で耐えるKo君の目は涙で潤んでいた。

衝撃の敗戦、そして何たる不条理、Tが礼儀正しい人格者であれば負けを素直に認め、尊敬の気持ちを持って再戦を申し込むことも出来たが、それはあり得ない仮定だったのだ。翌週、そのまた翌週もTは現れ、Ka君も俺も惨敗を喫した。調子に乗ったTは遠足での帰り道でKo君をドブ川に突き落とすといういじめに近い蛮行をするようになった。

将棋に対する自尊心を粉々に砕かれ、敗戦の屈辱にまみれた俺の心の平安を回復する術は唯一つ、Tに将棋で勝つことだった。俺はこれまでのTの将棋を分析することから始めた。定跡には囚われない無手勝流、序盤での強引な攻めで相手を受けダルマにして料理するのがTのやり方だった。それを打ち破るためには、序盤に対する意識改革が必要と感じ、鬼殺し戦法や角換わりの後の守備についての本を熟読し、一手の緩手で勝敗が決してしまう序盤の厳しさを頭に刻み込んだ。

月日は流れ、五年生の夏休みがあけた時、再戦の機会が巡って来た。俺は「男子三日会わざれば刮目して見よ」という心境だった。その夏休みに、長い間、一度も勝てなかった親戚のAおじさんにも土を付けたのだ。俺はTの指し手を見て、その意図を完全に把握できるようになっており、強引な攻めを無謀な攻めに変える陣形を構築することが出来た。この時点でTは無言になり、俺もまた無言で、確信した勝利を紛らすことなく、手繰り寄せ、押し切った。

その対局の後、Tは「詰将棋を解けば強くなるぞ」と急にしおらしい態度に変わり、この日を境にTは将棋クラブに顔を出すこともなくなり、再び対戦することもなかった。

その後、Tは郡少年サッカー団の練習に来るようになり、少し仲良くなったのでT君と呼ぶようになった。人生において、悪役は人を成長させるものだと感じる出来事として記憶されている。

2020年3月9日(月)

最近の体の不調をまとめてみた。

久しぶりにXで始まる商品名のガムを口に入れた。しかし、奥歯にくっついたガムを舌で剥がすという作業がうまくいかない。口の内部の頬肉を奥歯で噛む作業を繰り返してようやくガムが舌の上に乗り、奥歯に移動させ、通常のガムを噛む作業が始まるのだがそれも長くは続かない。唾液は溜まる一方で飲み込むのに時間がかかるし、兎に角、ガムを噛む時の心地良さがまるで感じられないのだ。

車の助手席に座っていると、トンネルや山道を抜けた後に強烈な西日に襲われることがままある。眩しくて目を開けられない程で視界には光しか見えず道路状況が全く把握できない。運転席に座る妻は涼しい顔で運転しているので、おそらく何ともないのだろう。こんな症状が出るのは去年からである。ALSとは関係ないと思うが、白内障絡みの何かがあるのかもと心配している。

左足に比べて右足の機能が落ちているのを感じる。一年前は、両足指が未来少年コナンのように反り返り、あらゆる場面で重宝していたのだが、現在は、就寝時に足を組み替える時も苦労する有様である。

先週の水曜日に「作業部屋には上がらない」宣言をしたのだが、それはあっさり覆された。妻が縁側のスロープを台所まで持ってきてくれて、電動車椅子で作業部屋の門扉の前まで移動し、作業部屋に置いた手動車椅子に移乗するという方法で恐怖感を著しく軽減することが出来た。しかし、あまりにも大がかりなので、塾の授業がある時でも作業部屋に上らないで監督する方法を模索中である。

額や眉毛が痒いとき、近くにいる人に頼んで掻いてもらうが、長女は掻いた後、自分の爪を俺の服になすりつけてキレイにしている。その時に顔をしかめているのが俺の心を複雑にする。

2020年3月8日(日)

今日は家族総出で菜の花見物に行って来た。目的地は佐賀県武雄市にある馬場の山桜の周りに広がる一面の菜の花畑である。天気は快晴で大村湾は日光を鏡のように反射して金色に輝いていた。車は高速道路を通り、嬉野ICで降り、目的地までの長閑な田園地帯を駆け抜けた。

「菜の花、名所」を検索語にして最上部に表示されたのが目的地で、その説明文に「山桜の下に広がる菜の花畑」と書いてあり、そこに記してある電話番号を車のナビゲーションに入力したのだ。しかし、車の到着地点は公民館で、山桜があるようには思えなかった。ここで75歳の母が無言で車外に出て軽快な足取りで最寄りの民家を訪ね、呼び鈴を押した。すると、その民家の主が裸足で外に出て母に道順を教えていた。それを見た妻も車外に出て道順を聞きに行った。

どうやらこの近くに山桜は存在するようだ。その教えられた道順通りに走行したはずなのだが、車は辺りを一周して公民館に戻って来ただけだった。ここで、一家の中で唯一方向音痴でない妻が再度挑戦しようと提案し、車は再出発する。途中、畑仕事に出ている地元の方に道を尋ね、三回の迂回の後、ようやく目的地に到着した。しかし、そこには駐車場はなく、山桜を見るためには急勾配の坂道を歩いて上らなければならないのだ。

長女と妻と母の女性陣が下見に行って写真を撮ってくることになった。俺はその写真を見て、車椅子の出し入れを伴う坂道の負担と景色の美しさを天秤にかけた結果、車から出ないことにした。正直、菜の花はどうでもよくて、家族が一緒に行動することが重要なのだ。

帰りの高速道路で大村湾の休憩所に立ち寄り、そこの食堂で夕食のチャンポンをすすりながら西彼杵半島の山々に消えていく夕陽の一部始終を観察することが出来た。

最初にこの文章を書いていた時、三男がじゃれついてきたため、編集中のタブを消去してしまい、一時間かけて作成した文書を復元できなかったことを備忘のために書いておく。

2020年3月7日(土)

俺が幼少の頃、実家の向かいには建設会社を営むIさん一家が住んでいた。その家の次男のK君は活発で運動もできて小さい子の面倒見が非常に良かった。その上、K君は遊びの天才だった。

近所の公園では、放課後になると小さい子供達が自然と集まり、鬼ごっこやかくれんぼや缶蹴り等の古き良き時代の外遊びに興じるのであるが、K君は類まれな統率力を発揮し、集団を興奮の坩堝に導いていた。K君が発する一言で皆が笑い、小さくて弱い子が連続して鬼にならないように配慮するのもK君だった。

ふわボールで野球をする時も同様で、球団を率いる欽ちゃんのように場内アナウンスをしたり、想像上のリリーフカーに乗って登板していた。ローカルルールの設定や判定などの役割もK君が担っていたが、それはガキ大将による独断というよりも、皆が認める全権委任だった。

雨の日などはK君の家で遊んだりするのだが、幾つかのトランプ遊びに順位点を設定して総合点を競うようにしたり、それを紙の上に書いている時のワクワク感は半端なかった。その準備作業だけで日が暮れてしまったことも多々あるのだけど。

とにかく、脳味噌が溶けそうになる程、夢中になって遊んだのは後にも先にもこの時だけだったと思う。今の子供達、というか、ウチの子供達なんだけど、本当に熱中する遊びをやったことがあるのかなと心配になったりする。

あの時とそのままの姿のK君が現れて、俺の代わりに「遊び」を教えてくれないかなあと思う臨時休校中の毎日である。

2020年3月6日(金)

昨晩、深夜に目が覚めた。いつものことなので足を上下に開閉し、冷たい空気を布団の中に送りながら体温調節し、眠気が再び来るのを待っていた。すると、鳩尾のあたりが苦しくなり、「うーん、うーん」という唸り声を上げながら時間を過ごしていた。それに気づいた妻が俺の体の向きを変えてくれたのだが、一向に腹の重苦しさが治まらない。そのうち、布団に熱がこもり始め、寝苦しさに耐えきれず、再び妻を起こし、体の向きを元に戻してもらった。それから悶々とした状態で一時間ほど過ごしていると、突然、吐き気に襲われた。顔の横には敷布しかなかったが、我慢が出来ず吐いてしまった。幸いに胃の中は空っぽで出てきたのは唾液だけだった。そして、胸やけにも似た苦しさが緩和されたような気がした。それを繰り返すこと約一時間、目覚ましが鳴り、妻が起きた。

妻は「オーマイゴッド」とは言わなかったが、それに近い勢いで驚き、唾液がしみ込んだ肌着を交換してくれて、吐き気止めの薬を持ってきてくれた。薬の効果は凄まじく、吐き気も腹の苦しみも消え去り午前六時にようやく安眠することが出来た。その間、妻は幼稚園の遠足に行く三男のために弁当を作っていた。

もう「頭が上がらない」という水準の依存度ではなくなってきたなあ。

2020年3月4日(水)

平坂塾の教室である作業部屋へは台所から五段の階段を上って行かなければならない。先月の尻餅救急車事件以降、車椅子からの移乗には細心の注意を払うようになったし、この階段の昇降時も同様の心構えで臨んでいる。例えば、階段を上る時には、妻が俺の左脇に頭を入れ、交差しがちな俺の両足を矯正しながら一歩ずつゆっくりと上り、もしもの時に備えて、背後に次男を立たせる、という具合である。

今日は数学教室が七時半から始まるのでその前に階段を上り作業部屋で待機しなければならない。いつもの体制で階段を上ろうとするのだが、体が思うように動かった。

まず、足が高く上がらない。妻が俺の足を押し上げて着地させるが、その着地した足の踏ん張りが利かない。そのため後ろ足が動かず膠着状態になる。その動揺から体の重心が左右にぶれ始め、後ろ足の接地部分が爪先から足底の側部に移り転倒の恐怖を覚える。しかし、危険を喚起するための大声が出ず、更なる恐怖と圧迫感に襲われる。いびつな態勢を支える妻の姿勢も曲がり、半ば力づくで階段を上りきり、作業部屋においてある手動車椅子への移乗に成功した。

俺は大きなため息をついてからこう言った。
「作業部屋に上るのは今日で最後にするよ」
それを聞いて意外に思ったのだろう。妻は「教室を洋間に帰るべき」という主張を覆して
「縁側のスロープを使えばまだ大丈夫よ」と慰めてくれた。

塾での指導はインターネットでやり取りする方が効率的だということが分かったので、俺が作業部屋にいなくても何とかなりそうだ。しかし、丸々一年間、生徒たちに数学と英語を教え、数々の再会と語らいの場であった作業部屋と自ら距離を置くことになるとは、何ともやりきれない気持ちである。

2020年3月3日(火)

眠れない夜に考えることの一つが「悪魔の取り扱い」についてである。多神教の世界であれば、多種多様な神々の形態の一つとして、悪魔のような人知を超越する存在を認めてもよさそうに思われる。ところが全知全能の唯一の神が君臨する一神教ではどうだろうか?

そう言う疑問をとある聖職者にぶつけてみた所、
「聖書にも悪魔や悪霊が登場するので、もちろん、悪魔は存在します」という教えが返って来た。
「造物主である神が悪魔を作ったということですか?」と聞くと、
「神が万物を作ったが、神の言いつけに背いた者たちから生じたのが悪魔です」と言われた。

なるほど、聖書の教えを基点とする基督教である。聖書に書いてあると言われれば反論のしようがない。

唐突であるが、味噌汁の話をしよう。出し汁に味噌を投入すれれば「味噌汁を作れる」のだが、投入した味噌がどのように攪拌され、出し汁全体に拡散していくかを熟知し制御出来るのが全知全能だと思っていたのだ。作りっぱなしで後は存ぜぬというのは、唯一神の格に関わる問題だと思うのだが、誰か御教授いただけないであろうか?

2020年3月2日(月)

皆さんは英単語の「meet」と「see」の違いはご存知であろうか?

両方とも「会う」という意味で、後者の方が「見る」という意味や不定詞との連携がありより幅広い用途で用いられる、と言うのが俺の認識だった。しかし、今日の平坂塾英語教室で驚愕の新事実がネイティブスピーカーであるR先生によって明らかにされた。

R先生曰く、
「前者はそれまで会ったことがない人と会う時に用い、後者は何度も会う人に対して用いられます。だから、Nice to meet you は初めて会う人に使うけど、それ以降は、Nice to see you を用います」だそうだ。

正直に言うと全く知らなかったし、学校で習った記憶もない。

以前、英語で西洋人に挨拶した時、Nice to meet you と言った時、その相手は怪訝な顔をした後、Nice to meet you again と言って来たのだった。それを皮肉とは気づかず、
「Nice to meet you again は Nice to see you のように使っていいんだ」と曲解して、それ以降、Nice to meet you again を多用していたのだった。

いやあ、無知とは恐ろしい。

塾生諸君、こんな阿呆な塾長を反面教師にして、AY先生やR先生から多くのことを吸収してくれたまえ。一ヶ月間の空白期間をうまく活用できれば、「カッコいい国際人」や「ちょっとした文化人」になれるかもしれないのだ。

2020年2月27日(金)

新型肺炎の影響で、ウチの子供達が通っている小学校、中学校、高校が三月丸々休校することになった。実効性がどの程度があるかは何とも言えないが、
「それくらい本気で取り組まないと新型肺炎の流行を抑えられない」と言う危機意識を日本全体に徹底させるという意味での効果は抜群だった。

今夜のニュースでも専門家が
「学校は風邪が蔓延しやすい場所で、子供を介してその家族に感染することを防ぐには有効」と言っていたし、致し方ないのかなとは思う。それを承知で愚痴を垂れると、
「一年間慣れ親しんだ級友と担任の先生との別れを惜しむ最後の月が突然なくなってしまった長女の心の空白をどうやって埋めるのか?」
「部活も出来ず、遊ぶ友達もいない長男は一ヵ月どう過ごすのか?」
「学校よりも幼稚園や保育園の方が感染しやすいし感染時のリスクが高いんだけどな」
「妻も子供の分まで毎日三食準備しなきゃいけないから大変だろうな」
「長女と次男の卒業式はどうなるのだろう?」
等と我が家だけでも影響は計り知れない。日本全国の子供を持つ家庭でも同様の悩みを抱えていることだろう。

こういう時に何をするかで人間の真価が分かるものなんだが、ウチの子供達は期待できそうにないなあ。

2020年2月26日(水)

今日は平坂塾数学教室の日である。昨年8月以前は塾生と一対一で二時間の指導を行っていた。そのため塾生の単元に対する理解度を推し量ることが容易だった。前に述べたように、昨年9月に平坂塾の授業形態を一新し、個別指導は廃止して、英語の授業を導入し、数学は自習形態に変更した。それから半年が経った今、数学教室に様々な問題が発生している。それらを以下に列挙してみよう。

1.数学教室で塾生は学校の宿題をすることが多く、先行学習の時間がほぼなかった。
2.定期試験の連続で長期的展望が欠けていた。
3.塾生の学習到達度を把握することが困難だった。
4.自分自身の目標に合わせた学習計画を立て遂行することを塾生に求めたがうまくいかなかった。
5.俺の声が出なくなって、簡単な指示も出来なくなった。
6.パソコンで入力した文字を読み上げる方式は文字入力に時間がかかりうまくいかなかった。

これでは塾生の満足度も下がってしまうし、月謝を出して送り迎えの負担があるご父兄も黙ってはいないだろうと憂慮し、以下の制度を導入することにした。

1.塾生はインターネットを通して一日一問わからない数学の問題を写真に撮って塾長に送る。
2.塾長はその問題を解決するための示唆を送る。
3.楽しく続けることが大事なので、塾生が重圧と感じたらいつでも中断してよい。
4.しばらく様子を見て、改善点を探した上で本格的に実施する。

新型肺炎で喧しい昨今、人と会わないでも指導を受けられる塾と言うのもなかなか画期的で時代に即しているのでははなかろうか?

2020年2月24日(月)

週一回、言語療法士のNさんから自宅で訪問リハビリを受けている。声を出す筋肉や飲み込む筋肉は首の周辺にあるらしい。そのため入念なマッサージの後、訓練が始まる。Nさんは陰気そうにうつむいている俺を励まそうと明るい笑顔と豊富な話題で話しかけてくれるのだが、肝心の俺が「はい」か「いいえ」しか意思表示できないので、会話が一方通行に近い状態になり、申し訳なさが募る。

訓練は、「あ、ん」と「う、い」という発声の繰り返しから始まる。毎回同じことをやっているので、自分がどれだけ声を失っているかが音声として聞こえてくるようで、やはり心が滅入ってしまう。

次は、木べらを舌で動かす訓練である。現在の舌はどんなに頑張っても口の外に1㎝程しか出ない状態である。木べらを押すというよりは木べらに舌が当たった瞬間引いてもらう訓練になっている。左右の動きもまたしかりだ。

本来、リハビリと言うものは、やる度に状態が改善し、そこに指導する側とされる側、双方の喜びが生じるものだ。しかし、俺の場合、週ごとに病気が進行するのを確認する場になっている。ここでも申し訳なさが募る。

唯一維持できているのが、水を入れた瓶にストローで息を吹き込み、あぶくを出し続ける訓練だ。「オッケーです。よくできています」と褒められるのが、嬉しくもあり、悲しくもある。

最後の仕上げは北原白秋が作詞した「アメンボの歌」の朗読だ。ここまでで約40分が経っている。リハビリの前後でその朗読を録音したらその違いは明らかだと思われる。すなわち、短時間でのリハビリの効果は確実にあるということだ。

Nさんの苦労に報いるためにもこのことは強調しておきたい。

2020年2月23日(日)

「うわあ、星が大きい」
三男の声が暗闇の渓谷にこだまする。車中ではスマホゲームに興じ社外の風景に全く関心を示さない次男も子供のように夜空を見上げている。寒いからと車外に出て来ることを頑なに拒んでいた長男も車内から上半身を出して車の上空を見つめている。
北斗七星を見つけ狂喜する長女と「三度目が一番よかったねえ」と言う母、福祉車両の助手席を車外に出す妻とそこに鎮座する俺、その周りは照明が全くない文字通りの真っ暗闇で、天空には月が無い満天の星空が広がっていた。

同じ屋根の下に住んでいても全員が車に乗って移動することは滅多にない我が家族が3時間余り大きな争いもなく狭い車内で過ごすことだけでも奇跡的なのに、各々が満足感を得て行事を終えると言うのは天変地異と呼んでもいいほどありえないことだった。

しかし、ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。。

雪が降ったのが月曜日、黒木平谷トンネルの手前まで雪を見物に行ったのが火曜日、そこで吸った冷たくて程よく湿った空気に触発されて、
「この澄んだ空気の下晴れ渡ったら最高の星空が拝めるだろう」と思うに至った。しかし、翌日の朝の忙しさを鑑みると、週末に限られる。俺は決行の日を金曜日と定めた。

金曜日の朝は雲一つない快晴で否が応にも期待が高まったが、インターネットで星空指数を調べてみると曇りの予報が出てきた。その日の夕方は予報通り雨雲が立ち込め、計画倒れとなった。

土曜日は十年来の付き合いがあるNさん家族を家に招いての夕食会の予定がある。夕食会後、一緒に星を見に行くのも悪くないと思っていたが、Nさんも用事があり、後片付けが残っていて、日曜の教会が控えている状況で、何も手伝えない俺が
「今夜の星空指数は最高だからちょっと出かけよう」と言いだすのは至難の業であった。

日曜日になって気付いたのだが、今週に限っては月曜日が振替休日で学校が休みになるのだ。星空指数は良好だった。俺は妻にそのことを伝えた。元々は妻が
「星を見に行きたい」と連呼していたのだ。もろ手を挙げて賛成してくれるとばかりと思っていたが、
「今夜は子供達を集めて聖書の勉強をしようと思うんだけど」と言われ、はしごを外された形になった俺は不満の意味を表すハニワ顔を作るのが精一杯だった。その日の夕方に
「あああ、今日も駄目か」と思ってパソコンに向かっていると、妻がトッポギを作って子供達にふるまい、「アワビ粥ができたから一緒に食べよう」と言う声が聞こえた。その食事の場で妻が母を誘い、7時半に出発して家族総出で星を見に行くこととなった。

Nさんの話では「星を見るなら雲仙が最高」とのこと。確かにその通りだが往復3時間のドライブは運転手への負担が大きい。次の候補地は五カ原岳だったが、母の
「曲がりくねった山道を走るのは危ないよ」という母の一言でボツになる。

議論の末、家庭裁判所の承認を得られたのは、国道444号線を通って中木庭ダム湖畔公園に行く案だった。俺達家族が乗った車は後続車に道を譲りながら目的地を目指した。ところがである。俺達を待っていたのは、周囲の暗闇を台無しにする明々と灯る公園内の巨大な街灯であった。それでも外に出てみると、自宅周辺よりもはるかに多い星が見て取れた。長女が皆の気持ちを代弁するようにこう言った。
「もっと暗い所に行ってみようよ」

かくして俺達は星空探索の度に出ることになる。二番目の目的地は平谷キャンプ場横の売店脇の駐車場だったが、トイレから発せられる蛍光灯の光のためにまたしても不完全燃焼となる。

時間的にも最後の経由地だと思って選んだのが、黒木にある砂防公園駐車場で、冒頭の話となるわけだ。

助手席が下りて暫くすると、犬の鳴き声があたりに響き渡り、犬嫌いの母と長女が
「早く帰ろう」と言い出し、車のドアに俺の革靴の先端が挟まれるというオチまで付いた楽しい冒険旅行となった。

2020年2月21日(金)

このHPは開設したのは2018年5月だった。その時の文章を読み返してみると、
「この人、本当にALSに罹っているの?」と思う程、脳天気で明るい印象を受けた。疲れたり、転倒したり、症状が酷くなったり、意気消沈する出来事の連続なのだけど、他人事のように「ALSに罹った自分」を描写している感じだ。

『人間失格』の葉蔵のように偽りの仮面を被っていたわけではない。その日その日の気分をそのまま表現してきたつもりだ。そうであれば、当時の俺はそれなりに気持ちの余裕があったということが伺える。あの頃は、学部生、大学院生、教職員、国内外の研究者と挨拶を交わしメールをやり取りするのが日常で、親戚や教会の集まりなども合わせると膨大な数の人々との交流があった。自然と気も張り力も漲っていたことだろう。

ある時からそんな大勢の人々との交流に体がついていかなくなった。学生の指導や研究者としての責任も重圧に感じるようになった。俺に力を与えていたものを自らの手で遠ざけていたのが大村に来る前の俺だった。

大村に来た目的の一つが生活に変化を付けて活力を維持することだった。確かにそれは達成できた。HPを始めたからこそ、大村に移住したからこそ、生まれた出会いや感動で彩られた一年だった。その一方で、ALSによって俺は体の自由を奪われただけでなく、頼られることによって生じる矜持や責任と言う活力の源を喪失してしまったのだ。

それらを取り戻す日が再び訪れることを信じてやまない。なんて書くと、一年後の俺から脳天気と評されそうだな。

2020年2月20日(木)

先週、訪問看護と訪問リハビリを受けた際、
「最近、頭が前に垂れて、肩も内側にすぼんで、腰も曲がって来てるんですよね」と訴えた所、
「車椅子に深く腰掛けるように」
「車椅子の足受けに踵を付けて座り、正しい姿勢を長く保つように」
「奥歯を噛んで、首の筋肉を刺激するように」
「首をゆっくり回す運動を心掛けるように」と言う助言を受け、首と肩周辺の筋肉をほぐしてもらった。

その助言を忠実に実行した所、自分でも実感出来るほど明らかに姿勢が良くなり、前かがみになる癖が解消された。
「やっぱり、専門家は凄いなあ」と思うと共に、
「今までも恩恵があったはずなのに病気の進行のためにその効果を感じる機会がなかったのかもしれない」とも思った。

この場を借りてお礼申し上げる次第である。

2020年2月19日(水)

最近、中一の数学の教科書についてのボヤキが多い。今日もまたボヤキのネタを発見してしまった。それは単項式と多項式の違いについてである。俺は「単項式も多項式である」と思っていたが、インターネットを含む世の中の潮流は「多項式は2個以上の単項式を足したもので、単項式は多項式ではない」と言う定義が幅を利かせているみたいなのだ。

2xは単項式であるが、その定義に従えば、2x=x+xとなるので、多項式になるのではなかろうか。そもそも、どの文字を変数として見るかと言うことを考慮して、単項式なのかそうでないかが決定されるので、その辺りを曖昧にしている教科書や問題集にはいくらでも難癖を付けられるのだ。

我ながら偏屈になったものだ。
「そんなこと、どうでもいいよ。本質が分かればいいんだよ」と言うおおらかな心を持ちたいものである。

2020年2月18日(火)

「文字って何ですか?」
「数字は文字ですか?」
「+や-や=は文字ですか?」
「数学の教科書で用いられる文字とそうでない文字があるのですか?」
「3x=6という方程式を解くと、x=2ですが、xは果たして文字ですか、数字ですか?」
「円周率を表す記号πは文字ですか、数字ですか?」

中学校や高校の教科書を見ても、「文字」に関する言及がないので答えようがない。このようなことは初等教育に限ったことではない。大学における数学教育においても、「集合」は「ものの集まり」と言う言い回しでお茶を濁していることが多い。

「文字」を定義するためには言語としての文字の有限列を用いて記述されることになるので、自己言及になってしまう。

中一の数学は侮れないどころか、その前の学年からの難易度のギャップが激しいという意味で最も難しい単元だと思っている。

2020年2月17日(月)

最近、夜寝る時に息苦しさを感じることがない。なので、熱さや筋肉のこわばりで目が覚めた時も、叫んで妻を起こすことなく平常心で考え事をしながら夜明けを待つことができるようになった。しかし、肺活量や腹式呼吸で空気を吸い込む力は確実に落ちている。であるのに呼吸が楽になったというのは自分でも不可解だった。

寒くなって空気に湿り気が出てきた、横向きに寝る体勢が板についきた、呼吸しにくい状態に慣れただけ、等の原因を考えたのだが、今一ピンとこなかった。しかし、昨晩、その最たる原因が解明されるに至った。

寝る前に妻に向かって
「鼻に何かが詰まっている気がするんだけど」と訴えると、妻は耳鼻科医のように蛍光灯の光で鼻の穴を観察し、脇にあるティッシュペーパーをドリル状に丸め、鼻腔の内側にえぐり込むようにねじ込んだ。そして、サザエ貝から楊枝を使って実を取り出す時と同じ要領で、スライム状になった粘性の高い物体を巻き上げることに成功したのだ。
「ほら、見たら驚くよ。こんな長いのが潜んでいるなんて神秘的だわ」そう言うと、興味を持った三男がやって来て、自分にもやらせてくれとせがんできて、もう一つの穴への発掘調査が始まったというわけだ。

その物体が鼻の穴から除去された後、清浄な空気が鼻を通過して肺が清められるような感覚を覚えた。イスカンダルから持ち帰ったコスモクリーナーで汚染された地球が蘇る感覚と言えば大袈裟だろうが、そのくらいの落差を有する爽快感であった。

2020年2月15日(土)

とある小学六年生に質問してみた。
「マイナスとマイナスを掛けるとどうしてプラスになるの?」
「そうなっているからじゃないの。まだ習ってないからわからないよ」
「じゃあ、お兄ちゃんに聞いて見て」
中三の兄はこう答えた。
「逆向きに歩いている人が過去にどこにいるかを考えればいいんじゃない」

それはそうなんだけど、なんか腑に落ちない思いをした人も多いのではなかろうか。かく言う俺もその一人である。まず上記の掛け算は、時間かける速度という掛け算であり、出てくる答えは位置である。これは数ある掛け算の種類の一つではないのか?例えば、長方形の面積は長さかける長さで求めたはずである。
「長さは量数だから負の数はない」という声が聞こえてきそうだが、それならば、
「数直線上の位置と位置を掛け合せたらどうなるのか?」
「出て来るのは面積のようなものだけど、どうやって正負の符号を割り当てるのか?」という疑問が出て来る。いずれにせよ、特別な掛け算におけるもっともらしい事実を検証なしに他の種類の掛け算に適用するのは如何なものかと思う次第である。

その小学六年生は
「(-1)(-1)=(-1)なんじゃないの?」と真顔で聞いてきた。俺は彼女の頭でどんな思考がなされたのか手に取るように分かった。数直線は左右対称なのだから正の数側で起こる出来事は負の数側でも同じことが起こると考えたのだ。数直線と言うのは実数を視覚化した概念で、足し算や掛け算がどのように定義されているかは中一の教科書には言及されてない。(-1)と1の役割を入れ替えて乗法を定義しなおすことは可能なので、上記の問いかけを間違いだとも言えないのである。

結局の所、量数における足し算と掛け算を数直線全体に拡張するという仮定の下で丸く収めるのであるが、そういう事を中学生に言っても分からないだろうという理屈で、ほとんど全ての中学生が煙に巻かれることになるのである。

このままではオチにならないので、とある数学者から伝授された説明を以下に示す。
1.両手の人差し指を横に向け、二つのマイナスを作る。
2.その二つの指を交差させ、×の記号を作る。
3.交差させた二つの指を45度回転させて、+になるのを確認しよう。

2020年2月14日(金)

「ジューシーハンバーグ料理教室」
これは大村市で最も有名なアイスクリーム店の一角に貼られたポスターの題名である。
「参加したら楽しいだろうなあ」と思った。妻の運転でドライブしていると「手作り味噌」や「手打ちそば」など、立ち寄ってみたいなと思わせる看板が目に入ってくる。「~祭り」や「~講演会」などの大村市のイベントも盛り沢山だし、空気が澄んだ晴れた日は周辺が絶景スポットだらけになる。

たとえ俺が健康体だったとしても、仕事と家庭と趣味に時間を費やすだろうから、好奇心の赴くままに行動することはしないだろうし、それは許されないだろう。ここであり得ない仮定の下で思考実験してみる。

もし俺の健康が突然回復したら?

(1)職場復帰の準備を整える。これが最も現実的だし最も望んでいることなのだが、当たり前すぎて面白みに欠けるので、他の可能性を模索してみよう。

(2)高画質のスマホを片手にその日に起こった面白い出来事を記録し、写真と動画を添えて地方都市での生活の素晴らしさを文章にして内外にインターネットを通して発信する。こういう趣味が高じて、閲覧数が上昇し人はブロガーになるのだろう。趣味と実益を兼ねた理想的な生活かもしれない。でも、いざ健康になったら、インターネットに興味を失うような気がするんだよなあ。

(3)映画「フィールドオブドリームス」のように自宅裏に室内フットサル場を作って、そこの管理人として、時には専門家からレッスンを受け、肉体改造とサッカーの基礎を学びたい。子供達が学校から帰ったらフットサル場で遊ばせたい。しかし、赤字で長くは続かなそう。

(4)やっぱり、平坂塾を充実させたい。現在の塾生を一期生として育て上げ、塾生数を増やして部活動のような組織を作り、学校帰りに塾に集まって勉強を教えあうような学びの場を作りたい。しかし、その場合、他の家族よりも早めに夕食を摂らねばならず、妻がつむじを曲げそうだ。

よく考えると、(4)だけは闘病中でも実現可能ではないか。というわけで、二期生となる塾生を募集中です。



2020年2月13日(木)

昨日、一昨日は国語を槍玉に上げたが、国公立大学の人文系学科を志望する人にとっては
「あんなにややこしい数学、しかも入試が終われば自分の人生に一度も登場しない可能性の高い数学に対して膨大な時間を費やすのは無駄ではないのか?」と主張するのは自然な事だろうと思うに至った。

数学を生業とする立場から上記の主張に幾ばくかの反論を試みるべきなのだが、
「嫌いな科目を勉強するのは我慢比べみたいなものだからなあ」
「俺も運動音痴だったからわかるんだけど、数学が苦手な人は『やってはいけない勉強法』を平気で数学に用いるからなあ」
「そのようなボタンの掛け違いを矯正するだけでも莫大な時間が必要になるからなあ」
「しかも数学のマークシートは四択ではないから、満点の四分の一さえも保証されないからなあ」
「教科書の内容を正しく理解することが重要なのに、例題の解法を暗記する学習法が幅を利かせている状況では、数学の受験勉強は苦痛そのものだろうなあ」
「論理的思考とよく言うけど、それが身に付くような教育が徹底されてないし、入学時にそれが身に付いている学生の割合は一割未満だからなあ」等と言う考えが頭に渦巻き、口をつぐませてしまうのだ。

そもそも、学問や教養は役に立つことを期待して励むものではなく、嫌々ながらやっていたけど後になって重要であることが分かったという類のものかもしれない。我々は九九段の暗記を通してそのことを実感したはずである。

2020年2月12日(水)

前日は国語が重んじられる入試制度に疑問を投げかけた。これは国語教育を軽視していることを意味しない。むしろ、小中高での国語教育には今まで以上に時間を費やすべきだと主張したいくらいである。

小学校の国語教育は素晴らしいと思う。膨大な量の漢字を覚えるだけでなく、一つの漢字の多様な読み方や用法をどうやって身につけたのか自分でも不思議に思う程である。しかも、日記や感想文のような作文の時間も十分に確保されており、他の教科も日本語で学ぶので自然と語彙力が増強される。

中学校ではより高度な文章を読解する力が要求されるが、基本的には小学校で学んだ国語力を磨き上げる場だと思っている。作文の時間が足りない、と言うか、作文技術を体系的に教える教科課程がない(少なくとも俺は習った記憶がない)点が懸念事項である。作文は創作物であり個性でもあるので優劣は付けられないという見方もあるが、推敲と言う言葉があるようにより良い文章の目安と言うものがあるはずだ。会社や役所で用いる公文書は「いつ誰が読んでも同じ意味で理解される」という普遍性が不可欠であるのに義務教育で体系的に学ぶ機会がないのは如何なものかと思う。

高校での国語教育は俺のような素人でなく専門家集団の批判に晒されるべきだと思う。大学側は人文科学の専門書を読んで理解するような国語力や古今東西の文学作品を味わう感性を養成すべく入試問題を作成しているふしがあるが、高校側は「時間を掛けて努力を積めば到達できる道筋」を生徒側に提示できず、生徒側は読書量や要領で現代文の読解問題の準備をしているのが現状ではなかろうか。要約すると、高校の現代文の授業は受験対策にも読解力養成にもなっていないものが大部分ではないか、その結果、大学における教養課程が空洞化している、と言う主張である。ここで言う空洞化は専門書一冊さえも読み込むことなしに過去問が繰り返される暗記力が勝負の定期試験のみの評価で単位が簡単に取れてしまうことを意味する。

教育の現場では、優れた国語教育を実践されている方が多数いらっしゃることだろう。上記の物言いは偏った経験に基づいた浅薄な知識しかない偏屈な素人の戯言とご理解いただければ幸いである。

2020年2月11日(火)

今年度のセンター試験の国語の問題を解いてみた。何十万人もの受験生の優劣をつける試験なので難易度が上がるのは致し方ないと思うが、大学で勉強する能力の有無を問う試験として適当なのかという疑問が湧いてきた。

この疑問を論じる前に「日本の大学で求められる人材とは?」について考えてみたい。一部の例外を除いて、日本の大学でのほとんどの講義は日本語でなされる。そして、レポートや試験問題も日本語で書くことが要求される。それに見合った日本語能力が必要だとは思う。しかし、これは文系科目の話で、理系科目には該当しない(と思う)。

数学に限って述べれば、大事なのは数学の内容を理解することで、日本語能力は問われない(はずである)。俺の経験を一般化することは出来ないが、数学の講義は日本語で聴いても理解できるものではなく、自分で教科書を丹念に読み込むことで初めて理解できるものなのだ。極端な話、数学が抜群に出来て日本語が全く出来ない学生でも将来有望と目されることだろう。他の理系科目であっても、専門性に秀でた者が高い評価を受けるであろう。そうでなければ、留学生は行き場がなくなるだろう。

最初の疑問に戻るが、センター試験の国語の配点は200点で、そのうちの100点が古文と漢文である。そして、文系理系を問わず、ほとんど全ての国公立大学が国語を含めたセンター試験の合計点で合否を決めているのである。日本の文化を教養として身につけた上で大学に来てほしいと言うお上の声が聞こえてきそうなこの制度は、専門馬鹿や日本語が不得意な者を切り捨てているだけでなく、理科や社会等の専門となり得る科目への学習時間をも削減しているのである。

インターネットの発達で言語の壁が低くなり、情報技術への専門性が求められる分業化した現代社会において現行の入試制度への疑問が膨らむ今日この頃である。

2020年2月10日(月)

「渇いた喉に冷たい水がしみ込むような生きる手ごたえ」
これは幼少の頃に放映されていたアニメ『新巨人の星Ⅱ』の開幕曲の一節である。御存じない方のために説明すると、『巨人の星』は父から野球のスパルタ教育を施された飛雄馬の成長を描いた漫画であり、『新巨人の星』では左腕の酷使により再起不能になった飛雄馬が草野球の助っ人代打で打席に立つ場面から始まる。

あんまり卑屈になりたくないのだが、運動して汗が出て喉が渇くという状況を招いてはいけない病気に罹っているし、冷たい水が喉を走り抜ける爽快感も味わうことが出来ないほど飲み込む力が衰えている。

つい一か月前はストローで注意して口に含めば、水もお茶も飲めていたのだが、ここ二週間、水やお茶が喉を走る速さに気道弁が閉まる速度が追いつかず、咽を引き起こす頻度が増大している状況である。そのため、水やお茶のようなサラサラの飲み物を口に入れる時はトロミ剤を入れて飲んでいる。

飲む前はトロミ剤を入れるのに抵抗があったが、一口飲んでみて、味が変わるわけではないこと、咽ないという安心感が増したことがわかった。それからは積極的にトロミ剤をいれるようになった。

もしや、このことが「喉にしみ込む」状態で「生きる手ごたえ」を味わうことかもしれない。

2020年2月9日(日)

とある小学六年生の女子に中一の数学を教えることになった。俺は誰に対してもそうするように教科書の音読を命じた。彼女が数頁読んだ後、機械音声を用いて質問してみた。
「負の数とは何ですか?」

彼女は教科書に書いてあるとおりに
「0より小さい数」と答えた。すかさず俺が
「そんな数あるのかな?」と聞くと、彼女は
「あるに決まってるじゃない。教科書にも出ているんだから」と答えた。
「ミカンの個数とかだったら、0より小さい数はなさそうなんだけど」
「でも、温度計にもマイナスがあるじゃない」
「それだって、絶対零度から数えたら正の数になるんじゃない」
「そんなのは言葉遊びで、私を困らせるために言ってるんでしょう。数があって、それが「ばーっ」と反対側に行ったのが負の数なの」
「どうして180度回転させるんだよ。30度でもいいじゃないか?」
「あー、もう」

そもそも、個数、量数、位置は異なる概念である。それらを取り扱う数学も異なるはずである。例えば個数の世界では1-2=0とするのがもっともらしいと主張することができる。そのことを考慮せず、位置の概念のみを重用し、初学者には得体の知れないものであろう負の数を既定せず、大小関係までも予め知られているかのように記述するのは乱暴すぎるのではないかと思う。しかし、教育現場では
「人類の脳には無限に伸びる直線という概念が内蔵されており、その直線上の点ごとに名前を付けた数直線という概念も容易に理解できるだろう。その数直線で、個数、量数、位置を統一的に扱おう」という暗黙の了解があるが故に、「0より小さい数」が負の数の定義としてまかり通っているのである。

そのことは、中学生の負の数に対する理解を容易にする一方で、数に対する好奇心を養う機会を奪うという功罪があると思う。

2020年2月6日(木)

1993年の秋、サッカーのW杯アメリカ大会出場を賭けたアジア最終予選がカタールで開催された。二勝一敗一分けで迎えた最終戦で勝てばW杯への初出場が決まるという状況だったが、試合終了間際に痛恨の同点弾を喰らい、W杯への道を閉ざされた。これは「ドーハの悲劇」として今でも語り継がれているので、平成生まれの方々もご存知のことだろう。

あの時思ったのは、
「この我々が生きている世界とは別に、アメリカ大会に出場している世界があるのではないか?」
「それだけでなく連続的もしくは離散的に変化する様々な世界があって、個々の意志が徘徊しているのではなかろうか?」
「全人類が同一の器に入り同一の時間で生き死にを繰り返すと言うのがそれまでの死生観で、運命と言うのは予め決まっていると思っていたけど、果たしてそれは正しいのか?」
「量子力学に出て来るシュレディンガーの猫みたいなことが頻繁に起こっているのがこの世の中で、猫の生死が世界を離散的に二分割しているのではなかろうか?」と言うことで、それを友人に伝えると、
「それはオカルト雑誌によく載っているパラレルワールドだよ」と一蹴された記憶がある。

これまでの俺の人生を振り返れば、ほんのわずかな差で丁半がひっくり返り大惨事になりかけたことが一度ある。

俺が小ニの時の話である。実家の二階には石油ストーブが置いてあり、マッチを用いて点火する仕様となっていた。ある夜、俺は一人で二階に上り、マッチを擦って石油ストーブの点火を試みた。火が灯ったマッチの炎は美しく、マッチの上から三分の二が真っ黒な消し炭になるまで見入っていた。通常はストーブを載せる金属製の台の上に消し炭を置くのであるが、俺は何の気なしにその消し炭をゴミ箱に放り込んだ。そのゴミ箱はビニール製だったが、しばらくは何の音沙汰もなかった。それから先の記憶があやふやなのだが、水色のゴミ箱から白煙が上がっているのが見えた。慌てた俺は隣の部屋の洗面所に行ってコップに水を注いで再びゴミ箱の元へ向かった。なんと、ゴミ箱の中のちり紙に引火して火柱が上がっていたのだ。俺は一も二も無く持って来た水をゴミ箱に投じた。「じゅううっ」と言う音がして火柱が消えたのは僥倖だった。何度か洗面所とゴミ箱の間を往復して消火活動に従事した後に残ったものは、ドロドロに溶けた水色の塊と円形に焦げた跡が付いた畳であった。

何かが一つ狂えば築八年の実家は全焼したかもしれず、そうなれば経済的打撃を受けたであろう家族の中で育ち、消えない心の傷を負った俺は今とは完全に異なる人生を歩んだに違いないのだ。いや、異なるパラレルワールドに行ったと言うべきだろうか。

ひょっとしたら、このような運命の分岐点は俺が想像するよりも遥かに多い頻度で存在するのかもしれない。それらを全て運命だからしょうがないと諦めるより、分岐点ごとに意志の力が働いてより良い世界が開けると思う方が救いがあるような気がするのだが、いかがなものだろうか。

2020年2月5日(水)

またしても移乗に失敗した。

平坂塾での指導を終えて、作業部屋から台所までの五段からなる階段を下りる時だった。妻が俺の脇に潜り込み俺を立たせて、階段を下りる時は妻が階段に膝を立て、その膝を椅子代わりにして一段ずつ下りるのが通例である。

昨日の尻餅事件のため今日は万全を期して前後に長男と次男を配して階段を下るのだが、足の裏が階段に接地せず上滑りの状態になって、雪崩のように全身が伸びきってしまった。後ろから引き上げようとする力が働くが、その力が可動域が小さくなっている右肩にかかり、捻れによる激痛で悲鳴を上げたため、全ての力が重力に委ねられ、台所の床に尻餅を付くこととなった。

転んでもただでは起きないのは妻の特性でもあるようだ。妻は昨日の救急隊員の救助方法を記憶していた。俺の両腕を胸の前で交差させ、次男に俺の右側から足とベルト穴に手を掛けるように指示し、妻は左側に、長男は足側から、俺の体を抱え上げ、見事、移乗に成功した。

この「出来ていたことが出来なくなった」精神的打撃は測り知れないほど大きいのであるが、「昨日も今日も、思わず笑ってしまったよ」と言う妻の明るさに救われている。

2020年2月4日(火)

去年の四月に中古車を購入した。八人乗りの福祉車両で、電動で補助席が下りてきて、車椅子との移乗を容易にする機能が付いている。その手順は以下の通りである。

1.俺が乗った車椅子を前向きに助手席ドアの後方に設置。
2.助手席のドアを開けて、リモコン操作で助手席シートを下ろす。
3.車椅子のブレーキをかけて、足受けを外す。
4.車椅子前方に立った妻が俺の腰を抱えて一緒に立ち上がる。
5.俺の踵を中心に回転し、助手席シートに着席。
6.リモコン操作でシートを上げて元の位置に戻す。

今日もその手順で移乗を試みたが、4の段階で十分な高さまで立ち上がることが出来ず、かと言って後方の車椅子に座ろうとするもお尻の位置がずれて、車椅子の座席のやや前方で空気椅子の状態になり、緩やかな速度でコンクリートの床に落下した。

こうなってしまうと、妻一人の力ではどうにもならない。平日の14時半なので自宅には誰もいない。自転車で下校する女子中学生二人組に助けを求めようと提案するも、妻は黙ったままだ。

妻の決断は早かった。携帯電話で119を押し、救急車を呼んだ。三名の救急隊員から抱え上げられ無事に車椅子に座ることができた。サイレンの音を隣家で聞きつけた母が顔面蒼白で現れるも、外傷はなく、ただ尻餅を付いただけと言う決まりの悪さから話す気になれず、無言で押し通した。

どうしようもない状況だったとは言え、尻餅ごときで救急隊員まで呼んでしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだった。妻も同じ気持だっただろうが、世間体を気にしない、俺みたいな俗物を超越した妻の心の強さを見た思いがした。

救急隊員の皆様へ、救助していただいて本当に助かりました。この場を借りてお礼申し上げます。

2020年2月3日(月)

今日の英語教室では先週に引き続きリンキング(linking)に関する授業が行われた。英語の文章を読む時に単語の一つ一つを区切って読むと、言い終わるのに時間が掛かるし、言いにくい、等の問題が発生する。そこで連なる単語群をあたかも一つの単語のように発音するということだ。これが出来ないと聞き取れないし、聞き取ってもらえない。

授業を聞いていて思ったのが、こういうことを十代の頃から知っていれば俺の英語も少しはましになっただろうになあと言うことである。このリンキングを意識するだけでも随分と英語が流暢に聞こえるものなのだ。日本語でも「ん」と母音が重なった時はリンキングが起きるのだが英語のように頻繫ではないし体系化もされていない。ちなみに韓国語ではリンキングだらけで、これが出来ないが故に聞き取ってもらえないことを身をもって経験している。

我田引水になるが、こういった学校の英語学習では素通りする部分を学べるところが平坂塾英語教室の特徴であり、差別化が図れる点である。

2020年2月2日(日)

二年前、釜山のとある大学病院に検査入院した。それ以前から、左手に力が入らない、斜面に立つと不安定になる、運動機能が低下し続ける、という症状が現れており、主治医からの「一刻も早く検査してください」という勧告に従ったのだ。

その頃の俺は歩き方が少し変なくらいで、50mの全力疾走も可能だった。一週間の検査入院の期間もスクワットやケンケン歩き等の鍛錬を夜の人気のない病棟内で黙々とこなしていたのだ。不安だったが悲愴感はなかった。いつものことであるが根拠のない自信が発動し、
「パーキンソン病でも五年くらいは仕事を続けられるだろう」
「運動神経病は個人差が激しいというから、きっと俺も大丈夫だろう」
「運動を続けていれば進行も遅くなるだろう」
「どんな環境でも楽しく生きていけるはず」
「まさか、瞳孔しか動かない状態になったりはしないだろう」
などと楽観していたからである。

検査後、主治医から
「パーキンソン病ではないです。ALSではない運動神経病です。遺伝子検査が必要ですがケネディ病ではないかと思います」と言われ、妻と共に喜び合った記憶がある。
あの頃は、呂律も回っていたし、車の運転も出来たし、指も器用に動いたし、スマホの操作も出来た。何より、着替え、排せつ、入浴等の身の周りのことを一人でこなすことが出来た。サッカーは出来なくなったけど、家族がいて数学があれば十分に幸せだろう。そんな風に思っていた。

まさか、難病中の難病のALSに罹るとは、二年後に喋れなくなるとは、夢にも思ってなかった。あの頃の俺は
「後で後悔しないように元気なうちにやれることは全部やろう」と思っていて、それなりに行動してきたが、今となっては、
「あれだけの時間と健康が存在したのに、時間を無駄に使ってしまった」と後悔している。

おそらく、二年後も同じように後悔の念を綴っていることだろう。いや、パソコンを操作できるかも怪しい所なんだけど。

2020年2月1日(土)

韓国全体ではどうなのか定かではないが、少なくともウチの子供達が釜山で通っていた幼小中高では給食制度があった。しかも高校では夕食もあって、子供達の話では
「こんなに肉がたっぷり入った料理が給食で出ていいの?」と訝るくらい、栄養価が高く美味しくて量が多い給食が出て来るとのことだ。

その真偽に関してだが、これまでの経験から「真」の公算が高いと思う。闘病記(釜山編)でも書いたが、浦項工科大と釜山大の学食は安くて美味しくて主菜以外のおかずと御飯は取り放題だった。学校ごとに大規模な厨房があり、炊き立ての御飯を供給出来、韓国料理自体が大人数で食べるのに適している、国民全体の食べ物に対する関心が高い、等のもっともらしい理由が次々と浮かんで来るのも「真」と思う理由となっている。


その四人の子供達が昨年の四月から大村の幼小中校に通うことになったわけだ。幼稚園は週二回は弁当、小中は給食、高校は弁当である。給食組の次男と長女は大村での給食に不満たらたらで、俺は
「釜山と比べたらそう思うのも仕方ないだろうな」と思っていたが、最近、
「40年前の俺の時代と比較して、質が落ちているのではなかろうか?」という疑問が芽生え始めた。更に踏み込んで、
「俺らが食べていた給食は費用面での無駄が多かったのではないか?」と思うようになった。

「パンと牛乳は果たして必要だったのだろうか?」
「猫の目のように献立を変える必要はあったのだろうか?」
「時間とともに味が落ちる揚げ物は無くてもいいのでは?」
その当時、減反政策が行われていたくらい米が余っていたのだ。パンと牛乳を白米御飯に替えれば、費用も安くなるし、米の内需も拡大したはずである。
極端な話、毎日、豚汁と御飯でも栄養や美味しさの面での満足度は高まると思う。安価で手に入る季節の野菜を用いた大鍋料理に特化すれば費用も削減されるし、同じ献立を作り続けることにより味も美味しくなるはずである。
子供に迎合して洋食を増やすのは愚かだったと思う。冷え切ってケチャップの味しかしないスパゲティとか予めドレッシングが掛けられているサラダとかではなく、煮魚とほうれん草のお浸しで十分である。

今一度、給食制度に関して真剣に議論すべきではないかと思う今日この頃である。

2020年1月31日(金)

昨晩は午後11時に就寝して、午前2時に目覚め、午前6時まで眠れず悶々として過ごした。その間、鼻で大きく吸って肺を最大限に膨らませた後、口から少しずつ吐き出す呼吸法を実践していた。しかし、腹筋力が衰えたせいで以前のように多くの空気が取り込めない。この状態が慢性化すれば肺細胞が減少し肺年齢を押し上げるのだろう。

午前9時半に起きた寝不足の俺を待ち構えていたかのように妻がスマホで説教の動画を見せに来た。ここ一週間妻とは基督教のとある教理を巡り、捕鯨問題のような互いに歩み寄る事のない不毛な議論を繰り返してきたのだが、その説教の内容こそが妻が辿り着いた結論だと言うのだ。妻は
「自分の意見は変わらないけど、そんなことで教会の分裂を招くのは愚かなことだ」と言った。この件に関して助言をいただいたCさん、I牧師夫妻、S教授、L教授、稲葉先生(助言をいただいた順序)にこの場を借りて感謝したい。

午後2時から長女が通う予定の中学校の入学説明会に出席した。休職中でなければ決して参加することはない会合で、昔ながらの校則の説明など、ある意味で非常に新鮮だった。会場は中学校の体育館で、スロープばないために数人の教員の方々に助けられて階段を上った。開会前、校長先生が車椅子の前まで来られて、「スロープが設置されておらずご苦労をかけてすみません」と仰ったばかりでなく、閉会後、我々を先導して人混みをかき分けて、階段を降りるのを手伝い、車まで見送りしてもらった。
「普通、校長先生がここまでのことはしないのになあ」との思いから、恐縮することしきりだった。この場を借りてお助けいただいた皆様に感謝したい。

2020年1月30日(木)

俺の寝室には移動式のテーブルがあり、その上にパソコンを置いてこの文章を綴っている。寝室は小さな間取りで暖房が効くので、布団やガスストーブ等の暖を求めて子供達が自然と寄って来る。一週間前は、長男がスマホで音楽、次男がスマホでゲーム、長女がスマホで漫画、三男が妻のスマホで動画鑑賞、という無政府状態だったが、今日は違った。長男はまだ帰宅せず、次男は聖書の黙読、長女と三男は布団の上でふざけあっている。

これは今週の月曜日に発令された「許可なく電子機器に触れるべからず法」の影響である。スマホ依存症の危険が叫ばれる中、インターネットを貪り続ける子供達を憂慮した妻が大英断を下したのだ。

発令当初は抵抗勢力による示威活動が起こったが、妻の硬軟使い分ける政治手腕が功を奏し、鎮圧に成功したというわけだ。しかし、抵抗勢力が虎視眈々とインターネットの使用を画策している、予断を許さない状況であり、今後の動向が注視される。

2020年1月29日(水)

夕食時、長女が一枚の紙きれを食卓に置いた。そこには、長女が描いた水彩画が何らかの作品展で銀賞を受賞し、2月1日から大村市のコミュニティセンターの一室に展示されると書いてあった。その絵は授業参観の時に教室の前に張り出されていたものの一枚だった。参観日の日に冗談半分で
「他の絵とは次元が違う出来映えだな」と言うと、長女は親指と人差し指でVの字を通リ、それを自らの顎に当て、
「へへへ、そうでしょ」とにっこり笑った。長女があまりにも自信たっぷりだったので、「異次元の下手さだな」というオチを言い損ねた覚えがある。

その絵は大村の自宅の一階から眺めた月夜の光景がモチーフになっていて、窓枠が画用紙の中で斜めに描かれていて、かなり奇抜な構図なのだ。全体の色調は群青色で、初夏の月が浮かび上がるような色の対比も独特なのだ。

俺は長女を呼び「マイドジ」と声を発すると、察した長女は膝の上に置いている俺の拳にハイタッチをした。俺が患っている不治の病は一つだけではなかった。どこかで
「親バカ、いっちょうあがり」と言う声が聞こえてきそうである。

2020年1月27日(月)

今年のセンター試験の数学Iの問題を解いてみた。

穴埋め問題になっているので、「ここは二桁の整数、あれ?答えは分数になるのにおかしいなあ。と思ったら括弧の外に係数が付いてた」のような受験生を混乱させるようなノイズと戦いながら空欄を埋めて行った。手が動かないので、全て暗算で計算しなければならず骨が折れる作業だった。

最後の問題はデータの分析で、知らない定義を検索しながら解いた。
「これは俺が親しんだ数学とは別の何かだよなあ」という思いが付きまとったが、これも時代の流れなのだろう。老兵は去り行くのみである。

余談であるが、世界史Bを解いてみた。ちなみに高校の頃世界史は得意科目で8割から9割の正答率を誇っていた。しかし、最初から解き始めて、自信を持ってマークできる設問が一向に現れないのでやる気を消失した。改めて受験生って凄いんだなあと思った。

2020年1月26日(日)

釜山の自宅は22階建てアパート(マンションと言う方が正確かも)の2階の部屋だった。冷暖房がよく効いて防犯性に優れる一方で、上階と下階からの騒音という問題があった。

数年前の話であるが、自宅の真下には耳が遠いおばあさんが住んでいて、時間を問わず最大音量でテレビを視聴していた。その音波が鉄筋を伝って不気味なうなりとして響いてくるのである。最初は我慢していたが、そのおばあさんから「子供の足音がうるさい」と逆に注意されたことで関係がこじれてしまった。以降、ウチの子供達が少しでも跳ねたりすると怒声が飛ぶようになった。その後、そのおばあさんは痴呆症が悪化して家族に引き取られていった。代わりに入居して来たのが、幼子連れの夫婦だった。それ以降、下からの騒音はなくなったが、俺ら家族が騒音を立てるのに敏感になり過ぎて、子供達だけでなく我々夫婦もやや窮屈な生活を強いられた。

騒音と言うのは上から下に聞こえるものである。実際、自宅の真上の住人の話し声はトイレの通風口から漏れ聞こえてきたし、木工作業をする音、室内でサッカーをする音、携帯電話のアラームの振動音、ピアノの音、等が聞こえてきた。しかし、3階の住人とは会えば必ず挨拶する知り合いだったので、腹も立たなかったし抗議することもなかった。人間と言うのは不思議なものである。ピアノの練習をしている様子なのだが、同じ曲を間違えながら繰り返し弾くのである。時が経つと共に段々上手くなっていって、俺もその旋律を楽しむようになった。ただし、曲名は分からず、ピアノのコンクールか何かの課題曲で、クラシックのようでそうでないような、なんか元気が出る曲だった。

大村に移住してからしばらく経ってからのある日、長女が鼻歌でその曲を歌い始めた.俺が、
「何の曲?」と聞くと長女は
「あ、ほら、3階の人が弾いてたじゃない」と言った。そのことを不思議にも思わず月日が流れたが、昨日、YouTubeで偶然に聞き覚えのある旋律が耳に入った。曲目は「千本桜」だと記してある。その単語で検索してみたら意外な事実が分かった。この曲はVocaloidというジャンルの曲で、その道では大変有名な作品だというのだ。早速、初音ミクが歌う歌詞付き映像付きの千本桜を視聴したが、懐かしさもあって泣いてしまい、処方されたばかりの目薬のお世話になった。

2020年1月25日(土)

最近、インターネットで入手可能な英語のリスニング練習問題を解いている。そうやってわかったことは、自分の現在の語彙力と言うのは高校生だった頃とほぼ同じだという事実である。やはり、馴染みのない単語や連語は聞き取れないものだし、聞き取れても意味が分からなければ四択で選んだ答えも不正解となるものである。例えば「This milk has gone off」と聞いても、「この牛乳は腐っている」という意味が分からないと正解を選べないのだ。

初期の平坂塾では高校生への英語指導を謳っていたが、専門家であるAY先生に英語教室の授業を委託することが出来て本当によかったと思っている。

今週の水曜日は通常であれば数学教室なのだが、英語教室の月平均四回という規定を達成するために差し替えになった。そして、通常の授業形態ではなく、個別指導方式で行われた。やはり、高校での英語学習抜きでは単語力や文法力の上達は覚束ない。高校での英語学習の状況を個別に把握することで、その水準にあった適切な指導ができるのだ。

塾長として二時間の指導を観察していたが、双方向性が高まったことで塾生達の表情が生き生きしているように感じた。願わくば、この指導を学習意欲の向上に繋げてほしいものである。俺も千里の道の一歩目を踏み出したばかりだ。

2020年1月24日(金)

震災等の人の生命に関するドキュメンタリーをテレビで見ると涙が止まらなくなる。同時に目に涙がしみて目が開けられなくなる。濡れたタオルで拭えば一時的には収まるのだが、また涙があふれて来るので元の木阿弥である。そんなことを繰り返して早一年が経とうとしている。

唯一の対策はそのような番組を見ないことだが、もしかして医学的な理由があるかもしれないと思い、近所の眼下に診察を受けに行くことにした。医師から
「目ヤニが多いので、細菌の有無を検査するので来週また来て下さい」と言われ眼科を後にした。

その後、妻と気晴らしにドライブに行くことになり、大村湾グリーンロードを往復して来た。その詳細は漫遊記に綴られている。

2020年1月21日(火)

病気は徐々にではあるが確実に進行している。足が常に交差し、立ち上がる時の初動も弱くなった。以前は足の親指を立てて靴下を自力で脱ぐことが出来たが、今は出来ない時が多い。作業部屋への階段を上ると以前との差異が顕著になる。妻だけの介助では十分ではなく、足を持ち上げる役割が必要になる。

右手の手首を回転させる運動も難しくなった。指を開くことも出来ない。左腕の筋肉も衰えている。

最も深刻なのが、腹筋の衰えである。椅子に座った状態で前かがみになる事さえ困難な状況である。かろうじて首だけは自由に動くので、こうして文章を入力できているのだが、いつか首を動かせなくなる日が来るのだろう。それが一番の心配事である。

今までたいした苦労もせず、深刻な困難にも直面せず、のほほんと生きてきたツケを払わされているのかもしれない。
「首が回らない」とはよく言ったものである。

2020年1月20日(月)

「あなたの街に応援に行きます!」というのは、広島の超人気歌手であるHippyがクラウドファンディングで集めた資金で全国各地で頑張っている人々を訪ね、歌で応援するという企画の名称である。

昨年の12月1日に平坂塾の教室である自宅の作業部屋で「君に捧げる応援歌」と「きんさいや」の二曲の熱唱の場に立ち会ったことは闘病記に綴っている。すなわち、俺もHippyの歌で励まされた一人というわけだ。

あの時は感動して号泣してしまったんだけど、まあ俺は当事者だったし、病気のせいで感情を制御できないし、本当に感動していた、というやんごとなき理由があるからしょうがないわけだ。今回、上記の企画のダイジェストがYouTubeで公開されていて、それを視聴してみて、泣いていたのは俺だけではなかったという事実が判明した。

やはり歌の力って凄いなあと思ったし、より多くの人々にHippyの歌を知ってほしいと思うので、当HPでは初のリンクを貼ろうと思う。

https://www.youtube.com/watch?feature=share&v=ms2uAP7E3Wc&fbclid=IwAR21WqHU5BslTRKVohhwCEaxBMKjNcebCuebZnW1COwvY1uvVoVb0tqfv2Q&app=desktop

2020年1月19日(日)

妻の運転で、母、長女、三男を連れて野母崎に行って来た。その詳細は漫遊記に綴られている。

その帰り道、手作り蒲鉾の直売所に立ち寄った。イワシの蒲鉾を買って来た母が、
「蒲鉾は熱いうちに食べんば」と勧めるので、試食してみた。

確かに美味い。噛めば噛むほど味が出て来る。ところが、最後の一飲みの時に、気道に引っ掛けてしまい、例の地獄からの咆哮が始まった。車は緊急停止で頭を下に向ける等の応急処置がほどこされ、一命をとりとめた(少し大袈裟に書いてます)。

家族には最早見慣れた光景だったみたいで、何事もなかったかのように帰路についた。

2020年1月18日(土)

今日と明日、センター試験が日本各地で実施される。何を隠そう、俺はセンター試験一年目の受験生である。その前の年は共通一次試験と呼ばれていたが、本質的に何が変わったのか未だに謎のままである。

俺が高3だった1989年はフランス革命二百周年だった。それを根拠に
「フランス革命は世界史の試験に必ず出る」と信じていた三十年前の俺に一言「ばか」といってやりたい衝動に駆られる今日この頃である。

2020年1月17日(金)

昨晩は湯船に漬かった。新しくレンタルした介護用の回転椅子と風呂桶に設置した腰掛けのお陰で、以前よりも安全に風呂桶への出入りが出来るようになった。妻の補助として長男も待機してくれるので、正に大船に乗った気持ちで風呂の楽しみを堪能することが出来た。

寝る前の入浴はいいものである。痒み止めの薬も塗らず、抗ヒスタミン薬も服用せずに床に就き、程よい疲労により眠気がやって来るからである。加えて、冬の寒い気候と厚手の羽根布団との体温の需給関係も良好で、夜中に暑苦しさで目覚め呻きながら布団を蹴飛ばし、寒さに震えながら妻のいびきが止むのを待つようなことが、一度もなかった。

というわけで、久しぶりに熟睡出来た。それは普段から睡眠に問題を抱えていることの裏返しでもある。

妻が四人の子供を学校や幼稚園に送り出した後に、俺が起こされるのが慣例なのだが、今朝はそんな気配がない。妻を呼ぶと隣の寝台から声が返って来た。
「そうか、平日は長男の弁当作りのために、早い時は午前五時に起きている妻なのだ。金曜日の今日は疲労と睡眠不足が蓄積しているに違いない。こういう場合は起こさずに寝てもらうのがいいだろう」と思い、妻が自然に起きるのを待つことにした。

一時間待っても妻は寝息を立てている。尿意をもよおしたが、我慢できない程ではない。こうなりゃ根比べだと待つこと更に一時間、先に音を上げたのは俺の方だった。妻曰く、
「あんたが起きるのを待っていたのに起きないからおかしいと思った」だそうだ。

眠れない日も眠れた日も同じことを繰り返している気がするなあ。これが業(カルマ)と呼ぶべきものかもしれない。

2020年1月15日(水)

俺の母方の祖母の実家は諫早市の貝津にある。幼い頃は、母に連れられて、百歳を超えるひいばあちゃんに会いに行きお手玉で一緒に遊んだ記憶があるし、駄菓子屋を営む祖母の姉の家にお邪魔して、猫の絵が描いてある包装の十円ガムやくじ付きの飴等の駄菓子の数々を只でもらい熱狂していた記憶がある。

一昨日、祖母の弟であるKおじさんから一族に
「もう長くは生きられんから病院まで見舞いに来てくれ」という大号令が飛んだ。Kおじさんは結婚式の披露宴や葬式等の親族の集まりでは長老待遇で迎えられる存在で、その元気で気さくなお人柄ゆえか、Kおじさんは親族全員からの敬愛を受けていた。俺も見舞いに行かない道理はないだろうと思い、母と母の姉二人に俺と妻が同伴することとなった。

病室でのKおじさんは呼吸器を装着し、息を吐くたびに透明の呼吸マスクが白く曇り、痩せこけた頬骨と濁った眼の色は大往生の時が近いことを物語っていた。ところが、声はしっかりしていて、見舞客の一人一人に名前で呼びかけ近況を尋ねていた。俺の番になり、話せない俺は笑顔を作り会釈するだけだったが、妻が事情を説明すると、Kおじさんは右手を差し出し、俺の手を握り、こう言った。
「そうか。お前が大村に来たことも知らんかった。お前もお前の奥さんも大変だろうが、一緒に頑張って生きていこうな」

まさか、御年99歳で余命一ヵ月のおじいさんから励まされるとは思わなかった。こんな精神的活力にあふれるKおじさんと血が繋がっていることを誇らしく思うと共に、声の出ない俺はKおじさんのようなカッコイイ最期は迎えられそうにないなと残念にも思った。

2020年1月14日(火)

一ヵ月前から髭を伸ばしている。というか、朝に電動髭剃り機を当てても夕方に生えて来る髭の習性に呆れた妻が剃らないことを決断したのだ。

今では顎鬚も口髭も豊かになったが、白髪も相当数混じっているので、実際の年齢以上に老けて見えるようになった。周囲の評価も「似合っている」という好意的なものが多かった。俺も満更ではなく、ミリ単位で変化する自らの容貌を楽しむのも悪くないと思うようになった。

その矢先、朝食時に妻が
「髪が伸びたから散髪しに行こうか」と言い出した。髭はどうするんだろうと思っていると、
「伸ばしたい?やっぱり髭がない方がすっきりしていいんじゃない」と言われ、ああそうかと言うことになり、自宅から50mの距離にある床屋に行くことになった。

その床屋は郡中バレー部の同級生が一人で切り盛りしていて、大村に移住してからも何回も通っている馴染みの店である。彼のポジションはアタッカーに優しいボールを供給するセッターだった。そのことを思い出し、シャンプー時の頭皮マッサージを受けると、強すぎず弱すぎずキメの細かい、眠気を催してしまう程の心地良さだった。美容院に押され理髪店数が減少する昨今において、少なからぬ固定客を獲得し生き残っているのはひとえに彼の技量によるものだろう。

整髪し髭を剃った顔を鏡で見ると十歳は若返った感じだ。おしゃれや身だしなみに関して主体性がないのは昔からで、決して病気のせいではないということを強調しておく。

2020年1月13日(月)

長崎バイオパークに行って来た。詳細は漫遊記に記している。

着ぶくれした状態で電動車椅子に座り、その上に毛布を掛ける防寒対策を講じて、坂道に設置されたスロープを上り下りして来た。急こう配の坂道では首の筋肉が頭の重さを支えきれず、頭が後ろにのけぞってしまい呼吸困難に陥ったが、長女が頭を上げてくれて一命をとりとめた(ちょっと大袈裟に書いてます)。

2020年1月10日(金)

大学で仕事をしていた時は、論文を検索して入手する作業は簡単だった。MathsciNetと呼ばれるサーチエンジンに著者名やキーワードを打ち込めば、たちどころに関連する論文が網羅され、大抵の論文はクリックするだけでPDFファイルを得られた。しかし、それは有料なので、大村の実家にいては利用できない。

研究の最前線に立つということは、最新の情報を得て脳を更新しておく作業を含んでいる。それゆえ、俺みたいに研究活動を中断し随筆に浮気していると、研究を再開する時の敷居が高くなってしまうのである。

この一年間、意図的に研究としての数学を遠ざけてきた来たことは否めない。それは平坂塾のHPを充実させることが塾生の確保や求心力に繋がることを期待しての決断であった。その一方で、「一年が経って、どんな新しい結果が産まれているのだろう?」という好奇心も蠢きだしている。

二兎を追う者は一兎をも得ず、あぶはち取らず、という諺が頭に浮かんで来るが、心の動きに対して正直に生きようと思う。

2020年1月9日(木)

四十年前、大村市民にとって「まち」は大村駅の西側に広がるアーケードを中心とする商業施設を意味していた。大村市にとって初のエスカレーター付きの建物である西沢が開店した時は長蛇の列ができたし、浜屋の開店時もまたしかりである。その当時、小学生だった俺は親に連れられて「まち」へ行くのだが、大いに好奇心を刺激され、「こんな夢の国のような場所があるのか」と驚くほどであった。

公営駐車場のすぐ側には大村最大規模の書店である文光堂があり、店名は失念したが超合金ロボのおもちゃがガラスケースに展示されている玩具店があり、店の外まで焼き立てのパンの香りが漂ってくるベーカリーがあり、外食時の定番であった食堂あおばがあり、三本立てで大盛況を誇った映画館である八木館があり、浜屋や西沢に行き着くのである。帰り道には、色とりどりの果物を陳列する果物屋に後ろ髪を引かれ、サンマートのゲームセンターに寄ってとせがんでいたのだ。

そんな情景も過去のものになって久しい。あれだけ繁栄を誇ったアーケードも今では閑古鳥が鳴いており、西沢は跡形もなくなり、浜屋は公共施設と化している。時代の流れと言えばそれまでだが、何とか復活してほしいと願っている今日この頃である。

その兆しがないわけではない。アーケード周辺にマンションが建設中で、アーケードの一部の地域は集客に成功しているし、図書館も新しくできたし、市民交流プラザ等での文化活動が活性化すれば、人の流れも戻って来るのではなかろうか。

今日はその市民交流プラザの三階にある「おむらんど」という幼児を対象とした室内遊具施設に連れられてきた。車椅子に座り、自力で方向転換できないので、三男と妻は視界に入らず、他人の親子連れを観察しながら一時間を過ごした。

この「おむらんど」を商業化して、係員が子供の安全に目を配り、保護者同士が珈琲を片手に歓談できる施設を作ってみてはどうだろうか?ちなみに韓国の釜山ではデパートには軒並みキッズカフェのテナントが入っており、大盛況なのだ。