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闘病記

2019年8月24日(土)

釜山滞在中、自宅のエアロバイクを漕ぎながらケーブルテレビの囲碁専門チャンネルを視聴した。プロ棋士同士の対局だが、優勢の度合いを示すインジケーターが画面上部に表示され、一手ごとに変動するのである。その評価を下すのは勿論人工知能である。

合理的だなと思う反面、最強である人工知能を祭壇に祀るやり方はプロ棋士の神秘性や価値を著しく損なう気がするのだ。三々の攻防も以前とは全く様相が異なっていた。解説では、「多くの人工知能がこの手順を選択しています」と言っていた。プロ棋士の間では人工知能が開発した手順を定石として共有しているということなのだ。悪い言い方をすれば、人工知能が編み出した局面や変化を暗記して来るのがプロ棋士の仕事なのだ。

これは囲碁最強国の座を中国と争う韓国での話である。日本の囲碁専門チャンネルで人工知能が出て来ることはないが、厳しい生存競争に晒されるプロ棋士が人工知能を活用するのはごく自然な流れと言えよう。

遠い未来に、気候変動等の理由で人類滅亡の時期を予期できる日がくるかもしれない。その時には、人工知能主導で科学技術が目覚ましい進歩を遂げていることだろう。
それまでに得られた膨大な遺伝情報、電子化された記憶の数々を気候変動とは無縁で太陽光発電が利用できる環境、例えば月面、に保存しておこうと人工知能が判断するかもしれない。何億年か経過した後、地球に種が投下され、新たな人類の歴史が始まるのかもしれない。

俺らだってそうやって生まれてきたのかもしれない。

2019年8月23日(金)

本日、13:30から23:00まで当HPへアクセス不可の状態でした。
利用者に不便が生じたことを深くお詫び申し上げます。

2019年8月22日(木)

大学時代からの友人で、現在は中学校教諭であるNから
「暇ならドライブがてらバスケ部の練習を見に来ないか」という誘いを受け、諫早市体育館まで足を伸ばした。時刻は13時58分、真夏なのに体育館駐車場で両手を振って車を誘導するNの姿が見えた。箱崎で俺が乗っていた自転車のチェーンが外れたのを両手を真っ黒にして修理してくれた時と変わらないNの心配りと優しさだった。

車を降りて、電動車椅子に移乗すると、ISAHAYA FUZOKUと印刷されたTシャツを着た若者が挨拶しに来た。
「諫早風俗?そんな歓楽街の案内所の宣伝みたいな服を中学生にしか見えない若者が着ている理由は何だろうか?」と数秒でも考え込んでしまった俺は都会の絵の具に染められていたのだろう。それは、中高一貫教育を掲げ長崎県内有数の進学校にのし上がった泣く子も黙る諫早高校の附属中学校を意味するローマ字だったのだ。

体育館の練習場に入ると、顧問であるN先生の前に部員全員の輪ができた。その輪は俺の家族の前に移動してきて、その若者の号令で
「よろしくお願いします」と言う野太い声での挨拶を受けた。
「気合入ってるなあ。N先生の指導で鍛えられまくっているんだろうな」と思って基本練習を見学していた。のであるが…。

中学受験を勝ち抜いて入学して来た秀才たちだからであろうか、バスケ部にしては身体能力がそれほど高くない。それは致し方ないとしても、レイアップシュートを半分以上外すのはいかがなものか、チェストパスが山なりになるのは、ジャンプシュートが最高点で放たれてないのは、スリーポイントシュートがリングにかすりもしないのは、いかがなものか?のように様々な疑念が湧いてきた。

バスケ部は部活の花形で、身長が高く、瞬発力と持久力を併せ持ち、女子にモテる人材がひしめいているという俺の先入観が見事に打ち砕かれたということだ。

しかし、フルコート4対4の練習は見応えがあった。ボールへの執着心、中学生ならではの俊敏な動き、上下動を繰り返すスタミナ、失敗を恐れずチャレンジを繰り返す姿勢、基本練習で封印された野性が解き放たれたかのような豹変ぶりに見る方も力が入った。戦略性のないパスと入らないミドルシュートは相変わらずだったけれど…。

途中から合流した3年生の5人が準備体操を終えるのを待って、1,2年生選抜とその5人との試合が始まった。白熱した展開だったが、時間を追うごとに力の差が明らかになった。戦略、高さ、シュートの正確性、守備力において優位を誇る三年生は次々とイージーショットを決め得点を重ねていった。

「今の初心者に毛の生えた程度の一年生も二年後には背も伸びて立派なバスケット選手になるんだろうな」と思い、苗木が若木に成長した姿が想像され感慨に耽った。

練習中、N先生は何度も大声を出して部員の軽い守備を叱咤し、良いプレイには賞賛を送っていた。副顧問のK先生もパス出し等の練習の手伝いをされていた。おそらくは、指導者たちの熱意と注いだ時間に比例するバスケの実力を可視化したのが今日の練習風景なのだろう。

いい練習を見せてくれたバスケ部の皆様と招待してくれたN先生にこの場を借りて感謝申し上げる次第である。

2019年8月21日(水)

午後3時、俺は冷房の効いた作業部屋でパソコンに向かっていた。妻は外出する準備をしている。そんな平和な家庭の雰囲気を吹き飛ばす平坂家史上最悪のテロ事件が数秒後に起こるのである。

実行犯は家の構造を熟知していた。俺が作業部屋に一人でいるのを見計らって侵入、即座に内鍵をかけ、作業部屋勝手口にも鍵をかけた。無抵抗の俺を人質に取り、ガラス扉の向こうで暑さにうだりながら「開けろ」と叫ぶ警察官を嘲笑うかのように実行犯は腕組みをして仁王立ちしていた。

俺も絞り出すような声で、
「頼むから開けてくれ」と懇願するが、聞き入れてもらえるはずもなく、鼻糞を擦り付けられるという屈辱さえ味わった。

警察官はガラス越しに必死の形相で実行犯との交渉を始めた。
「5秒以内に開けなさい。じゃなければ厳罰を受けることになる」
それを聞いて怖気づいたのか実行犯はやや青ざめた表情で
「叩かなかったら開けてやる」と言った。

その時、南側の窓から潜入した特殊部隊が現れる。扉の内鍵は解除され、警察官が立ち入る。それを見るや否や実行犯は勝手口からの逃走を試みる。しかし、怒りに燃えた警察官が実行犯を拘束した。

作業部屋に連行された実行犯はむち打ちの刑に処され、ありったけの声量で
「わーん、わーん」と泣き叫び続けた。

一方の俺は、まるで映画のようなスリリングな展開の一部始終が頭に蘇り続け、しばらくの間笑いを止めることが出来なかった。

ちなみに実行犯は三男で、警察官は妻、特殊部隊は長女である

2019年8月20日(火)

声が出ない。いや、出るには出るのだが、塾生達に英語や数学の細かい説明をして聞き取ってもらえる水準では到底ない。症状に改善する見込みはなく、悪化の一途を辿ることが予想される。そう考えて、以下の決断を下すことになった。

塾生への指導は今週限りで終了する。

しかし、このことは平坂塾の閉鎖を意味しない。

起死回生の一手は考えてある。往生際は悪い方が良いのだ。

2019年8月19日(月)

真夜中、それは一日の中で最も俺の脳内が活発になる時間帯でもある。

エアコンのタイマーが切れる。
無風状態で室内温度が上昇し、寝苦しさと共に息苦しさで目が覚める。
傍らの妻は熟睡しており、日中の働きすぎぶりを慮ると起こそうという気はとても起こらない。
エアコンのリモコンの所在は妻のみが知っている。
仮に枕元にあっても手に取って電源を押すのは容易な作業ではない。
「ぐあーっ」と呻いて見るが、「スー、スー」と言う安らかな寝息が聞こえるのみだ。
目がさえてくると暑さが増幅する。
冷気から体を守るタオルケットが鬱陶しく感じられる。
しかし、背中と敷布団との間に挟まれ、足で蹴っても広がらない。
ちなみに足はある程度動くが腕には力が入らない。
こんな時、頼りになるのは足の力を利用した寝返りである。
左右の寝返りを繰り返し、体に巻き付いたタオルケットを解くのだ。
足元に追いやったタオルケットに渾身の一撃を加えて分離するのは快感の一言である。
寝台横の車椅子に両足を乗せると幾分涼しくなる。
このまま熱帯夜をやり過ごそうと思った瞬間、この夜最大の難局を迎える。

尿意をもよおしたのだ。
この程度の尿意なら夜明けまで我慢できるかも、そう思えば思うほど覚醒して、尿意も危険水域に近づいてきた。
外はまだ真っ暗だ。
その時、トキオが唄う中島みゆきの楽曲が脳内にこだました。
自分の運命は自分で切り開くべし、そう意を決した俺は両足を電動車椅子の下部に引っ掛けた。
この3週間、寝台から車椅子への移乗は妻の補助の下で行われてきた。
深夜に独力で移乗を行い、便所の扉を開け、便器に移乗し、用を足し、それまでの手順の逆戻りで寝台に帰還する、というのは今の俺にとっては月面旅行級の大冒険なのである。
衰えた腹背筋と腕力であっても、その力を合わせれば寝台の上に座ることができる。
問題は車椅子への移乗である。
上がらない右手を左腕で運び、車椅子の骨組みに指を絡ませる。
左手で右手を包み、足を肩幅に開き、やや前かがみになる。
全身に力を込め、立ち上がろうとする直前、右足に痙攣が走り止まらなくなった。
「焦るな。俺はトイレに行きたいだけなんだ」という孤独のウリネ状態になるも、深呼吸を繰り返して平静を取り戻すことが出来た。
苦笑いを繰り返し、脂汗がシャツに滲んでも誰も見る者はいない。
俺に必要なのは前のめりになって倒れることを恐れないひとかけらの勇気だった。
後ろを振り向くと妻と三男が寝息を立てている。
もう気分は地球を救うために宇宙船に乗り込むブルースウィルスである。
俺は唇を噛み、再びロケット発射のカウントダウンを始めた。
その三秒後、俺の頭は中空に浮かび、ふくらはぎは寝台に接している。
しかし、両踵は宙に浮いたままで安定航行には程遠い。
足の向きを微妙に変えて左手が寝台の金具に届くような体勢を作った。
車椅子を掴んでいる右手を外し、寝台に取り付けられた補助器具を掴み、体を反転させて、尻餅を付くようにコックピットである車椅子に着座した。

宇宙船は暗闇を航行した後、月面着陸に成功し、放水実験終了後、宇宙船とのランデブーにも成功し、地球への帰還を果たすのだった。

そこで待っていたのは、妻子の笑顔ならぬ、妻の小言だった。
「何で起こさないのよ。転んだらどうすんのよ」
一体、俺は何のために決死の使命を果たそうとしたのだろうか?

いつの時代もヒーローは報われないものなのだ。

2019年8月14日(水)

今朝、この闘病記で紹介したKZ先生の訃報が入った。

時間が経った今でも気持ちの整理が出来ない。

6月に長崎大学でお会いした時に交わした言葉の数々が思い出される。

今はただ故人の冥福を祈るのみである。

お知らせ:闘病記の次回の更新は8月19日以降になります。

2019年8月12日(月)

一昨日、小包が届いた。送り主は九州工業大学のA教授である。気になるその中身はジョイスティックマウスだった。

この闘病記で両手による文字入力の困難さを訴えた時、即座にその道の専門家を紹介してくれたのもA教授であり、スクリーンキーボードを知るに至ったのである。言わば、この闘病記の延命に携わった恩人の一人なのだ。

おそらくは先月の視線入力体験会の記事を読んでのことだと想像するのだが、新たな文字入力の手段として提案していただき、ご厚意により貸与賜ったというわけだ。今回はA教授からの許諾をいただいたので、送られたジョイスティックマウスの体験記を書こうと思う。

数学者らしく結果を先に書く。

今の俺にはポインターを上下してインターネットを開くことすらできなかった。スクリーンキーボード上を移動させるのは夢のまた夢で、したがって一字も入力することが出来なかった。

指ではなく腕の振りでポインターの動きを制御できる通常のマウスが圧倒的なシェアを誇る理由がわかる気がした。

将来、腕が使えなくなったらどうするんだろう?

眼鏡に取り付けたレーザー照射機でポインターを移動できないものだろうか?
そうすればわずかな首振りで文字入力が可能なんだが。

最後にA教授へ一言、
「Aさん、期待に応えることが出来ず、ごめん。でも本当に有難う」

2019年8月10日(土)

二週間の釜山滞在中、お世話になった方々と再会を果たしたが、今年の二月に
「今度会う時は回復して元気になった姿をお見せします」と言った約束は果たせなかった。久しぶりに会っても、言語障害のために意志疎通さえままならない自分がもどかしかったし、すぐさま訪れる別れで生じる感情の起伏を制御するのは甚だ困難な作業だった。

8月9日に、自動車の座席で、飛行機の座席で、そして車椅子で座っている間中、顔は無表情のままで心は激しい葛藤に襲われていた。

妻は言った。
「どっちが夢か現実なのかわからないね」

2019年8月8日(木)

昨年末からツイッターを使用している。実名で本人写真を晒しているので匿名での気安さがないという難点があるものの、俺と同じ病気で苦しむ方々との情報交換という点で大いに役立っているし、励ましにもなった。しかし、気の利いたコメントを送るわけでなく、情報を受け取るだけで発信できない状態が続いていた。所謂、需要がなく居場所がないというやつだ。

「これではツイッターの醍醐味の十分の一も味わえていないのではなかろうか」との疑念から、一念発起して何かを発信していこうと思うに至った。しかし、時事ネタや政治ネタは恐ろしくて手が出せない。当たり障りがなく毎日書けそうなのは自分の病気のことくらいだ。でもそういうのって放置されそうなんだよなあ。

そんなことを考えていると、ふと頭に五七五が浮かんだ。

そうかツイッターの文字数制限は伝播力のある簡潔な文章を促すための装置なのだ。であればその究極の姿は五七五であるに違いない。

というわけで、数日前からツイッターにALS川柳を毎日投稿している。句会のパロディのノリで忌憚なき批評をいただければ有難く思います。

2019年8月7日(水)

車椅子に座っている男性に話しかけたら、返ってきた答えが聞き取れない。聞き返すのも悪いので愛想笑いでやり過ごした。するとその男性は顔をしかめ、体を震わせて、絞り出すように声を出すのだ。しかし何を言っているのかさっぱりわからない。他のことを話すと、彼は「ヒーッ、ヒッヒ」と言う泣いているのか笑っているのかわからない奇声を上げた。俺は思った。
「ああ、この人は重い障害を抱えるかわいそうな人なんだ」と。そして一文字ずつ大きな声で同じ質問を繰り返した。

こういうことが公共機関で見知らぬ人と会うたびに起こっている。もちろん、その男性は俺のことであり、応対する人が俺であっても似たような対応をするに違いないのだ。

昨年の7月、俺にALSの診断を下した医師は「まだ、障害者申請は通らないよ」と断言したが、わずか1年の間に、上肢下肢と言語障害を合わせて一級という重度の障害者になってしまったのだ。


確か1年前は、
「体が動く今しかできない事を目一杯やろう。悩んでいる時間は勿体無い」と心に誓ったのであった。

その初心は今も同じである。

2019年8月5日(月)

韓国最長の河川として名高い洛東江の最下流は渡り鳥の経由地となる湿原と干潟が広がり、四百万の人口を抱える大都市の一部とは思えない程どころではなく、驚嘆すべき豊かな自然を讃えている。

その河川敷の区画の一つに100m四方の野外プール場が設置されている。今日は長男を除く家族5人と次男の友達二人と10日間我が家にホームステイ中のRさんを引き連れて、この野外プール場に馳せ参じたというわけだ。

パッと見て、黒山の人だかりでイモ洗い状態であるが、ここが釜山であることを鑑みれば少ない方である。入場者のほとんどは家族連れで、老若男女問わず長袖の水着を着用している。上半身裸の男性の割合は二百分の一以下だし、ビキニの女性は一人もいなかった。芸能人でない韓国女性は女性らしい部分を強調する服装を忌避する傾向がある。そのためなのか、「自己表現の場としてのプール場、人の視線を集めてナンボ」と言う淫靡な雰囲気が皆無で、「水遊びを楽しむために来ました」という健全なオーラが充満しているのだ。少なくともこのプール場ではそうだった。

俺と妻は有料テントの陰に座り、酷暑の中、アイスコーヒー等の涼を取りながら閉門までの4時間を水の中で戯れるその6人の様子を観察しながら過ごした。すると、どうだろう、見ず知らずで言葉も通じないはずの男女が水を掛け合い、浮き輪をひっくり返したりして、打ち解けている様子がありありなのだ。

俺は心底彼ら彼女らを羨ましいと思った。健康だったときであればガキ大将気取りで、水中騎馬戦をやらせたり、ふし浮き競争をやったり、二つの浮き輪をゴールに見立てた水球大会をやったり、長女に泳ぎを教えたり、三男を深い所に連れていって悲鳴を上げさせたり、次男をバックドロップで投げたりしたに違いないのだ。

そんな想像をするのが楽しかったと言えばウソになるのだけれど。

2019年8月4日(日)

「ちょっと買い物に行ってくるから」

そう言い残して妻は出て行った。時刻は午前7時半、家族全員が寝静まっており、俺も瞼が開いてない状態で、「ああ、いいよ」と送り出したのであった。今日は自宅に三家族を招いての夕食会で16人分の食材が必要になるのだ。朝型の妻は三男が熟睡している今が絶好の機会と考えたのだろう。

8時になり、完全に目が覚めた俺は寝台横の車椅子に足を掛け、自力での移乗に挑戦することにした。
「大村では毎日やっていることだ。時間を掛ければ出来るはず」と思った俺は甘かった。立ち上がるための初動がどうやっても起こせないのである。30分ほど座ったままで悪戦苦闘していたら妻が帰って来た。

夕食会のデザートに桃が出てきた。その桃を噛んでも噛んでも歯に引っかからず身を砕くことが出来ずにいた。

俺は一体何が悲しくて自分の身体に起きている変化を実況中継しているのだろうか?

それこそ自己本位の極致ではないのか?

そんな疑問を抱きつつも駄文を書き連ねてきたが、最近になってその答えが確固たるものになって来た。「他人のために生きる」とか言い出したら「延命しよう」とは思えなくなるってことを本能が教えてくれたからなのだ。

2019年8月2日(金)

「あなたは利己的ね」と妻からよく言われる。
そう言われても全く否定できない。

結婚したのも自分が望んだからだ。
数学者になる夢を追い続けたのも自分のためである。
釜山大に就職したのもそうだ。
子供を4人作ったのも俺が強く望んだからだ。
自宅で夕食を済ませた後、研究しに喫茶店へ通っていたのも自分のため。
年二回、実家に帰省するのもそう。
たまにやる料理も好きでやっていたのだ。
仕事は楽しかったので、家族のために身を粉にしてと言う感覚ではなかった。
サッカーに興じるだけでなく、体力増進のために深夜のロードワークに出掛けた時期もあった。
皿洗いや洗濯や掃除もやりたいことをやるための免罪符だった。
子供に早く寝ろと言いながら自分は深夜まで起きていた。

極めつけは、自分が難病に罹ってしまい余生を故郷で過ごしたいと言う理由から家族全員での大村移住を決めたことであろう。

これまでは、自分がやりたいことが家族の利益と一致するか、家計を支える立場だから多少のことは大目に見てもらえたので、「利己的な俺」が表面化することはなかったのだろう。しかし、今回の釜山での滞在で、家族の全員が友人との交流を楽しみ自由を満喫する様子を目の当たりにして、心までも委縮する昨今なのである。

2019年7月31日(水)

先の参議院選挙で当選を果たした船後さんについて思うところを書いてみたい。

と思ったけど駄目だ。時事ネタは筆が鈍って書けそうにない。

2019年7月29日(月)

闘病記(韓国編)でも触れたように、釜山の自宅には家財道具がそのまま残っているし、本棚には本が、食器棚には食器が、衣類棚には衣類が、そのままの状態で残っている。俺ら家族が大村に移ってからは、妻と俺の知己が出入りし自宅アパートの換気および掃除をしてくれた。そのお陰様で引越しした時よりも清潔な状態で自宅と再会することが出来た。水道、電気、電話、インターネットに関しては管理費を払っていたので、到着したその日からエアコンやテレビやトイレが使えた。ガスの手続きは平日しかできないので、それまで温水が出ないのが唯一の難点である。

しかし、本来であれば空っぽにして賃貸料を得て生活の足しにしていたはずなのだ。つくづく俺ら夫婦は利殖に向いてない性格なんだなと思った。

住み慣れたはずの我が家であるが、出来なくなったことが如実になり少々気が滅入った。例えば、玄関の段差を自力で超えることが出来ない、トイレに一人で行けない、車椅子から寝台への移乗が出来ない、などである。そして事故も起こった。就寝中、寝返りを打ったら勢いが付きすぎて寝台の縁から体の半分が飛び出た。真横に設置した机の脚にぶつかって止まると思っていたが、ベルトコンベアーのローラーに巻き込まれるように50cm下の床に転落した。深夜にもかかわらず長男が起きていて事なきを得たが、その夜以来、寝返りにさえ細心の注意を払うようになった。

2019年7月26日(金)

午前10時、自宅の呼び鈴が鳴った。誰も玄関に迎えに行く者はいない。頼みの綱の妻もプールに行った長女を迎えに行って外出中だ。玄関を開閉する音が聞こえ、間を置かず家中に男の声が響き渡った。一瞬、身構えたが、
「世界広しとは言え、こんなことが出来るのはあの男しかいない」と言う思考が働き、台所に車椅子を走らせると、案の定、弟が突っ立っていた。

今日は家族旅行の出発日で、動けない俺の代わりに、身支度と旅行の準備をしてない子供達を急かしに来たというのだ。その働きは目を見張るばかりで、急いでも12時過ぎだろうなと思われた出発予定時間が一時間も早まった。そして、この一時間の余裕が空港で食する牛丼に繋がるのである。仕事を休んでまで来てくれた弟には感謝の言葉しか出ない。

妻が運転する車は高速道路に入った。真っ青な空の下に湧き上がる入道雲、その影を映す大村湾を取り囲む緑の山々、そのすべてが鮮明に見える澄んだ空気、助手席で景色に見入っている俺の後ろで、シートベルトを外す三男、それを注意する長女を煩いとなじる長男、場を収めようと大声を出す妻、スマホを片手に「メッシ、ゴール」と嬉しそうに呟く次男、と言ういつもの混沌とした世界が展開されていた。
「五カ月ぶりに生まれ育った場所に帰るのだから、各自が楽しい雰囲気作りに協力するように」と言いたかったが、声が出なかった。

これまでいろいろな方に「まだ決まってないけど、8月4日から19日まで釜山に滞在予定」と言い続けてきたが、日韓関係悪化の影響で航空券価格が安い日が増えているという理由で7月26日から8月9日までの滞在に変更になった。

実は、俺の心はこの日の天気ほど晴れやかではなかった。韓国でお世話になった人々と再会する時、車椅子に座って声も出せない俺を見たら一体どう思われるのかと言う不安が消えなかったからである。この際だから書いておくが、俺の精神状態は極めて良好なのである。元気だということが伝わらないのでもどかしいだけなのだ。

そういう不安の中、釜山金海空港の到着口で出迎えてくれたのが、家族全員の名前が記された手書きのプラカードを掲げる元指導学生と二十日前に自由人になったばかりの博士(但し、職も給与もある)だった。俺が話せないことを告げると、
「闘病記を毎日読んでいるから知ってますよ」と一笑された。

駄文ながら書き続けてよかったと思える瞬間だった。

2019年7月25日(木)

妻が運転する車で外出する時、猛暑の中28kgの電動車椅子を下ろすのは妻に多大な負担を強いることになる。それゆえ、買い物等の短時間で済む用事の時は車の中で待機することになる。非常時に備えて携帯電話を渡されるのだが、今日はその携帯電話のホームボタンを押すことさえままならなかった。指の力が弱くなっているのは自覚していたが、まさか、ここまで神経が麻痺しているとは思わなかった。この携帯がお払い箱になる日も遠くないだろう。

悪いことばかりでもない。

マウスを操作する時、中指が無意識に右クリックを押してしまい作業が滞り、握り方を変えるために30秒以上時間を費やすことが多々あったが、「マウスに折り紙を差し込む」と言う妻のアイデアによって劇的にマウスの操作性が改善されたのである。

「無重力状態でもインクが出るボールペンを日米の科学技術を結集して開発した。一方のロシアは鉛筆を持って行った」と言うジョークを地で行く逸話だった。

2019年7月24日(水)

「今からカレーを食べに行くか、ラーメンを食べに行くか、それを決定するのは個人の自由意志なのか、神の意志なのか?」
日曜の礼拝後の勉強会における一コマであるが、このような答えの出ない討論をするのも楽しいものである。

「物事の重要度によって神の意志の介在が異なるのであれば、それは恣意的に流用される危険性があるのでは?」と言うのが俺の主張であったが、言い終わらないうちに伝達者である妻が
「この人はいつも理屈ばっかりだから信仰が薄いんですよ」と話をまとめてしまった。

この夏は一家で釜山に二週間滞在する予定である。妻は韓国の公務員年金公団に国際電話を何度も掛けて障害年金の受給について質問している。大村に移住してから五カ月が経とうとしているが、家族を養うための未来予想図を何一つ提示できない状態である。

大村に来る前に描いていた夢の数々は動かない手足と衰える声と共に歩む日常に埋没してしまった。

「年金に頼らずとも生きていける収入を得て自由意志を獲得するために日々最善を尽くしているのか?」と自問する毎日である。

2019年7月22日(月)

「この間、デモ機を操作したんですが、今までのものとは全然違いますよ。やっぱり、視線入力機器メーカーが開発したソフトなんで精度が段違いです」と言う触れ込みで、長崎市内の医療機器販売会社勤務のHさんが最新版を俺の自宅に持って来ることになった。

「視線入力は慣れさえすれば両手で打つよりも速いのではなかろうか?」と言う「そうだったらいいのになあ」的な願望を抱いていた俺は期待値を極限まで高め、作業部屋でHさんが来るのを待った。

このデモ機体験会を企画したのは理学療法士のSさんで、それを見てみたいという難病支援ネットワーク代表のTさんと俺の妻の三人の立ち合いのもと、Hさんを待つのだが、先客との業務が長引き当初の待ち合わせ時間には来れないという連絡が入り、30分間、手持ち無沙汰で待つことになった。

しかし、その時間を過ぎてもHさんは来ない。午後の業務に戻るSさんとTさんは帰り支度を始めている。

巌流島で宮本武蔵を待つ佐々木小次郎の心境を味わいながら15分経過したところで、呼び鈴が鳴り、武蔵ならぬHさん登場と相成った。その場にいる全員が鬼の形相、であるはずはなく、全員がはじける笑顔で体験会が始まった。

今回の視線入力センサーは前回のものより小型で、磁石でノートパソコンの画面下部に固定されている。視線入力の第一段階はキャブレーションと呼ばれるユーザーの視線をコンピューターに認識させる作業である。これがうまくいくと、認識良好を示す緑のボックスが表示されるが、俺の場合は認識不良を示す赤のボックスが現れるばかりだった。

その場にいる全員が原因を探しはじめた。
「高さ、距離、角度が合ってないのでは?」
「窓から差し込む光がよくないのでは?」
「眼鏡のせいかな?」

ブラインドを閉め裸眼で挑戦などの試行錯誤が続いたがうまくいかず、
「キョンヒがやってみて」と妻に促すと、それまでの苦労が噓のように認識良好の表示が現れ、文字入力でも意のままに視線を文字盤上で動かし、「きむきよんひ」と書くことに成功した。それを見たHさん曰く、
「出来ないのは目が細いからかなあ?平坂さんは視線入力には向いてないかも」

巌流島の決闘同様、待たされた俺が一刀両断にされたようでござる。

2019年7月21日(日)

40年ほど前の話である。

大村市民プールの「波んプール」の波はとんでもなく高かった。身長の二倍はあったと思う。死人も出た。「流れプール」の噴出口付近からの水圧も相当だったし、周囲の排水溝には絆創膏が散乱していた。その周りの通路に敷き詰められた緑色のタイルは滑りやすく、乾いた状態では火傷しそうな熱さになった。カルキが強くて、二時間くらい泳ぐと視界に霞がかかった。鯨の絵が描かれた目洗い機で洗ってもそのままだった。

あんな危険極まりないプールが当たり前だった時代があった。

でも、「だからこそあんなに楽しかったんだ」と今になって思う。

2019年7月19日(金)

終業式の翌日であっても幼稚園舎からは幼児の笑い声が聞こえる。
「預かり保育の園児かしら?」
「もう面談の時間だから急いだ方がいいよ」
「そうね。じゃあ、子供と荷物を見ててね」

園舎と運動場を分け隔てるひさし付きの野外通路に所在なさげに佇む中年男性、
運動場を走り回る幼児と足元のトートバッグの間を往復しているのは彼の視線である。彼は心の中で
「この場所には三年間で600回以上通ったはずなのに何の面影もないし、追憶も湧いてこないなあ」と呟いた。その時、幼児の姿が運動場から消えた。彼は周囲を見渡すが何処にもその姿を見出せない。動転したせいか猛暑による温度差のためか、彼の視界は大きくゆがみ長い周期の目眩に襲われる。

正気に戻った彼を待っていたのは緑の帽子を被った体操服姿の幼稚園児で、白いペンキで塗られた木造の建物の横の砂場に行こうと誘って来た。誘われるがまま砂場について行った男は童心に返り、両手をブルドーザーの形にして湿った砂をかき集め砂山を作り、その頂上をスコップでたたき土台を強固にし、さらなる砂をその上に重ねて行った。巨大な砂山が完成すると上から乾いた砂をふりかけ万年雪を作り、山の最下部からトンネルを掘った。右手を肩まで入れて「もうこれ以上は掘れない」と思った時に感じたのが反対側から掘り進んだ幼児の小さな手のぬくもりであった。同時にまたしても目眩に襲われ意識を失う。

黒基調の長板で覆われた床の中央には煙突が伸びた石油ストーブが置いてあった。火傷防止のための金網が設置され、その内側の棚にはたくさんのアルミ製の弁当箱と牛乳パックがひしめいていた。お遊戯の時間も終わり昼食の時間になった。園児に紛れ込んだ男は自分の弁当箱を探せない。仕方なく牛乳を手に取って飲もうとすると、教室の引き戸が勢いよく開き、数名のマスクを付けた女子高生が押し入り、牛乳パック毎の製造年月日を確認しその一部を回収していった。飲みかけの牛乳のストローを無理矢理引っ張られたその瞬間、男はまたしても邂逅の旅路へと向かう。

姓名の平仮名の文字数だけ指を折り、「王様、姫様、豚、乞食」の順序で読み上げながら折った指を戻し自らの前世を占う遊びで、男は何度やっても豚にしかなれず自らの姓名を呪った。

再び正気に戻った時、男は電動車椅子に座らされ、運動場に出てきた多数の園児から好奇の視線を浴びていた。男は我に返り目を凝らすと植え込みの陰にしゃがんで手混ぜをして遊ぶ幼児の姿が浮かんできた。

帰り道で、
「おばけなんてないさ。おばけなんてうそさ」と歌う幼児に続けて、男が
「寝ぼけた人が」と合いの手を入れると、幼児とは女は大きな声で、
「みまちがえたのさ」と呼応した。

2019年7月16日(火)

参議院選挙投開票日を五日後に控える今日、
「政治には関心がない」と公言するのが恥ずかしいと思える俺は期日前投票のために指定された役場に向かった。

郵政解散の時に釜山の日本領事館で投票して以来の国政選挙である。やや緊張した面持ちで電動車椅子の前進レバーを押し、妻を入口に待たせて投票室に突入した。

投票用紙を渡された俺は高すぎる記入台の周囲を彷徨っていた。すると係員からの誘導が入り、車椅子に座ったままでも記入可能な台に案内され鉛筆を渡された。俺は右手に鉛筆を握らせる作業に没入した。しかし、そんな簡単なことが今の俺には、プロサッカーチームの練習場を地元に誘致するほどの大事業と化しているのだ。それを見かねた係員が持たせてくれた鉛筆で渾身の力を振り絞り、二枚の投票用紙に数十匹のミミズを這わせることに成功した。

その必死で書いた弱々しい文字は誰かを象徴しているかのように見えた。

どうか無効票となりませんように。

2019年7月14日(日)

言葉が本格的に通じなくなってきた。

耳が遠くなりつつある母には、
「あんたの言うことはいっちょんわからん」と言われている。

教会での礼拝後、日本語が堪能なアメリカ人女性のCさんが俺の前に座って話しかけてくれたのに、
「どうやって日本語を勉強されたんですか?」と聞いた時、
「ん?めんきょう?」と聞き返され、必死の形相で、
「勉強」を連呼するも「めんきょう」としか言えず、怪訝な顔をされた。

久しぶりに会った弟にとある蹴球動画配信会社名を言うと、
「はあ?」と言われた。

電話は妻の助けがないと通話不能だし、その一番の理解者である妻にさえ聞き返されることが多くなった。

三男とのだんまりくらべ対決でも三男の尻出しダンスの前に苦杯を舐めてしまった。
おっと、これは関係ない話だった。

2019年7月12日(金)

一口にALSと言ってもその病状や進行具合は様々で個人差が大きいと言われる。俺の場合は左手の握力の低下から始まり、右手の腕力の低下、下肢の平衡感覚の低下、球麻痺と呼ばれる呼吸や飲み込みや発声時に使う筋力の低下、と言う順序で進行している。

今は左手では顔を掻くだけの指の力がなく、右手を顔の高さまで上げるだけの腕力がない左右非対称な状態である。従って、左腕で右手を持ち上げて右手の指で顔を掻いているのである。

しかし、ここ数日間、左腕の筋力が眼に見えて落ちている。ウォシュレットのボタンの位置まで左腕が上がらず、立ち往生、もとい、座り往生した後、頭突きでボタンを押すことに成功したのだ。

一か月前は出来ていた左手でのタイピングも今は出来ない。こういうのも慣れて来たせいか、落ち込んだりもしなくなったなあ。

「諦めの境地」に達し「揺れない心」を得つつあるのかもしれない。

注:「諦めの境地」に関しては「安藤満」、「揺れない心」に関しては「福本伸行」を検索語にしてお探しください。

2019年7月9日(火)

昨日のAY先生との会談中、
「この辺りで韓国語教室とかないですよね。キョンヒさんが講師になったら大盛況間違いないですよ」と言うご提案をいただいた。ちなみにキョンヒとは闘病記にも度々出て来る俺の妻のことで、漢字で書くと慶姫となる。

その時は冗談半分に聞いていたのだが、日が変わって再考してみると「悪くない」と思えてきた。何より当の本人であるキョンヒが乗り気なのだ。というわけで仮計画書を作ってみた。

講座名:韓国語入門
講師:キムキョンヒ
開講予定日:2019年9月7日
時間:毎週土曜日午前10時から11時半まで
場所:平坂塾教室、駐車場は6台分
第一週:ハングル文字の読み書き
第二週:書き取りテスト、ハングルで挨拶と自己紹介
第三週:自己紹介テスト、漢字とハングル
第四週:読解テスト、韓国語会話実践
費用:8千円
定員:10名
個人レッスン:90分あたり5千円

こんなこと書いたら「また先走りして」と妻から叱られそうだなあ。現実的に見て、10人も集まらないとは思うけど、もし大盛況になったりしたら益々妻に頭が上がらなくなってしまうなあ。

かくのごとく悩みは尽きそうにない。

2019年7月8日(月)

朝起きても爽快感が無い。夜中に寝返りを繰り返して打つので体が疲労した状態で目覚めるからだ。そして声も出ない。必然的に言葉数が少なくなる。日本における九州男児、韓国における慶尚道男児のように、一日で「飯、風呂、寝る」の三語しか発しないと言うのは大袈裟だが、不機嫌そうに顔をしかめながら必要な単語を絞り出す日々が続いている。

こんな声で一体どうやって塾での指導や講演が出来るのか自分でも不思議に思うくらいである。そんな時の悪あがきとも言える対策として以下の儀式をとり行っている。

口を最大限に開き舌をやや浮かせると嘔吐時に発せられる「おええっ」と言う音声が出る。すると舌が幾分伸びて発音も幾分ましになるのだ。先週の二回の講演も楽屋でこの嘔吐式発声練習を入念に繰り返して臨んだのであった。

しかし、所詮は一時しのぎであり、日に日に細くなる声と言う現実に向かい合わねばと言う心境に至ったのが先週末である。

近い将来、声を失い塾生を指導できなくなる日がやってくる。それでも、学びの場である平坂塾は存続させたいと思う。

「どうやって?」
「塾講師を募集すればよい」

善は急げとばかりに今日の午後3時に英語教育の専門家であるAY先生に御足労願い、3時間にも及ぶ会談を終えたところだ。AY先生曰く、
「私は英文を読むことを重視しています」
全くの同感である。我々が国語を学ぶ時もそうしているではないか。五段活用等の文法事項を先に学ぶ人はいないはずだ。
「夏休みに特別講義をお願いできますでしょうか?」
「考えておきます。今日はお話しだけと言うことで」

その先に何が起こるかわからない大航海に出掛ける気分である。

2019年7月7日(日)

テーブルの縁から20㎝離れたノートパソコンを置いてもらう。右手をマウスに乗せて、マウスの左側部分に人差し指だけが乗るようにするのだが、それだけでも30秒以上を要する。左手で電源を押し、先月短縮した数字四桁の暗証番号を入力した後は左手の出番はない。先月導入したスクリーンキーボードをマウスでクリックすればあらゆる文字が出力可能になるからである。

両腕が上がらず両手の指を制御できない俺が闘病記を書けるのはひとえにスクリーンキーボードのお陰であるが、如何せん打鍵速度が遅いのと人差し指が疲れるのが不可避な難点なのだ。

釜山大学数学科で学科長をしていた時、送られてくる電子決済の書類があまりにも多いので事務のKYさんに「クリックし過ぎで指が痛くなった」と冗談を言っていたのが現実になるとはその当時夢にも思わなかった。

先週は火曜日と金曜日に講演があり、書くことに事欠かない状況であったが、上記の理由により書けなかったのが返す返すも残念なところである。

2019年7月4日(木)


長女が通う小学校の下駄箱置き場の壁面には数十枚の板が設置され、その各々には彫刻刀で凹凸をつけた自画像が浮かんでいる。その中の一つが第一期卒業生である俺によって制作された事を長女が知っているかは定かでない。

今日は今年度二回目の授業参観の日で、前回同様先生方の助けを借りて二階までの階段を上った。長女の席は教室の中央だ。長女の横顔が見える廊下の位置に車椅子を移動していると、担任の先生の号令で集中力を高めるための深呼吸が始まった。

先生が何らかの数字を黒板に書いたが、すりガラスに遮られてよく見えない。その五桁の数は何かと児童に問うと一斉に手が上がり、大村市の人口、交通事故の件数、等の忌憚なき推量が児童側からなされた。小学生の頃の授業では当たり前とも言える授業風景だが年齢を重ねるごとに口を閉ざすようになる歴史を見てきた者の目には非常に新鮮で懐かしい光景だった。とは言え、このような秩序が保たれたうえでの自由な雰囲気は担任の先生の指導力によるものに相違ない。「長女はいい先生に恵まれたなあ」と思いつつ授業を見守った。

その五桁の数字は昨年度の日本での自殺者の数であることが明かされた。そう、今日の授業は道徳で主題は「命の大切さ」なのだ。先生は脳幹から始まる脳の進化の過程を説明した後、「いじめ等の言葉の暴力によるストレスは生命活動をつかさどる脳幹を直撃する」と仰り、「言葉の暴力を行使する度に加害者側の人間らしさをつかさどる新皮質が破壊される」と仰った。そして自殺した児童の遺書と遺児に宛てた父母による手紙の数々を朗読され、「辛いときは助けを求めればいい。学校なんていかなくてもいいんだ」と言う言葉で締めくくった。

正直なところ、感動してしまった。子を持つ親の身になって切実な思いだったというのもあるが、言葉を詰まらせることもなく気丈に話される先生と真剣な眼差しで涙さえ浮かべながら聞き入る児童たちが織りなす雰囲気に圧倒されたのだ。このような影響力のある授業と隣り合わせである小学校の先生は凄いなと改めて思った次第である。

なにしろ、数を扱ったことはあっても命を扱ったことは皆無だからなあ。

2019年7月2日(火)

塾生が帰宅した後、期末試験を数日後に控える次男を作業部屋に呼び出した。
「寝る前にちょっとでいいから勉強しなさい」と言って、英語の教科書の本文のタイピングを命じた。嫌がりながらもやるのが次男のいいところである。次男は5分ほどで1節のタイピングを終え、その英文をグーグル翻訳に読ませた。
「もういいかな?」と次男が席を立とうとするので、
「ダメダメ、残りの2節もやりなさい」というと、次男は口をとがらせてスマホをいじりだした。

「やれやれ、実の子に勉強させるのはかくも困難なのか?」と嘆いていると、次男は教科書の英文の画像をスマホに取り込みグーグルのアプリを用いて、英文のテキストを完成させたのだ。
「うぬぬ、悪知恵が回りおるわい」と思ったのはほんの一瞬で、俺はあるひらめきに襲われた。

「おい、同じことを社会の教科書でやってみろ」

「字が小さいから無理だよ」
「いいからやってみろ」
「日本語は出来ないんじゃないの?」
「いいからやってみろ」
の問答の後、とうとうテキスト化に成功した。この結果、テキストの音声読み上げによって漢字が読めるし、韓国語に翻訳することで意味を補足できるのである。

恐るべし文字認識技術。

「おい、残りの部分も写真にとっておけ」
「いや、今日はもう眠い」と明日に持ち越すのが次男らしいところである。

2019年6月30日(日)

2001年4月に韓国の浦項で妻と出会い、5月に婚約、6月に妻と一緒に俺の実家のある大村に3泊4日で滞在した時のことである。敬虔なクリスチャンである妻は異国の地であっても日曜の礼拝を欠かすことはないと判断し、検索して探して出てきたのが大村教会だった。その時の礼拝で居眠りをしていたことを幾度となく非難されることになるのだが、とにかくこの日から大村に帰省する度に大村教会で礼拝に参加し、今に至っている。

この間、18年、礼拝に参加する主要な顔ぶれはほとんど同じである。しかし、説教をつかさどる牧師先生は変わりに変わって俺が知る限りでは5人目である。その辺りの事情はよくわからないのだが、大村とは縁もゆかりもない方が日本基督教団から派遣されて来るので、土地に馴染めないとか故郷の教会に栄転等の理由で滞在期間が短くなっているものと思われる。

現在の牧師先生は去年赴任されたばかりの方である。今日、礼拝に行ったときに許可を得たので簡単に紹介してみよう。

稲葉義也先生の生まれは福井県で、お父様が牧師を務める教会で生まれ育ったという聖職者界のサラブレットのような方である。神学校を卒業後、若くして伝道師の資格を得て、今年の本教師の試験に挑戦されるとのことだ。

ゆっくりと間をおいて語るのが稲葉先生の特徴で、
「一信徒が牧師の説教を上から目線で評価するとはけしからん」と言うそしりを受けるのを覚悟で書くと、その説教は若さゆえの危うさと爆発力が共存しており、聞いていてはらはらしつつも、逸話と主題との関連性に頭を悩ませつつも、見守るような心境でついつい話に引き込まれてしまうのである。
「幼い頃、アーメンをラーメンと言っていて注意された」
「幼稚園児から豚呼ばわりされた」
「神学生時代に豚カツを奢ってもらった」
「新潟にいた時、通っている教会から手紙が来た」
「長崎市で財布を落とした」
「記念のしおりを作り過ぎた」
普段は居眠りしていることが多い俺がこれだけ多くの説教の内容を記憶していること自体が稲葉先生の説教に掛ける熱量の大きさを物語っていると言えよう。

今日の説教でも前触れなしに一人二役の演劇が始まり教訓無しで締めのお祈りを始めるという暴走機関車ぶりが発揮された。今後の稲葉先生の動向に期待は高まるばかりで、若年層にはその存在を知ってほしいと思う。

いつまでも大村教会にいらっしゃればよいなあと思う一方で、その熱量を受け止める大きな器が将来準備されるのだろうという気もする。

2019年6月29日(土)

電源の消えたノートパソコンの画面に見慣れぬ顔が映っている。誰かと思えば俺だった。
「こんなに表情に乏しかったっけ?」と思うくらい陰鬱なのだ。無理して笑ってみても、自分が自分の顔として認識している表情が作れない。周囲を幸せな気持ちにする笑顔の重要性を良く知る者の一人として、これは由々しき事態である。

先週は風邪をひいていて虫の息だったが、恩師、先輩後輩、友人、仲間、かつての弟子達との再会で気持ちが高揚し、一緒にいる時間を尊く思う喜びにあふれた一週間だった。その反動なのか、今週は無気力症かと思うくらい覇気がなく、来るべき我が身の変身とそれに伴う塾の閉鎖に怯える一週間だった。

ある人は言った。
「苦しくてもだましだましで過ごせばいつか晴れますよ」
今年の梅雨も早くあけてほしいものである。

2019年6月27日(木)

インターネット上で知り合った本名も顔も知らない知り合いが、不特定多数に向けて、
「誤嚥性肺炎に罹り即入院、胃瘻造設手術を受け、痰が気道をふさぐのでやむなく気道切開手術に踏み切る」という内容が投稿された。わずか10日間の出来事である。

ここ数日はそのことが頭から離れず、悶々としていた。

2019年6月24日(月)

久しぶりの快眠である。夜中に咳き込むこともなく、痒みに悩まされることもなく、用を足しに起き上がることもなく、爽快感さえ感じながら朝を迎えた。悩まされ続けた便秘も整腸剤の服用で制御可能になった。

こんな朝を迎えた時には要注意である。今までの経験からわかったことだが、この病気は「人を喜ばせておいて地獄に落とす術」を知り尽くしているのだ。案の定と言うべきか、起き上がろうとして寝返りを打つが、右腕がついてこない。「おかしいな」と思い、右腕を屈伸させるが角度30度までしか上がらないのだ。6月に入ってから薄々感じていたことが両肩からぶら下がっている、それらはか細いけれど鉛のように重いのだ.

そんな一喜一憂の朝を経て、通院リハビリに向かった。

言語訓練の調子は良かった。しかし歩行訓練は惨憺たる内容だった。寝台に寝かされ、理学療法士のTさんによる腕の曲げ伸ばしを受けている時に世間話になった。
「体の調子はどうですか?」
「そうですね。今朝は腕が重かったですね」
それから淡々と病状を説明し、よせばいいのに
「今まで出来ていたことがある日突然出来なくなるのは悲しいものがありますね」と言ってしまった。するとTさんが視線をそらし、曇った表情を取り繕うようなしぐさをされたように見えた。
「言ってどうにかなるものではないことは自分が一番わかっているはずなのに、どうしてTさんを困惑させることを言うんだろう?」

実は思い当たる節が大いにある。釜山にいた頃、例外的に起こる人間関係のもつれの詳細を妻が俺に話していた時、俺がハンブルグで「目の前が全て荒野に見えるような絶望感」に襲われた時、平静を保つためにやったこと、それは「人に話を聞いてもらうこと」だったのだ。

今の俺には飲み屋で愚痴をこぼす会社員に共感できる感性が備わっているはずだが、酒場に繰り出して浴びるほど酒を飲むことが許される環境ではないのだ。

あー、あの頃が懐かしいなあ。

2019年6月22日(土)

先週からの風邪が治らない。夜中に突然咳き込み、その小さな咳で巻き上げられた痰がふとした弾みで気道弁に絡む。すると、気道弁が暴れ出し、肺から湧き上がる咆哮が止まらなくなる。そんな大きな声を立てても傍らの妻と三男はいびきをかいて熟睡していることがある。「疲れがたまっているであろう妻を起こすことにならずよかった」と思う反面、「呼吸困難に怯えながら孤独な夜を過ごさなきゃ」という思いが睡眠時間を削っていくのである。

「肺活量が落ちたかも?」との不安も事実であるような気がする。以前のような深い腹式呼吸が出来ないのだ。

「風邪のせいで声が出ない」のではなく、「風邪の症状がALSの進行を速めている」ような気がする。鏡の前で舌を出すと、以前にはなかった二本の溝が舌を縦に三分割し、その両脇が痙攣し続ける様子が映るのである。

不眠は活力を低下させ、咳き込みは食事中の嚥下を誘発し栄養分の摂取を妨げる。もう右手は反動をつけても上がらないし、左手は肩の高さに位置するウォシュレットのボタンを押すのにも四苦八苦するほどだ。

今朝は例の地獄からの咆哮が最長時間を記録したため、それを初めて目にする母から家族全員を巻き込む大騒動に発展した。その後遺症なのか、喉のかさつきは治まったのにも関らず、以前にも増して声が出なくなった。

風邪は万病のもととはよく言ったものである。

2019年6月18日(火)

25年前、とある地方で開催された研究集会の懇親会終了後、一行は酔いを醒ますためかとある喫茶店に入った。学部4年生だった俺は「年長者が席を確保してから着席しよう」との思いから立っていたのだが、とある年配の先生から「座りなよ」と二人掛けのテーブルに招かれた。これがKZ先生との最初の出会いだった。

駆け出しだった俺は初対面の年長者を前にして、
「失礼なことを言わないようにしないと」
「しかし、黙っているのも気が利かないと思われそうだ」
とあれこれ考えたあげく、
「KZ先生の名字の漢字を考慮するとKDと書くべきなのでは?」
と会話の口火を切った。それが功を奏したというわけでもないだろうが、KZ先生の気さくなお人柄も相まって会話が途切れることなく時間が過ぎ去った。

その時から今まで、おそらく15回以上はKZ先生の講演を聴く機会に恵まれたが、そのほとんど全てにおいて有限単純群が頻繁に登場する。その一つ一つの説明が「単なる引用や紹介にとどまらない夥しい確認作業を経てこそ得られる知見」によってなされているのだ。万人が理解出来る道順を示す理想的な講演方式であるが、その説明によって理解までの道程が初心者にはあまりにも遠大で険しいことを知らしめられるのだ。そのような説明の連続で導き出される壮大な結果に圧倒され度肝を抜かれたのは俺だけではないはずだ。

上海で開催された研究集会で座長を務めた時、各講演後に質問したことに対してKZ先生からお褒めの言葉をいただいたことも記憶に新しい。そんなKZ先生と今日再会を果たした。それもそのはずで、長崎大学で開催中の代数的組合せ論シンポジウム中日の最終講演者がKZ先生なのである。

体調不良で午前の講演を欠席、昼休み中に人気のない教室に入ると、初老の男性が立ち上がり、こちらに向かってきた。「誰だろう?」と思ったのはほんの一瞬で鋭い眼光を受けて直ちにKZ先生だと分かった。裏を返せばそれだけ容貌が変わり果てていたということである。半袖シャツから覗く両腕はやせ細り、胸板もそげていて、大病を患った形跡としか思えなかった。言葉を継げないでいる俺にKZ先生は
「去年の二月に手術をしてね、もうこういう場には来ないつもりだったんだけど、平坂君の病気のことを聞いて、それなら行こうと思って来たんだ」とおっしゃった。

俺はその言葉の意味を考えながらその日の最後の講演を聴いた。変わりゆく世界で変わらないもの、それは数学でありKZ先生の精緻な説明であった。講演後の万雷の拍手を聞いて胸が熱くなった。
「そう、これは俺の原点とも言える代数的組合せ論というコミュニティの物語だったんだ」と気付かされたからである。そして他人のお世話になってばかりの自分でも釜山大学数学科のエスカレーターのように人の役に立つこともあるんだという驚きと嬉しさが入り混じった気持ちが湧いてきた。

錆付いた刃は一刀両断にされたかのようである。

2019年6月16日(日)

「今日は何の日かな?」
階段を降りてくる長女にわざとらしく聞いてみた。
「うーーん、何だろうね?」とわからないふりをするので、
「父の日だよ。誕生日にハンドバッグをあげたのは誰だったかな?」というと、
「誕生日は誕生日だよ。子供の日に何もなかったから、父の日も何もないよ」と返された。
休職中とはいえ、現役数学者を論破するとは恐るべしである。

朝から気勢をくじかれたが、意気消沈したままではいられない。長崎大学で開催される第36回代数的組合せ論シンポジウムを前日に控える今日、国内外の参加者が長崎の地に集う中、学術的な意味での両親、長兄、次兄、三人の子供が平坂家を訪問するというのだ。このような盆と正月が一緒に来たような事態に、実の妻と母は前日からの買い出しに奔走し、当日の朝からの料理の仕込みに余念がない様子だ。実の子供達も掃除や片付けを言いつけられている。

肝心の俺はと言うと、午前中の間中、車椅子に座ったままで何も手伝うことが出来ない、NHKの「将棋の時間」を視聴する置物と化していた。風邪をひいて声が出ないので、じたばたしてもしょうがないのだが、久しぶりに会うお世話になった方々に再会する前なのにどうも気持ちが奮い立ってこないのである。

一行の到着が遅れるとの知らせを受け、俺はその気持ちが奮い立たない理由について考えを巡らせていた。
「父の日に何ももらえなかったからか?」
「いや、違う。元々そういう行事には背を向けて生きて来たのだ」
「声が出ない弱りきった姿を見せたくないのか?」
「それはそうかもしれない。しかし、それが本当の理由でないことは自分が一番分かっているはずだ」
「では本当の理由とは?」
「それはここ四カ月、数学から離れていたことに他ならない」
「数学を研究しているという刃なしには怖くて他の数学者と話せたものではないのである」

来客を迎え、昼食の準備が整った。俺は別室で入念に発声練習を繰り返した後に昼食会場である作業部屋に向かった。錆付いた刃に再び光を宿らせるための戦いは今始まったばかりだ。

2019年6月14日(金)

喉に何かが引っ掛かるなと思い始めたのが三日前の火曜日だ。平坂塾での授業を終えて、疲労と充実感と共に就寝した。その翌朝、比較的発音しやすい「おはよう」の言葉が出ない。腹式呼吸の要領で腹から声を出そうとするのだが、何かに引っかかって空気が抜けきらない。その何かは確実に大きくなっている、そんな不気味さと共に一日が始まった。

最近の妻の悩みは子供達の成績である。遅刻せずに学校に通うだけでも万々歳と思っていたが、自宅宛てに送付された中間考査の点数表の一角の落第点を示す星印は妻を大いに動揺させたようだ。この日も国語の専門家であるSさんに相談を受ける約束を取り付け、大村市内では二つしかない珈琲喫茶チェーン店で面談する運びとなった。Sさんは青少年教育に対して高い志をもって実践される方で、その経験の密度にただただ圧倒された。惜しむらくは、俺の声の調子が最悪だったことだ。もっと健康な状態で会って徹底討論したかったと思わせる印象深い方だった。

その日の午後5時から9時まで塾生との個別指導を終え、疲労と充実感と共に就寝。しかし、その晩は喉への違和感と不規則に起こる咳のために定常的な呼吸に対する不安が増幅され、一睡もできずに夜明けを迎えた。この日はリハビリ通院の日で、そのついでに診察を受けようと思い、かかりつけの病院に向かった。体調の変化はリハビリ時の達成度に如実に現れる。言語訓練の文章ドリルを読み上げる音声は自分でも聞くに堪えないものだった。

自宅に帰り、処方された葛根湯エキス顆粒を湯に溶いて飲んだ。その薬効かどうかは定かではないが、二時間後、「あー」という発声に力が入らなくなり、ひそひそ声程度の声量しか出なくなった。この日は十数年来の友人からの訪問、塾生への個別指導、郡中バレー部同期の同窓会を作業部屋で開催、という行事があった。体は元気なのに声が出ない人魚姫の苦悩をお裾分けされたような気持ちと共に就寝。熟睡し、今日にいたるというわけだ。

しかし、声はいまだに戻らず、葛根湯を飲み、トローチ、のど飴を口に含む生活が続いている。

2019年6月11日(火)

愛用の電動車椅子が故障した。先々週の日曜日にスロープから転落したことを書いたが、その際に車椅子の右側に取り付けられている手動電動レバーが折れてしまった。その根元に残った部分は動いたので、今まで通りに使うことが出来て事無きを得たのだ。しかし、先週の日曜日、その根元の部分が車輪に絡みつき、前にも後ろにも進まないただ座るだけの機能を有する物体と化してしまったというわけだ。

仕方なく予備の手動車椅子を使用するが、衰えた腕力では十分な推進力を得られず部屋間の段差を乗り越えることが出来ない。従って誰かを呼ばないとトイレにも行けない不自由な暮らしを強いられたのである。

幸いに、翌日である月曜日には医療機器販売会社からお世話になっているKさんが新品の電動車椅子を持って来てくれたため、今では変わらない日常を送れているというわけだ。改めて思うことは、工学技術の進歩は障碍者の生活の質を向上させているという事実である。

似たような事例は他にもある。先日、闘病記にタイピング時の困難さを綴ったが、それを見た九州工業大学のAさんから連絡をいただき、同大学のSさんを紹介してもらい、そのSさんの紹介でIさんから「指を使わずにタイピングする方法」の一覧を送っていただいた。その一つがスクリーンキーボードで、この文章も右手でマウスを動かすだけで作成しているのだ。タイピング速度は落ちるものの、バックスペースキーの長押しによる文書消失という事態も起こらないし、マウスの持ち替えの手間も省けるので、概ね快適と言える。お三方にはこの場を借りて感謝申し上げます。

電動車椅子が安価でレンタル出来て、インターネットを通じて情報を得られる現代社会に生まれた幸福を体感した一連のできごとであった。