ホーム闘病記(釜山編)

闘病記(釜山編)

2018年6月5日

75分間の線形代数の講義を終えた後、かつて味わったことのない疲労に襲われた。
講義終盤では発声するたびに呼吸が乱れた。
誰もいなくなった教室で黒板を消していると悲しい気持ちになった。

前期の講義は来週までだけど、後期はどうなるんだ?
今よりももっと病気が進行した状態でやっていけるのか?
か細い声でぼそぼそ話すのが関の山ではないのか?
講義もできない教員に存在意義があるのか?

陰鬱な気持ちで数学科の建物の二階と三階を結ぶエスカレーターに足を掛ける。
しかし、このエスカレーターは動かない。
それどころか、2002年に釜山大学に赴任して以来一度も動いているのを見たことがない。
こんな無用の長物を設計した奴の顔が見たい、と常々思っていた曰く付きのエスカレーターである。

エスカレーターの真横に幅の広い階段が設置されている。
しかし、手摺がないので、転倒の恐怖を抱える自分はエスカレーターのみを使用している。

ああ、そうなんだと思った。
役に立たないと馬鹿にしていた動かないエスカレーターでもなくなったら困る人がいるんだ、と。

今日はいつもより足に力を込めてエスカレーターを上った。

2018年6月8日(金)

あれは高3の秋の下校中の出来事である
曲がり角で勢いがつきすぎて自転車が横転しそうになった。
倒れるまでの時間は一秒もなかったと思うが、
「ああ、地面が近づいてくる。じたばたして手を出したら折れそうだから、体の側面から接地しよう」という考えが浮かび、そのとおりに実行した。
実際の被害もかすり傷程度だった。「柔道やっててよかった」と思った瞬間である。

ところがだ。今の自分は便所の滑り止めマットにさえ足がつっかえ、そのままの角度で前のめりになって顔から地面に落ちるのである。その間の意識は全くなく、顔を打ってから何が起こったかを知るのである。躓いたことが脳に伝わらず、防御の姿勢がとれないまま遠心力で意識が飛んだ状態で地面に叩きつけられるからである。階段でそれが起こると命に関わるかもしれない。最近では細心の注意と最高レベルの集中力で歩いている。

歩きながら景色を見る。
歩きながら談笑する。

「これらを奪うことと引換えに数学者としての最高の栄誉を与えてやる」と神に言われても、瞬時に断る自信が今の自分にはある。

2018年6月13日(水)

蚊に刺された。アキレス腱の内側の部分だ。
掻くと足の爪先が痙攣した。
気味が悪かったが、痒みには勝てない。

今度は蚊に刺されたわけではないのに右肩の後ろが痒くなった。
左手は筋委縮のためか掻くのに必要な力さえ残っていない。
なので、右手を後ろに回して掻くのだが、体の柔軟性も落ちているのでなかなか届かない。

このままではいかん、と思い、上肢を中心にリハビリしている。
幸いにも効果が出始めているが、大きな期待はしないようにしている。
下肢のリハビリの時のように、順調にメニューをこなす日々が続いた後、突然、極度の疲労に襲われ、元よりも症状が悪化するということが何度も続き、今に至っているからだ。

今日は筋トレの成果か腕相撲で10歳の長女に勝つことができた。

6月15日(土)

壁に両手をついての腕立て伏せ10本、
寝台を利用しての腹筋10本、
寝台に座った状態からのスクワット10本、
これを5セットやるのだが、
翌日は筋肉痛のため足元が不安定になる。
道路のわずかな突起にも足が引っかかるので、外を歩くときには下しか見てない。
周囲に小さい子供がいると緊張が高まる。
タイル張りの歩道を避けて舗装された車道に降りると通り過ぎる車が気になる。
信号で立ち止まる時も体が前後に揺れて落ち着かない。

歩くのって難しいんだなあ。
杖を突いて歩いている老婆であっても自分より歩くのが上手い。
道行く若者に至っては一流のアスリートに見えてしまう。

今日は疲れた。筋トレは休もうかな。

2018年6月20日(水)

地下駐車場を歩いて5周した後、自宅で風呂に入る。
湯船に浸かっている時は転ぶ心配もなく緊張もほぐれるので心身ともに癒されている。

問題は風呂からあがる時である。
風呂の水が波打って立とうとするとバランスが崩れてしまう。
蛇口を取っ手にして膝を立ててゆっくり起き上がる。
風呂桶をまたぐ時も油断してはならない。
恐る恐る片足を出して洗面台に手を掛けてようやく脱出できるのである。

いつか一人では風呂に入れない日が来るのかもしれない。
もうすでに温泉のような不規則な自然岩が敷いてあるような場所は恐ろしくて行けそうにもない。

こうやって楽しみが一つ一つ減っていくのだろうか?

2018年6月19日(火)

昨日、任官同期の教授が研究室にやってきた。
「体の具合はどうだ?」
「痛くはないけど、歩くときに不便だな。転ばないように気を付けないと」
そのときは平静を装ったが、これ以上黙っているのはよくないと思い、彼の研究室に赴いて、
「病気には勝てない。病気の進行状況を鑑みて、来学期まで勤めた後、退職しようと思っている」と伝えた。

辛かった。

任官当時、弱肉教職(原文ママ)の世界で生き残るために、シマウマの群れの先頭に立っていたのが彼であった。時には盾となって猛獣から仲間を逃がし、死に物狂いでサバンナを駆け抜けた、恩人であり戦友である。

歩けなくなった俺はもう群れには戻れない。
だけど、それでいいんだ。
生きているってことを実感できた瞬間の思い出は消えないから。

2018年6月21日(木)

済州島に出張するため金海空港にいる。
飛行機に乗るのは5カ月ぶりである。
その時との違いは杖の有無である。
スーツケースと杖を持つと両手が塞がってしまう。

後方から歩いてくる人のスポーツバッグが背中に当たったりしたら間違いなく倒れるだろう。そう思うと背後が気になる。そして、視覚障害者用の黄色のデコボコや自動ドア前の滑り止めマットがやけに気に障る。

手摺を掴むための手が足りないのでエスカレーターに乗るのも恐る恐るである。
フードコートでの食事もお盆の移動が強いられる。
汁物をこぼさないように運ぶためには牛歩戦術が必要になる。
周囲の好奇の視線も気になる。

出発口ではチケットのみならず身分証明証の提示まで求められ、杖の置き場に困りもたもたしてしまい後ろで待っている人々からも非難されているように感じた。おそらく被害妄想だろう。

荷物検査ではスーツケース内のパソコンを出さねばならず、スーツケースを台の上に持ち上げなければならない。機内持ち込みにしなければよかったと後悔してももう遅い。
幸いに搭乗口から飛行機までには通路があった。そこを歩いていると、荷物をたくさん持った中年のおっさんから追い抜かされた。

機内の狭い通路を杖とスーツケースとパソコン用のバッグをあちこちにぶつけながら座席に向かった。スーツケースを上部トランクに持ち上げる自信がなかったので添乗乗務員に頼むことにした。お礼を言って、周囲にすまないと謝った。
座ってシートベルトを締めてくつろぐが、座席を間違っていたことが判明しやや前に移動する。このために降りるときに、自分の荷物を下ろせず、全ての乗客が下りた後、またしても添乗乗務員に頼んで荷物を下ろしてもらうことになる。

済州島の空港ではタラップを降りなければならない。
青ざめた表情で一段一段横向きになって降りて、バスに乗り込む。
その段差がとてつもなく高く感じた。
杖が引っ掛かりバスの床に突っ伏した。
バスの乗客は高齢者ばかりで乗り込むと「ここに座れ」と席を譲られる。
バスが動こうとしていて移動するのも怖かったので固辞した。
惨めだった。逃げるようにバスを降り、出口に向かった。

向かうは西帰浦KALホテル行きのリムジンバス乗り場だ。
人混みは恐怖でしかない。
リムジンバスの座席に腰掛け生き返った気分だった。
一時間後、目的地に到着。乗客は自分だけ。
一度座ってしまうと、立ってから数分は調子が戻らない。
そんな状態でバスから降りて、荷物を出すためにトランクを開ける。
なんとスーツケースは開け口から最も遠い位置に置かれている。
誰も助けてくれそうにないので、四つん這いになって、トランク内に潜り込みスーツケースを引きずり出す。待ちきれなくなって運転手が出てきたのは荷物を出した後だった。

チェックイン後、部屋でシャワーを浴び、ワールドカップのフランス対ペルーの試合のハーフタイムにこの文を書いている。

これはまだまだ序の口である。来週はチェコ出張が待っている。


2018年6月25日(月)

早朝、妻と長男との口論で目が覚める。
「俺のスマートフォンをどこに隠したんだよ?」
「さあ、本当に忘れちゃったみたい。どこかしら?」
「そんな無責任な!!!」
「昨日、スマートフォン没収に同意したくせに何いってんの」
このような不毛な言い争いが続き、
長男の登校時間が迫ってきた。

「いつまでも寝たふりするのも何だしな」と思い、
寝台から起き上がる。すると足元がふらつき、後方にバランスを崩す。
掴まる物が何もなく後頭部から倒れ、眼鏡がふっとんだ。

驚いた妻と長男が駆け寄ってきた。
「大丈夫だから遅刻しないように学校に行きなさい」と言うと
長男は携帯を持たずに家を出た。

結果的に仲裁した形になったのでよかったかな。

転倒の原因は寝不足かもしれない。
昨日の日本対セネガルの試合が終わった後
興奮して寝付けなかったからなあ。でもそれを妻に言うと
次のポーランド戦の視聴を禁止される可能性が高いので、
努めて元気にふるまったのである。

2018年6月28日(木)

蒸し暑くなってきた。
こういう時はシャワーを浴びるに限る。

しかし、浴室で温水を掛けた途端、両足全体にアレルギー反応が現れ、みみず腫れと共に痒みに襲われる。

アトピーが酷い次男はこんな苦しみを毎日味わっているのか、と深く同情した。

とにかく痒い。掻き毟って血が出ても治まらない。
途方に暮れていたが、エアコンが効いた部屋に入ると嘘のように痒みが止まった。

その翌日、俺は研究室にいる。エアコンは効いているが、足が蒸れて不快だったので革靴を脱いで仕事をしていた。
講演のファイルを作成し印刷するが、プリンターが止まり、用紙切れの表示が出た。
仕方がないな、と用紙を持ってきて椅子に座ろうとした時、キャスター付の椅子は後方に滑走し、俺は尻餅を付く羽目になった。

あまりにも滑稽すぎて、一人で笑ったよ。

2018年6月30日(土)

先週の済州島出張での経験を踏まえ、万全の備えで金海空港に向かった。
機内持ち込みの荷物はパソコンが入った鞄のみである。
出国ゲートで列の最後尾に立ち順番を待っていると、係員から優先ゲートに案内された。
「いえ、大丈夫です」と抵抗する自分はもう存在せず、指示をあっさり受け入れる自分がいた。
障害を自他ともに認めた瞬間だった。

出国ゲートを越えた後、忘れ物に気付く。
海外旅行保険の手続きをすることとウォンを出金してユーロに両替することである。
金海と仁川を結ぶ飛行機は国際線乗り場同士の連結なのでATMでお金を下ろすことはできないのである。
幸いに妻が円を鞄の中に忍ばせていたので事なきを得たが意気消沈してしまった。

仁川空港の床はデコボコがないし、動く歩道も設置されているし、化粧室も広い。
障害を持って初めてわかるユニバーサルデザインの有難味である。

仁川からプラハまでの機内では研究活動に勤しんだ。
通路側で化粧室に近い席だったので混んでない時期を選んで用を足すことができた。
もしかしたら座席に関する配慮があったのかもしれない。

機内食で出てきたのは手長蛸炒め丼である。
熱湯が注がれたワカメ汁も出てきた。
店で出される料理とは比べるべくもないが、機内食としては十分に満足できる水準である。
昨今、経営陣の横暴で新聞を賑わすことが多い某航空会社であるが、機内食、乗務員の接客態度等の現場での努力はもっと評価されるべきだと思う。
驚いたことにプラハ空港での入国審査ゲートでは韓国専用のレーンが設置されているのである。
このことも航路拡大に向けた企業努力の成果であろう。

プラハ空港から目的地であるピルセンまでの高速バスは運航してないそうだ。
研究集会の案内を信じていたので、冷や水を浴びせられた格好になった。

後記:研究集会の案内が正しく、自分の勘違いであった。

空港の観光案内を三カ所たらい回しにされて、ようやく高速バス会社の営業所にたどり着く。
やはり、高速バスに乗るためにはバスセンターに移動して乗車するらしい。
100クローネの切符を買って、タクシーでバスセンターまで移動した。
タクシー代が400クローネと聞いた時には埴輪になったけど、
安全保障のための思いやり予算だと思うことにした。

初めて訪れるチェコであるが、ヨーロッパの他の都市と同様に、自然の美しさと別荘地のような街並みに感嘆した。

終点に着いた。グーグルのストリートビューで予習してきたのでホテルまでの道のりは頭に入っているのだが、極度の方向音痴が目的地までの接近を妨げる。
しかも、スーツケースに杖を付いて歩く東洋人とか、強盗には格好の標的なので、恐怖に怯えながらの道中であった。

お腹がすいたので中東料理屋でピタパンを買うついでにホテルまでの道順を尋ね、ようやくホテルの前に着いた。本来であれば10分以内に着くはずのものが一時間近く歩いた末の作られた感動であった。

兎にも角にも転倒なしでホテルに着いたことは大きな自信になった。
現地時間では午後9時、日本時間では午前4時なので、妻にメールを送り泥のように眠った。

2018年7月4日(水)

ホテルから研究集会会場まで歩いて5分。
しかし、その間に立ちはだかるのは様々な大きさの石が敷き詰められた歩道である。
風情があっていい、とんでもない、転倒の恐怖を抱える自分にとっては拷問に等しい環境である。
会場は市庁4階にある市議会場である。
頑張って階段を上るが、着く頃には息が上がり、泣きそうな顔で「ハイ、ハウアーユー?」を繰り返した。
会議場らしく机がコの字型に並べられている。
椅子は木製で自分にとっては非常に重く、荷物を置いて着席すると疲労困憊の状態になっていた。

これが月曜日の話で、金曜日までこのストレスと闘うことになるのかと思うと絶望したが、
慣れとは恐ろしいもので、水曜日の今日は笑顔で挨拶できるようになった。

2018年7月7日(土)

妻には内緒であるが、今回の海外出張での転倒の詳細を記録しておきたい。

ホテルの部屋でカーテンを引いた時、勢いがつきすぎて後方に倒れそうになった。
慌ててカーテンを掴んで抵抗するが、留め具があっさりと外れカーテンと共に床に仰向けの状態になった。
翌日の夕方にはカーテンが元の状態に戻っていたので色々な意味で安心した。

懇親会の会場までは路面電車で行くらしい。
乗車して障害者スペースに立っていると、電車がありえない加速度で出発し、 慣性の法則で後方に 振り子のように倒れ、 座席に座っていた乗客にもたれかかる状態になった。
同伴者達に起こしてもらい、折りたたみ式の椅子に座らされた。
そのあと、青ざめた表情でもたれかかった乗客に謝罪した。
「何でもないよ」と笑顔で返してくれたので救われた気持ちになった。

最終日、参加者と挨拶を交わしてから建物の外に出た。
B教授夫妻とホテルまで一緒に行くことなり、振り向いた瞬間、
歩道と車道の段差に足を取られ、仰向けに転倒した。
転倒することが予知できている状態だったので受け身をとって事なきを得た。
道すがりのオジさんに起こしてもらい、丁寧にお辞儀した。


ホテルまでの道中は泣き出したくなるような気持ちであったが、B教授夫妻の前なので努めて明るく振舞った。
それがわざとらし過ぎて余計に心配させたのかもしれない。
昼食を食べた後、バスセンターまで同伴してくれて見送りまでしていただいた。

ちなみにB教授は私の指導教官であり、夫妻共々お年が70歳を超えている。
半年前までは自分がご夫妻を労わる立場であったのに今では立場が逆転してしまった。
ただただ感謝するしかない。

もう転ぶことは無いだろうと思っていたが、高速バスから下車する時に杖が引っ掛かってしまい、豪快に転び、下車口で寝そべる体勢になった。
青空が眩しい。しかし起き上がろうとしても体が言うことを聞かない。
先に降りた乗客と車掌に抱き起こされた。外傷がなかったのが幸いである。

もう一人旅はできないな。もうバスには乗りたくない。
ヨーロッパの景色を見るのもこれで最後だ。


余談: プラハのバスセンターから空港までバスで移動しなければならない。
M教授からバスの乗り方に関する講義を受けていたので準備は万端である。
売店で24クローナの切符を買って100番のバスに乗車する。
前々日、転んだ経験から、急発進に備え、障害者用の座席を下ろし、スーツケースを固定した。
バスはやはり突然動いた。そしてぐんぐんと速度を上げて行く。

気になることがあった。 バスに設置されている穴開け機である。
M教授曰く
「乗車した後、切符に穴を開けなきゃいけない。そうしないと、万が一、監視員がやって来た時に20倍くらいの罰金を払わされることになるよ」

しかし、スーツケースが気になり、立ち上がるタイミングがつかめなかった。
それに、監視員が来ることもないだろう、という読みもあったので、
最期のヨーロッパの田園風景を鑑賞している最中・・・。

そのまさかの出来事が起こってしまったのである。
その時はキセルを疑われているとは思いもせず堂々と切符を見せたのだが

「この切符はどこで買ったんだ?」
「バスセンターの売店だよ。料金が不足しているなら払うけど」
「この切符には穴が開いてない。なので規則に従って君は800クローネを 支払わなければならない」

それを聞いて呆気にとられた。
その監視員は身なりもしっかりしていてバーコードセンサーを持っていることから
本物の監視員であることは間違いない。
規則に従い職務を全うしようとするのは当然であろう。
しかし公共の場で罪人扱いされた衝撃は大きく、その絶望感が言葉を失わせた。

理由をいくら説明しても
支払い条項が書いてあるパンフレットを提示されるだけなのであった。

手持ちのクローナは800にはほど遠い。監視員に
「払うよ。空港の現金引き出し機まで同行してくれるかい?」と言って降参した。
バスから降りてこう言った。
「罰金は払う。だけど信じてほしい。
俺が料金を誤魔化そうとしたわけではない、ということを」

彼はあっさりと言った。
「オーケー君を信じるよ。君は旅行初心者だったってことだ。罰金は払わなくていい。その代わり切符を回収するよ」

「何だよそれ。旅行者から徴収する意地の悪い監視員のままでいてほしかったのに、
急にいい人になるとか納得いかないぜ」

彼の筋の通し方は理解出来る。
しかし同情されて子供扱いされた自分が惨めだった。
47歳のおっさんなのにこのザマだからな。

2018年7月16日(月)

検査のために、ソウルのとある大学病院に来ている。
午前は筋電図検査で午後は電位誘導検査である。
針を突き刺し電極間の神経信号の伝達の度合いを検査するとのこと。
両手、両足、顎、頭、肩、背中、あらゆる場所に電気を流され、その度に「ひいっ」という悲鳴が漏れた。

帰りは、病院からソウル駅までタクシー、ソウル駅から釜山駅までKTXで2時間半、
釜山駅から自宅に最寄りの駅まで地下鉄で40分、という行程である。

最後の行程が堪えた。
夕方時なので満員電車である。
微かに期待していた弱者席も老人で埋まっている。
正直に言うと、杖を持って地下鉄で立ちっぱなしで乗るのは相当のストレスが掛かる。
揺れで転倒するのが怖いので手摺を掴む手に必要以上の力を込めるせいである。
しかし、この苦労を誰もわかってくれそうにないのが余計につらい。
やせ我慢ができなくなり、責任転嫁体質になっている自分にもがっかりである。
しかも、席が空いても移動するのがまた大変なのである。

妻から携帯電話が入る。揺れる車中で携帯電話を取るのも一苦労なのだが、
「今日は暑くて作る気がしないから外食にしていいかな?隣の駅に美味しい店があるらしいからそこで降りてくれる?」との一報が入る。
一刻も早く自宅に着いて寝台で休みたいというのが本音だが、
ソウルに向かう時に釜山駅まで見送りに来てくれた妻への感謝の気持ちが蘇り、
「わかった。言うとおりにするよ」と返答してしまう。

その外食はツクミと呼ばれる手長蛸の煮物であった。旨味がある激辛である。しかし、検査の影響か箸を持つ右手を動かしずらい。そしてまた無口になる。

自宅に戻って一眠りした後、前述の本音を妻に語った。
あまり心配を掛けたくはないのだけれど俺には「わかってくれる人」が必要なんだ。

2018年7月19日(木)

火曜日から地下駐車場5周の日課を再開して、今日が三日目である。
検査で体に電流を流して以来、足の運びが以前に増してたどたどしくなっていたが、今日はすこぶる調子が良かった。

「このまま訓練を続ければ完治するのではないか?」と思いながら、
徐々に病状が悪化してきた歴史があるので、糠喜びだろうとは思いつつも、気分はいいものである。

2018年7月23日(月)

8時半に起床。
朝飯を食べ、身支度を済ませたのが午前9時。
屋外で妻と長女と三男を待つこと15分。
釜山駅に向かうタクシーは高速道路に駆け上がるが、渋滞に巻き込まれる。
果たして10時発のKTXに間に合うか?
微妙な時間帯であったが、10分前に到着、事なきを得た。

今日はソウルのとある大学病院に診察を受けに行く日である。
「病院に子供を連れて行くと周囲の人に迷惑をかけるし、子供も退屈だろうに」と主張したが、妻のたっての希望で連れていくことになった。

ソウル駅到着は12時半、フードコートで腹ごしらえをした後、タクシーで病院に向かう。
途中、巨大な銅像二体が見えた。その後方には青瓦台が見える。

約束の時間は午後2時半、しかし、電光掲示板に示されている患者リストに俺の名前はない。
待つこと15分、掲示板の最下方にローマ字の名前が現れた。
待つこと20分、前の患者が出ていってから5分ほど待たされて診察室に呼ばれる。

医師は一通り神経の検査をした後、一呼吸、二呼吸の間を置いてこう言った。

「検査の結果を見る限り、ALSの可能性が高いです」

予想していた結果だったので別段驚きはなかった。
ふり返ると、妻が泣きそうな顔で唇を噛みしめている。
それを見てもらい泣きしそうになったが、心の中では別のことを考えていた。

医師の心情である。告知する直前、その医師の表情には力みがあった。
言葉の重さと患者へ共感する念が間接的に伝わった。
ただそのことに対して感動していた。そして、この医師に斬られて本望とさえ思った。

処方された薬がリルゾールであったことを見ても、医師はその診断に確信をもっていることが伺い知れた。彼は韓国のALS研究の第一人者であり、これまで数多くの症例を見てきた人物である。その診察の重みは否定できない。

車椅子生活になるまでにあとどれくらいの時間が残っているのだろう?
孫の顔が見れるくらいまで生きていられるだろうか?
等々、色々考えた挙句辿り着く結論は、「じたばたしてもしょうがない」なのだ。

妻が薬を買ってきた後、青瓦台を見に行こうと提案した。
「今はそんな気持ちにはなれない。家に帰ろう」という妻からの答えを期待していたが、さにあらず、妻は結構乗り気であった。

まあ、こんな機会もそうそうないし、妻が下の子供二人を連れてきたがっていた理由も
その辺りにあるかもなと思い、タクシーに乗った。

青瓦台入り口前でタクシーを降りる。すぐ近くと思っていたのが甘かった。
景福宮の敷地の周りを上って、一キロほど歩いた所に青瓦台が見えた。
「しかし、これならソウル駅から病院までの道のりで見た方が全体像が見える分ましなのでは?」という疑問は心の中にしまっておくことにした。

青瓦台の写真を撮った後、景福宮に入った。
景福宮は5月にも同じパターンで訪問したのだがその時は長女はいなかった。
炎天下で杖を付きながら歩きに歩いて一時間。
閉門を知らせる放送が鳴り響く中、全員が疲労困憊の状態で退場した。

案外、楽しかったことよりも、こんな無計画でしんどいことの方が記憶に残ったりするんだよなあ。

帰りのKTXでの妻の寝顔を見てそう思った。

2018年7月24日(火)

学科教授会議終了後、同僚の歓送会を開いた。
一年後には滞在先のカナダから戻ってくるので、惜別の雰囲気は皆無の単なる飲み会である。

普段は自重しているアルコールもこの日は解禁である。
もしかしたら二度と会えないかもしれないし、学科長として場の雰囲気を盛り上げなきゃいけないからだ。

一次会の会場は韓定食を手頃な価格で味わえる馴染みの食堂である。
しかし、その建物は改装されており、店名も変わっていた。
エレベーターの横に貼ってあるパネルには、女将とそっくりな顔をした青年と大勢の西洋人が
卒業式のような格好で写っていた。その横にはフランスの料理学校に留学した女将の息子が
帰国したのを契機に店を全面改装したという説明があった。

一品目はパンプキンスープ、
「何だよ、これ。旨過ぎだろう」
二品目は白身魚のムニエル、
「韓定食じゃないじゃん」
三品目は海老のカルパッチオ、
「この四隅の緑点は何なんだ?」

一体どんな主菜が出てくるのか、と恐れおののいていたが、
出てきたのはざるの上に載ったいつもの韓定食であった。

そう、そうなんだ。お行儀よくかしこまって食べるのは、韓国での食卓には似合わない。
でも、このシェフによるフルコースディナーも食べてみたかったな。

宴もたけなわ、二次会ではビアハウスでジョッキを片手に乾杯を繰り返した。

その時に気づいた。
もう右手にはビールで満たされたジョッキを持ち上げる力もないことに。

2018年7月31日(火)

状態は週ごとに悪化している。

床に座った状態で立ち上がるのが困難になってきた。
周囲に掴まる物があればなんとかなるという状態である。

何も持ってない状態で立っていても前後にふらつく。
用を足す時も反動で後ろに倒れそうになるのだ。

学食のトレイを持って移動することも自信がなくなった。
学食に行くたびに同僚の助けを借りている。

食べている時に箸を持つ右手が震えるようになった。
汁物等を口に運ぶ時不安定になるので、口の周りが汚れやすくなった。

運動と思って学科事務室まで階段で行き来していたが、今では昇降機を利用している。

下り坂を見ると気が遠くなる。
歩幅を小さくして前進するが、それでも躓いてしまう。

車の乗り降りに時間がかかるようになった。
椅子に着席するときは、ほぼ落下に近い、

舌がよく回らなくなった。
日本語でもそうだ。

腕の力が落ちた。
寝床で場所を移動するのがしんどい。


2018年8月8日(水)

最近、体調が悪い。
疲労も激しい。
十分な睡眠時間を摂っているにもかかわらず、頭が冴えない。
輪をかけて数学もうまくいかない。
「本気で考えればすぐ解けるだろう」と思っていた問題が解けない。
今日は、当初考えていた方法がうまくいかないということがわかった。
こういう時は気分が晴れないし、日々の運動もサボりがちになる。

夕食時、食器を片付けようとして起き上がろうとする瞬間、ポケットの携帯がテーブルに引っ掛かってしまい、椅子の上に転倒した。
持っていた食器は床に落ち、お椀が割れた。
子供たちが駆け寄ってきて、「お父さんは何もしなくていいから」と言ってくれ、
箒と掃除機で後始末をやってくれた。

傷心のまま、ソファに腰掛けた。
本来であれば運動しに行く時間であるが、とてもそんな気になれず、アイパッドでモノポリーというゲームを子供たちと興じることにした。
モノポリーとは不動産投資を双六化したもので、運もさることながら状況に応じた価値判断や交渉術が勝敗を左右するゲームである。
今回は、長男が外出したので、次男と長女が相手である。
1戦目はオレンジを独占するも運に見放され逆転負け、
2戦目は初心者同様の長女が漁夫の利を得る形になり、敗戦。

初めての独力による勝利に歓喜する長女の姿を見て、
幸せな気持ちになったというのは負け惜しみなのだろうか?


2018年8月17日(月)

午後10時、海雲台のとあるホテルの一室で、
弟夫婦、俺と妻、そして俺の母による平坂家サミットが幕を開けた。
主要議題は「俺の今後」である。

「来年の2月に職を辞めて実家に帰る」と主張するものの現実は厳しい。
家族全員が激変する生活環境に適応する時間も必要だし、4人の子供の学費、車の購入、年金、税金、通院費、保険料、そして生活費、このような経費が無収入の俺に課せられる。

ALSに羅漢した場合、5年内に呼吸に必要な筋肉が萎縮すると言われている。
元気なうちに故郷での生活を楽しみたいと言うのは俺のわがままなのかな?
休職を繰り返して数年分の年収を家族に遺した方がよいのだろうか?

どのような結論が出ても支援を惜しまないと言ってくれた皆には感謝の言葉しか出ない。
そして俺も覚悟を決めました。
ALSに罹ったことを隠すことなく、むしろ、弱りきった姿を晒してでも公の場で発信していこうと。

さすれば平坂塾の経営も軌道に乗るのではないか?
そのためには何でもしようと。

2018年8月19日(土)

昨日から始めた日課がある。
上の子供達3人に国語の教科書を1頁読ませることだ。

長男に「おい、今からやるぞ」と声を掛けると、
「今、パソコンで映画見てるから後でやる」と言われる。

次男は教会の行事で遅くなるらしい。

長女に「教科書を持ってこい」と言うと、
「今、ピアノ弾いているから、ちょっと待って」と言われる。

夕食後、ソファに座ってパソコンをしている長男に
「おい、もうやめて日課をやるぞ」と言う。
長男は同意したがパソコンから手を放さない。
日課を強行しようと食卓の椅子から立ち上がったその時、
長男と一緒に動画を見ていた三男が抗議のためか突進してきた。
妻の「あぶない」という叫びを聞き終わるその瞬間、
後方にバランスを崩し、木製の椅子に後頭部を打ちつけた。

頭を抱えうずくまること十数秒、
三男が青ざめた顔で「お父さん、大丈夫?」との問いに
「大丈夫だよ」返すのが精一杯だった。

このくらいの打ち身はサッカーや柔道でさんざん経験しているので平気であるが、今日は厄日であった。

2018年8月24日(金)

笑うことは健康にいいらしい。
ウインブルドンで8強入りを果たしたテニス選手もそう言っていた。

確かにそうだ。難病に罹ったといってずっと陰鬱な表情のままであったら、
誰も自分の周りに寄ってこなくなるであろう。
しかし、笑いすぎるのも禁物である。
二ヶ月ほど前、学生たちとの飲み会で投じられた一言が笑いのツボにはまり、1分以上笑いが止まらなかった。
普通の状態であれば「あっはっは」が続くだけのことだが、今の自分は泣いているときの嗚咽のような声が喉から出てくるのだ。
「ひぇー」という声とも呼吸音とも言えない奇怪な音声を他人の耳に聞かせるのは甚だ申し訳ないのだが、
「笑いを沈めよう、笑ってはいけない」と思えば思うほど、笑いは止まらなくなるものである。そのうち、鳩尾付近が圧迫されて呼吸困難に陥ったりもする。

この嗚咽的笑いが出る頻度が日を追うごとに上がってきている。
面白いことを言おうとするとき、その文句を言い終わらないうちに噴出してしまい、「笑うな。笑うな」と心の中で呪文のように唱え、会話を打ち切り、落ち着いたところで再度、
口に出そうとしても「ひぇー」が出るので始末に終えないのである。

昨日の飲み会でも、「もちろん」という四文字の順番を意図的に変えて送ってくる教授がいるという話がツボにはまり、鳩尾を抱えてのたうちまわった。

以前ならば一笑に付していたことが致命笑(原文ママ)となる事態に頭を悩まされている昨今である。

2018年8月25日(土)

妻が子供を連れてプールに行こうと言い出した。
二つの思いが交錯する。
「子供が走り回る場所に行くのは嫌だな」
「水の中に入れるのは今年が最後かもな」

葛藤の結果として、プールサイドに杖を付いて立っている俺がいる。
自宅で着替えを済ませたので脱衣所という関門は軽く突破、
室内プール場なのでプール室までの道のりにも手摺が付いていたし、
タイル張りのプール室も妻の手を借りて、なんとか突破、
残るは関門は入水である。

何だろうこの感覚は?
小学生の頃、水深が自分の身長よりも高いプールに入る時の不安と冒険心が入り混じった気持ち。
目の前にあるプールは水深120cmだが、衰えた手足の筋肉で水中での平衡を保てるのか、という恐怖を抱えての挑戦だった。

杖を置き、ゆっくりと腰を下ろすが、腹ばいに突っ伏してしまう。
渾身の力を漲らせた両腕を命綱にして体を反転させ、水中に足を投げ出した。
妻が用意してくれた浮袋に掴るが、これがよくなかった。浮力で足が地面から離れ、再び両腕に負担がかかる。慌てたせいか鼻から水が入り、必死の思いで壁の溝に手を掛ける。
妻の笑顔を見るからに、この危機的状況は周囲には伝わらなかったようだ。

しかし、足が地面に付いてからは平静を取り戻すことができた。
水中歩行時では膝が高く上がり、股関節と膝関節の周辺の腱の伸縮を実感する。
以前と異なるのは、腕周辺の筋肉の衰えである。
「平泳ぎってどうやるんだっけ?」
そう自問するほど手を動かせなかった。

歩くこと30分、ランナーズハイとも言える状態がやってきた。
水の中にいるのが楽しく、手足に掛かる水の抵抗が快く思え、
妻、長女、三男と水中で戯れるのがこの上ない幸福と感じるほどであった。

水に入って一時間が経ち、休憩もかねて何か食べに行こうと、プールから上がった時、疲労に襲われた。手足が不規則な痙攣を繰り返すので、うまく歩けないし、食堂までの道のりが遠く感じられた。

妻子が再びプールに入っている間、長椅子に横になり、深い眠りに陥った。

どのくらい時間が経ったのだろう。
起きた時には4枚のタオルが掛けられていた。

疲れはしたが楽しい時間だった。
水泳をリハビリに取り入れることを検討してみるか。

2018年8月29日(火)

俺の机の上には0.5Kgの鉄亜鈴と握力鍛錬のためのゴム製の環が置いてある。
色は共にピンクで、2週間前に妻が百貨店から買ってきたものだ。

テレビを見たり、ソファでくつろいだり、数学の思考にふける時に片手に持って筋トレをしている。

新たな気付きがあった。
鉄亜鈴をビールのジョッキに見立てて乾杯をする時のように腕を伸ばすと、上腕部の筋肉が震えるのだ。
この位置を10秒保つのも至難の業だった。
しかし、脇を締め手の甲を水平方向に向けると楽に支えることが出来る。
握力鍛錬においては、右手は時間帯に関係なく、環の上弦と下弦を接する変形を10回こなせるのに対して、左手はほんのわずかしかできない。しかも、朝は全く力が入らない。両手とも握る際に使用する筋肉が動くのを見れるのがよい。

なんだかんだで、二週間続けていると効果が見え始めた。
特に左手の握力は頭を掻けるほどまで握力が回復した。

この日の夜、長男と国語の教科書を1頁読む日課を遂行した。
その時に長男が一言、
「お父さん、腕が細くなったんじゃない?」

高校生になっても子供は正直なものである。

2018年9月1日(土)

歩行訓練で馴染みの地下駐車場であるが、妻の評価は芳しくない。
空気が汚いから、だそうだ。

今日は自宅前の道路を挟んだ巨大スーパーマートに来ている。妻の買い物を手伝うのと歩行訓練が目的だ。このマートの二階のテナントは人通りもまばらで、且つ、床にも突起物がないので歩行訓練にはうってつけの場所なのだ。

30分の歩行を終えた俺は人気のないベンチに座り、妻を待つ傍ら、杖を竹刀に見立てて、片手で振る訓練をやっていた。なんと、左手では難なくこなせるのに、握力には自信があった右手では10回杖を振るのがやっとの状態なのである。

背筋が寒くなった。今までの右手の不具合の理由が一本の糸で繋がったからである。
線形代数の講義中で疲労に襲われたのは、右手を上げて板書していたからでは?
慶尚大学で講演した時も板書して疲労困憊だったし、最近、箸を持つ右手が重く感じるようになったのも、乾杯するときの腕の震えも、全てが、上腕三頭筋の衰えに起因していたのである。

俺は泣きそうな顔で
「魔法よ、起これ」とばかりに杖を振り続けた。

因果応報というべきか、そのせいで夕食時には筋肉痛で右手が上がらなかった。

何事もやりすぎはよくないな。

2018年9月3日(月)

後期が始まる日と体調が最悪の日が重なった。

その前日に忘れて来た講義ノートを取りに研究室に向かうが、土日は昇降機が作動しないために階段を昇り降りした時の疲労が朝になっても残っていた。

9時から大学院の講義なので、軽い頭痛と疲労を引きずったまま車に乗り込んだ。
一昨日の杖振りのせいで、両腕が重い。
案の定、チョークを持つ手が震え、まともに板書できなかった。
それどころか、立っているのさえやっとの状態だった。
この苦行を16週続けられるのか?
明日からは受講生数が70名を超える線形代数の講義も始まる。
苦行、云々よりも、遅々とした汚い板書で学生の教育の機会が損なわれることが最大の懸念事項である。

予想できたことであったが、あまりにも腕が上がらない自分の現状を目の当たりにして、
「もう休職しようかな」などと後ろ向きな思考のみが頭を支配している状態になった。

幸いというべきか、同僚が研究室の扉を叩く。
新任教授と連れだって昼食を食べに行こうとの誘いだ。

外は雨上がりで滑りやすい。新しく買った革靴にもまだ慣れてはおらず、いつも往復しているはずの学食までの坂道が恐怖として立ちはだかった。

この時期の学食は混雑していて、人とすれ違うたびに神経を使う。
事情をよく知らない新任教授から心配そうな目で見られるが、この状況でどう説明すべきか頭が回らない。ただただ、作り笑顔で時が過ぎるのを待つだけだった。

午後も研究室の椅子に放心状態で座っているだけだった。
しかし、時にはこのような「ぼーっ」とした感じが解決策をもたらすこともある。

決めた。明日の線形代数の講義では病気のことを公表しよう。
板書は日替わりで受講生にやってもらえばいいや。
教壇という舞台を独り占めしなければ、という法はないはず。
板書の役、質問の役、解説役も登場してもらって、
演劇空間を創ってやろうじゃないの。

2018年9月4日(火)

午後1時半、教壇に立ち70名の学生の前で病名を公表した。
そして、次の講義で板書を代行してくれる3人の学生を募った。
講義が終わる前に「自分らがやります」と
学生3名が申し出てくれた時には、涙が出るほど嬉しかったよ。

2018年9月6日(木)

午後1時25分、新しく購入したリュック式の鞄に線形代数の教科書と演習問題のプリントを入れた。それを両肩に背負おうとするが、予想外に鞄が重く、背負いきれぬまま、バランスを崩し、尻餅をついた。
1時30分から始まる講義に遅れてはならぬ、という気持ちとは裏腹に足が言うことを聞かずに起き上がれない状態が続いたが、犬のように四つん這いになって、本棚に手を掛け、やっとのことで立ち上がることが出来た。
左臀部に痛みを感じるが、ここは我慢だ。おそるおそる鞄を背負い、講義室に向かった。

転倒した後はいつでも落ち込むものである。
しかし、70名の受講生がひしめき合っている講義室の熱気はそのことを許さない。
前回、板書を申し出てくれた3人の学生に10分間用の演習問題を渡し、演習開始後、出席確認のために一人一人の名前を読み上げた。

板書役、質問役、教授役を20分ごとに交代して講義を進行する試みは、大成功とは言えないまでも、うまくいったような気がする。座って受講している学生には、
「自分と同じ立場だった学生が教壇に立って説明している」という驚きがあったのかもしれない。受講生達は昼食後であるにも関わらず、眠気を催す様子もなく、緊張感をもって講義に参加してくれたように見えた。

皆の視線が集まる劇場のような空間に立っているのは日常生活では味わえない快感である。
そのことを今になって気付くとは皮肉なものである。


講義終了後、手伝ってくれた3人の学生と固い握手を交わした。

「俺はいつも人に恵まれているなあ」とつくづく思った。

2018年9月10日(月)

今日もまたソウルのとある大学病院にいる。
主治医に会うのはこれで三度目である。

「先生、障害者申請をしようと思っているのですが」
「この程度では申請は通らないよ。駐車場の優先権も無理だね」

雨天時でも傘をさせないし、広大な駐車場で長い距離を歩くのは御免こうむりたいと思い、障害者申請の質問をしたのだが、あっさり却下されてしまった。

予想外の回答に失望する一方で、
「これでも元気だとみなされているんだ」と嬉しくもあった。

まだまだ道は険しそうだ。

2018年9月14日(金)

一週間に一度の割合で体調が悪い日が訪れる。
今日はその日だった。雨も降っている。
研究室がある建物の地下駐車場の空きスペースは障害者用と最も難度が高い壁際の一台分である。

先週の日曜日、後進駐車の際に後方センサーが作動せず、軽い接触事故を起こしてしまい、
保険会社のお世話になったばかりなのだ。それ以来、後方センサーは黙り込んだままだ。

そんな事があったので、今日は無理をせず、屋外に駐車することにした。
傘もさせず、雨雫に打たれながら坂道を上った。

午前10時から二時間、博士課程の学生とのセミナーを行う。
体調も悪く、気分も冴えないので、終始、不機嫌そうに見えたかもしれない。
ついつい、欠伸もしてしまった。この場を借りて、謝っておこう。

昼飯時、今日は誰からも誘われなかった。
雨が降る中一人で学食に行って、テンパった表情でトレイを運ぶ自らの姿が頭に浮かんだため、外へ出る気が失せた。

学科事務室に行き、お茶とお菓子で空腹を癒した。

午後は論文の執筆に費やした。
いつもとは異なりタイピングがぎこちなく、ミスを繰り返してしまうため速く打てない。

長時間、椅子に座ったままでいることはよくない、
とわかっていても、立って運動する気にはなれなかった。
そのことで生じる緊張とストレスで集中力が落ちてしまいそうな気がしたからだ。

午後6時半、ソウル大大学院に進学した卒業生とO博士と一緒に夕食を食べに行った。
その食堂のカーペットの下の微妙な起伏に足を取られ、後ろ向きに転んだ。
不意ではなかったので、なんともなかったが、
「こんな何でもない所で転ぶなんて・・・」という思いが心と口を重くした。

二次会は車で15分の距離にある貯水池の岸辺に位置するカフェに行くことにした。
運転するのは、唯一、酒を飲んでない俺である。
常々、「飲み会で酒を飲まないのは、数学科で数学をしないようなものだ」
と言って、乾杯を促していたのに皮肉なものである。

カフェの駐車場からは砂利が敷かれた坂道が続いている。
俺を介護しようとした二人に、
「腕を持たれると平衡を保ちにくいから、一人でゆっくり歩くのが安全なのだよ」と講釈を垂れた後、おもいっきり転んでしまった。
自業自得で笑うしかない。

午後10時、自宅の駐車場からの階段を上る。
つい三ヵ月前は上りの階段は苦にならなかったのに今ではしんどくなっている。

自宅の門扉を開ける。
なんて言ったらいいのだろう。
そこには妻子の笑顔という「希望」があった。

2018年9月18日(火)

「明け方に寝言で何か言ってたよ」と妻が言う。
それはおそらく寝言ではなく、半ば目が覚めた状態での言動だ。
そう断言できる理由は以下の通りである。

就寝して数時間経過すると両足の筋肉全体が硬直して、過酷な運動の後に筋肉が攣るのと似たような状態になる。そのため、足を伸ばそうとすると激しい痛みが生じ、思わず叫んでしまうのだ。

以前はリハビリをやりすぎたが故の筋肉痛だと思っていたが、今はそれとは異なる考えに傾きつつある。なにしろ、リハビリの量や時間に関わらず、毎日そのような状態で目が覚めるのだ。おまけに両腕にも痺れが走り、左手の握力がほぼゼロの状態で朝が始まるのだ。

発病して以来、一日たりとも爽快な朝を迎えたことがない。

妻は言う。
「希望をもって何でも肯定的に考えなきゃ」

その意見を取り入れて次のように思うことにした。
「今朝が今からの人生の中で一番爽快だ」

2018年9月19日(水)

Arsenalとは英国のとあるサッカーチームの名称である。その名にちなんで名付けられたのが、Mathnalこと、釜山大数学科蹴球同好会である。何を隠そう、私はこの会の結成時からの顧問を務めている。

今日は学科対抗蹴球大会の初戦の日、対戦相手はポセイドンと名のる海洋学科だ。
キックオフ予定時刻は午後6時、試合会場は貯水池近くの高台に位置する人工芝が敷き詰められた競技場である。

大学から車を走らせること30分、体を温め終わった学生たちを集めて、
「強いチームは声がよく出る。お互いが声を掛け合えば11人が一つの生命体のように動くことが出来るし、勝利も近づくはずだ」と言って送り出した。

審判団が15分遅れて到着、日は沈み空の明るさも弱々しい中、激闘の幕が切られた。

「街灯しかない競技場でボールが見えるのか?」という誰もが抱く疑問に対する答えは「近くの人以外は全く見えない」だった。両チームとも同じ条件なので文句は言えないが、結局、3対0で敗れた。こうしてMATHNALの今年度最後の公式戦が終わった。

敗戦で意気消沈している選手たちを慰労したいと思い、全員の夕食を奢った後、酒席を設けた。そこに辿り着くまでの道中、足元が不安定なのを見かねた男子学生達に両腕を抱えられた。

酒は飲めないが座ってしまえば普通と変わらない。屈託なく笑えた昔に戻ったかのように、乾杯の挨拶を全員に促し続け、一巡したところで、
「明日は集合論の試験があるみたいだけど、空集合を実際に見たことがある人はいるかな?ないなら今から見せてやろう。俺だけじゃなくて皆もできるはずだ」と言って、皆で乾杯しジョッキを空にした。

この病気に罹ってよかったこともある。成熟した人間になり、自分にとって何が大切なのかを考えるようになったことだ。数学科の学生達は紛れもなくその中の一つである。

2018年9月20日(木)

今日も雨だった。こんな日に学食までの坂を往復する勇気は起こりそうにない。学科事務室でチョコレートを頬張り、午後1時半からの講義に備えた。

3人の助っ人学生制度はかなりうまくいっている。
座って聴講している学生からも
「字が小さくて見えない」
「具体的な例をだしてくれ」
「表現行列って何ですか?」
等の要求や質問が出てくるようになった。
説明役の学生も直前に講義ノートを渡しているのにも関わらず即興でこなしているし、板書も俺が書くよりもはるかに綺麗で速く書いてくれるし、質問役も絶妙なボケで笑いをとっている。監督役の俺も常に受講生の集中度を観察できるし、雰囲気を見ながら補助説明をすることもでき、いいことづくめである。
今日の講義の終盤での行列の対角化に関する演習問題も助っ人の3人が解決してくれた。何よりも受講生が集中して聞いているのがいいな。

あんまり誉めると、今までの自分の講義の質に矛先が向きそうだからこの辺にしとこうかな。

備忘録:今日、初めて、妻の運転する車に乗って公道に出た。大学から家までのわずか15分の道のりがやけに長く感じられた。

2018年9月21日(金)

小学生の頃、子供会の行事で海に行った時の話だ。
浮き輪を装着して学校で習ったクロールの練習をしていたのだが、いつの間にか砂浜から50mほど離れたところまで来ていた。泳ぎが上手くなったなあと思いつつも、集団から離れ孤立していることが怖くなった。あわてて、方向転換し必死に手足をばたつかせるのだが、砂浜までの距離は一向に縮まらない。それどころか離れていく一方なのである。

手漕ぎボートで救助に来た監視員が「引き潮には注意せんとな」と言った。怖くて泣き叫んだりはしなかったが、抗い難い自然への畏怖が心の奥底に刻み込まれた。

最近、腕の筋肉が目に見えて細くなっている。取っ手を持つときの握力も急激に落ちてきた。座っている時は普通と変わらないと書いたが、70人分のレポートの採点時に頁をめくることさえうまくできない状態である。

就寝前の日課となっているゴムチューブを用いた鍛錬も焼け石に水、というか、前述した引き潮に逆行という喩えがぴったりくるな。

「でもやらないよりはましだろ、いつか潮目も変わるさ」と自分に言い聞かせ、今日も筋トレに励むのである。

2018年9月22日(土)

居間にはおもちゃが散乱していて足の踏み場もない状態だった。
ソファに座っていた俺はお手洗いに向かうために立ち上がり、僅な隙間に足を下ろす。もう片方の足も見事に着地、それを繰り返していると、普通に歩いているような気がした。

昨晩見た夢の内容である。

夢を見てもその夢を覚えているのはごく稀なのだが、今回はある出来事のためにその夢を思い出し文章化するに至った。その出来事について書いて見たい。

韓国では今日から五連休となる。日本のお盆に該当する年中行事が行なわれる期間で、道路は里帰りと墓参りの車でごった返す。 通常であれば妻の実家の浦項で義父母の料理に舌鼓を打つのだが、高齢の義父母に苦労をかけてはならないという理由で、今回は親戚一同が慶州のリゾートホテルで一同に会することとなった。

午前11時に釜山を出発、昼食会場であるラーメン屋で合流して、チェックインまでの時間を近くの観光地で潰すことにした。

駐車場出口で義姉夫婦と義父母が手招きをしていた。行ってみると
「電動三輪車の貸出があるから、歩くのに難がある俺と義母のために利用してはどうか」という提案だった。妻は車道を走るために安全性が確保されないと反対したが、
「こういう時は年長者の意見に従うべきだよ。車の運転免許を持っている二人がハンドルを持てば問題ないだろう」 と説得して、日傘が付いた二台の三輪車が並走することになった。

秋晴れの下、視界が大きく開ける慶州の平野を縫う砂地の細道を、妻と長女と三男を乗せた三輪車が闊歩する。そう書きたくなるような歩くのに近い速度と感覚で移動することが出来た。眼前には古墳の数々と控えめに咲き誇る中間色の花畑が広がっている。
「ああ、素晴らしい景色だなあ」
しかも頰には風が当たり、まるで歩いているかのように景色が移り変わって行くのだ。

その瞬間、昨晩見た夢が蘇ったのだ。

三輪車を返却した後、現実に引き戻されるのは仕方ないこととして、電動車椅子の生活もそう捨てたものではないな、という希望を持つことができた。

2018年9月25日(火)

5連休の4日目である。秋が深まったせいか、驚くほど眠りが深く長い。昨晩から丸々9時間、惰眠を貪ってしまった。今朝はいつにも増して体がだるい。しかし、部位によって状況は異なる。足が重いのはいつものことだが、大胸筋と肩回りの筋肉の痛みは決して不快なものではない。

一昨日から今日にかけて仕事と研究のため机に向かう時間が長い。運動不足になりがちなので、トイレに行くたびに壁を利用した腕立て伏せ20回を課している。鏡を見ながらやるので、姿勢や使っている筋肉を意識でき、それがやる気に繋がっている。

大胸筋に関しては筋肉の死滅と再生が正常に行われていることを確認できたのは幸いだった。その証拠に腕の付け根に近い胸の筋肉が肥大しつつある。

ALSという病気は運動神経が筋肉を再生するための指令を送らなくなるために筋萎縮が起こる病気らしい。それならば、根本治療とまでは行かなくても、筋肉の再生を促すような薬とか作れそうなのに、と思うのだが、素人の戯言なのだろうか?

並行して、寝台の横をグルグル歩いて回り、歩行時にふらつく原因を分析してみた。
気付いたのは、着地の時の足首の柔軟性が損なわれていることだ。着地の反動を利用するのには曲線的な足首の稼働が必要なのだが、ガクガクという折れ線でしか動かないのが原因のように思えた。それを意識しながら歩くと安定性が増してくるのだが、一眠りすると全てを忘れてしまうのが当面の悩みである。

2018年9月26日(水)

自宅の窓から見る樹木は秋風を受けて湾曲している。
長袖の丸首運動着をタンスから引っ張り出し頭を通そうとするが、
「半年の間に太ったのか?」と疑問に思うほど、頭が出ない。
両腕に渾身の力を込めるも、握力が不足しているために丸首の部分を掴めない。ジャミラのような自らの格好に笑いがこみあげてきて、尚更、力が入らないし、家族の誰かを呼ぶ声も出せない。服と格闘すること約5分、ようやく着替えを終えることが出来、外出の準備が整った。

2時間後、外出先で訃報が携帯に入り、慌てて自宅に帰り喪服に着替える。その間、同行する妻は駐車場で待つこととなった。これがいけなかった。まず、喪服が何処にあるかわからない。クローゼットの中の服を一枚一枚めくっているときに、靴下が滑って床に座り込んでしまう。長男と長女を呼んで起こしてもらったが、今度は丸首の運動服が脱げない。長女に
「何やってんのよ、お父さん、こんな事も出来ないの?」と言われながら脱がせてもらった。その言葉は正に自らに発したかった台詞だ。

葬式から帰ってきた後、俺の両手は消耗しきって、いつもにも増して力がが入らない。喪服を脱ぐことは自分で出来たが、腰ひもがゴム製のハーフパンツが足に絡みつき、引き上げることができなかった。せめて、苦労しながらでも独力で着替えることが出来たら多少の満足感は生じたかもしれないが、それを察しない満面の笑顔の妻によって強引に着替えさせられた。

今は達韓(原文ママ)、そして無の境地で机の前に佇んでいる。

2018年9月27日(木)

俺が住んでいるアパートの敷地には6棟の高層アパートが林立している。その敷地の真下が地下駐車場、真横には小学校がある。その校庭を鍛錬の場としてよく利用していたが、雨天の場合は使用できないという欠点があった。そこで閃いたのが、地下駐車場の利用である。

駐車場内の経路図は大雑把に言うと「自」という形をしている。その第一画の部分は行き止まりになっていて、その壁はサッカーボールの壁打ちに適しており、車の往来を把握しやすいという安全性も兼ね備えている。去年、初めてサッカーボールを壁に向かって蹴った時の感動は忘れられない。壁に当たる瞬間、駐車場全体に反響音が響き、物凄いシュートを撃っているかのように感じたからだ。その跳ね返りもトラップの練習にうってつけなのである。

駐車場の利点は全天候型であることと、無風であることである。
発病してからも運動服に着替え、壁打ちと短距離走20本をこなしていた。あまりにも頻繁に、しかも深夜に通ったので、ある夜、警備のおじさんが懐中電灯を片手に現れ、「住人から通報があったんだけど、まあ、危害を加えるような人ではないと説明したんだけど、やっぱり苦情を無視するわけにはいかないから、ここで運動するのは控えてくれんかのう」と言われたこともある。

その後、しばらくは駐車場通いはやめたが、普段着で歩き回るのに文句が付けられる筋合いはないだろうと思い、懲りずに歩行訓練を行っている。

駐車場を利用し始めて一年弱、全力疾走が出来ていた時代から30分の歩行訓練でへとへとになる現在まで、相棒とも言えるこの地下駐車場に対する愛着は増すばかりである。ここで転倒したことはないし、不測の事態が起こっても監視カメラが付いているので安心である。そのため、駐車場を歩いていると思索を巡らすこともできるし、無心になることもできる。

今日は一週間ぶりに地下駐車場での歩行訓練を行うことが出来た。
いつかこの駐車場に別れを告げる日が来るかもという思いが込み上げ、いささか感傷的になった。

2018年9月30日(日)

24年前、学部4年生だった俺が初めて数学の研究集会に参加した時の話である。一学年上の先輩方が発表していたのが衝撃だった。その講演中に記号の誤りを指摘されたり、講演後の駄目出しや助言がなされ、針のムシロに座っているような状況でも、研究結果の重要性を主張する姿は感動的でさえあった。そのような光景が、学生の講演だけでなくほぼ全ての講演で展開されたのも驚きだった。数学者たちが最高に集中した状態で知恵を出し合い、創造の種が産み出されていく瞬間に立ち会っている、そんな感覚だった。

その研究集会に対する原風景を再現したいと思い、2005年から浦項工科大学のK教授と共に、月毎に開催するセミナーを運営している。その後、紆余曲折があり名称や運営者の変化があったものの、初回からの番号付けが維持された結果、昨日、89回目を迎えることになった。会場は釜山大学である。現在は中国で教鞭を取っているK教授の参加もあって、セミナーも懇親会も大いに盛り上がった。

初期は、会場設営、昼食の案内、宿泊施設の予約、懇親会の予約、旅費支給のための書類作成、プログラムの作成と告知の全てを担っていたが、最近はその大部分を指導学生を含むスタッフが率先してやってくれるので、かなり楽になった。

しかし、朝から晩まで緊張した状態で現地世話役として盛り上げ役をやるのは、今の自分には少々無理があったようだ。

朝起きたのは午前11時だが、疲れが取れないし、手足に力が入らない。日曜だったことが幸いし、妻の配慮のお陰もあって、その後、3時間昼寝をすることが出来て、明日のための鋭気が養われている。

2018年10月1日(月)

高校時代、弁当のおかずを先に食べてしまい、御飯だけを最後に食べていた。なぜならば、御飯は御飯単体で食べる方が美味いと思っていたからである。痩せの大食いで、合宿等でご飯取り放題の時には常に山盛りの御飯をよそって周囲を驚かせたものだ。

そういうわけで、大学時代の学食でご飯が決められた分量しか出されなかったのは大いに不満であった。韓国の浦項工科大学に初めて来たとき、学食の御飯が取り放題であるのを知って狂喜したのを思い出す。その当時は一食2千ウォンだったから、毎食腹一杯食べることが出来たし、食費を節約するために一日一食にすることも可能だった。やはり全寮制で学費無料のエリート校だからこそ学食も充実しているんだろうと思っていたが、さにあらず、御飯取り放題で肉類を除いたおかずも取り放題というシステムは釜山大学でも敷かれていたのである。

もし九大の学食が御飯取り放題だったらどうなるだろうか?連日、体育会系の部員たちが押し寄せて物凄い量の御飯を消費しだしたらたちまち赤字になってしまうと思うのだが、釜山大での学食ではそんな光景は見られず、むしろダイエットを気にしてか、ほんのちょっとしかご飯をよそわない人が多いほどである。

当時は食欲旺盛だったので、キムチで巻いて食べる用、おかずと一緒に食べる用、御飯のみを味わう用、汁物と合わせて食べる雑炊用、これらの全てを賄う程の量の御飯をよそって、周囲からの好奇の視線を集めていた。そのせいで、先輩教授と連れ立って行く時の大皿で出される料理の残り物処理の役割は常に俺だった。

今日の講義は午前中のみ、天気は快晴、されど学食は遠くになりにけり、である。

2018年10月4日(木)

最近、足取りがおぼつかない。傾斜が緩い斜面でも同じ場所に3秒立ち続けるのも困難な状態だ。

時刻は11時50分、同僚の教授から「食事に行こう」と誘われたが、「今日は約束があるから」と断ってしまった。嘘をついたわけでない。宅配業者から電話がかかり研究室に待機していなければならないという理由があった。しかし「坂道が怖いから行きたくない」というのが本心だった。

午後の線形代数の講義では不変部分空間の説明をした。嬉しかったのは受講している学生から質問が出たことだ。しかも、一人だけでなく三人からだ。こういう動きは講義に活気をもたらす。もっと多くの学生に波及するように次回の講義を準備しなければ、と強く思った。

その後、釜山に一週間滞在中のK教授の講演があり、学生を連れて夕食会に赴く。
その会場は急勾配の階段を上った二階に位置していた。
発病してから月日が経っているので、指導学生たちは「俺」の扱いをよく心得ている。俺が辛そうに階段を上っている状態では見て見ぬふりをして、本当に危ない状態になったら手を差し伸べてくれるのだ。要するに、自尊心が高い頑固爺を介護している感じで、病気が更に進行したと悲しむ様子は微塵もなく、「ああ、おじいちゃん無理しちゃ駄目だよ」みたいな応対をしているのである。

韓国では「お互いに迷惑を掛け合えば掛け合う程仲が良い」というらしい。
「残された時間で俺は彼らに何をしてあげれるだろう?」
と帰り道でも、そして今でも考え続けている。

2018年10月5日(金)

1999年に浦項工科大での生活を始めたばかりの頃、自動販売機から出てくる珈琲のあまりの甘さに驚いた記憶がある。「こんな珈琲は飲めたものではないな」と思っていたが、韓国人同僚から奢ってもらって仕方なく飲んでいるうちに、「寒い冬に血糖値を上げるのには悪くないな」のように、この「百ウォン玉で買える温もり」に心を許すようになった。

それから10年後、講義の後に自動販売機で砂糖ミルク入り珈琲を買って、学生と雑談するのが習慣になってしまい、講義がない時でも、小銭を減らすためと称して購入していたし、気が付くと一日に4杯の自動販売機の珈琲と二杯のドリップ珈琲を飲まないと落ち着かなくなる完全な中毒患者になっていた。

そんな俺に転機が訪れる。休日の午後、頭痛と消化不良に襲われたのだ。それが禁断症状であることは明白だったので、その日を境に珈琲を断つことにした。

月日は流れ、珈琲は一日一杯という規制緩和に踏み切り、現在は学科事務室のカプセル珈琲を飲むことが日課になっている。一杯500ウォンであるが、「このお金を払った分は集中して研究しなきゃ」という克己心を喚起できるのであれば安いものである。

今日もまた、日課をこなすために学科事務室内の流し場に向かう。昼食時なので誰もいない。いつものようにカプセルを投入し、待つこと一分、珈琲が注がれた紙コップを持ってソファに腰掛けようとしたその時、紙コップが傾き中の液体がこぼれそうになったので、慌てて左ひざを曲げた。片手をソファに付いているので普段であれば何も起こらないはずであったが、今日は膝が偶然に痙攣し、その反動で後ろ向きに倒れ、尻餅をついた。紙コップの珈琲は後方に放射状に飛び散った。ソファに手を掛け、臀部の痛みに耐えながら必死の思いで立ち上がった。珈琲の飛沫の片付けをする気力もする能力もなかった。
しばらくすると、事務補助の女性が通りかかり、後始末をしてもらった。丁寧にお礼を言った後、ソファに呆然として座りつくした。

「これが新たな転機になるかもな」そう思わせるほど俺にとっては重要な出来事だった。

2018年10月8日(月)

昨晩の出来事である。寝台に横になり、まどろみが訪れようとするその瞬間、「ブーン」という不快な振動音が耳元にやってきた。「うわっ」と声を上げるが体は動かない。布団で耳を押さえ、そのまま意識が遠のいていくその瞬間、またしても「ブーン」が耳元でがなりたてる。暗闇の中で手を動かすが、奴は空中をうろついている様子だ。「こんな時に蚊取り名人の妻がいてくれたら」と思うが、別室で三男を寝かしつけてそのまま熟睡している妻を起こす気にはなれない。

開き直ってみた。
「この季節まで生き延びてきた生命体に敬意を表してやろうじゃないか。全身から血を噴き出して絶命するリスクを冒してでも食欲を満たそうとする奴に幾ばくかのご褒美を上げるのも悪くはない」
静まり返った寝室で目を閉じ、来るべき就寝の時を待った。

小さい音量の「ブーン」が聞こえた。
「大丈夫、大丈夫、血を吸って満腹になった蚊は休息が必要になるはず」
遠方で「ウィンウィン」が聞こえたり、聞こえなかったり、よくわからない状態が続く。
「駄目だ。奴を意識するあまり、興奮して意識が冴えてきた」
そう思った瞬間、間髪を入れず今晩最大の「ブーン」に襲われる。
「ブチッ」
頭の中で何かが切れる音が聞こえた。不自由な手足を懸命に動かし、眼鏡を装着、部屋の証明のスイッチを入れる。

「いた」
水色の壁の中央に「叩いてください」と言わんばかりに鎮座する一匹の蚊を発見した。
「これなら、今の俺の運動能力でも仕留められる」と思い、渾身の左掌底フックを見舞うが、奴はあざ笑うかのように楽々と脱出、勝利の舞を披露した後に姿をくらます。

「諦めの境地」に達するが事態は好転しない。照明を消して布団にもぐるのを見透かしているかのように奴は縦横無尽に暴れまわった。

三度目の正直である。この永遠に続くかと思われた闘いに終止符が打たれる時がやってきた。
壁に佇むのは生き血を吸い愉悦に浸る「奴」だ。前回の失敗を教訓に俺は手に持てるほどの重さの書籍を選び、奴の死角から等速度で書籍を壁に押し付けた。

「やった。これでようやく眠りにつける」
しかしながら、勝利の喜びに震える俺は興奮を抑えられず意識が活性化し、眠れない夜を過ごすことになる。

そんなわけで今日は寝不足がたたり一日中辛かった。



2018年10月10日(水)

「雪が溶けたら何になる?」
理系中の理系である数学科(理系の中の文系と揶揄されることもあるが)の大学院生及びポスドク7人に聞いてみた。帰ってきた答えは全て「水になる」だった。
「頭が人文系の人は『春になる』と言うらしいよ」と言ったら、「ウォー」という驚きの声が上がり、「そんなことは考えもしなった」と口々に言っていた。

今日はセミナー後の打ち上げがあり、二次会では、現在もしくは過去に指導した学生だけが残った。似た者同志の集まりは楽しい。なおかつ、その中でお山の大将になるのも愉快なものである。

二次会終了後、車で帰宅、三次会に向かう一団がバックミラーに映る。
そこは一年前には俺がいた世界だった。車を発車させると、その世界が小さくなっていく、
一年後には決して同じ姿を留めてはいないであろうその世界が。

2018年10月13日(土)

一週間前の話である。妻がこう言った。
「百貨店でエアロバイクを見てきたんだけど、陳列用だったら35万ウォンで買えるみたいよ。老人用だから安全そうだし、買ってみようか?」
老人用と言う言葉を聞いて、箱型の便器のような構造を思い浮かべていたのだが、このところ疲労が蓄積する歩行訓練の限界を感じつつあったので、「いいよ。ベランダに置けば邪魔にはならないだろう」と答えた。

そのエアロバイクが届いたのが二日前だ。夜遅く帰宅すると、窓越しのベランダに総重量30㎏の器具が設置されている。想像と異なり、洗練されたデザインに驚いた。後方に凭れる格好でペダルをこぐので、勢い余って倒れる心配もなさそうだ。

昨日から一泊二日の出張があった。
車での移動と宿泊施設内の移動なので楽観していたが、現地では病状の悪化を肌で感じることになる。
一時間以上座った後で立ち上がると、ふらつくのである。正真正銘の「ヤバい人」である。見兼ねた周囲が腕を支えてくれるのだが、そうすると余計に歩けなくなり、前後左右に傾く重心を制御できなくなるのだ。化粧室に赴くときも介護付き、朝食のビュッフェも同席者が料理を運んできてくれてテーブル上でミニビュッフェが展開された。

周囲の心遣いは本当に有難いのだが、一週間前までは普通に一人で出来ていたことをやらせてもらえなくなっている状況に戸惑う自分がいた。不慣れな環境で転倒等の事故が起きた時の状況を想像すると、介護してもらう方がより良い選択であることは明らかだったので、なされるがままだったが、自我を支える自立と言う柱の一本が折れたような喪失感に襲われていた。

自宅に着いたのが今日の午後3時、布団をかぶりそのまま眠りについた。

午後8時、エアロバイクに跨る。強度は下から二番目、テレビを見ながら自転車をこぎ、30分間で10㎞を走破する。足首や膝のストレッチにもなるので、運動後の足の状態も良かった。これを毎日続けたら、肥え気味のお腹も少しは引っ込むかもしれない。

2018年10月15日(月)

「2019年2月に釜山大学を退職する」と今年の6月から公言し続けてきた。最初は半信半疑に聞いていた同僚や研究者仲間達も、俺の決意が固いことを認めつつあるようだ。

先日、「退職する前にこれまでの足跡を称える研究集会を開催してはどうか」という打診が来た。その厚意は非常に有難かったが、「特別なことはせずに、今までやってきたのと同じ形態の研究集会に参加したい」と柔らかい言葉で断った。

気恥ずかしいからと言う理由ではない。気力体力が低下している状態で来訪する客人をもてなす自信がない、と言うのが断った理由だ。

来週は中間考査である。
少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。

2018年10月16日(火)

秋である。何故かこの季節になると、食欲が増すし運動をしたくなる。

去年の今頃もそんな感じだった。筋肉枯れや男性ホルモンの低下による無気力症等の記事を見つけては「これはいかん」と思い、肉体改造に取り組んだものだった。

今年の二月に医者から運動神経病の診察を受け、
「汗をかくほどの過激な運動は筋肉細胞の死滅に繋がるので要注意」という教えを遵守してきた。従って脈拍が上がるような運動はここ数カ月行っていない。

ところが秋の気配と購入したエアロバイクは俺を誘惑する。
一昨日から30分自転車をこいでいるが、日に日に距離が伸びている。今日は最初の5分間を平均回転数60で走り、脈拍を100まで上げた。息切れしてしんどかったが、我慢して10分続けると、発汗し始め、これまで見失っていた、体内に血液が駆け巡る感覚が蘇ってきた。
「明日のことは考えるまい。今、この瞬間が気持ちよければそれでよいではないか」と開き直り、30分の運動を終えた。

運動後の爽快感は風呂で頭を洗う時の指先にも好影響を与えるようだ。いつもは「何でこんなに力が入らないんだろう」と憂鬱になる作業が今日は「ゴシゴシと言う音をもっと奏でてやろう」とリハビリの一環に変わっていた。

今日はぐっすりと眠れそうだ。

2018年10月17日(水)

ここ二週間、体の調子が下降線を辿っていたのだが、今日は幾分持ち直した。歩行時にふらつくのは相変わらずだが、手足に力が宿っている感覚があり、転倒を過剰に恐れることなく、前進することが出来た。昨日のエアロバイクがいい方向に作用していると信じたい。

今日もまた30分間息を切らせながらエアロバイクをこいだ。脈拍を測る両脇の取っ手を握ることで握力の鍛錬にもなるので一石二鳥である。

運動していい気分になってその反動で悪化するというのは今までに何十回も繰り返されてきた黄金パターンである。しかし、裏を返せばその不断の努力のお陰で日常生活が送れる状態を維持できているとも言える。今回の夢はせめて一週間くらい続くといいなあ。

2018年10月18日(木)

線形代数の講義は1時半から2時45分までの75分間である。
その間はずっと立ったままである。板書を学生が代行してくれるとは言え、進行役の学生が説明を求めてきた時は黒板の前に出てきて、上がらない右手で必死に板書しなければならない。定位置に立っているだけでなく、転倒に注意しながら黒板の前を行ったり来たりするので、講義が終わる頃には疲労困憊になっている。

つい半年前はじっとしていても体の中から湧き出てくる気合みたいなものがあって、それを放出して受講生にぶつけているような感じだった。ところが今はそれが出来ない。そもそも発声や発音が上手くできないので、教室の隅まで声が届かない感じだ。

つい一年前には講義の熱量と受講生の集中力がスイングし、講義終了後、受講生から自然と拍手が起こることがよくあった(「早く終わってよかった」と言う意味ではないと信じたい)。もうそんなことは起こらないと思うと寂しいものがある。そして、全盛期のパフォーマンスが出なくなり、尚且つ、回復の見込みがないという事実が、退職を決意させた理由の一つとも言える。

2018年10月19日(金)

先月、ソウルのとある大学病院で診察を受けた後、
「次回は12月に来てください」と言われた。処方された薬は前回と同じものだった。

ソウルまで行くための費用と時間と労力はバカにならない。特に労力は病状の進行に比例して増大している。結局、ALSに関して病院が出来ることはリルゾールを処方することだけなんだ。
「それならば、釜山の病院に行けばよいではないか」と考え、現在、釜山のとある大学病院の待合室に座っている次第である。

昨年の12月に初診を受けて、今年の1月に一週間の検査入院をした。その時の診断で「ALSではなさそうだけど、ケネディ病の疑いがある」と言われ、遺伝子検査をするが、これもまた異常がなく、
「他の専門医を紹介します」と匙を投げられた格好になった。

その主治医と今日再会するのだ。

当時は「神経伝達に異常がみられるが、他のどの検査でも陽性反応が見られず、歩行や呼吸困難が顕著に表れる病気がALSである」ということを知らなかった。そして「原因が不明な運動神経病はALSと診断される」ことを身をもって味わったので、今年の3月の段階では到底病名を出せるような段階ではなかったということに合点がいった。

久しぶりに会う主治医は相変わらず表情の管理が出来てなく、俺の病状を憐れむような表情で患者の不安を増大させる。そして、患者の質問に誠実に答えてくれるし、患者に十分な時間を割いてくれる。

次回の予約は12月だ。薬もソウルで処方されたものとほぼ同じ。何も変わらないけど、主治医との距離は近くなった。

備忘録:妻の運転する車で自宅から病院まで往復した。所要時間は往復3時間。車線変更等で初心者らしい振る舞いをするものの、以前よりもはるかに運転が上手くなっているのに驚いた。ちなみに釜山は韓国の中で最も運転が難しい地域として有名である。

2018年10月22日(月)

午前は150分間の大学院の講義があった。10分の休憩時間を除いて、立ちっぱなしで話し続けた。疲労で朦朧とした状態で学科教授会議に出席、昼飯の弁当を食べながらの会議で二時間座ったままでいる。こんなときは立ち上がった後の転倒に要注意である。会議室の椅子、教室間の段差に注意しながら研究室に辿り着く。

レポートの採点をしていると先輩教授の訪問を受け一時間ほど議論し、その後、講義の準備をした。

立ち上がって化粧室に向かう。こんな時は要注意である。杖を付いてゆっくりと歩を進め、化粧室前の仕切りと壁の間に辿り着いた。しかし、足は化粧室の入り口の脇の壁に向かっている。方向転換しようとするが制御ができない。そのまま壁にぶつかり、反動で後方に倒れ、仕切りに後頭部を打ちつけた。

その衝撃音が廊下に響くが誰も気付いてない様子だ。呆然自失の状態で、壁に手を付き片膝を立て、杖を支えにして、もう片方の足で踏ん張ろうとするのだが、その勇気が出ない。
十数秒の葛藤の後、清水の舞台から飛び降りる覚悟で膝に力を込め、両足での着地に成功した。常套句「やれやれだ」はこういう時にこそ使いたいものだ。

用を足している間、物思いにふけった。
さっきの倒れ方は怪我こそしなかったものの、非常にヤバかった。頭の中の「止まれ」という命令が無視されて足が勝手に動いたのだ。妻が事ある度に言う
「車椅子を使わなきゃ、それが嫌なら四六時中付き添うから」が本当に現実味を帯びてきた。

とある明治維新の志士が「男なら死ぬときは、たとえ溝の中でも前のめりに死にたい」と言ったらしいが、「俺は男だけど前のめりで死にたくない」と言う思いを新たにした一日であった。

2018年10月25日(木)

線形代数の中間考査の試験監督をした。2時間立ったままで目を凝らしているような作業よりももっと生産性がある仕事をすべきという意見もあるかもしれないが、今までにただの一度も定期試験の監督の代行を頼んだことはない。何故かと言うと、学生が一生懸命考えている姿を見るのが好きだからである。60人の学生の頭の中で発せられる脳波が充満する教室にいると、自分の思考まで活性化するような錯覚をしばしば覚える。

教科の内容を網羅する17個の命題の真偽判定問題で、その中から6個選択して証明を与える形式を採っていて、過去問、講義毎に出す演習問題、教科書の問題は一切用いずに、学生が初めて目にするような問題を出している。「そんな方式は学生に不評なのでは?」と思われるかもしれないが、さにあらず、全員が同じ条件だし、既出問題の解答を暗記する必要がないので概ね好評なのである。

試験は学生の学習到達度を測るものであるが、同時に教える側の教育能力を測る場でもある。板書と説明を学生に委託すると言う平坂システムの教育効果の可否が明らかになるとの思いから、今、背筋を伸ばして採点している。

2018年10月27日(土)

今日は朝から調子が悪かった。歩行時に左足の足裏に体重を乗せると後方に倒れそうになるのだ。仕方なく、左足だけ爪先立ちで移動するのだが、左右のバランスが悪くなり壁にぶつかってしまう。もう転ばないように注意するという段階ではなく、歩けば必ず転ぶの一歩手前まで来ているような感じだ。

「今日の午後、車椅子を見に行ってみるか?」と妻に聞いてみた。
普段は「車椅子だと足が弱くなるし、まだまだ歩けるから大丈夫」と言い続けた俺の意外な申し出に妻は戸惑った様子だったが、インターネットと電話で車椅子が展示してある医療機器販売店を探し出してくれた。

車で走行すること20分、目的地から50m離れた駐車場に車を止め、妻の介助を受け、歩いてその店に向かった。展示してある車椅子の価格は45万ウォンだった。乗ってみると悪くない。これならちょっとした外出なら一人で行けるかも、という希望を抱きつつも、色々な種類の車椅子を試してみたいという思いもあって、一カ月5万ウォンのレンタルで貸し受ける運びとなった。駐車場までの復路は車椅子に乗ったまま操縦しようと試みるが、歩道がでこぼこで入り組んでいるために思うように進まない。まだ慣れてないせいだろうと思い、自宅の前の駐車場で練習してみた。

舗装された駐車場で道路の条件は良いはずである、しかし進むことは進むが思ったような速度は得られない。そのうち、腕に痛みが走り、疲労を感じるようになった。歩道からアパートの入り口までの緩いスロープにも挑戦してみたが、手を踏ん張って車椅子を自力で押し上げるのは出来そうな気がしなかった。

せっかくレンタルした車椅子だったが、希望どころか絶望の底に落とされた感じだ。もう一人じゃ何処にも行けないのか、と言う思いが反芻し、家族にも無愛想な態度をとってしまった。

腕の疲れは全身の疲れに直結する。寝台でふて寝しているうちに長い眠りについてしまった。起きたのは午後6時、講義の準備、採点、成績処理等、やることが山積みになっている。それらを一つ一つ片づけて今に至る。

日課である子供達との日本語学習もエアロバイクもサボってしまった。なんともさえない一日だったが、良い休養にはなった。

2018年10月29日(月)

まだ午後9時だというのに妻は熟睡してしまった。
日本語翻訳の講義での発表の準備で昨晩は徹夜だったみたいなのでその疲れが出たのだろう。
「大学生と結婚しているのか?」
「4人の子供がいることから再婚か?」
と誤解されても困るので、真実を打ち明けよう。
妻は日頃の日本語勉強好きが高じて今年の3月から釜山大学日文科大学院の修士課程の学生として在籍しており、授業料が大幅に減免される学科事務室補助の勤務もあるので、ほぼ毎日大学に通う身なのである。

三男をどうやって寝かし付けたらいいのだろうと思っていると、歯磨きをした後、ひとりでに妻の布団に潜り込んで眠ってしまった。次男と日本語の勉強をした後、長女を呼ぶが長女は「今日はやりたくない」の一点張りだ。

その長女に手を引かれてエアロバイクに臨んだ。二週間前は抵抗1で30分こいで息切れしていたが、今では抵抗3で30分こいでも汗ばむ程度である。しかも固定されたハンドルを握ってこぐようにしているので握力の鍛錬にもなっている。

だが、悲しいかな、一眠りして朝になるとその握力は喪失しているのである。ワイシャツのボタンを留めるのにも苦労するので朝の準備に最低30分を要するようになった。

今は深夜0時、塾から帰った長男が課題提出のために徹夜するそうで台所の食卓で作業中である。そんな徹夜するくらいだったら前もってやっておけばいいのにと思うのだが、血は争えないものである。

2018年10月30日(火)

自転車に乗れなくなって久しい。最後に乗ったのは今年の五月だ。その間、誰も跨ることなくアパート敷地内の駐輪所に放置されている。この自転車との付き合いはかれこれ13年にも及ぶ。おそらく、我が生涯で最も長く保有した自転車になることであろう。

金井山を見上げる位置にある自宅から山の麓の丘陵に位置する釜山大学までの自転車による往路所要時間は25分、復路は15分である。この往復を1年間200回こなしてきたと思うと感慨深い。その当時は自動車を所有してない唯一の釜山大数学科の教員として特徴づけされ、数学科の建物のエレベーターで学部生に会うたびに、「自転車で通うの大変じゃないですか?」「行きは大変だよ、最後の坂道は手で押して上っているよ」という会話が交わされたものだ。

帰宅時、妻が運転する車の助手席から「赤い彗星」こと我が自転車が目に入った。幼いころから子供用椅子や鯉のぼりなどを擬人化する癖があるのだが、暗闇で直立した姿勢で鈍い赤色を放つ彼はやけに頼もしく見えた。


2018年11月1日(木)

ロシアから共同研究者であり友人でもあるP教授がやってきた。二週間の滞在である。午前10時、約束の時間通りに研究室での議論が始まった。お互いに質問をぶつけ合いその度に思考に耽る濃密な2時間だった。爽快感と充実感を保ったまま、次に会う約束を取り付け解散したのだが、その直後に体が重くなった。

その疲労を引きずって1時半からの線形代数の講義に向う。まず講義資料が入ったリュックを背負うのに一苦労だ。出席確認時の声出しもままならない。「~さん、ブッー」のように口から息が噴き出るのだ。教室内を歩く時もチャップリンのように左右に揺れてしまう。

こんな時は早退して横になりたいところだが、5時半からの会議に出席しなければならない。昔はこんなこと何ともなかったのに怠け体質になってしまったなあと呆れてしまう。

2018年11月5日(月)

先週の木曜日から数えて4日間エアロバイクに跨っていない。
この間に何が起こったのかを書き留めておきたい。

木曜日、帰宅後、体がだるかった。最近は椅子代わりになっている車椅子に腰掛け、テレビを点けると、サッカー日本代表のユニフォームが映る。「そうか、今日は19歳以下男子によるアジア選手権の準決勝が放送されるんだ。久しぶりにサッカーの試合を鑑賞するのも悪くないな」と思い、視聴する。
結果はサウジアラビアに惨敗。無念さと共に就寝しようとするが痒みに襲われ、抗ヒスタミン剤のお世話になる。薬が効くまでの1時間、痒みで寝られず、より疲労が溜ることとなった。

金曜日、午前10時からP教授とK博士と共同論文の最終確認を行う。昼飯はK博士の車で出掛ける。この時、足取りがいつもより不安定なのに気付く。食後、駐車場に停めてあるK博士の車に辿り着くまでが一苦労で、警備員のおじさんの助けを借りながら乗車した。
午後は韓国人でありながら日本の最高学府に籍を置くJ博士と指導学生のCさんと議論。

その日の夕方、日本からH教授がやってくる。P教授夫妻、H教授、J博士を車に乗せ、焼き肉屋に向かった。皆、大切なゲストであり、最大限のもてなしをしたいという心と裏腹に体は悲鳴を上げていた。翌日は車で片道一時間半かけて彼らを研究集会会場まで送らなければならない。自宅に帰ってから十分な睡眠を取るために風呂に長時間浸かった。これがよくなかった。腕に力が入らず、自力で風呂から出ることが出来ない。「これもまたリハビリ」と思い、悪戦苦闘するが結局妻の介護を仰ぐことになる。疲労困憊で着替える力もなくなり、着せ替え人形状態で無力感のまま床に就く。

土曜日、朝7時起きで、皆を車で迎えに行く。研究集会では50分の講演が5回あって、集中して聴いた。脳と体は分離できない。即座に体の調子が悪くなる。懇親会では一度も立ち上がることなく、座ったまま不景気そうな顔で時間が過ぎるのを待っていた。懇親会終了後、運転しなければならないので周りも理解してくれることだろう。会の盛り上げに貢献できなかったことに軽い自己嫌悪を感じながら高速道路を走った。

帰りの車に同乗したKT博士が来年結婚するとのことだ。それを聞いて上記の自己嫌悪を払拭する案を思いついた。「釜山で結婚前祝いをやるぞ。俺のアパートの近くの飲み屋に集合な」

運転の義務から解放された俺は猛烈に麦酒を飲みたくなった。幸いにお目付け役であり飲酒反対派であるPJ博士は野暮用があって不在である。俺は周囲を「一杯だけ飲むから」と説き伏せ、待望の麦酒を口にした。皆で祝辞を繰り返し、楽しい時間を過ごした後、妻からの電話を機に退散することにした。酔ってはいないのに足元はフラフラで妻に支えられて自宅に向かった。

日曜日、家族は教会に。俺は疲れで寝台から起き上がることが出来ず、かといって手足の痙攣で安眠することも出来ず、正午まで呻きながら寝台で過ごした。
一週間の疲れがどっと出た感じだ。左手にはほとんど力が入らないので、トイレにいくのも緊張が強いられた。今日は午後4時半に釜山旅行中の友人夫妻と会うことになっている。この場合、身支度は3時半に始めなければならない。無事に合流、車で貯水池の湖畔に位置する鴨料理屋に向かう。友人の細君が鳥が苦手だということを失念していたのは本当に申し訳なかったが、彼女が一口食べて「結構、美味しいですね」との一言に救われた。名残惜しいが、子供たちも明日は学校と言うことで午後9時半に散会となった。

月曜日、午前中に大学院の講義があるので7時起きだ。午後はP教授、H教授、G博士を交えて、専門家同士の高度な議論が3時間余り続いた。数学者として至福の時間であることは間違いないのだが、体がついてこないことが問題である。夕食を案内した後、彼らを宿舎に送り、自宅に戻って妻を連れ、長女の誕生日の贈り物を買いに行った。その誕生日には他の約束があって家に帰れないのでせめてもの罪滅ぼしにと思ってのことだ。

短い期間に沢山の人と会った。来年の2月に隠居することを公言しているので、そのことを前提とした会話も当たり前のように出てくる。元気なうちに会っておこうと考えるのも無理からぬことだろうし、自らが望んだことでもある。でも、もっと病気が進行した時、笑っていられるのか、健康な心を保てるのか、正直、自信が持てない。

今日は上の三人の子供に国語の勉強をさせて、「また同じで変わらぬ日常を取り戻すんだ」という願いを込めて抵抗2で30分エアロバイクをこいだ。

2018年11月6日(火)

今日は長女の誕生日だった。
「誕生祝にはノートブックを買ってやるからな」
「それじゃなくて、本当のノートを買って」
「いやだから、本当のノートなんだけど」
というやり取りが毎年この時期の恒例行事となって久しい。

当日は夜10時に帰宅した。ケーキの上に立てた大小二本のろうそくに火を燈し、家族全員で誕生を祝う歌を歌い、長女が吹き消した。
長女の顔がさえないのはケーキ以外の贈り物が出てくる様子が皆無だったからである。泣きそうな顔をして頭を掻きむしる長女の背後に二つの紙袋を持った妻が忍び寄った。振り向いた長女は大喜び、贈り物のハンドバッグを肩にかけ上機嫌だ。

昨晩、無理して買い物に行った甲斐があったよ。
来年は本当のノートを買ってあげようかな。

2018年11月9日(木)

昨日の朝のことだ。日課である両腕のストレッチと腹筋を終えた後、便所に向かおうとしたその時、右足首の着地の角度に若干のズレが生じた。慌ててクローゼットの扉に右手を掛けるが、掴み切れず、朽ち木が倒れるかのように落下し、右肩を強く打った。その時、妻は長女を玄関で見送っており、俺が倒れたままの態勢で動けないでいることに気付いてない。「うーん、うーん」と唸っていると妻が駆け寄ってきて、周りの障害物を取り除いた後、体操座りの態勢まで起こしてくれた。そのまま腕を使って平行移動、寝台に手を掛け膝を立てることに成功した。

今日の朝も研究室で同じ現象に見舞われた。土足で出入りする研究室の床を洗濯したてのセーターでモップ掛けする気分は、ある意味、最高だった。

駐車場で歩行訓練をしなくなって久しい。階段の上り下りも時間がかかるし、疲労蓄積の直接の原因となっている。大学の建物の中を歩いていると、右足が何かに引っかかって歩幅が乱れることがある。今日は、新規採用教員の面接や博士論文発表会の行事が重なり、歩くことが多かったが、転倒しなかったことが奇跡と感じるほど、足取りが不安定だった。

この日の夕食はO教授と二人の指導学生と一緒に海鮮鍋を食べた。O教授から「退職するのであれば、いつ頃日本に帰るのか?」と質問を受ける。雰囲気が湿っぽくなってきたのを感じ取った俺はこう答えた。
「来年の二月だよ。でも俺らは論理のみが支配する不老不死の数学の世界に生きている。君らとは数学と言う共通言語を通して語り合えるはず。俺に連絡するときは出版された君らの論文を添付するように」

そうは言ったものの公平性を保つために俺も論文を書いて連絡しなきゃいけないな。

日本に帰って俺はどうやって家族を養っていけばいいんだろう?歩くのもままならない、話すこともままならない俺を見て入塾しようとする人が果たして一人でもいるのだろうか?

問題は山積みであるが、いつの日か生計を立てる目途がつき、家長としての責任を果たせる日が来るのであれば、また数学の世界に戻り、不老不死の定理を作ってみたいと思う。

2018年11月11日(日)

困ったことになってきた。両手の握力が日に日に落ちている。のみならず、何もしてない時でもどこかの指が「びくん」と痙攣するのが日常となってきた。そのせいで、マウスを右手で操る時も左クリックの直後に右クリックしてしまい、使いもしないボックスが画面に表示されることがしばしばである。

左手ではボタンの取外しが甚だ困難なので、ワイシャツの右手首が着替えるときの最大の山場となっている。お茶を飲むときもお椀を両手で抱えて飲んでいる。食卓の中央にあるキムチを箸でつまむのも震えながらである。

運転するときのハンドルも回すことは今のところ問題はない。しかし、運転時にくしゃみをする時、どちらかの手で口を押えることができずに車窓の内側に水玉模様を作ってしまう。

筋トレすると筋肉が疲弊し、疲労回復に何日も要するので恐ろしくできない状態である。

今日は一週間の疲労がたまったせいか、午後2時まで布団の中で過ごした。それでもまだ寝足りないくらいだし、手足も心も重い。それを見かねた妻から気分転換に外出しようという提案があった。

行き先は金井山の麓に位置する釜山大学である。元々は山だったのを切り開いて造成されたキャンパスであるから、自然が豊かで、秋の紅葉を鑑賞するためにはもってこいの場所なのである。だが気は晴れない。その理由はわかっていたが口には出せない。つまらなそうに助手席に座り、外に出ようとしない俺に業を煮やした妻が、キャンパス内に新しくできたカフェの近くに車を止め、トランクから車椅子を引っ張り出し、半ば強引に俺を車椅子に載せようとしてきた。

まあ、外の空気を吸うのも悪くない。まだ歩けるけれど車椅子の目線を体験するのも一興だろうと思い、妻が押す車椅子に乗り、そのカフェに向かった。カフェは二階で脇のスロープはエレベーターに繋がっている。

「ほう、これが障害者に対する配慮か」と感心したのも束の間で、今日は日曜であったため、エレベーターの電源は切られていた。申し訳なさそうにしている妻に申し訳なくなり、笑顔で「テイクアウトして来いよ。近くのベンチで珈琲でも飲もうよ」と提案した。

階段の下で待っている間、スマホでレミオロメンの『粉雪』を再生した。すると、長女が「お父さんはそんな歌がすきなの?」と根掘り葉掘り聞いてくるので、恥ずかしくなって再生を止めてスマホをしまい込んだ。

買ってきたチョコケーキを頬張りキックスケーターで滑走する三男とチーズを塗ったベーグルを手に持ち三男を追いかける長女、傍らには相変わらず自分の分を注文しない妻が珈琲を冷ましている。その姿を見ていると「元気を出さなきゃな」という思いが湧いてきた。

2018年11月13日(火)

今日は一日中足の調子が悪かった。
着替えに時間が掛かるのはいつものこととして、歩いても方向が定まらず、止まりたいときに止められず、前方にある壁に両腕を付いて止まるような状態であった。そんな状態で線形代数の講義を終え、転倒することなく自宅に帰ることが出来たのは僥倖であった。

と思っていた矢先に事件は起こった。
寝台からエアロバイクに移動する際に、読書感想文の宿題を一生懸命やっている長女を冷かそうと思い、
「おーい、お父さんが歩くの手伝って」と呼びつけた。
長女は不満そうな表情で
「もう、なんで宿題やっている時に呼び出すのよ」と答える。
いや、ただ手を握りたかっただけなんだけどなあ、とは言わずに長女の手を握った。すると長女がくるりと踵を返したため、引っ張られるような態勢になった。反転する体に俺の足首がついてこれるはずもない。なすすべもなく、一人用ソファにもたれた後に床に落ちた。

妻が血相を変えて飛んできた。慰労してくれるのかと思ったら、
「なんで私に頼まないの?子供が怪我したらどうするつもりなの?」と怒られる羽目になった。動機不純(原文ママ)だった俺に返す言葉はなく、笑ってごまかすだけだった。

2018年11月15日(木)

次回の更新は11月25日以降になります。

2018年11月25日(日)

家族とインターネットから隔離された9日間に及ぶ合宿生活が終わった。この期間様々な事件と葛藤があったがその件に関しては時期を見て公開することにしたい。

持病は徐々にであるが確実に進行している。

箸でオカズを掴むことはできても口の中まで移動する作業が上手くできない。そのため、オカズの皿を最も近い位置に移動して犬食いしている有様だ。

発声力も舌の動きも弱くなっているので、鼻声を絞り出すようにしか話せない。

無理すれば歩けるけど、転倒した時のリスクを考えると、人通りが激しい場所、または全く人通りがない場所は恐ろしくて一人で歩けない。その点、車椅子は精神的な負担を軽減してくれるし、周囲も介護がしやすい様子だ。明日からは大学でも車椅子を使おうと思う。しかし、歩いたり階段を上ったりする機能は確実に低下することが予想される。

毎朝、両肩のストレッチを兼ねた腹筋運動を50回やっている。これは足の反動を用いて起き上がるための重要な訓練なのであるが、日毎にしんどさが増している。これは腹筋及び体幹の衰えを意味し、実際、寝床での移動に苦労するようになった。

服の着替えは最もストレスが溜まる作業だ。なにしろ、パンツを引き上げることさえ億劫なのだ。ホックやファスナーを止めるのも一苦労である。

一年前、体の異常に気付いた時、7月にALSと診断された時、数々の転倒を経験した時、その度毎に心に浮かび、俺を励ましてきた言葉がある。

「これは決して不幸のどん底なんじゃない」

地獄の釜の底はまだ見えそうにない。

2018年11月26日(月)

結婚式場ほどの広さのホールで約100名の教職員が採点方法説明会議の開会を待っているその時、ポケットの中の携帯が振動した。妻からの着信である。
「今、会議が始まる所だから」
「ああ、そう。ごめんなさい」
会議が始まると、「今、大学?」というSMSが送られてきた。
会議だと言っているのにしょうがないなあ、思いつつも、
「大学横の会議場」とSMSで返した。

全体説明会は終了し、個室に分かれての設問別質疑応答会議が始まろうとするとき、またしても、携帯電話が振動する。
「今、ロビーにいるんだけど出てこれる?」
「いや、今から重要な会議で出れないよ」と電話を切った。

会議の参加者が設問を熟読し、配点について説明をしようとするその時、数学科の同僚が座席がない乳母車のような4輪車を会議室に持ってきた。妻から頼まれたとのことだ。

物理学科や化学科から召集されてきた数学には一家言有りの教授陣を前にして、どんな批判を浴びることやらと緊張していた俺は、目の前にある物体をどのように解釈すべきなのか整理がつかず、気が動転している状態だった。

青息吐息で説明し、無事会議は終了した。参加者全員が席を立ってから、その4輪車のハンドルを握ってみた。ブレーキがついているので、推進力で体のバランスを崩すということはなさそうだ。しかも、前輪は360度回転するので左右の重心の変化にも対応している。確かなことは、杖を持って歩くよりもはるかに安定していることである。この時、妻が執拗に電話してきた理由が氷解した。貸し出し中だった車椅子を返却しに行った妻は、その店でこの補助器具とも言える4輪車を買ってきたのだった。おそらく、俺の身を案じて一刻も早く届けたいという一心から出た行動だったのだろう。

腕の力が衰え誰かに押してもらわないと前に進めない車椅子とは異なり、この4輪車は自立性が高く、歩く機能も退化することはないだろう。車の後部座席への搬入も自力で可能なほどの重さである。

これがあれば一人で近くのカフェまで歩いて行けるかもしれない。
自由万歳と叫びたい気分である。
不自由な環境の中でも自由は得られるのだ。

2018年11月27日(火)

起床する。寝台の横には4輪車が屹立している。取っ手の高さは掴んで立ち上がりやすいように調整しておいた。脹脛に力が入らず、何度も寝台に尻餅を付きながら立ち上がったことを思い出した。そんな苦労は何処へやら、4輪車の取っ手があれば一発で起立できるのだ。長時間足を動かさなかった時に生じるふらつきも解消された。正に完璧とも言える補助器具であった。

慎重に4輪車を押しながらトイレに向かう。出てくるときに押しやすいように後ずさりしていると、不意にトイレのドアに背中がぶつかった。ドアノブを回さないとドアは開かないと信じていた俺が愚かだった。ドアは開放状態で、後方への重心の移動を制御できず、4輪車ごと後ろに倒れた。

好事魔多し、とはこのことである。前方へは決して回転しない4輪車であるが、ブレーキが効いている状態ではいとも簡単に後方に回転するのだ。

その物音を聞いて、妻が顔面蒼白で駆け寄ってきた。倒れただけで怪我がなかったのが幸いであったが、自力では起き上がれない。仕方がないので次男を呼び寄せ起こしてもらった。

この一件を除いては今日の歩行は良好そのものであった。速度は落ちるものの歩いている時の精神的なストレスは劇的に軽減されたし、車への上げ下ろしも自力で出来ることが確認できた。これさえあれば階段の上り下りがない場所なら自力で移動できそうだ。

今日は大学入試の採点、学科教授会議、線形代数の講義、九大からの客人をもてなす夕食会があった。いつもなら疲労困憊で家に帰る所だが、今日は幾分余裕がある。

こんな気分で夜を迎えるのはいつ以来だろうか。

2018年11月29日(木)

風呂場から次男の歌声が聞こえる。
「コール マイネーム、レディオ ガガ」
ああ、聞いているこっちが恥ずかしくなってしまう。上映中の『ボヘミアンラプソディ』の影響か、長男と次男はすっかりQUEENの音楽にはまってしまったのだ。

一人暮らしだった学生時代、お金を使わないことこそ最高のバイトだという信念から、倹約に倹約を重ねていた生活の中での最高の贅沢がCDを買うことだった。それゆえ、購入するCDはレンタルCDをダビングして視聴する費用を上回る音源であることが要求される。当時の俺にはCDショップは宝の山だった。どれを買おうかと目移りを重ねた挙句選んだのがQUEENのベストアルバムの一つだった。

その期待を裏切ることなく、アルバムの全曲のギターの音色が頭の中で反芻されるほど聴きこんだ。
「あの声が出せたらどんなに歌うのが楽しいだろうか?」
「あの歌声を生で聴くことは二度とないんだ」
「でも男色と言うのは勘弁してほしいな」
などと思いを馳せた記憶がある。

突然、映画館に行ってみようかなという思いが湧いてきた。しかし、このところ仕事が忙しすぎる。というか、以前のようにこなせない。講義の準備しかり、年末までにと目標を設定していた共著論文しかり、1月末の研究集会の世話役としての広報活動しかり、推薦状しかり、入試の採点や連続する会食で、後回し後回しになっている始末だ。

仮に映画館に行っても暗闇の中、階段を上って席まで辿り着けるのか、
映画を鑑賞中感動してむせび泣きが止まらなかったらどうしよう、という不安もある。

そうこう考えているとまた脳内にあの曲がこだましてきた。

2018年11月30日(金)

4輪車の導入によって歩行時の安全性が確保された。一方で両手の機能の衰えが顕著になっている。例えば、テーブル中央に置かれた鉢盛の刺身を箸で挟んで醤油皿まで移動させる成功確率が50%くらいなのである。両手を垂直方向に上げることも出来ない。両手を前に出して、結んで開いての動作も10回がやっとである。
腕の筋肉の痙攣もあまりにも頻繁に現れるので気にも留めなくなった。

年末の大学時代の友人達で囲む麻雀大会までは力が残っていてほしいと切に思う。

2018年12月3日(月)

週末に十分な睡眠を摂ったせいであろうか、週明けの初日の体調は良好である。午前に立ちっぱなしで3時間の講義をしても疲労を感じないし、午後4時からの学生とのセミナーが3時間に及んでも憔悴することもなかった。

午後8時に帰宅、腹ペコだったが妻から満面の笑顔で
「ごめーん。昼寝して起きたら7時だったのよ。今から買い物に行って来るね」と言われた。妻は今日の午前の授業の発表の準備のために徹夜したのだ。ここは「そんなにお腹減ってないからゆっくり作ってよ」と言うのが夫の矜持と言うものであろう。食事ができるまでの時間を有効活用すべく、久しく乗っていなかったエアロバイクをこぐことにした。

循環器機能を高め全身のストレッチに特化しようと思い、軽い抵抗で長い時間運動することにした。体に熱がこもってくると自然と腕が上がるようになる。このところ肩の可動域が狭まったような気がしていたので、腕を回し、上半身の腱と筋肉を十分に伸ばした。

さあ、これから夕飯を食べて風呂に入って体を癒すか、という時に電話がかかった。しかも、俺の携帯ではなく妻の携帯にだ。電話の主は過去現在に指導した弟子4人だった。唐突で申し訳ないが宅にお邪魔したい、ということらしい。妻はお客をもてなすのが大好きなので俺の意向も聞かず、「是非お出で」と言ったらしい。しかし、もう9時を回っているんだぞ。まだ夕食も食べてないのに、押しかけてくるとは一体どんな料簡であろうかと訝る気持ちもあったが、俺も妻同様、お客は大好きなので、「とにかく来い」と返事をした。

来客4人は居間に座り、子供たちは食卓でしゃぶしゃぶの肉を奪い合っている。俺はピアノの脇の一人用ソファに座り、両グループを交互に見ながら、来客には中国土産の白酒を勧め、子供には肉を残しておくように釘を刺した。

一体、何の用があって来訪したのか、その理由は分かっていた。数日前、他大学の知人から「あと二年育児休暇を取れば名誉退職の年数に達し、退職金、年金の額が上がるから是非そうしろ」と強く勧められたのである。しかし、来年の二月に退職するという決心を変えない俺にその知人は業を煮やしその話を学生に焚きつけたのだ。

俺も家族に遺すお金は多いにこしたことはないと思う。でも働かないで貰ったお金で前向きに生きていけるのだろうか、平坂塾の経営にしてもこのHPで書き連ねる文章にしても休職して得られるお金よりもはるかに大きなものを得ることを目標にやっているのではないか、等の葛藤のため決断できずにいる状況である。

俺は4人の弟子にこう言った。「もし俺の病気が著しく進行して新しく始める仕事が全く出来ないような状況になったら、1年間休職することにする」

妻はこう言った。
「今までは週末どうするかで夫婦の意見が分かれてばっかりだったけど、今からは夫の言う通りにしてあげたい」

笑いたければ笑うがいい。夫婦共々現実を直視しない大甘野郎だと。でも今までそうやって根拠のない自信を抱いてここまで来たんだ。生き方よりも重要なものがこの世にあるのだろうか?

2018年12月5日(水)

最近、気になることがある。食べ物が食道を通過する時にむせることがあるのだ。その頻度は一日に一回くらいだ。球麻痺と呼ばれる症状が現れてきてるのかなと思う。

昼飯時、妻が弁当を差し入れてくれた。幸いにむせることはなかったが、よせばいいのにインターネットで「ALS患者」を検索してみた。四肢の運動障害に比べ球麻痺の進行は格段に速いとのこと。嚥下障害が進むと胃ろうと呼ばれる穴を開けて、そこから栄養分を吸収するらしい。最終的には呼吸が上手くできなくなり、長く寝ても十分な空気を取り込めず疲労が蓄積していって人工呼吸器のお世話になるらしい。

わかっていたことだけど、明日は我が身が差し迫った状況で再読すると感じ方も異なるようだ。こういう気分の時に現実逃避する手段は数学に限る。折よく、午後2時から学生とのセミナーだったので、「準備不足で今日は話すことがあまりないです」という学生を計算機代わりに用いて、頭の中にあるもやもやとした証明の概略を白板に書いてもらった。だからといって証明の完成には程遠いのだが、足掛かりを作ることは出来たような気がする。

肉体が衰えれば頭脳も何らかの影響を受けるはず。だが、もうしばらく数学の世界にいさせてほしい。

2018年12月9日(日)

漫画『ドラえもん』に出てきた話の一つに、のび太がタイムマシンに乗って生前の祖母に会いに行くという話がある。そこには幼少期ののび太がいて、のび太は不審者扱いされる中、祖母だけは未来の世界から来たのび太をありのままに受け入れ、のび太に「もう先が短いからねえ。のび太が小学校に行く姿を見てあの世に行きたい」と告げる。それを聞いたのび太は未来の世界からランドセルを持ってきて、祖母に見せると言う話である。

よく考えるとのび太の行動は祖母の死期を間接的に知らしめる行為なのである。しかし、後先を考えないのび太の行動力と、全てを覚悟しているが故に「未来の世界から来た」と言われたことそのままに受け取ってしまう祖母の無垢な応対が、物語の必然性を生んでいるのである。

この病気に罹ったことを公表して以来、多くの友人、知人が激励する便りを送ってくれ、俺に会うことのみを目的に釜山を訪問してくれた。その一つ一つが記憶に堆積し人生を豊にしている。

ドラえもんの話に戻ると、その初訪問の後、のび太は度々タイムマシンを用いて祖母に会いに行き、時には未来の世界に連れ出したりもしている。

再訪はいつだって大歓迎である。

2018年12月11日(火)

右手の握力が一カ月前の左手並みになった。
一日の中で最も力が漲るエアロバイクの運動後でもこの弱さだ。
一昨日も湯飲み茶碗をつかみ損ね割ってしまった。
単に力が弱くなっているだけでなく、器用さまで失われている感じだ。
箸が上手く扱えないから食事が楽しくない。
紙に字を書くと神経が疲弊する。

今日、線形代数の全講義を終えた。これは釜山大学での最後の講義を終えたことを意味する。最小多項式の説明を淡々と述べ、
「最後の証明は時間がないので各自でやってください」と慌ただしく最後の瞬間を迎えた。
「来週は期末試験です。皆さんが評価される場であると同時に私の教育能力が評価される場でもあります。9日後にその成果を見せてほしい」と言うと、まばらな拍手が起こった。

「皆さんの協力のお陰で講義の体裁を保つことが出来ました。板書も出来ないような教員の講義に出席してくれた事に感謝します」とは思っていても言えなかった。

悔いも未練もなし。正直、今学期に講義の準備をすることも講義中に立ちっぱなしで話すことも辛かったのです。途中降板することなしに全講義を全うすることが出来てほっとしているのです。

今は、ジョーとネロのように、真っ白な灰になって疲れて眠りたい気分である。

2018年12月13日(木)

午後4時半、研究室に3人の学部生がやってきた。
MATHNAL (数学科サッカー同好会)の部長、副部長、そして家業を継ぐために退学許可の署名を貰いにきた部員である。

各部員のメッセージ入りのサッカーボ―ルとMATHNALのユニフォームが入っている紙袋を差し出され、「2月16日にOBと全部員を集め、紅白戦と打ち上げを開催するので、是非、来てください」と言ってきた。俺は即座に
「一次会の費用は俺が出すからとにかく人を集めてくれ。行事名とチーム名も決めて、試合を撮影しておいて、一次会の会場で鑑賞するというのはどうだろうか?」と答えた。

今年の3月、数学科新入生歓迎合宿に参加した時、酒が進み、その場に居合わせたMATHNALのメンバーを集め、こう語った。
「お金があればいい服を買えるし、いい車に乗れる。でも一番の贅沢は健康な体に乗る事なんだ。俺の病気は進行性で死滅した神経は元に戻ることはないらしい。それは我慢できるけど、サッカーができなくなるのは我慢できない・・・」
そう言った途端、嗚咽が止まらくなり、何も知らない新入生や部員や他の教員の前で頭を抱えて号泣してしまった。

今回は涙を見せるつもりは毛頭ない。そして、MATHNALの指導教員として最後まで戦い抜く覚悟である。

2018年12月14日(金)

先週の月曜日、ALS治療の新薬のニュースが駆け巡ったのは記憶に新しい。その新薬とはパーキンソン病患者に投与される既存の薬であるロピニロール塩酸塩である。発信元の慶応大学病院で近々治験を実施するとのことだ。

俺はこのニュースを友人、知人からのメールで知らされることになったのだが、何とも複雑な気持ちだった。というのも今まで100以上のALS新薬が候補として挙がったが、その全てが治験で失敗してるからである。しかし、今回の創薬はiPS細胞絡みで理論的な根拠があるらしい。それでもだ、治験がうまくいくとは限らないし、仮に成功したとしても認可まで長い年月を要するのではないだろうか、その時にはもう手遅れの状態になっているに違いない、などという考えが交錯していたのである。

今日は釜山のとある大学病院で診察を受ける日だった。俺は駄目元で、新薬の話を主治医に切りだしてみた。その主治医はインターネットで検索した後、
「この薬はパーキンソン病患者によく使われる薬ですね。ただし、目眩などの副作用があります」と言った。

俺は考えた。それならばパーキンソン病の患者に処方された薬を譲り受ければよいのではないかと。

今、俺の目の前には、どういうわけか、
ロピニロール塩酸塩の錠剤がある。
飲むべきか、飲まざるべきか、明日からのベトナム出張を見据えた葛藤が続く夜になりそうである。

2018年12月15日(土)

この4輪車さえあれば大抵のことは一人で出来るだろうと思って参加した教授研修旅行だった。

朝7時半、タクシーに乗って金海国際空港に向かう。妻には「一人で大丈夫だ」と強弁したが、受け入れられず空港まで付いてくることになった。

空港に着き、4輪車とスーツケースを下ろす。当初の計画ではスーツケースを4輪車の左右の車輪の間に挟んで押していく予定だったが、ここは妻の助けを借りることにする。集合場所は3階の喫茶店の前であり、目の前にエスカレーターがあるが、4輪車と一緒に上がるのはもしもの時に他の乗客に迷惑がかかる可能性があると思い、エレベーターを用いることにする。しかし、エレベーターははるか遠方に設置されており、約100mの距離を歩くことになる。

集合場所で旅券を預け、しばらくした後、航空券を渡され、再びエレベーターまでの道のりを歩いた。体が不自由な人扱いなので、手荷物検査や出国審査は優待してもらえた。そこまではよかったが、釜山からハノイまでの飛行機はバスに乗りタラップを上らなければならなかった。冬の寒さが厳しいこの時期、鉄製の手摺を両手で掴み、横向きになって一歩一歩上るのは大変な作業だった。4輪車と何故か機内持ち込みになったスーツケースは同僚の助けを借りることになった。

機内では前学長の先輩教授の隣の席に座ることになる。オレンジジュースをトレイに載せた後、タッチパネルを操作しようとするが腕が上がらず上手く操作できなかった。それならばリモコンを使おうと思い、取り出しボタンを押すと、リモコンは勢いよく落下し、オレンジジュースを直撃、その液体は前学長のズボンを濡らし、謝ってもどうしようもない気まずい状態のまま4時間のフライトを過ごすことになる。俺がALSに罹っていることは公然の事実となっているので、機内食の蓋を開ける作業を頼んでもいないのにやってくれたりする。飛行機から降りるときも後ろから胴体を抱えてくれたりする。物凄く有難いのであるが、自分で出来ることは自分でやりたい、と言う本音を言えない自分がいた。

ハノイ国際空港では飛行機の降り口が渡り廊下に連結されていたため階段を使う必要がなかった。しかし、その後、入国審査の場所までの長い距離を歩くことになる。空港から観光バスが停まる駐車場までもまたしかり、バスに乗る時も同僚の助けを借りながら登り口の階段を上った。4輪車の出し入れも同僚の仕事になった。

「ああ、一人で出来ることってほとんどないんだ。どうして来ようと思ったんだろう」
バスの中でそんなことばかり考え、一人で暗闇の世界を作っていた。

これから4日間、バスに乗るたび降りるたび同僚に介助してもらうことになる。それだけではない。朝食のビュッフェではトレイの持ち運びが全く出来ないので、同僚が持ってきてくれる。
何度も書くが、物凄く有難い。だがそう思う一方で、親切を受けるたびに自由が制限されていくような気がするのだ。今の俺はトイレに行く時も黙って行くことが許されてないのである。必ず、誰かが付いてきて、段差があれば4輪車を持ち上げてくれる。

そんな迷惑をかけることをわかっていながら何故参加しようと思ったのか、それは日本に帰る前に自然科学専攻の教授や職員の顔を見て挨拶したかったからである。特に数学科の先輩後輩教授と同じ時間を共有したかったからなのだ。

服を脱いで布団に入った時、一日の疲れがどっと出た。この日はその疲れがやけに心地良い、全ての思考を止め眠りに導いてくれるから。

2018年12月16日(日)

ハロン湾クルーズを終えた一行を乗せたバスは2時間半の走行の後、ハノイ市内のNONI直売店の前で止まる。NONIとはベトナム戦争で散布された枯葉剤を解毒する植物と言うことで関心が高まっている健康食品であるが、その値段は決して安くない。実は俺も妻のママ友から贈答されたニューギニア産のNONIを飲んでいるのだ。なので、どうせ買うことはないと思い、バスの中で待つことにした。

その日の夕食後、数学科の教授だけが集まり、ホテルのバーで飲み会を開いた。皆の口から出てくるのは現地ガイドへの不満であった。
「パッケージ旅行でも度が過ぎるのではないか」
「一方的な歴史観を聞かされるのには我慢ならない」
「質問しても回りくどい説明でよくわからない」
「明日から一号車と二号車のガイドを交換しよう」
そのガイドは16年前に家族と共にベトナムに渡り、そのまま定住していると自己紹介していた。同じ異国人として祖国でない国に住む者として、このガイドへの批判は他人事ではないように聞こえた。

結局、その飲み会は午前0時半まで続いた。初日は数学科の同僚との相部屋だったが、二日目からは宿舎が変わり、一人部屋になった。翌日は6時から朝食が始まり、7時半にバスが出発するとのことだ。

最近、薬のせいか眠りが深く目覚めが悪い。枕が変わり、しかも起こしてくれる同僚もいない状態で時間通りに起きれるのか大いに不安であった。兎に角、やることやって早く寝ようと思い、浴槽に湯を張りながら歯を磨いた。

浴槽に座りこんでシャワーを頭部に当てる。すると水位が浴槽の高さの半分ほどまで高くなった。そろそろ上がるか、と思い、立ち上がろうとするが水の抵抗のため膝を立てることが出来ない。排水口の蓋を取ろうとするが、水圧と両手の握力の低下のためにびくとも動かない。体を一文字にして後方にスライドする作戦も失敗を繰り返した。

「どうしたらいいのだろうか?」
「無駄な挑戦を繰り返して体力を消耗させるのは良くない」
「逆転の発想でお湯を入れ続けたら出やすくなるのでは?」
「しかし、その場合、元の状態に戻すことはまず無理だし、脱出の可能性が低くなるかもしれない」
「このままの状態で朝を迎えても死にはしないだろうが、助けに来た人にあられもない姿を見せることになるなあ」
などと俺の脳内では激論が続いたが、結局、現在の状態で脱出を試みるという案が採択された。

幾度も深呼吸をした後、右足の親指を浴槽の側面に設置されている取っ手に絡ませ、渾身の力で右足を伸ばした。すると、頭と首が浴槽の外に出る。今度は左足の親指を掛けようとするが、右足の筋肉が痙攣し、再び水中に叩き落された。

何回、この挑戦を繰り返し、その度に涙を流したことだろう。腕と足の筋肉が限界に達しようとするとき、両足の親指が側面の取っ手に引っかかるという理想的な状況が生まれた。

この状況を逃したら明日はないと思い、両腕の筋肉を用い、上半身をよじらせ腰が浴槽の外側に出る態勢を作った。残る作業はお尻を出して浴槽のへりに座ることである。俺は左足の親指を外し、片足を振り上げて下ろす反動を利用して、臀部を後方に送ることを試みた。

一歩間違えば、浴槽下の固いタイルに体全体を打ちつける危険性を伴っていたが、運よく後ずさりに成功し、浴槽の脇に座ることが出来た。目の前には4輪車がある。勝利を確信した俺であったが、最後の難関が残っていた。足の痙攣を制御できないのである。立ち上がろうとするときに痙攣したりするので恐ろしくて立てないのである。

この問題は時間が解決してくれた。服を着替え、部屋中の電気を消し、布団に潜り込んだ時刻は午前3時だった。

2018年12月19日(水)

深夜にハノイを出発する飛行機の中では一睡もできなかった。飛行機のタラップでは両脇を数学科の先輩教授と後輩教授に支えられて、ヤジロベエのような格好で降りた。入国審査では車椅子に乗り、後ろから押してもらい、預けていたスーツケースと4輪車を取ってもらい、タクシーに乗る時も先輩教授が同乗してくれて自宅の前で妻に引き継いでくれた。ほとんど全てのことを独力で行う予定だったが、ほとんど全てのことを数学科の同僚のお世話になることになった。情けなかったが、人の優しさが身に染みた忘れられない旅行となった。

気になることがあった。旅行前と比べると明らかに病状が悪化しているのだ。箸を持つ手に力が入らないし、立ち上がる時も回数を要するようになった。快適なはずの羽根布団が重く感じられ寝返りを打つのも容易ではなかった。

そこである決心をした、ロピニロール塩酸塩を服用することである。最初の一錠を飲んだ後、6時間ほど眠り、昼食後も4時間眠った。それでも眠気は解消せず、夜11時に就寝し翌朝8時に目覚めた。これは薬のせいではなく旅の疲れであると信じたい。

正直、治験も終わってない、認可もされてもない薬を飲むのは抵抗がある。効果があると信じて飲み続けた結果、病気の進行が早まるばかりでなく深刻な副作用を生じる可能性も無きにしも非ずなのだ。世界のどこかに俺と同じ状況の人がいたら会って話をしたいところである。


2018年12月21日(金)

とある大学病院のリハビリ科に診療を受けに行った。午前10時の予約で時間通りに手続きを済ませたのだが、電光掲示板に表示される順番表の最下方に俺の名前は位置していた。妻と共に診療室に入ったのは11時15分で、担当医は女性の方であった。

検査と質疑応答が続いた後、担当医が
「咀嚼能力の検査のために薬を飲んでレントゲン写真を20枚撮ります」と言うや否や、妻が
「夫は検査のたびに症状が悪化しているので検査は受けさせたくない」と怒気を伴った口調で反駁した。俺は慌てて、
「簡単な検査みたいだしお医者さんの言うとおりにしようよ」と言うと、妻は(あなたいつも医者の言うことを鵜呑みにする)と言う感じの目線で俺をにらみながら、
「ここに来た目的はリハビリの方法を相談するためで、まだ飲み食いが自由にできる夫にそんな検査は必要ない」と言った。担当医は目を丸くして、
「検査を受けないということは全く理解できない。それでは病院が出来ることは何もないです」と一触即発の状態になった。

俺はどちらの肩をもってよいのかわからず、おろおろするばかりであったが、女同士で話すうちにいつの間にか和解したようで、笑顔が戻っていたのには驚いた。更に「4輪車の写真を撮らせてくれ」と担当医から頼まれたのにも驚いた。

障害者申請に関しても訊いてみたが、
「役所で手続きしてみたら。でも2月に日本に行くならあまり意味はないですね」と言われるだけで、等級などの具体的な話は出なかった。

ということで、昇給審査は失敗に終わった。未だに無級のままである。

2018年12月23日(日)

4番目の弟子の結婚式に出席してきた。
日韓における結婚式の様相は大きく異なる。
韓国では、招待状が無くても、出席するという意思表示をしなくても結婚式に自由な服装で参加できる。結婚式場に並べられた椅子は全て自由席だし、立ち見も可能である。式も簡素で、新郎新婦の入場の後、誓いの言葉を述べて、写真を撮って、来客は別室のビュッフェで胃袋を満たす、のが定番である。そして日本で言うところの披露宴のような、スピーチと感動ネタ満載の時間は存在しない。一長一短、賛否両論があるが、韓国の結婚式の方が出席者の拘束時間が短い分、合理的であると言える。

今回の結婚式では新郎であるK博士の人徳ゆえか、普段は会う機会もない多くの共通の知人が一同に会することになった。病気のために上手く喋れない俺であったが、御目出度い席なのでテンションを上げて座に話題を提供し続けた。俺が顧問であった数学同好会が廃部になったことを卒業生に詫びたり、ソウル大、九大、東大、企業、教育機関で活躍している卒業生に近況を尋ねたり、今年の夏は大村に遊びに来いと言ったり、ちょっと前までは「平坂ゼミに入ると結婚できない」と言うジンクスがあったが、それは撤回する、などと話題は尽きることがなかった。

非常に楽しい時間であったし名残惜しかったが、妻が迎えに来たのを機に退散することにした。

自宅で俺を待ち受けていたのは線形代数の期末試験の採点であった。以前のような速い速度で採点できず、だらだらと答案をめくりながら日付が変わろうとするときに採点を終えた。

驚いたのは、中間試験の時にはおぼつかなかった行列の対角化を大半が理解していたことである。そして難易度も上がり、範囲も広くなったにも拘らず平均点を7点上積みしたことである。

最後の最後だから自画自賛したっていいだろう。
受講生諸君、君らは本当によく頑張った。
平坂メソッドが君らの心に残り、証明するときの指針となれば本望である。

2018年12月24日(月)

釜山大学では各学部生に指導教員が割り当てられ、学期中一回、進路相談をするという制度がある。進路相談をしない学生は自分の成績が閲覧できなくなるという罰則があるので、大抵の学生は一時間ほどの進路相談を期末考査前に済ませておくものであるが、中には期末試験後に、しかも忙しいという理由で電話で済ませてほしいという不届き者もいたりする。

午前中、出勤して机に向かっていると電話が鳴った。もしやと思って受話器を取ると、件の彼であった。彼は言う。
「なんか、最近、勉強が性に合わないなあって思い始めて。かと言って、やりたいこともないし、進路も見つからないんですよね」

彼は兵役を終えた二年生で線形代数の受講生の一人でもある。振り返れば俺らの大学時代はバブル全盛期で「勉強する奴はバカだ」と言われていたのだ。かく言う俺も麻雀ばっかりやってて進路なんて考えたこともなかったのだ。率直な心境を吐露する彼に共感した俺は
「それが普通だよ。時間があるうちに沢山遊んでおいた方がいいよ」と進路指導とはかけ離れた言葉をかけてしまった。

まあ、進路指導してほしいのはこっちの方だからな。

2018年12月25日(火)

ここ一週間の転倒歴を記録しておく。

ベトナム旅行中の出来事である。ホテルでは一人部屋、朝食は午前6時から始まるビュッフェである。俺はトレイを運べないので先輩教授と連れ立って行くことになる。約束の時間は6時半だった。そのため、5時45分に起床し身支度をして6時25分にその先輩教授の部屋の前で待機する予定だった。ところが、6時15分に部屋のチャイムが鳴った。やっとの思いでズボンを着終わった俺は慌てて4輪車に手を掛け、立ち上がろうとする。しかし、4輪車にはブレーキがかかっておらず、4輪車もろとも後方に倒れた。幸い、厚めの絨毯が敷かれた場所に倒れたので怪我はなかった。ところが駄目を押すように二度目のチャイムが部屋全体に鳴り響く。俺は手足の力を振り絞って正座になり、寝台に手を掛け立ち上がることに成功する。そして前方に位置する4輪車の取っ手を掴んだ。早朝で混乱状態の俺に学習能力があるはずがなく、一度目と同じ理由で後方に倒れた。

どれだけ時間が経ったかか不明だが、立ち上がりドアを開けると、先輩教授が笑顔で迎えてくれた。



昨日の昼食は妻と外食する予定だった。
時刻は午前11時55分、研究室の扉を叩く音が聞こえる。返事をした後、入ってきたのは妻ではなく同僚のC教授だった。
「昼飯でも一緒にどうですか?」と言う誘いだった。俺は
「他の教授がいたらそちらにどうぞ、もしいなかったら妻と一緒に行きませんか?」と答えた。
C教授には事ある度に介助をしてもらっており、自宅まで送ってもらったことも数多く、夫婦共々、一生頭が上がらない人の一人なのである。結局、俺と妻とC教授の三人で行くことになる。妻は日頃お世話になっているC教授にご馳走するまたとない機会だと考えたのだろう。
「温泉場の近くに美味しいピザとパスタの店がある」などと、健康のために我が家の食卓から排除された品目を提供する店で、尚且つ、行ったことがない、という俺にとっては支離滅裂としか思えない提案をしてきた。
それを真に受けたC教授はスマホでその店を突き止め、店の前に華麗な縦列駐車を決めた。しかし、店は満員で30分待ちだった。結局、入店できたのは午後1時、その間、俺は4輪車を椅子かわりにして座っていた。そこから店に向かう最中に事件は起きた。

小道ながら車が頻繁に行き交い、妻とC教授が車に目を取られているその瞬間、道路中央の不規則な傾斜に足を取られた俺は後方に倒れ、肩から落ちた後、後頭部をアスファルトに打ちつけた。星が飛んだが、大丈夫を繰り返して入店し、雰囲気を壊さないように笑顔でふるまった。とは言え、小学生のようなたんこぶが出来てしまった.


寝る前にエアロバイクを1時間こいで、寝台まで4輪車を押して移動していた。運動した後だというのに足が冷たいのが気になる所であった。四輪車を固定せずに寝台の横の机の上に置かれたスタンドを点ける。そのときにやや後方への力を感じたが、ブレーキで踏みとどまった。そこから方向転換をしようとする時、またしても後方に引っ張られるような気がした。後方は寝台だったので倒れても大丈夫だという意識があったせいだろう。何の抵抗もせずに後方に倒れたが、俺の体は寝台で跳ね返り、床に頬骨から落下した。眼鏡は無事だったが、左瞼から出血し、ナチュラルメイクが施された。


4輪車といえども過信は禁物、と言う教訓を得た一週間であった。

2018年12月26日(水)

左肘にほとばしるような痙攣が走る。握力低下を予兆するかのようなこの痙攣は飲み始めた新薬への期待を打ち砕くには十分すぎる威力である。

車のハンドルを握る時、四輪車のブレーキを握る時、箸を握る時、ファスナーの上げ下ろしの時、体や頭を掻く時、パソコンを打つとき、その場合毎に最低限必要な握力は異なる。現在は上記のいくつかが臨界点間際に来ている状態である。

更に恐ろしいのが球麻痺である。その日ごと、その時間帯ごとに状態が異なるのだが、話すのが困難になってきた。今日の午前中は最悪の状態で、鼻水が詰まった酔っ払いが話している口調を矯正できなかった。

そんな時に限って、来客が多いものである。成績に対する異議申請、推薦書の受け取り、指導教官の変更願、非常勤講師の書類審査、彼ら、彼女らと話すたびに、自分のもどかしさを自身がもどかしく感じていた。

明日から一週間帰省する。美味しいものを箸を持つストレスなしに美味しく食べたいし、旧交を温める席では無口にならないようにしたいものである。

2018年12月28日(金)

新薬は2mgの含有量から始まって、慣れるにしたがって2mgずつ含有量を増やして行く。今日は4mgの三日目なのだが、服用後の眠気と気怠さに悩まされている。 起床時は握力も話し方も回復しているのだが、服用後2時間経つと全ての機能が低下するのだ。昼寝をすると活力がみなぎる。 一体、どの様に薬の効果を判断したら良いのだろうか、自問自答する日々である。

2018年12月29日(土)

今日、起こった出来事は闘病記には記さず、心の中にしまっておくことにする。

12月30日(日)

人生におけるとある時期、とある場所に、人々は集う。

ある者は講義の演習をサボり、ある者はパチンコ帰りに、ある者はガソリンスタンドのバイトが始まる前に、ある者は酒屋のバイトを終え、ある者は深夜に呼び出され、ある者は銅羅を抱え、ある者は千点棒を持って集合し、ある者は危険を回避し待ちを変え、ある者は西で待つ。

業務用のソファに腰掛けた4人が鮮やかな緑一色で染められた正方形のテーブルを凝視する中、地上にある貝塚駅に上がってくる地下鉄の様に美しく積まれた麻雀牌がせり上がってくる。 そう、ここは煙草の煙と喧騒が充満する鉄火場である。学生の本分はそっちのけで、少なからぬ割合の数学科の学生が夥しい時間を麻雀に費やして来たのである。

一体、何の為に?

囲碁や将棋では初手からの十数手が全く同じ手で進行することは頻繁に起こる。ところがことマージャンにおいては同一の配牌で始まり、数巡後のツモと捨て牌が一致することはほぼないであろう。俺はその一度しか起こらない麻雀の1局に人生を見る。

裕福な家に産まれ才能と運に恵まれ大輪の花を咲かせるのも、貧民街に産まれ他人の迷惑にならぬ様に慎ましく生きるも不慮の事故でトンでしまうのも、また人生である。

与えられた環境と運、そして4人の思考が絡み合う巡り合わせ、そんな中で、局面毎に選択を繰り返すことで、時には自然に、時には運命に抗い、時には信念を貫き、時には日和り、時には絶望しその後を放棄し、自らの生き方を4人の記憶に刻んでいくのである。

ここまで書けば上記の問いに対する答えを書くというのは野暮というものであろう。

今日、俺は久しぶりに会う数学科の同級生と牌を混ぜあった。3枚切れの八索を哭き、2枚切れの二索を哭き、三索で清一色を和了り、最後の局で安全牌と思って出した五萬で振ってしまい、順位を逆転された。

幾万の局を共に闘い、幾万の言葉を交わした同級生達、歳をとり人生とは代わり得ぬものという事を知った彼らはどこまでも優しく、そして厳しい。 だからこそ、年末の同じ日付毎に集えるのだろう。

正直に言うと、参加するのは今年が最後という思いで来たんだ。しかし、悪いが来年も参加させてもらうことにするよ。

2019年1月2日(水)

大学時代、その端正な顔立ちから生物学科の女子学生に王子様と呼ばれていたN村君が俺にこう言った。
「カラオケは歌の上手い下手じゃなくてノリだよね」 俺が
「ええ!N村君は歌上手い方だとおもうけど」と言うと間髪いれず、
「貢、お前のことだ」とたしなめられたことを今でも覚えている。

そうなのだ。サビしか知らない『東京砂漠』であってもノリで押し切ってしまうのが俺の流儀だった。 このように微妙に音程を外してしか歌えなかった俺であったが口笛だけは得意だった。長女の前で口笛を吹いて曲目を当てさせる遊びは父と娘の間の幸せなひと時だった。

「夕焼け小焼けで日が暮れて♪」 久しぶりに口笛で吹こうとするが、最初の音さえ出せない。このところ言語不明瞭な状態が続いていたから、覚悟はしていたのだが、球麻痺により呼吸する力が明らかに弱くなっていることの現実を突き付けられたというわけだ。

俺は呆然としてその時から風呂に入って上がるまで延々と同じ歌を口笛で吹く練習をし続けた。 あんなに上手く吹けた口笛が今は吸う時にしか音が出せないし、すぐに息切れしてしまうのである。

もう戻らない幸せだった娘との時間、その絶望の後に娘に話した言葉は、
限りなく正常に近い発音の「おやすみなさい」だった。

2019年1月3日(木)

長崎県大村市に位置する俺の実家の築年数は俺の年齢と等しい。両手を広げ満面の笑顔をたたえる当時の俺が写った白黒写真が残っている。自分で言うのも何だが、第一子である俺の誕生を迎える新築の家は平坂家にとっての福音そのものであっただろう。子を持つ親の身になってより一層確信を強めている昨今である。

その実家に一年半ぶりに帰って来た。

母も弟も退院開けで安静のために車にも乗れない状態だ。それゆえ、我が6人家族を高速バス停留所まで迎えに来る身内は一人もいない。しかも停留所からタクシー乗り場までは階段を降りねばならず、通常のタクシーは停留所まで上がって来てはいけない規則になっている。歩くのが不自由な俺だが頑張れば階段くらい下れると主張したが、病床に臥せる母の計らいで福祉タクシーを予約することになった。

かくして家族は福祉タクシーと通常のタクシーとの二台に分かれ実家で合流する事になる。

久しぶりの帰省、懐かしいはずの生家が今の俺には要塞に見えた。北側の正面玄関には石造りの不規則な高さの階段が、北側裏口にはより急勾配の階段が、南側の駐車場には小石が敷き詰められている。長男と次男の介護があれば入城出来るが、4輪車なしでは歩けない俺にとっては正に難攻不落の城であった。

遅れて着くであろう妻と下の子2人を待つために寒風の中、南側の縁側に座っていると、後ろから幼な子の声が聞こえる。俺は靴を脱いで立ち上がろうとするが、悲しいかな、両手に上半身の重さを支える力があるはずもなく、そのままうつ伏せになり、身動きが取れなくなった。男手が多かったので何とか立ち上がることが出来たが、実家への望郷の念を断ち切り、障害物だらけ段差だらけの家で暮らすことへの覚悟を固めるには十分過ぎる衝撃的な事件だった。

その日から紆余曲折を経て、今日は日本滞在期間の最終日前日である。3月から家族全員で日本に移住するための予行演習と言うべき滞在であったが、果たして家族皆の目にはどう映ったのであろうか?

病人だらけ子供だらけの家で衣食住全ての家事を一人で担わざるを得なかった妻には聞けそうにない雰囲気である。

2019年1月6日(日)

ロビニロール塩酸塩の服用を止めて丸一週間になる。

毎日、十分な睡眠時間を取っているので体調は良い。ただ動作が鈍くなった。手摺を握った状態でも足の向きを変えるときには緊張が走るほどである。椅子から立ち上がる時も爪先と脹脛の揺れに危うさを感じるようになった。

一週間前の眠気や気怠さの副作用は運転することが不可欠な今の生活とは相容れないような気がする。しかし、薬を飲まずにいても徐々に病状が進行するだけのような気がする。

もしかして薬を飲み続ければ体が慣れて来るのかもしれない。
その結果、もしかしたら進行が止まるかもしれない。
飲むべきか、飲まざるべきか、二者択一で人生が変わる重要な場面である。


昨日、自宅のアパートのエレベーターに入ると段ボール箱等の荷物が積まれており、2階から1階まで降りるまでの時間に4輪車の方向を変えることが出来なかった。扉が開くと、新たな段ボール箱がエレベーターの前に積まれていた、焦った俺は後方に後ずさりする。が否や、エレベーターと一階の境界に足が掛かり、後方に倒れた。フード付きの外套を着ていたので頭を打つことはなかったが臀部を強打した。

今日、長女が唐突に
「お父さんの病気が治ったら、一番したいことは何?」と聞いてきた。
「そうだな、お前と一緒に散歩することかな」と答えると、
「ええ、やだよ。面倒くさい」と言われた。

昨日よりも大きな痛手を負った一日だった。

2019年1月8日(火)

二十一歳の冬に初めてスキーを経験した。場所は富山県の立山だ。日体大に進学した小中高の同級生が技術指導をしてくれるはずと信じ込み、言われるがまま上級者コースの高台まで連れていかれた。

そこから彼は他の同伴者と競い合うように斜面を下って行った。
高地に一人残された俺は息を呑むことになる。
「こんな急斜面をボーゲンだけでどうやって下るのか?」
教わったのは止まり方と転んだ時に起き上がる方法だけだった。しかし、転んでもスキー板が外れ大怪我に至ることはないという確信もあったので、物は試しと言うことで、斜面を横向きにジグザグに降りるという戦略を立てた。しかし、加速するスキー板をボーゲンの状態から瞬時に反転させる技術があるはずもなく、コース脇の網が張ってある所まで転げ落ち、片方のスキー板ははるか上方に突き刺さっている有様だった。幸いにして、その頃の俺は根性の塊だった。四つん這いで斜面を登り、スキー板を片手に自身をソリにして下り落ちた。

そんな悲惨な状況が連続する中、見ず知らずの上級者がスキー板を拾ってくれたり、雪に埋もれた俺を起こしてくれたり、と言うことがあり、中級者コースに辿り着くことが出来た。すると一往復済みの同級生が上から降りてきて、
「スキー楽しいだろ」と白い歯を見せているのだ。俺は怒り心頭であったが、スキー場においての食物連鎖の最下層にいる俺ができることは不機嫌そうな表情で生返事をすることだけだった。

そんな経験があったせいか定かではないが、俺が大学院生を指導するときは、本人のその当時の力量からははるかに難解な論文を読んでもらうことが少なくない。

昨日から今日にかけて、俺の弟子達が企画した合宿が催された。場所は釜山近郊に位置するスキー場だ。手足がロクに動かない俺はスキー場の斜面が見渡せるカフェテリアで見学である。腸炎で参加が遅れた三男と妻を除いたウチの家族も大学院生の指導を受けて初めてのスキーを楽しんでいる様子だ。
「お世話になった先生への感謝の気持ちを表すためにご家族を招待しました」とは弟子たちの弁であるが、へそ曲がりの俺には、俺の指導方針への意趣返しとしか思えなかった。

俺は携帯電話で彼らに
「今からそこにいる全員で上級者コースに行って、このカフェテリアの前まで滑走して来い。俺が採点してやるから」とがなりたてる。

悲しいかな。指導教官の言うことを聞かないのはウチの研究室の伝統なのである。

それでいいのだ。

ここに集まったものは皆、自分で自分の人生を切り開いて行けるように指導してきたのだから。

2019年1月9日(水)

妻が4輪車を購入して45日が経った。歩行時の安全性が高まり、他人の介護なしでも移動できる範囲が広くなったと喜んでいたのが遠い昔の出来事のように思える。

これまでに起こった数々の転倒の記憶と両腕の筋力の低下からか、今では4輪車を押すときには常に脂汗をかいている状態だ。傾斜や段差などに敏感になるものだから、精神的に疲れてしまうので増々歩かなくなり、機能が低下するという悪循環に陥ってしまった。

そのことを象徴する事件が今日の夕方に起こった。

妻が研究室まで迎えに来てくれた。数学科の建物の地下駐車場に停めてある車に4輪車を搬入しようとするとき、失敗しても妻に助けてもらえるという安心感から、
「今回は自分一人の力で4輪車を搬入してみるよ」と申し出た。

俺はいつもやっているように4輪車を後部座席に転がした。その勢いで自身もつんのめってしまう。通常なら腕で支えるところだが、両手は何の役にも立たず顔を後部シートに埋めることになる。更には両足が接地する道路とに摩擦が生まれず、踏ん張れないまま4輪車と交錯して身動きが取れない状態になった。妻が前から後ろから押したり引いたりしてくれたが体勢は悪くなるばかりであった。

幸いにエレベーターから降りてきた初老の男性に助けてもらい大事には至らなかったのだが、「もう自分一人で出歩ける所は何処にもないんだ」という重い現実を目の当たりにして塞ぎこんでいた一日だった。

2019年1月10日(木)

学部3年生の頃、バット折りに挑戦した。なんのことはない。固定した木製バットに蹴りを入れ真っ二つにすればよいのである。「笑っていいとも」でSMAPのメンバーも成功させたのだ。九大芦原空手同好会に籍を置き、研鑽を積んできた俺にできないはずがない。

学際での演武を控えた一週間前、予行練習で何十枚もの瓦と木製バット二本が準備されていた。俺は上記の根拠のない自信で、下級生4人が固定するバットを蹴り上げた。
「うがああああ」と言う絶叫が道場にこだまする。バットは折れず、俺の左足には青あざが残っていた。

俺は痛みに耐えながら折れなかった原因を分析した。
バットの固定が甘かったこと、バットの真芯を蹴っていたこと、足の甲で蹴っていたこと、バットに対して直角に当てていたこと。
「今日を逃せば精神衛生上最悪な一週間を送ることになる」との思いから、荷物をまとめ帰ろうとしていた下級生を呼び止め、再びバット折りに挑戦する。

俺はバットの細い部分を膝に近い方の脛で斜めに蹴り上げた。バットは真っ二つとまでは行かないものの、一応、折れた。

今日の夕方、4輪車の車への搬入と搬出を成功させた。

この喜びはバットが折れた時と勝るとも劣らないものであった。

2019年1月12日(土)

「あんたは黙ってばっかりで気の利いたことは一つも言わんね」
昔、祖母によく言われたものだ。今では妻からも似たようなことを言われる。実際にその通りなのだから反論のしようがないが、このようなことが積み重なって「数学者は気難しい」という世論が形成されるのだと思う。

この気難しいと言われる数学者が集まったらどうなるか、俺の場合は無口ではあるけれど気の利いたことはたまに言えるようになる。

昨日から今日にかけて大学の近くのホテルの会議室で研究集会が開かれ、40名もの参加者が、韓国はもちろん、日本、中国、英国、ロシア、イスラエルの国々から集まった。

懇親会の席では全員と話したいと思い、4輪車につかまり、妻にビール瓶を持たせお酌して回った。しかし、肝心の言葉が出ない。撥音や濁音が多い英語や韓国語は今の俺にとってはハードルの高い言語であった。
「ごめん、病気のせいで上手く話せないんだ」と言うと、決まって
「いいよ、いいよ、全然大丈夫だから」という答えが返ってくる。
皆に会えて嬉しい反面、喋れない自分を客観的に見ている俺がいた。

「せめて笑おう。笑顔を見せて心配をかけないことが今日俺に課せられた使命だ」と言い聞かせた。

俺とK教授が創設したこの研究集会は今回で91回目である。92回目は俺が日本に引っ越した後に開催されるだろう。

もう気の利いた言葉は言えそうにもない。

2019年1月13日(日)

「今日は天気もいいし、風もないから外で運動してみたら」と妻が言う。「いや、今日は疲れたから家に帰るよ」と言おうとしたが、自分に甘えているような気がしたので、その言を翻し、自宅アパートの敷地内を4輪車を使って歩くことにした。

車道を横断中、妻が「買い物袋を一人で運ぶのが大変だった」と言った。俺は思った。
「必死の思いで歩いているのに相槌が打ちにくい質問を、しかも車道で言うのは勘弁してもらいたい」
その思いは、歩行の乱れと嗚咽にも聞こえる笑い声として表現された。何となく気まずい雰囲気の中、妻の付き添いの下、30分の散歩を終え、階段も独力で上った。

その後、俺は自宅で3時間泥のように眠り、妻は俺が招待したお客をもてなすために、部屋を掃除し料理を準備している。何も手伝えない自分がもどかしかった。同時に家計に何ももたらせなくなるような未来は避けねば、と強く思った。

2019年1月14日(月)

今日の午後、車で30分の距離に位置するとある大学病院のリハビリセンターに行ってきた。担当の理学療法士は女性の方で、口を大きく開けて発音する方法、舌を出してリハビリする方法を実演を交えながら教えてくれた。俺は「はい、はい」と頷き、神妙な面持ちで彼女の真似をした。

リハビリが終わり、カフェテリアで妻と休憩している時、治療中の話題が出てきた。顔立ちの整った年頃の女性がリハビリの実演をすると変顔になってしまう。そのことを思い出してしまい、例の笑いの発作が出てしまった。妻も一緒になって笑い転げているので、いっそう笑いが止まらなくなった。周囲には迷惑をかけたが、この笑いのお陰でリハビリの一日分のノルマは十分に果たせたと思う。

帰りの車中で、妻は聖書を取り出し、親切に教えてくれた彼女を笑い物にしたことを俺と共に悔い改めようと促すのであった。アーメン。

追記:妻は敬虔なクリスチャンで、俺も結婚を機に教会に通うようになったが、妻からはいつも信心の無さをあげつらわれている。ちなみに通っている教会は異端とかではない公的に認められた教会である。

2019年1月15日(火)

今日の午前中、昨日とは反対方向に位置するとある大学病院に行ってきた。診察を受けるわけでもなく、薬を処方してもらうわけでもなく、障害者申請と休職願のために必要な書類を発行してもらうために本人確認が必要だったからである。

以前、退職するか休職するかの葛藤に関して書いていたが、結局は休職することに決めた。今まで何度となく公共の場で「二月末に退職する」と言い続けてきたことを貫きたいという思いもあった。しかし、声が出せない状態になって、「平坂塾の塾生に月三万の月謝に値するものを提供できるのだろうか?」という疑問にぶつかった。

それならば、休職期間は月謝無料で塾生を募り、その期間内に平坂塾の価値を評価してもらえばよいのではなかろうか。

「柔よく剛を制す」

今の俺を表現するのにこれほど便利な言葉はないであろう。

2019年1月18日(金)

昨日から今日にかけて「引越しの前にしなければならないことリスト」を作成している。引越し業者の選定、車の処分、自宅アパートの売却、等々、書き出すだけで頭痛がするほど膨大な作業が残っている。そして、その実務のほとんどを誰かに頼むことになる。「今から荷造りをしよう」と言っても、俺は何の加勢も出来ないのである。「人を動かすにはまず自分から動く」をモットーにしてやってきた俺には辛すぎる期間になりそうだ。

釜山大に赴任した時、俺達夫婦の所持金は50万円程であった。日本育英会への奨学金の返済も合わせると、マイナス190万円からの出発だった。韓国ではアパートを借りるとき、チョンセと呼ばれる敷金を大家に預け、家賃なしで住むのが通例である。ただしチョンセの額は小売価格の6割くらいに設定されている。なので手持ちの現金がない俺達は、敷金が安い間借りに家賃を払って暮らす選択肢しかなかった。その間借りは台所と居間と個室はあるものの、風呂はなく、トイレは外に設置してあった。5月に長男が産まれた時はたらいに水を汲んで入浴させ、夫婦交代で銭湯に通っていたのだ。

不便ではあったが、毎日、川の字になって寝る幸せな時代だった。と思っていたのは俺だけだった。妻は乳母車を押しながら不動産巡りをして、ある物件を見つけてきた。そこはアパートの一階で、当然だが、トイレも風呂も付いている。しかし、敷金が700万円で家賃も高かった。

そのようなお金が半年で貯まるはずもなかった。しかし、下見に訪れた俺達の目には夢の御殿に映ったのである。諦めきれない俺達は銀行から500万円借りて、残りを両家の実家から借りることにした。そのアパートで次男が産まれた。そして借金返済のために爪に火を燈すような節約生活を続けることになる。しかし、契約期間の4年が過ぎると大家が家賃を値上げすると言い出した。

二人の子供が走り回っても迷惑をかけることがない一階の生活を気に入っており、子供と湯船に浸かる毎日が幸せだった。と思っていたのは俺だけだった。妻は家賃が発生する状況を好ましく思っておらず、長男を乳母車に次男をおんぶして不動産通いを始めた。

ある日、妻から物件を見に行こうと誘われた。そこは広さは同じだが、中層階で見た目がぱっとせず、住み慣れた住居を捨てて引越ししようという気持ちが全く湧いてこなかった。妻も同じように感じたようで落胆していた。

「せっかく来たので他の物件を見せてくれ」俺は不動産の社長に頼んだ。彼はこう言った。
「アパートの前に高架道路を建設する計画があり、そのため価格が下がっている。今日も急売の申請が出ているけど、見に行きますか?でも価格は奥さんが要望している予算をはるかに上回っているよ」

見に行った俺達は驚いた。低層階で、幼稚園と小学校が隣にあり、買い物をするマート、地下鉄駅、区庁、病院にも近く、この上ない立地で、部屋も広く、何より浴槽が大きかった。

俺は投資の価値ありと瞬時に判断し、「気に入ったので買おうかなと思っているんだけど」と社長に切り出すと、慌てた妻が「そんなお金があるわけないじゃない」と止めに入った。「また借金すればいいさ。その利子が今の家の家賃より安いなら問題ないだろ」と妻を説き伏せ、話を強引に進めていった。

借金返済生活はつらかったが、現在も住むこのアパートで長女と三男が産まれ、高架道路は地下道に変更され、10年余り幸せに暮らした。と思っているのは俺だけではなかったはずだ。

そんな思い入れがある我が家と決別する作業が来月から始まる。

2019年1月20日(日)

自宅の構造は知り尽くしている。移動するときに、何処に4輪車を据えて何処に手を置いて、等の経験則が脳内に蓄積されている。なので自宅にいることは落ち着くし、家族もいるので安全が保障されている。はずだった。

昨晩、妻の介護を受け4輪車から回転式の椅子に移動する際に、お尻と椅子の角度が微妙にずれ、平衡を失った体は左斜め目前方に倒れ、側頭部を寝台の上に置いてある布団にぶつけ、床へと転倒した。妻は悲鳴を上げ、俺は青ざめた表情の妻から介抱された。幸いに外傷や後遺症はなかった。

今日の夜、机に座ったまま「早く寝なさい」と子供達に怒声を連発した後、トイレに行こうと4輪車に捕まって立ち上がった時、床に落ちていたボールペンを避けようとコースを変えた瞬間、何者かによって後方に引っ張られる感覚が生じ、なすすべもなく机の縁と平行に倒れ腰を強打した。第一発見者は三男、彼は眠りについていた妻を起こし、救出活動の第一陣を担ってくれた。

今朝、起床した時、喉が干からびた状態になっていた。寝ている間に知らず知らずのうちに口を開けて呼吸していたからであろう。それだけならまだいいが、起きて寝台の端で腹筋運動をしている最中に急にむせてしまい、息は出来るが声が全く出せない状態が十数秒続いた。恐ろしくなって助けを呼ぼうと叫ぶのだが、「がるるるーっ」と呻くことしかできず、なおさら恐怖が募った。その声を不審に思った長男がやって来て「大丈夫?」と聞くので、涙目で「大丈夫じゃない」と答え、危機を脱し正常な状態に戻ったことを確認できた。

こんな状態では27日からの4泊5日の東京出張が危ぶまれる。多数の学生が同行するとはいえ、人混みがなすあの東京砂漠で果たして安全が保てるのか大いに不安にさせる出来事であった。

2019年1月22日(火)

今日、手書きで日本語の書類を完成させた。達成感はあったが、その後の事務作業に対して拒否反応が出るほど神経に障った。3月から日本に住むとしたら、銀行、病院、役所、学校等で書類業務は不可避であろう。そのことを想像したら増々気が重くなった。

手書きで書類を完成させるのは大変な作業である。既存の文章の切り貼りも出来ないし、画数が多い漢字が並ぶと膨大な時間がかかってしまうからだ。そんな作業を当たり前のようにこなしていた昔の人は偉大だなとつくづく思う。

2019年1月23日(水)

午後に二つのセミナーがあり、4時間に渡って数学を議論した。何か一つでも成果らしきものが得られればその疲れも軽減されるのであろうが、「今度会う時までに考えておくよ」という何とも締まりのない終わり方だったので、妻が午後6時半に迎えに来た時には目が重く疲れ果てた状態だった。

今日は妻も事務補助の仕事で一日中忙しかったらしい。帰りの車中で珍しく「今夜は外食で済まそう」と提案してきた。「そうだなあ。熱い汁ものとかどうだろう?」と言うと、「それじゃあ、ドジョウ汁にしよう」と話がまとまり、子供達を連れて自宅のアパートの敷地の裏側に位置する店に行くことになった。

その店の脇道の行き止まりに駐車場があった。俺を除く全員が車を降りたが、4輪車を持ってくるはずの妻がなかなか現れない。どうやら妻は店まで続く道の安全性を調べるために下見に行ったようだ。しかし、バックミラーに映る黒い影は怒りで肩を震わせているかのように見えた。

「降りなくていいから。また別の店に行こう」と妻が言った。
「ええ、どうして?せっかく苦労して駐車したのに」
「店員に車椅子で入店できるか尋ねたら、入り口近くの席に行けといわれたのよ。店はガラガラなのにそんなこと言われるくらいなら他の店に行った方がましだと言って店を出てきたの」
「いや、そのくらい何でもないじゃないか」
と言って聞く妻ではないことは今までの経験から百も承知だった。

過去の事例をひも解くと。
店主が店員を叱り飛ばしていた焼き肉屋(安いし味も良い)、
幼児連れで入ったら嫌な顔をされた手打ち麺の店(元祖と名のるだけあって、味も良かった)、
は妻の逆鱗に触れ、出入り禁止が徹底されているのである。

今回の店もめでたく「二度と行ってはいけない店」のリストに書き加えられたということなのだ。

俺達家族は車で5分の距離にある新装開店して7カ月のドジョウ汁の店を見つけた。店の横の駐車場に車を止め、俺は車椅子に乗せられて入店した。空腹と疲労が重なっていたこともあって、出てきたドジョウ汁の味は格別だった。子供達も沢山食べたし、妻の機嫌も直ったし、大満足、大成功の外食だった。

2019年1月24日(木)

山の麓の広大な敷地に連なる建物の一つがリハビリセンターである。今日のリハビリの担当は前回と同じ、大真面目で舌の運動や大口を開けての発声練習を実演してくれる女性療法士だった。

前回のことを思い出すと笑いの発作が止まらなくなると思い、リハビリ中は目を閉じて、頭の中では昨日解けなかった数学の問題を考えていた。その結果、笑いを制御することが出来た。やはり数学の力は偉大である。

リハビリ終了後、青い風船を渡される。50回膨らましてから、呼吸器のリハビリに行ってくださいとのことだ。

空気を入れようと頬を膨らました瞬間、風船内の空気の圧力に負けて、口が風船から外れてしまうのだ。今まで簡単に出来ていたことが全くできない、その事実に大いに狼狽したが、何回も練習するうちに要領を掴み、食事を挟んで50回を達成した。

午後の呼吸器のリハビリでは大きな寝台に寝かされ、鳩尾に両手を置きながら、正しい深呼吸の仕方を教わった。何でも、喉の力を使わずに腹の筋肉が自然に上下するように呼吸を行うそうだ。

最初は全く出来ずに衰えを実感していたが、指導を受けるにつれて、腹の筋肉を意識して呼吸できるようになった。新たに知ったことは、呼吸をするための筋肉というのは喉や腹だけではなくて肩にもあるということである。それらの筋肉を維持するためには1日5セットくらいやった方がいいとのことだ。

とりあえず、今日は1セットやってみようと思う。

2019年1月27日(日)

金曜日の夜に二家族で8人を招いてのホームパーティを開いた。その影響で土曜日の午前11時に起床した。十分な睡眠を取ったはずだが、外出して帰宅するや否や眠気を押さえられず4時間眠った。これでは夜眠れないと思ったが、さにあらず、12時に就寝し、日曜の午前10時に目が覚めた。

リハビリで体が疲れているのもあるが、呼吸する力が弱くなって睡眠中に十分な酸素を取り込めないのが原因と推測している。最近、唾を飲み込むときに「ごくり」という音がやけに大きく聞こえるのだ。蜜柑を頬張っても果汁が口の外に出ないように必死で咀嚼している。コップの水を一気に飲むとむせる、等の典型的な球麻痺の症状が出るので非常に困っている。

一年前、俺は50mの距離を全力疾走して駆け抜けていた、今は5mの距離でさえ自力で歩けない。そんな経験から一年後の自分の状態を想像してしまうのだ。

首さえ座らず、涎を垂れ流し、一日の大部分を睡眠に費やす生活、そんな状態になっても心の健康を保てるのか、闘病記を書き続けていられるのか、甚だ疑問である。

こんな事を書くと家族に叱られるかもしれないが、俺には時間がない。そのことをわかってほしいからあえて書いてみた。

2019年1月27日(日)

午後7時30分、成田空港の手荷物受取所は閑散としていた。飛行機の座席から機内通路用車椅子に乗せられた後、税関前まで通常の車椅子で運ばれた俺は、手荷物として預けた車椅子と四輪車と同行する弟子達に囲まれていた。

東京出張初日は移動日である。電車を乗り継いで最寄りの駅からホテルまで無事に辿り着けるだろうかという不安は、元弟子で現在は日本の最高学府で研究員として在籍するJ博士の軽自動車の出迎えによって杞憂に終わった。

左側通行の夜の高速道路は気分を高揚させるし、上手く話せないはずの口元も緩ませる。スカイツリーが煌めく都心に入り、聞いたことがある地名の標識が増えてくる。

今はJ博士が買ってきてくれたハンバーガーを食し、胃袋が満たされた状態でホテルで休んでいる。午前の闘病記を見て心配してくれた人々からの便りを開いて暫し反省した。 弟子達は連れだって飲みに行った様子だ。

前にも書いたが、俺は人に恵まれているなあとつくづく思う。

2019年2月1日(金)

これまで東京に何度か訪れた。

中央線の満員電車では、悪い冗談だろと思うほどに人という人が車両に詰め込まれ、化粧の香りと体臭が入り混じった車内で全員が一体化し同じ方向に傾いていた。高い給料と引き換えにこんな不快な思いを毎日しなければならない都市生活者に深く同情した。

とあるロックスターの歌詞に出てくるスクランブル交差点では、出勤時だったせいか「今から働きにいかなきゃならない」という負のオーラが四方から近付いてくるかのように感じ、思わずのけぞってしまった。

熱帯夜の渋谷の路地では奇抜な化粧を施した女子生徒が集団で地べたに座り、彼女らに話しかける外国人をあしらっていた。

後楽園近くのビルに出店している居酒屋で揺れを感じた時、立ち上がって「地震だ」と大声で叫んだのが自分だけだった。

大学受験の時に付き添ってくれた幼馴染と山手線に乗った時、車外から彼女が座っている車窓めがけて拳骨を振り下ろしてきた浮浪者にも遭遇した。

20年前の話であるが、都庁の上から眺める景色は霞がかかっており、正に灰色の街であった。

振り返ってみると、あまりいい思い出はなかったような気がする。しかし、今回の三泊四日の池袋での滞在では東京のいい所、意外な側面が見えた。そして忘れることのない思い出を作ることができた。

2019年2月3日(日)

今年の旧正月は2月5日であり、韓国ではその前後が祝日になり、父方母方の実家を訪問し、親戚同士で親睦を深めるのが習わしとなっている。

妻の実家の浦項に来ている。製鉄所とエリート校である浦項工科大学と鯵や鰯を寒風に晒して作るガメギという干物で有名な街である。

妻は4人姉妹の次女である。四世帯17人が義父母の家で一同に会するのだが、義姉家族は長時間の車移動のため昼寝をし、義妹家族は子供が皆幼く椅子に登ったり引き出してを開けたりでせわしなく、ウチの子供たちも社交性がある方ではないので、せっかく集まっても散漫な雰囲気で終始することが多かった。

だが今年は違った。三月に日本に引っ越しとなれば今までのように定期的に会うのは難しくなるだろう。俺も日本移住の首謀者としてケジメをつけるべきだと思い、いつものように散漫な夕食会が終わった後、皆に話しがあるから集まってほしいと頼み込んだ。

俺は最初に病気の進行具合を報告した。 4輪車による歩行が不安定になったこと、喉にからまった痰を吸引して巻き上げることができなくなったこと、カ行とサ行の発音が困難になったこと、水を一気に飲んだだけで蒸せてしまうこと、等、週単位で病状は悪化しており、進行を止める術はないと伝えた。

続けて、日本に移り住む際たる理由は「故郷での暮しを楽しみたい」という自分の我儘であるということ、何処に住んでも一つの家族だと思っているのでこれまでと同じように接してほしい、と伝えた。

これらのことを感情を制御して言い切ったのは奇跡に近い出来事だった。ただ別れ際の挨拶で元看護士だった義姉に「ウチの子が熱を出すたびに適切な助言をしていただいて有難うございます」と言った時には込み上げるものがあった。

その間、妻は笑顔を絶やさず、時には冗談めかして明るい雰囲気を作ろうとしていた。本当は本人が一番辛いし悲しいはずなのになあ。

「女性の言葉は思っていることとは反対」という経験則を裏づける証左がまた一つ加えられた。

2019年2月4日(月)

就寝時の全身に現われる痒みに耐えかねて皮膚科を訪れたのは去年の7月だった。

「パンツのゴムの部分が皮膚にあたって痒くなって、それが体の各部分に拡がったりするでしょう?」
「先生、仰る通りです。あまりにも自分の症状と一致しているので驚きました。」
「そういう時はこの薬を飲めばすぐ治りますよ。副作用も微々たるものなので二週間分を処方しておきます」
と言って渡されたのが抗ヒスタミン剤であった。

それ以来、痒みに襲われる夜ごとにこの薬のお世話になっている。薬の効き目は抜群で、服用後1時間には嘘のように痒みが消え去り安眠出来るのだ。

お陰様ですっかり依存体質になってしまい、旅行や出張での不可欠な携帯品と化していた。そして、ここ最近の過剰睡眠はひょっとしたら薬のせいではないか、と言う疑念も沸いて来た。

そこで先週からあらゆる薬を絶ってみた。先日の東京出張では全夜痒みに襲われ、掻き続けた疲れで眠る生活を続けていたが、朝早い時刻に起きることが出来たし、日中睡魔に襲われることも無かった。

自宅や義父母の家では寝床に4つの氷嚢を置き、患部を冷やすことによって乗り切った。問題は痒みが毎日連続することと傍でいびきをかいて眠る妻と三男に嫉妬してしまうことである。

明日はどうするのか、痒みと共に苦悩も続く。

2019年2月6日(水)

不祥事が続いている昨今である。

客人を招いて手巻き寿司を食べながらの夕食会の最中、突然、気管に飯粒が詰まって噴いてしまった。その後、夕食の皿は全て片付けられ、強制的にお茶会が始まった。

くしゃみであれ、咳であれ、顔をそむけるなり手を添えるという動作が到底間に合わないのである。東京出張でワインを飲んでいた時にも噴いたのだが、ワイングラスの中での出来事だったのが幸いだった。

4輪車を用いて歩行する時に無意識に両足が交差してしまうことが頻繁におこりつつある昨今、夜中に妻の介護を受け4輪車で歩いている最中に二回も交差が起こり、危うく転んでしまいそうになった。

そのことを引き金に妻によって4輪車から車椅子への降格処分が下された。このため、連休中に観光して回ったお寺や遊園地での移動は全て車椅子でなされた。

寒空の下、毛布を下半身に巻き付け、厚手のチョッキと外套を着こみ、毛糸の帽子を被らされた状態で車椅子に乗り、家族や同伴者に囲まれて移動するのである。その時の気分は、よく言えば大名行列の輿に乗ったお殿様のようであり、悪く言えば運ぶのに人手がかかる粗大ごみになったかのようであった。「ありがとう」という言葉もろくに言えず、押されるまま、言われるまま、「はい、はい」と答えるだけの存在であり続けることに慣れる日がいつか来るのだろう。そう思っていたのを見透かされたように集合写真に写る自分の表情が暗かった。

自分を取り戻したのは翌日の遊園地内のカフェテリアで車椅子を下りて、椅子に座ったときであった。長年、家族ぐるみの付き合いをしてきた友人家族二組の夫人二名の前で、妻が子供の様子を見に出払った時に本音を語ることが出来た。たどたどしい言葉でも熱心に応対してくれた御二方には深くお礼申し上げたい。

2019年2月7日(木)

山の斜面を背負うように設計された数学科の建物の西側に俺の研究室は位置している。それゆえ、研究室の窓からは山肌しか見えず、夏は涼しく冬は寒い。

2002年に釜山大に赴任して以来、東側の空き部屋が生じても頑なに引越しを拒み続けた結果、丸17年分の講義ノート、電子化以前の時代では保管する意味を持ちえた複写された論文の数々、二架の本棚に収まり切れない和洋の数学書籍と釜山大卒業生による何十冊にも及ぶ学位論文、もはや骨董品としか呼べない歴代のパソコン達、物置としてしか使用してない二台の事務用机、セミナー時に学生と議論を交わしたセミナー机と6脚の回転椅子、先輩教授から貰い受けた寝台としても使える長椅子、が整理されないまま研究室に堆積していった。

今日はこの研究室を空にする日だ。午前11時に学科事務室の要請を受けて駆り出された学生は十数名、手足を思うように動かせない俺が出来ることは現場監督として指示を出し作業の効率を上げることだけだった。
「段ボール箱を作って、和書、洋書、雑貨文房具類で分類して下さい。空になった本棚を逐次1階まで運ぶように。本以外のものは棄てて下さい」

俺が健康な状態だったら引き出しを開けるたびに郷愁に浸り、棄てるか遺すかで逡巡し膨大な時間が掛かったものと推察される。しかし、現実はさにあらず、恐るべきは何の葛藤も持たない他人である。作業は一時間足らずで終わり、必要最低限の事務用品だけが研究室に残った。

手伝ってくれた学生達の昼飯を賄うために信用カードを渡し、ただ一人、空っぽの研究室に佇むことになった。
「こんなに広かったんだ」
「手紙や写真もどこかに行っちゃったなあ」
「『ただ一人消えればいい』という歌詞こそが今の心境にふさわしい」
「本は重過ぎるし、開くのもしんどいし、老眼で文字は読めないんだよなあ」
「本棚の飾りになるよりは手に取ってもらえる方が本も幸せだろう」

そんな感傷に浸っていると、昼食を済ませた同僚教授達がやってきて歓談し、菜食主義を貫くC博士がやってきて蜜柑を食し、事務手続きを手伝うために事務のSさんがやってきて30分余りコンピューターと格闘し、判子をもらいにきた学生と今後の研究計画について議論し、ごみ箱から俺が映った写真を拾い集め届けてくれた留学生のW君と学位を取ったばかりのE博士が現れ、最後は俺を迎えに来た妻が研究室に入ってきた。

妻と一緒に駐車場に降りると、テニスを終えたL教授夫妻と駐車場でばったり会った。L教授は俺が釜山大に採用された時に数学科の学科長を務めていた方で、公私ともにお世話になった方だ。挨拶を交わしている最中、人一倍感受性が強い妻は涙ぐんでいた。

俺の涙腺は空っぽになっていたみたいだ。

2019年2月11日(月)

とあるリハビリセンターに行って来た。週末は痒みに耐えられず抗ヒスタミン薬を服用したため、日中でも眠気を催す気怠い時間過ごしていたが、長く寝たせいか、今朝の足取りは非常に軽かった。病院内でも車椅子は一切使わず、4輪車を押して移動できるほどだった。

午前9時から言語治療の指導を受ける。腹を収縮させて息を出し、舌を喉の上側まで引き上げて「か」と発音するように指導される。なるほどな、と思った。吐き出す息の量を増大させ、喉の収縮と舌の動きを意識させることでリハビリの効果が上がるような気がした。

午前9時半からは手足の筋肉維持のための講習だった。両足をピンと伸ばした時、足首が固まってしまい脛との角度を鋭角にすることが出来ないのである。このため歩行時に爪先を付いて歩くことになり非常に不安定な状態になるのである。担当の理学療法士はその原因をズバリ言い当てた。足の裏側の腱が伸びないからだそうだ。朝、起きるたびごとに足裏が痙攣するので、
「これが筋萎縮の症状なのだろうな」と感じてはいたが何も対処してこなかった。今回の講習で「歩く時に踵を付くことを徹底する」「椅子から立ち上がる時にも踵を付け背筋を伸ばした状態でやや前方に向かうように力を込める」という具体的な改善策が提示されたのは非常に有意義だった。

午後2時からは水中での歩行訓練だ。着替えが第一の難関だったが、家族シャワー室で妻の介護を受け、何とか解決。入水もスロープを水陸両用車椅子で下ることで解決。水中では指導員の手に引かれ、30分程リハビリに励んだ。

非常に良い運動になったことは間違いないのだが、家に着く頃には手足に力が入らず、週末と同じ眠くて気怠い状態に陥ってしまった。

ああ、何とリハビリの難しいことか。

2019年2月13日(水)

他界した俺の祖母は聾学校教諭、他界した父は県福祉協議会事務員、大村在住の母は養護学校教諭だった。こんな家庭で育ったので、幼い頃から心身に障害を持った人々と接する機会が多く、母の教え子が毎週家に遊びに来たりもしていた。なので、障害者を見ても同情や憐憫という感情を抱くことはなく、あるがままをそのままに見ている。

今朝、日本に国際電話する機会があって取次ぎを頼もうとするとき、か行の文字を多く含む単語が冒頭に出てきて、話している自分でも聞き取れないだろうなあという発音になってしまった。電話口の向こうでは沈黙が続き、困惑している様子が手に取るようにわかった。

その時に思った。自分が接してきた障害者の人々は今朝体験したような懊悩とも言える葛藤が日常的に起こっているのではないか、と。言葉が出ないのは本当に辛い、一生懸命言葉を発しても聞き取ってもらえないのはもっと辛い、手足に力が入らないというのはALSの入り口に過ぎなかったんだ、と。

数学的に表現すると、区間縮小法で自分の居場所が狭められていって最終的には自分の体の中だけになるような感じかな。

2019年2月13日(水)

病院に行って来た。引越し前の最後の診察なので、主治医と会うのもこれが最後となるであろう。主治医は言った。
「動かさないと筋肉は衰える一方なので運動が大事です」
全くを以てその通りなのだが、堰き止められる洪水でないことは身をもって分かっている。医者がALS患者に対して出来ることはリルテックを処方することだけなのだ。俺は学校の卒業式で発せられる決まり文句のように主治医の言葉を厳かに聴き、最後に
「1年間、診察していただいて有難うございました」と心からの感謝の言葉を述べた。

その夜、書物を音読する声帯のリハビリと、寝台の上で主治医に言われたように手足と腹筋のリハビリを5セット行い、例のパーキンソン病患者への薬を飲んで眠りについた。翌日、どんな苦しみが待っているかも知らずに。

2019年2月14日(木)

目覚めたのは午前3時半だった。頭が痒いが寝起きのため指に全く力が入らない。それより、体が熱いし、焦燥感が頭全体を包み込むような感じの気怠い状態に陥った。手に力が入らないために思うように動かせない布団を足で蹴飛ばすが、今度は寒さで鼻水が込み上げてきた。意図せずとも大声で発せられる欠伸が何度も出るが、隣室で安眠中の妻は気付かない様子だ。

こんな状態でも眠ることは出来たようだ。再び時計を見ると午前6時、症状は更に悪化していて、上記に吐き気が加わり、「おええっ」という声を発すると、妻が飛んできて洗面器を準備してくれた、嘔吐物には水分が少なく、軽い脱水症状を起こしていることが伺い知れた。

落ち着いた後、立ち上がろうとしても手足に力が入らず上手くいかない。ボルダリングの選手のようにドアの取っ手、洗面台、トイレットペーパーを吊るす金具を伝って、ようやく用を足すことが出来た。その後に来るのは猛烈な睡魔だ。

結局、今日は、睡眠、昼飯、睡眠、エアロバイク、睡眠で、これを書いている最中でも欠伸が出る始末だ。もう二度とあの薬は飲まないと誓った一日であった。

2019年2月15日(金)

先週金曜日から義母が我が家に滞在している。俺が上手く喋れないのと義母の耳がやや遠いという相乗効果で話が噛み合わないこともしばしばである。義母は暇を見つけては俺の傍らに座り、両手の指をマッサージしてくれる。かなり力が強いので親指を反り返す時に折れるのではないかと心配になるほどである。

一昨日から体調不良で自宅から出ることのない生活が続いている。それゆえ、義母の指圧を受けながら義母の「最後まで希望を捨ててはならない」という話を聞く時間が長くなっている。

消化不良で頭痛も併発している状態では心の健康を保つことも困難になるようだ。布団に潜って寝ていると後ろ向きな思考に支配されてしまう。

これまでに何度も送別会的会合に出席したが、その度毎に心が重くなる。日本に引っ越してしまえば、そして病状が悪化すれば、二度と会えない人々が大多数になるのだ。再会できたとしても、その時の俺は今の俺とはかけ離れた外観かけ離れた精神の持ち主になっているかもしれないのだ。

この闘病記では、自分の気持ちを正直に書いているが、起こったことの全てを書いているわけではない。むしろ、闘病記には出てこない出来事の方が葛藤が激しいことが少なくない。

これから二週間、義母を始めとするお世話になった人々と出会い、別れと感謝の言葉を述べることになる。そのことを考えると体調不良であることも手伝って、心が圧迫されるようで非常に苦しいのである。

以前、学生を集めて「この中でメンタル最強なのは俺だ」と言ったことは撤回することにする。

2019年2月16日(土)

「変な病気に罹っちゃって、手足に力が入らず言葉も出なくなったので休職して日本に帰ることにしました。この中には二度と会えない奴もいるだろうし、再会したとしても今と同じ状態では会えないと思う。そう言っていて思ったんだが、それは俺に限らず、ここにいるみんなも同じなんだな。そういう意味で、今この瞬間に30名もの仲間が一同に会しているのを尊く感じるよ。みんなもお互いにそう感じてほしい。それでは、乾杯」

鮭刺身の専門店を借り切っての打ち上げは俺の挨拶によって開会した。一時間前は大学本部前の土のグランドで、MATHNAL卒業生対現役の紅白戦を戦っていたのだ。俺は例のごとく車椅子に乗り、完全防寒体制で試合を観戦した後、会場に駆け付けたのだった。

発足して10年目のMATHNALである。創設メンバーから歴代主将、歴代女子マネが集まり、総勢30名となったこの宴会は閉店までの3時間、勢いを落とすことなく大いに盛り上がった。

俺はこの数学科サッカー同好会の顧問であった。対外試合では数学科の代表選手としての矜持の下、体を張って試合に臨み、PK戦のキッカーを務め成功させ、週末のフットサル場では一緒に汗を流し、夕食の足しにと幾ばくかのお金を渡していた。動けなくなってからも観戦に訪れ、試合後は選手全員が整列して挨拶に来てくれたり、サッカーチームのオーナーの気分を味わうことが出来た。

宴会でも座ったままの俺は全員と杯を交わすために自分の座席の横に設置されたゲスト席に呼び寄せて一人一人と会話した。とても楽しかったが、宴の後の喪失感も半端なかった。

2019年2月18日(月)

昨日、三男が嘔吐を繰り返したので今日は大事をとって幼稚園を休ませることにした。長男と長女は学校、妻は助教勤務なので俺が三男を見ることになり、終業式が終わった次男は俺の介護のために自宅待機という奇妙な構図が出来上がった。

妻が帰宅後、全員で海苔巻きと寿司をつまんで夕食終了、水とお茶を飲み、蜜柑を食べていた時に事件は起こった。

何の前触れもなく、蜜柑と水が俺の口から溢れ出て、以前にも書いた呼吸は出来るが声を全く出せない状態が30秒ほど続いた。目の前で起こった出来事を頭の中で処理することが出来ず、嘔吐物を片付けてくれた妻に対して何の労いも発することが出来なかった。

推測するに、気管に蜜柑が詰まり、蒸せると共に胃の中の水分が逆流したものと思われる。公共の場では注意しなきゃなと思った。

話が前後するが、午後に二名の来客を迎えた。一人は浦項工科大学時代の上司、もう一人は数学科での俺の後見人とも言える先輩教授だ。このお二方がいなければ俺が釜山大学に赴任することもなかったであろう。人生の転機で薫陶を受けた方々が同時に俺の自宅に俺に会うためにやって来たということだ。

俺には奇妙な才能がある。俺の周りには悪い人は寄り付かず、良い人のみが集まるのである。賞味30分の短い時間であったが、俺は「決してあきらめるな」という叱咤とも言える励ましを受け、俺が「期待してもらったのにこんな病気に罹って申し訳ないです」という言葉を言いきれないままの状態で、会談は打ち切られ、二人は慌ただしく立ち上がり玄関を後にした。

今年の二月は一生に何回かしかない真剣での言葉のやり取りが連続する期間として記憶されるだろう。

2019年2月19日(火)

今日の昼食の締めで冷麺が出てきた。真鍮製の容器に細かく砕いた氷と共に盛り付けられた麺は非常に美味しそうに見えた。韓国ではこの麺を食べやすい長さに鋏で切って、酢と辛子を加えて食す。

最初に鋏を持った人が同伴者の麺を裁断するのはよくある光景なので、お任せで切ってもらう。ALSが進行しても、麺類だけは独力で箸を使い食べることが出来ていた。だからこそ、御飯付きの韓国味噌汁ではなく、冷麺を注文したのである。

俺はやや短い鉄製の箸を手に取った。腕を上げることが出来ない俺は食卓に突いた肘を支点にして麺類を食していたのだが、今回の器はやたらと丈が高く、短い橋を最深部まで押し込むことが出来なかった。更に鋏で切られた麺はスープの中を俺の箸を嘲笑うように漂い、一向に箸に絡まってくれないのである。

仕方がなく、匙で麺を掬おうとするがこれもうまくいかず、その一部始終は同伴者全員から観察され、店員に「フォークを持ってきて」という要請がなされた。

俺は明らかに動揺していた。ネルシャツ、ワイシャツ、薄手のセーターを着ていたので余計に腕が上がらなかったのだろうと言い訳することもできるのだが、毎晩、寝る前に頑張った腕のリハビリの効果がでるどころか、むしろ退行しているという現実が頭に響いていたからだ。そのため、フォークを取る手にも力が入らず、見かねた妻から食べさせてもらうという行為も受け入れざるを得なかった。

なんだか、自分の将来を暗示するような出来事だった。

今日は、冷麺は二度と注文すまいと誓った日として記憶されるだろう。

2019年2月22日(金)

釜山大学では毎年2月の最終金曜日に卒業式が行われる。新任教員として学科長として、年毎に異なる心境で卒業生を送り出してきたが、今年の卒業式ほど感慨深いものはなかった。

2002年に釜山大数学科に赴任した俺は言葉が不自由な人だった。前年の7月に韓国人である妻と結婚した俺に出来ることは日本語訛りのたどたどしい韓国語を話すことだけで、数学科の教員間の会話を聞き取ること、事務書類を読み作成することはまるで駄目な状態だった。講義で話す内容を日本語で書いて翻訳機に通してできた韓国語を読んで妻の前で練習し、送られてきたメールを逐次妻に見てもらい教えを乞い、飲み会や同僚との昼食時にも自分から積極的に話しかける等の努力は惜しまなかったものの、数学科内のお荷物となっていたのは明らかだった。

本来俺がやるべき書類作成業務は全て同期の新任教員に回されていたし、あらゆる学科行政の義務を免除されていた俺は正に、鬼ごっこで当てられても決して鬼にならない豆ん子のような存在だった。更には、受講生による講義評価では「よく聞き取ることが出来なかった」「もっと韓国語を勉強してください」というコメントが並び、ある年の整数論の講義では中間考査前に受講生の半数が離脱したし、それが学科内で問題になったらしく中間考査の翌週の講義に監視役の教員が付いたり、とにかく周囲に迷惑をかけてばかりだった。

そして、休職前の一年間は体が不自由な人となり、外出する度に同僚教授の介護を受ける、言わば本来の意味でのお荷物と化してしまったのである。更には、本来の意味での言葉が不自由な人に戻ってしまったのだ。

始めから終わりまで周囲の助けを受けっぱなしで去ってしまうことになったのは、数学科の教員、事務員、学生に対して申し訳ない気持ちでいっぱいである。こんな俺でも受け入れてくれた数学科関係者には感謝の言葉しか出てこない。そして、俺にとっては幸福な17年間だったということをお伝えしたい。

卒業式後、研究室の鍵を学科事務室に返却し、午後1時から8時まで、客員教授室で俺の弟子を始めとする多くの人々と個人面談をした後、各々と再会を誓う固い握手を交わした。

備忘のために彼ら彼女らの名前の頭文字を記す。
CJS, PJR, ISA, KKJ, AW, KSR, PSH, MG, CHI, CEK, CHY, KYJ。

2019年2月26日(火)

同じ病気の人と情報交換したいと思い、ツイッターを始めた。当初は使い方が分からず何の情報も得られなかったが、ALSを検索語にして探していると、1人、2人と闘病を綴る人々に出会い、そのフォローワーで自分と関係している人を表示する仕組みになっているようで、次々とALSで苦しんでいる人々が見つかり、フォローさせてもらっている。

彼ら、彼女らのつぶやきは壮絶そのもので、
痰が喉に詰まっても吸引機を操作できる看護士が来るまで地獄の苦しみに喘ぐ、糞尿は紙おむつで便秘の時は摘便してもらう、ラディカット後の吐き気が酷くこれ以上は服用できない、風邪をひいたら命に関わる、等、俺の症状なんて蚊に刺された程度にしか思えない程の真実且つ深刻なつぶやきのオンパレードなのである。

病気の進行を嘆いていても、心の奥底では「まさか自分が瞳孔しか動かない状態になったりしないだろう」という根拠のない自信みたいなものがあったのだが、これからは夢見る中年が想像するよりもはるかに過酷な現実に向かい合い、先人の教えに耳を傾ける必要がありそうだ。

今日の午後、スマートフォンで文字を入力する機会があったのだが、右手の親指が画面左端に届かず、悪戦苦闘した。俺にとっては、大切な通信手段である携帯電話の操作に制限が生じるという重大な事件なのだが、そう書くのが憚られる今日昨今である。

2019年2月27日(水)

約12年間住み続けたアパートの一室との別れの時が近づいている。はずだったが、結局、売ることも貸すことも出来ず、荷物や家具はそのままで、旅行に出かける気分で日本に発つことになりそうだ。

休職期間中に俺が奇跡的に回復して釜山に戻ってくるという妻の願いが反映されたとも言える。俺としては全てのものを捨て去り、背水の陣で家族の新しい経済基盤を作るつもりだったのだが、何一つ片付けが出来ない俺に執行権が与えられるはずがなかった。

これまでに数多くの知人に
「君の家庭での大統領はだれだい?」と尋ね、
「妻に決まってるよ」等の答えが返ってきて、
「君の家はどうだい?」と聞かれると、
「俺の家では、些細なことは妻が決め、重要なことは俺が決める」と豪語していた。
「へええ、今時、凄い亭主関白だな」という言葉にすかさず、
「でも何が重要かは妻が決めるんだ」と言って、笑いを誘っていた。

あまりにもそのまんまで笑うに笑えない俺だった。

2019年2月28日(木)

早朝、居間が騒がしい。妻が梱包を終え、郵便局へのお供をさせるために長男と次男を叩き起こしているからだ。妻への援護射撃として俺も起きようとするが、如何せん握力が低下した両手と突っ張って痛みを伴う両足を抱える身には容易ではないのだ。足の痛みが治まった後、両足を振り上げた反動を使って座った体勢になれる。

妻は働き者であるが現場監督の才能が無い。せっかく起こした労働力を使うことなく、持っていくものと置いていくものの判別に時間を割いている。結局、家を出たのは午前10時だった。

入れ替わりにやってきたのは俺の障害者申請のための動画を撮影しにきた男女で、座って腕を上げたり、4輪車で歩行している様子を撮られた。何も考えてなかったので出来る限りの元気な姿を見せてしまった。しかし、障害者認定されなくても、それはそれで良い事と思える気がする。

午後は査証の更新のために出入国管理局に行ってきた。車で約40分の道中、助手席に座る妻は寝息を立てていた。建物の地下駐車場に入ろうとすると、係員から制止され裏の有料駐車場に停めるように指示される。突然、妻の怒りのスイッチが入り、
「夫は歩けないのに遠くに行けとはどういうことよ」と抗議する。
内心、事情を全く知らないんだからそんなに怒ってもしょうがないだろと思っていたが、今までの経験から静観を決め込むことにした。

道路わきに駐車した状態で妻は車から降り、4輪車を引っ張り出して俺を車から降ろした。しかし、この建物に入る手段は階段しかないのである。俺はその建物の横で待つことになり、妻は運転席に座り駐車場に向かった。

怒り心頭で戻ってきた妻であったが、横柄に見えた係員が親身になって階段を上るのを手伝ってくれたので、その怒りは氷解し賛辞に変わることとなった。

こういうことが起こる度に「やっぱり国民性ってあるんだな」と思ってしまう。

この夜、ある女性が片道2時間をかけての我が家を来訪し、20分滞在して帰って行った。そして、近所に住む一組の夫婦が30分滞在し帰って行った。その後、俺は家族に「一人になりたい」と頼んで自室で長い時間物思いにふけった。

2019年3月2日(土)午前

朝、目覚めた時、我が目を疑った。家中が不燃物ゴミだらけで6人家族が日本に移住するための荷造りは完成に程遠い状態だったからだ。昨晩も似たような状態だったが、監督責任を放棄して就寝したのはひとえに妻への信頼感からだった。

時刻は午前9時、釜山発福岡行きの飛行機の出発時間は午後2時半であるが、送迎をかってでてくれた教会関係者の車が来るのは午前10時半なのだ。

事態の深刻さを見て取った俺は妻にこう言った。
「家はこのままにして持っていく荷物をまとめよう」
しかし、妻は意に介さず笑顔で枯れ果てた植物をゴミ袋に入れている。何もできない俺は何も言葉を継げず、子供を呼んで着替えを手伝わせた。

時刻は午前10時、玄関の呼び鈴の音が聞こえる。入ってきたのは俺の弟子の一人だった。俺は彼女と食卓脇の長椅子に腰掛け、じっと戦況を見守った。時折、妻から弟子にお使いの指令が入り、外出して帰ってくることを繰り返していた。

それにしても気になるのは、食卓の上の果物類だ。その中には食べごろのマンゴーも含まれている。妻はこの期に及んで段ボール箱を組み立てている。「もう駄目だ。ガンジー、お前の負けだ」と頭を抱えてから、数分後、足の踏み場もない状態だった居間には白い床が広がり、妻は細かいごみをほうきで集めているではないか。

かくして、俺はモーセが海を割った気分を味わうと共に、杖ならぬ4輪車を両手に故郷へ向かう第一歩を踏み出すのである。

2019年3月2日(土)午後

金海空港到着後、俺は玉座ならぬ車椅子に座らせられる。見送りには教会関係者と数学関係者を合わせて約20名が集まった。その各々と握手を交わすが、握り返す右手に力が入らない。彼ら彼女らとの魂の会話はここに来る前に終えている。「ありがとう」としか言えないし、最後は手を振るだけだったが、その手さえ胸の前でかざすことしかできなかった。

長旅を終えた。実家に足を踏み入れるのは車椅子から降りてからだ。
夕食後、見送ってくれた人々に「無事に到着した」との知らせを送る。

これまで毎週当たり前のように会い、挨拶を交わしてきた人々との日常がこの日を境に打ち切られる。

なぜ、俺は海を渡ったのか?

その明確な答えを未だ見出せないでいる。

2019年3月2日(土)深夜

実家の風呂に入り心身を癒し、就寝しようとする時、妻が密封された封筒を持って来た。妻がハサミで開けるとそこには釜山大数学科教員からの寄せ書きがあった。

同じ建物の中で毎日のように会い、昼食を共にし、事あるごとに酒席を設け、学科の話で盛り上がり、それが日常生活に組み込まれていたせいで、俺はあることに対して盲目になっていた。

それは釜山大数学科の教員が社会人としても一流であるという事実である。通常、数学者と言えば偏屈で外部との接触を最小化していると思われがちだが、こと釜山大数学科の教員には当てはまらないようだ。各々が常識人であり、実務能力に長け、原則論を忘れず拘泥せず、行動力と決断力を有している(但し、俺を除く)。

彼ら彼女らの下で多くのことを学んだ17年間が、今、終わった。

2019年3月3日(日)

本日を持ちまして、「闘病記」は「闘病記(釜山編)」と名を変え、以降は「闘病記(大村編)」に引き継がれます。