ホーム餓狼宴

餓狼宴

鮑粥

妻がアワビを買ってきた。三個で一万ウォンらしい。
そのアワビを細かく刻みお粥に入れ、十分に出汁が出たところで塩を振る。
美味しさを左右する重要な行程であるが、妻は当たり前のように加減を合わせてくる。
それはさながらヨークとコールの頭めがけて正確に飛んでくるベッカムのクロスのようである。

熱々のお粥の表面を匙で掬うと、アワビの細切れが佇んでいる。
口に含むと微量の塩がアワビの食感を更に引き立てていることが実感できる。

「おかずが無くて御免ね」という妻に仏頂面を作って
「全然、大丈夫」と返すのみである。
「美味しかった」とかいうとわざとらしく聞こえるからだ。

韓国味噌汁

幾つかの例外を除くと、我が家で供される料理は外食よりもはるかに美味しい。
その例外の一つがテンジャンチゲと呼ばれる韓国味噌汁である。(韓国味噌は日本味噌とは製法が異なるらしい)
おそらく健康に気を使ってのことであろうが、妻が作るテンジャンチゲは味噌の量が少なく、
主要な具材がズッキーニ、唐辛子、豆腐であるために食するときに希薄感があり辛さのみが印象に残るのである。

一方で、食堂で出てくるものはアサリやカニ等の海産物からの出汁とテンジャンの濃厚な風味が絡まりあって、ご飯との相性が抜群なのである。
あまりにも美味しくて、若かりし頃は三杯おかわりしていたほどである。

材料が異なるので比較することは公平でないかもしれない。
妻もその気になれば濃厚なテンジャンチゲを簡単に作れるのかもしれない。

現在は、触らぬ神に祟りなし、という心境である。

韓国海苔巻き

日本に旅行に行った釜山大の学生からよく聞くのが、
「コンビニのおにぎりが美味しくてそればかり食べてた」ということである。
なるほど、乾燥した海苔と御飯、ツナマヨ等の具材との組合せは悪くはない。しかも財布に優しいと来たもんだ。でも、あんまり激賞するようなものでもないだろう。忙しいしお金もないから仕方なく、という感じで購入する人が多いのではないだろうか。

これと類似の待遇を受けているのがギムパプこと韓国海苔巻きである。

1999年の秋、韓国に来て一週間も経たない時に上司でもあるK教授から登山に誘われた。
小雨の中、5時間余り山道を歩き、時には生い茂る萱を踏み倒しながら山頂に着いた。
その時食べたギムパプの味は衝撃的であった。一口目の「あれ、日本の海苔巻きとは違う」という軽い失望が口の中で具材と御飯が交じり合う数秒の間に歓喜に変わったのである。

しかし、このギムパプは韓国社会では至る所で頻繁に現れるのである。例えば、子供が遠足に行くその日から三日間は食卓に出てくる。なので、初心は忘却の彼方に追いやられ今に至っている。

今日の昼飯も野外でギムパプであった。トクポッギも付いていたが、それについては別の機会に紹介したい。

韓国混ぜご飯

日本でも有名なビビンパ(ビビムパプ)のことであり、どのような料理かを今更説明する必要もないであろう。一週間に少なくとも一回は食べているので、通算千食を記録するのも時間の問題となってきた。

地方や店ごとに特色があり材料も異なる。多くの人々に愛され、時には国を代表するメニューとして紹介される所は日本のラーメンと似ている点である。

まずは器から、高級感のある真鍮製、陶磁器、庶民的な食堂でよく見られるアルミ製、石鍋、変わったところでは、小ぶりの鍋、等、様々な器で供される。

白米が標準的であるが、麦飯、玄米、豆ご飯、赤飯、なんでもありである。

具材の筆頭格は豆もやし(コンナムル)であろう。日本ではもやしの流通量が豆もやしのそれを圧倒するが、韓国ではその比率が逆転する。混ぜた時に弾力を失わなず独特の歯ごたえがある豆もやしは三国志に喩えたら関羽のような存在である。であるならば、そぼろ肉こそが張飛にふさわしい。この両雄に率いられた群衆(米粒)が敵軍(口の中)を蹂躙するのである。これらに諸葛孔明たる目玉焼きが加入し、劉備玄徳ことコチュジャンが全軍に調和と秩序をもたらすのである。

細切りのニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ、ほうれん草、椎茸、山菜、キムチ、等の名脇役達が美しく盛られているが、ごま油の芳ばしい風味のために生じる食欲は鑑賞時間を著しく削減してしまうのである。

均一に混ぜるもよし、意図的に偏りを作るのもよし。食べ手の創造性が十分に発揮されたものが最終形態となるのである。

今まで食べた中では、食の都である全州の専門店で出されたものが強く印象に残っている。材料はほぼ同じであるのにどうしてここまで完成度に差があるのかと驚愕した思い出がある。その経験から自宅でビビムパプが出されるときは必ず、材料の配分とコチュジャンの分量調整を妻に頼むことにしている。自分でやると好きなものを多く配分してしまい全体の調和が損なわれるからである。

自宅ではコチュジャンの代わりに醤油とニンニクがベースになる特製のタレが使われることがある。この外食では味わえない唯一無二の料理は独占禁止法に違反するのではないかと思うくらい旨いのである。

妻には変な癖がある。
外で美味しい料理を食べると、翌日にその料理を家庭で再現しようとするのである。
(『北斗の拳』でもそんなシーンがあったな)

今日の夕食は鮭のステーキだ。
節約を心がける我が家に決して安くはない分厚い鮭の切り身が手作りトマトソースを纏い、ブロッコリとプチトマトと共に盛り付けられた5枚の大皿は壮観であった。長女は「すごーい、レストランみたーい」と驚嘆し、好き嫌いが多く注文が多い長男でさえ、「おいしい」という程であった。
「昨日、友人の自宅でご馳走になった料理があまりにも美味しかったので作ってみた」というのは妻の弁である。

「焼き」は完璧であった。箸を入れると大ぶりの身が形どられトマトの酸味と共に口の中でほっこりとはじけるのである。柔らかいテーブルパンに挟んで食べた時は、ここは欧州かと錯覚するくらいであった。

持病を抱えて以来、高タンパクの食材が食卓に並ぶことはなかったのだが、家族全員にとってのうれしいサプライズとなった。

だけど、妻は自分の皿は準備しないんだよな。

韓国風鶏の生姜煮

「今日は砂糖を入れないで作ってみたよ」妻はそう言った。

チムタクとはキャベツ、ニンジン、ジャガイモ等の野菜類と鶏の切り身とタンメンを生姜醤油で煮込む料理であり、具材を楽しんだ後に甘辛い煮汁をご飯にかけて食べるのが定番である。

子供にも人気の料理で鶏肉とタンメンはあっという間に無くなってしまう。
しょうがないから、野菜を食べるのだが、ほのかに甘い。
新たな発見であった。砂糖を使わないからこそ野菜の甘みが味わえるのである。
砂糖のべたべた感がなく、煮汁がいい感じで生姜となじんでいるので御飯が進むのである。

韓国味噌汁の鍋を焦がしたのはご愛敬。
今日も大満足の食卓であった。

海鮮鍋

済州島西帰浦市に出張で来ている。
今日は分科会の最終日で打ち上げの会場は地元の人が推薦する海鮮鍋の店であった。
予約された座席には海鮮鍋が準備されている。
蟹が一匹、鮑20枚が上向きに盛られているのを見て圧倒される。
価格は4人分で5万ウォンである。
鍋が煮立つまでの間、付け出しの干物や漬物を賞味。
これが旨い。即座にお代わりを頼んだ。
鮑を丸ごと食べるのは贅沢の極みである。
その至福の瞬間が5回訪れるのである。
それだけではない。鍋の底には手長蛸と海老が茹で上がっていた。
ここは韓国、鋏が登場して蛸は一口大に切り刻まれる。

締めは石鍋の上に盛られたタラコ御飯である。
鍋の残り汁ともやし豆を投下、じゅううっと音を立て、湯気が上がる。
海鮮の旨味がたっぷり詰まったスープを染みつかせた御飯の味は格別であった。


大根の葉

韓国語でヨルムウという。
この漬物が食卓に上ると、夏が来たなという感じである。
どんぶりに乗った白米から湯気が出ている。
この上に瑞々しいヨルムウを盛り付ける。
妻が出来たばかりの韓国味噌汁を持ってきて鍋敷きの上に置く。
なんと、この味噌汁をお玉で掬ってコチュジャンのかわりにどんぶりの上に投下するのである。
その後は、いつもの混ぜ混ぜ作業によってどんぶりの中は焦土と化す。

冷たいヨルムウと熱々の御飯と韓国味噌汁の調和はすこぶる良い。
そういえば、日本にいた頃は猫まんまがその名称からしてとても食べられるものではないという偏見を抱いていたのだが、韓国に来てからその猫まんまの美味しさが初めてわかった。

しかし、日本でご飯に味噌汁をかけて食べたことはまだない。

どじょう汁

と聞いて、身構える人もいるのではなかろうか。
かく言う私もドジョウが鍋にひしめいている様相を想像した口である。
さにあらず、鰌魚湯(チュオタン)と呼ばれるこの料理は炒めたドジョウを粉末にして味噌汁として供されるので、ドジョウの姿を目にすることはないのである。
「鯉等の淡水魚料理と同様、味に癖があるのでは?」
との疑念が生じるが、全くそうではなく、むしろ、毎日食べても飽きないほど癖になる味である。

今日の会食は久しぶりに再会した恩人とも言える友人の誘いによるものである。
その店はかなり広く座席数も多いのだがその8割がお客で埋まっていた。
前菜のキムチの新鮮さが本命への期待を一層高める。
しばらくして運ばれて来た鉄鍋の中身は沸騰した泡から猛々しい湯気が上がっている。

このままでは熱くて食えない。
ニラと山椒と胡麻の粉末とご飯を投入して攪拌するとほのかに納豆汁の香りが漂う。

ちなみに私は日本にいた頃は納豆が喰わず嫌いの一つであったが、
韓国で知らずに食べた納豆汁を経由することによって好物に変わった経緯がある。

小皿にとって味を見る。

これは美味い。

一気に匙一杯に盛ったどじょう汁雑炊を口の中に掻き込みたい衝動に駆られるが、
熱さがそれを許さない所がもどかしい。
しかし、じきにやって来るであろう食べ頃の温度との均衡点が訪れる瞬間を待つのも悪くはない。
至福の時が始まるのはここからである。
やや固めに炊かれたご飯が出汁を吸って膨張している。
これを無言でがつがつと口に入れるのである。

もちろん汁を残さず完食。
今回のものは、生涯で食べたどじょう汁の中で、二位以下を大きく引き離して最上位に位置するほどの完成度であった。

白桃

妻が桃を買ってきた。
箱入りの12個であり、今夏で4度目である。

節約が趣味である妻が決して安くはない果物を頻繁に買ってくるのを疑問に思い、
「何でそんなに果物を買ってくるの?」と尋ねると、
「食後には果物でしょ。韓国の家庭では常識よ」と一蹴された。

子供の頃食べていた果物と言えば、ミカン、バナナ、スイカのような安価なものばかりだったので、妻の美味しい果物を捜し求めるその情熱はちょっとしたカルチャーショックであった。

今日買ってきた白桃も、客が来ない喫茶店の主人が一念発起して始めた果物店から
購入したもので、妻が常々、「あそこの店の果物は外れがない」と言っていた店である。

皮をむいて小切れにした白桃を頬張る。
ほのかに甘く、柔らかく、果汁が口一杯に広がり、幸せな気持ちになる。

もうこれで十分に満たされているのだが、妻はせっせと一人一個のペースで桃を剥き続けるのだ。

しかし、ご飯を食べた後だし、こんな満腹の状態で高価な桃を味わうのはもったない気がするんだけどなあ。

ネギ焼き

とある漫画の影響からか、日本ではチジミという名称で有名なこの料理であるが、
韓国の食堂でのメニューにはパジョンと表示されていることが多い、
というか、チジミと表記している店を見たことがない。

今日の夕食では、だし汁で溶いた小麦粉にネギだけが入った最も簡素な形態のものが出てきた。油を極力使わないで焼いていることと、イカ等の海産物のアクセントがないために、付け出しの中の一つと言う脇役感が否めないのだが、味はいいので際限なく食べてしまうのだ。

釜山に来てから16年、我が家を訪れた多くの客人を妻の料理でもてなしたのだが、前菜として登場するパジョンが主菜を上回る評価を得ることが少なくなかった。
新鮮な細ネギと海産物と卵を油で揚げるように焼いたパジョンは、表面がカリカリで見るからに食欲を誘い、パジョンを店名に掲げるどの食堂のものよりも美味いと断言できるほどの出来栄えであった。

現在、健康に良い献立にこだわるようになった妻には、
「あのときのパジョンを作って」と懇願しても暖簾に腕押しである。
幻のメニューとなってしまった海鮮パジョンの復活が待たれる。

熟成三枚肉

焼肉の本場である韓国であっても、国産牛の焼肉を食べるには相当の出費を覚悟しなければならない。
ところが、豚肉となると話は別である。
サンギョプサル(三枚肉)と呼ばれる豚バラの焼肉は財布にも優しく、肉汁と脂が多い分だけ野菜で巻いて食べるときに美味さが増幅するのである。

大学の近辺には食べ放題や炭火焼き等の店が目白押しであるが、今日は地下鉄東来駅まで足を伸ばしてみた。同伴するのは釜山旅行中の小学校以来の友人家族である。

その店は一階と二階合せて約400席の収容人数を備えるが、その人気ゆえか、平日の夕方でも順番待ちの整理券を渡された。何度か利用しているが、それだけ多くのお客を呼び寄せる魅力がこの店にはあるのである。

ゆったりと座れる6人用のテーブルにガスコンロが内蔵された鉄板が設置されている。
注文した肉は、肉屋の店頭で並んでいるような大きな薄紅色の塊である。
脂がのっていていかにも美味そうな肉を店員が鉄板の温度を専用のセンサーで測った後、投下する。肉が焼ける音を聞くだけでも幸せな気持ちになる。
そして、片面が焼けた丁度よい時間に店員がやってきて、肉を返すのである。

脱線するが、サンギョプサルは焼き方が重要である。
ほとんど全ての店はその「焼き」工程を客に委ねるが、この店は例外的に焼きの全工程を訓練された店員が行っているのである。しかも、出される肉は熟成された一人前千円相当の高級豚肉である。

両面を焼いた後、鋏で一口大に切った肉を円形の鉄板上に配置した模様も、また美しい。
あとは、肉の切り口の赤身がキツネ色に変わるのを待つのみである。

この店が素晴らしいのは、余計なおかずを置かないことである。
肉をより美味しく味わうための、サンチュ、ゴマの葉、オキアミ、高級そうな塩、各種の酢物のみが付け出しとして出てくる。

やはり、一口目は肉そのものの味を堪能するべく塩で食べたい。
二口目は鉄板で焼いたオキアミが良い。というか、最高に美味い。
三口目は酢物で巻きたい。とにかく、準備された添え物を複数用いたあらゆる組合せが楽しめるのである。

「何、これ、うますぎ」とは同伴者達の言である。
これだけで足りるはずもなく、熟成首肩肉4人前を追加し、完食した後、韓国ソーメンで締めとなった。

雪氷

「今まで食べた甘いもので一番美味しかったものは?」と聞かれた時、真っ先に頭に浮かぶのが、きな粉雪氷(ソルビン)である。

あれは灼熱の太陽が照りつける夏の日だった。
妻の実家の近所で数学の研究をする場所を探して歩くこと数分、眼前に新装の韓国伝統茶菓子店が現れた。涼を得るために入ったが、珈琲一杯の価格もやや高めである。
致し方ない。最も安い珈琲を注文し席に着いた。

しばらくして、妻からの携帯電話が届く。
「そっちに上の子二人を送るから。勉強させてね」
待つこと十数分、汗だくになった長男と次男、だけでなく、妻と長女が三男を乳母車に乗せてやってきた。

その当時、妻は節約の鬼であった。
風呂の残り水を洗濯に用いて水道料金が5千ウォン下がった、と言っては喜ぶほどの入れ込みようだった。

しかし、ここは決して安くないカフェである。
一人一品注文するというのはマナーではないのか?
そんな散財を妻が許すはずがない、と恐れおののいていたが、意外や意外、その日の妻は太っ腹であった。
「雪氷を二杯注文して分ければいいんじゃない?」
「一杯8千ウォンで高いけど、今日は特別に、と言うことで」

出てきたのは、最も安いきな粉雪氷とブルーベリー雪氷であった。

雪氷とは牛乳を凍らせたものを細かい粒子にしたもので、匙を入れると新雪を踏み抜くような感触がある。まぶされているのは大量のきな粉であるが、決して侮ってはならない。
この両者が合わさると眉が吊り上るほどの美味しさなのである。
そして、ブルーベリーの脇に隠れたチーズも見逃してはならない。
チーズのほのかな塩味が全体の甘みを引き立てて、非常に高尚な味に仕上がっているのである。どんぶりに山盛りになった雪氷は六人の体に瞬く間に吸い込まれていき、久しぶりに贅沢をした満足感だけが残った。

後期:この雪氷体験は主観のみではないようだ。
ロシアや日本からの客人に雪氷を紹介した所、絶賛の嵐であった。

純豆腐

即席ラーメンのスープを美味しいと胸を張って言える人がどれだけいるだろうか?
「化学調味料がたっぷり入っているスープを飲み干すなんて味覚が狂っているとしか思えない」と非難されるのがオチではないだろうか?

釜山カトリック大の近所にある純豆腐(スントゥブ)専門店に来ている。
学期中は学生で賑わい、席がないこともしばしばであるが、今日は遅めに来たせいか空席が多い。

数あるメニューの中でのお勧めは肉入り純豆腐である。
野菜が敷かれたお椀にご飯を投下、目玉焼きを載せた後、ぐつぐつと煮立った純豆腐の小鍋から真っ赤なスープと豆腐と肉を御飯の上にまぶす。
スープの旨味を吸い切った御飯がおいしい。
この感動に飽き足らず、ご飯を匙で掬い、スープに浸して食べると更においしい。
ほとぼりが冷めたスープだけを飲んでも尚おいしい。

俺はこのスープがとんでもなく美味だと思うのだが、
その味を冷静に分析してみると前述のラーメンのスープを食した時の味わいと酷似しているのである。しかし、化学調味料のべったり感はなく、厨房の様子からも丹精込めて作られた秘伝の品であることが伺い知れる。

このスープの旨味が化学調味料によるものと仮定した場合、
失望して「こんなものは食えん」と言ってしまうかと言ったら、そんなこともないだろう。

「美味い物は美味い」そう堂々と言える人に、俺はなりたい。

穴子の白焼き

日本に少なく韓国に多いものの一つが穴子の専門店である。
鰻の価格が高騰している昨今、ほぼ半額で提供される穴子は庶民にとっては有難い存在である。
しかも、白焼きと聞けば、高級感さえ漂ってきそうではないか。

出てきた穴子の背は美しい光沢を放ち、腹は照明からの光を反射する純白である。

炭火の上には中央が割れた鉄板が設置されている。
均等に割かれた穴子は全面後面側面の返しの後、芳ばしい焼き色で彩られる。

鰻よりも脂身がない分、韓国にいながらも和食を味わっているような気分になる。
細かく刻んだ生姜を載せて醤油に漬けて食すのもよし、
玉葱の漬物で包んで山葵を付けるのもよし、
穴子の生命力を譲り受けるような厳かな気持ちで完食した。

オムライス

「お父さん、早く来て」と呼ばれて食卓につくと、一皿のオムライスが準備されていた。
色といい形といい、非の打ちどころのない美しさだ。

「すごいね。どうやったらこんなに綺麗に焼けるの?」と聞くと、
妻が「弱火でやれば簡単よ」と答える。
心の中で考えを巡らす。
「強火で短時間で焼くとふんわりとろとろの食感が得られると妄信し、技術の無さと相まって、焼きムラがある卵料理しか作れなかった俺である。ここは潔く敗北を認めるしかあるまい」

目の前にあるのはケチャップという絵の具を待っている黄色いキャンパスであり、その内部には入念に下ごしらえされた、単独で食べても美味しいに違いない、焼き飯が潜んでいるのだ。

「ソースを作ればよかったんだけどね」と妻は言うが、とんでもない。
某大国の大統領ではないけれど、このオムライスにはケチャップが最も合うと思うのだ。
ここまで言い切ったついでに
「ケチャップって美味しくないですか?」
「なんか過小評価してませんか?」
と皆に問いたい。

妻はいつものように家族の人数よりも一個少ない5個のオムライスを作る。
でも今回のオムライスはあまりにも美味しすぎたのか、三男が妻と一緒に食べるはずだった5個目のオムライスを残さずに全部食べてしまった。

豚背肉煮込み鍋

幼い頃、シジミ汁を食べた時、「あんな小さい貝のどこが美味しいのか?」と疑問に思った覚えがある。

豚骨にこびり付いた肉を煮込んだ、このカムジャタンと呼ばれる料理を初めて食べた時も似たような感想を抱いた。

しかし、いつの日か、
シジミそのものではなく、シジミから出る出し汁、
豚肉そのものではなく、豚骨から出る出し汁が、
料理の主役であるという事実に辿り着いたのだ。

やや辛めのスープと御飯はよく合う。残り汁にうどん等の麺類を追加するのもよい。

この日は家族総出で久しぶりの外食だった。
「何を食べるか子供会議で決定してくれ」と言うと、満場一致で議決された案がカムジャタンであった。

この店の鍋は異様にでかい。鍋からの飛沫を気にする必要がないほど深く、追加を申し出る必要もないほど大量のスープが鍋を満たしている。沸騰するまでに時間を要したが、この時間こそがジャガイモ、青菜等の野菜と豚肉との融和を促すのである。

大量の豚肉を長時間煮込んでスープを作る工程があるために一から十まで家で作るのは難しい、とは妻の弁である。

24時間営業していることも少なくないが、この食堂は午後9時半に閉店するとのこと、せかされる形で最後の注文である御飯のお代わり人数分を頼んだ。

家族諸君、糖分の摂り過ぎには注意しような。

生野菜サラダ

妻の情報源が何処なのか定かではないが、
ある日「健康には生野菜がいいのよ」と言い出して以来、
我が家の食卓には緑と赤がまぶしい生野菜サラダが頻繁に出てくる。

当初は、蛋白質の削減が政策に盛り込まれていたため、
長男と次男が抵抗勢力として立ちはだかり、野菜が出てくる度に
不満たらたらであったが、最近は風向きが変わりつつある。

その理由の一つが、肉、魚、牛乳、卵を食卓から頑なに排除していた妻が方針を変え、融和政策に舵を切ったこと。

もう一つの理由が、胡麻ダレの導入である。
すり鉢に胡麻を入れ粉状に潰すのは三男の役目だ。
そこに、マヨネーズ、レモン汁、胡麻油、天然蜂蜜が添加され、十分に混ぜ合わせた後に完成する。
その配合の割合は秘伝とのことだ。

市販の胡麻ダレでも十分美味しいのだけど、妻が作る自家製胡麻ダレはまた別格なのである。

今日の夕食も、青梗菜、レタス、カイワレ、プチトマトがてんこ盛りの野菜サラダが出てきたが、普段は野菜を食べない次男が小皿に大盛で食べる、食べる。
私も野菜サラダのおかわりを繰り返し、胡麻ダレがオカズになるが如く、玄米の御飯が進む、進む。

かくして、我が家の食卓にはかつての平和と繁栄がもたらされたのである。

雑菜

妻の得意料理の一つが、玉葱、人参、ほうれん草、椎茸、肉の各々を調理し、錦糸卵と春雨を炒めて混ぜて作る、雑菜(チャプチェ)である。

しかし、このところスランプが続いていた。
妻曰く、
「春雨の仕上がりがうまくいかない」
「以前と同じ会社のものを使っているのにどうしてだろう?」だそうだ。
食べてみると確かに、春雨の食感がボソボソで、料理全体として重くなっているのである。

今日は遠方に引っ越していった三男の公園友達が遊びに来る日で、妻はその子とそのお母さんをもてなそうと早起きして、材料の下準備をしていた。

果たしてその出来は如何に?

スランプの原因は春雨を炒めるときの油だったようだ。
油の使用量を減らそうとした結果、春雨が高温で調理され、繊維が崩れてしまったらしい。

見るからに弾力がある春雨に野菜を絡め、口に入れる。
「あー、これだ。これ。すごく、うまいよ」
手間暇かけただけあって、各々の食材が存在感を放ち、且つ、足並みを揃えているのだ。
過去一年の中で、最高の出来だったと思う。

生野菜カレー

今日の夕食はカレーだった。
雑穀米の脇に盛られたカレーは水分が少なく見るからに辛そうだ。
その上には細かく刻まれた赤と黄色のパプリカの粒が乗っている。
妻はボウルから一口大に刻んだ包み菜(サンチュ)と貝割れ大根を取り出し、それをカレー皿の上に振りかけた。妻曰く、
「ビビンパプみたいに混ぜて食べるとおいしいかもよ」

俺はカレーは混ぜないで食べる派だったのだが、「いや混ぜないで食べるよ」と言い終わる前に攪拌作業が始まってしまい、妻の軍門に下ることになった。

「まあ、ビビンパプも混ぜて食べているし、カレーも混ぜて食べた方が美味しいと言う専門家もいることだし、物は試しということで食してみよう」と心の整理をした後に一口目を頬張る。

「うわあ、何これ。すげえ、うまいんだけど」
生野菜とカレーが実によく合うのである。
パプリカの歯応えも良い利かしになっている。
口の中で牛肉の細切れを発見した時にも舌が踊るのだ。
雑穀米の見た目は赤飯のような色なのでカレーと混ぜても違和感がないな。
(白米だと純白が汚されるような気がするんだな)

当然のようにお代わりをする。
妻の創作料理に刺激されたこともあり、混ぜない派のささやかな抵抗を試みた。
「今度は野菜とカレーだけを混ぜてご飯はそのままにして食べてみるよ」

カレーの辛さが直に伝わり、その後にご飯が来てほっと一息、このような伝統的なカレーの味わい方も楽しめた。二杯目でお腹が膨れているのにもかかわらず、豪快に平らげる。食後の水もまた美味し。

韓国式手打ち麺

小麦粉を手で打って包丁で切って麺にすることからカルグクスと呼ばれている(カルは包丁、グクスは麺)。麺は大きさが不揃いで、アサリや卵等の具材の盛り付けにはあまり気を使ってない様子なので、麺類としての品格が高そうには見えない。味は店ごとに評価が分かれるが、総じて美味い。キムチとの相性が抜群なので、熱々のカルグクスを冷ますために序盤でキムチが投下されることが多い、というか、俺はいつもそうしている。アサリがたっぷり入った海鮮カルグクスが一押しであるが、胡麻の粉入りも捨てがたい。

今日は学校の帰りが遅い長男を除く5人で、外食を誉めることがめったにない妻でさえ認める専門店に行ってきた。海鮮類無しなので値段も安く味も折り紙付きの老舗である。
どこにでもある標準的な概観で特筆すべき材料がはいっているわけではない。ただ人々がカルグクスに対して抱く味の分布のど真ん中の王道を走っているという趣なのだ。

今回も汁まで飲み干し、5人分の食器を重ね合わせ、女将に挨拶をした後、帰途についた。

わかめ汁

「アメリカの病院で出産後に最初に出てくる料理がサンドイッチだった」と韓国で言うと笑い話になるそうだ。なぜかというと、韓国では天変地異が起こらない限り、ミヨクグクと呼ばれるわかめ汁が出てくるからである。そのため、子供の誕生日には母親がわかめ汁を作ることが定番で、その子の誕生を祝うと共に、出産で痛みに耐えたことを思い出し、その子にも感謝の気持ちを持ってもらおうと言うメッセージが込められているとのことだ。そんな特別な日のわかめ汁には国産牛の小間切れが具材として含まれたりして、高級料理に早変わりする。
普段はアサリやカレイなどの海産物やスイトンが具材として登場するが、具材無しの日も多い。そしてよく煮込んだ二日目の方が美味しい。

今日は一泊二日の家族旅行の最終日、自宅に到着した後、妻が移動で疲れているのにも関わらず、長時間運転していた俺を労おうとわかめ汁を用意してくれた。こういう時はキムチと御飯をわかめ汁に入れて雑炊のように食べるに限る。牛丼やカツ丼のようにガシガシと豪快にかきこむと力が湧いてくるような気がするし、満福感で質の高い昼寝が出来そうな気がするからだ。

わかめ汁に限らず、妻は出汁を取るのが非常に上手く、煮だしの時間や順番を熟知している。それこそが妻の調理技術の源泉であり、盗もうとしても盗めない技術なのである。

韓国式ソーメン

麺は日本のものと大差はない。熱いスープが定番で、錦糸卵や刻んだキムチ、玉葱、人参等が具材ではいる。塩加減は各自がニンニク醤油ダレの量を調整して合せる。

これを食べるたびに日本の冷やしソーメンが恋しくなるのだが、意外なことに韓国ではその存在さえ知られてないのだ。妻に頼めば作ってもらえるのだが、夏はとうに過ぎてしまったのが悔やまれる。

サンドイッチ

祝日の朝だというのに騒々しい。
買い物に行ってきた妻が開口一番
「あー、マヨネーズを買い忘れた。誰か買いに行ってきて」
こんな時は消去法で次男が行くことになる。
「何でいつも俺が行かなきゃならないの」と言いつつも行ってくれるのが次男の良い所である。

家族6人分の胃袋をみたすためには12枚入りの食パン2斤が必要になる。食卓には、真っ赤なスライストマト、新鮮なレタス、殻に入ったままのゆで卵6個、長男が調理したベーコン、三男が好きなスライスチーズ、買ってきたばかりの特大サイズのマヨネーズ、果汁100%のオレンジジュース、開封してない牛乳パックが所狭しと立ち並んでいる。

長男が夕食を高校の給食で済ませて夜遅く帰宅するため、6人が食卓に座る回数がめっきり少なくなった。今日の朝食で、「久しぶり6人が揃ったなあ」と感じるのがその証拠であろう。

いつものように妻が「今日も勉強しないで遊びに行くの?」と長男と次男を牽制して不穏な空気が流れるが、目の前の食べ物に夢中になっているせいで、彼らは意に介さず、妻の目も笑っている。

各自が好きな材料を選んでサンドイッチを作るが、俺の分は妻が作ってくれる。耳付きの食パンに薄くマヨネーズを塗り、レタス、ベーコン、チーズ、トマト、薄く切ったゆで卵を乗せ、別の食パンで挟み、形を整える。それを両手でつかみ、かぶりつく。

朝から美味しいものを食べると元気が出るし、時間を有効に使おうという気運が芽生えるものだ。

食後、散っていった子供たちを呼び出す。
「おーい、一緒に片付けよう。お母さんを手伝わなきゃ」
人手が多いと片付けるのもあっという間である。最後に長女が食卓を拭き、妻は紅茶,俺は珈琲、を嗜む至福の時間を味わった。

LA風海苔巻き

普通の手巻き寿司であるが、我が家の場合は具材が異なる。

海苔は味付けがされてない海苔巻き用のものを用いる。
パプリカ、キャベツ、キュウリ等の野菜を多く摂取するための料理らしい。
錦糸卵、カニカマが別の皿に盛られている。
最大の特徴は、ツナ缶の中身を玉葱とマヨネーズで和え、ソース兼具材として用いることである。

基本的に鮪と御飯とマヨネーズは相性が良いので、美味いのは火を見るよりも明らかである。

簡単に作れるし、子供にも好評なので我が家では少なくとも月に二回は出てくる料理である。

「なぜLA風と呼ばれるのか?」
我が家でそれを知っているのは妻のみである。

とある西洋料理店

地下鉄明倫洞駅のロッテ百貨店の裏側にひしめく飲食店街の一角に贔屓にしている西洋料理店がある。今日は浦項工科大学に在籍していたという共通項を持つ3人での夕食会だ。

いつものように予算の上限を告げてメニューを作ってもらう。

今回は三人ともアルコールを飲めないのでグレープフルーツジュースで乾杯する。

一品目、小さめのグラスに入ったパンプキンスープ。
ほのかな甘みが舌を鋭敏にする。店の格を知らしめると同時に次の料理への期待を高めるという前菜の役割を完璧に果たす。

二品目、シーザーサラダ。
野菜への敬意が感じられる一品、自身の個性を殺しつつ野菜を生かすドレッシングとモッツァレラチーズのアクセントの組み合わせは至高である。

三品目、クリームシチューと一口大のトースト。
チーズフォンデュのように食する。この料理を延々と食べていたいと思う程の普遍的な美味しさを誇る。

四品目、蛸のカルパッチョ。
輪切りにされたプチトマトの円内にオリーブオイルが絡まった蛸の切り身が盛り付けられている。こんな上品で奥ゆかしいカルパッチョは本場ヨーロッパでも味わえない、と思う。

五品目、ホタテの煮込み。
ホタテが柔らかく、切り口から旨味がしみ出してくる。米を煮込んで作ったソースとの相性も良い。

六品目、ロブスターステーキ。
肉厚のロブスターにどのソースを絡めるべきかと言う贅沢な悩みが生じる。

七品目、羊肉の骨付き肉。
焼きと塩加減が完璧である。調理によって羊肉は牛肉を超え得る。

この店を初めて訪れる二人の同伴者は「すごくおいしい」と目を丸くしていた。会計は俺、大切な友人がこれだけ喜んでくれるのなら総額13万5千ウォンは安いものである。

オンシミ蕎麦

今日は数学科の同僚6人と連れ立って昼飯を食べに行った。行き先は韓国風蕎麦専門店だ。そば粉で打った麺にオンシミと呼ばれる澱粉団子が入っているのだが、口に入れると他のオンシミを凝視してしまう程の美味しさなのである。その食感は弾力があり、ニョッキと似ているが、よりさっぱりした味わいである。この料理では蕎麦はむしろ脇役で、オンシミを食するための繋ぎの役割に徹しているかのようだ。

ちなみにこのメニューを見たのはこの食堂が初めてだし、私が知り得る範囲でオンシミが味わえる唯一の食堂である。この間、妻と一緒にオンシミ蕎麦を味わったので、家庭で再現してくれないかと秘かに期待している。

ヨーグルト

地下鉄土城駅の近所を散策する。大学病院の近くだから休息するのに適当なカフェがあるはずだと歩いてみるが、それらしき建物は一向に現れない。
「おかしいなあ。方向を間違えたか?」と踵を返そうとする時に目に入ったのが、「ヨーグルトとチャイ」と韓国語で書かれた看板だった。
小さいテイクアウト用の出窓から店内を覗くと座席があり、客は一人も居なかった。

ここで葛藤が生じる。実はヨーグルトは苦手な食べ物の一つなのである。昔は食べず嫌いだったが、知らずに食べた経験が重なって、一部のヨーグルト製品は美味しく味わえるようになった。しかし未だに市販のヤクルトやヨーグルト飲料には手が付けれない。

その経験のうちの二つを開陳する。

ドイツの知人宅で朝食時にヨーグルトが出てきて、食べざるを得ない状況で食した結果、「あれ?思っていたより甘くも酸っぱくもなく、もしかして美味しいんじゃないの?」という境地に辿り着いた。

もう一つは我が家で製造された自家製ヨーグルトである。泡立ったヨーグルトの上にブルーベリーと蜂蜜が盛り付けられていた。妻は健康に良いからという理由で嫌がる俺に食べることを強制した。この時は蜂蜜の甘さが功を奏したのか、抵抗なく食することができた。

紅茶だけを注文すべきか、ヨーグルトに再挑戦して見るか、の葛藤の後、「やらずに後悔するよりはやって後悔せよ」という使い古された常套句が頭に浮かび、 ブルーベリー、アーモンド入りヨーグルトを注文した。価格は4千ウォンである。

出てきた皿を見てびっくり、冷凍ではなく生でしかも粒が大きいブルーベリーがお皿の半分に盛られていた。残りの半分はアーモンドである。 一口食べてまた驚く。
「何だ、これ美味いんじゃないの?」 かくして苦手な食べ物をまた一つ克服したのである。

韓国刺身

雲一つない秋晴れの下、天然芝のサッカー場に足を踏み入れた。
今日は全国教授蹴球大会の初日で、4チームによる予選リーグが行われる。一試合15分ハーフの競技を三試合こなす強行軍である。我が釜山大蹴球会は高齢化が進み、12人集まったメンバーの大半は50代後半で、40代以下は一人だけと言う状態だ。

俺は妻と下の子二人を連れて応援だ。久しぶりに現れたため、握手攻めにあった。ピッチ内ではこれでもかと言うくらい心を通わせた戦友達の雄姿をこの目に焼き付けるためにやってきたのだが、すでに二敗して予選敗退が決まり、最後の試合も相手チームの人数不足により、学生を交えた親善試合になるとのことだ。

声を枯らして応援するも、短縮された20分の競技はスコアレスで幕を閉じた。

当初の予定ではサウナで汗を流し、打ち上げに行く予定だったが、サウナは止めて、打ち上げ会場にに直行することになる。場所は機長郡の美しい海岸沿いの海鮮食堂である。二階席からは真っ青の海と空が一望でき、思わずため息が漏れる。

こんな美しい場所が商業化されてないのは奇跡に近いことである。いや、この程度の風景は釜山近郊では何処にでもあるという証左なのかもしれない。

座席に着くと早速前菜が運ばれてきた。蛸の活き作り、煮干しと野菜のコチュジャン和え、ホヤ、アワビ、ワカメ汁、ネギ焼き、落花生豆腐が所狭しと並べられる。

胡麻油をまとった蛸を口に入れると、吸盤が口内に吸い付く。よく噛まないで飲み込むとのどに吸い付いてえらいことになるらしい。煮干しがこの料理に入るのは珍しいがコチュジャンでしっとりと潤った煮干しが物凄く美味しかった。他テーブルではお代わりの声が上がった。ホヤやアワビも新鮮で、高級食材であることを失念してしまう程の量が出てくる。ネギ焼きもほんのり甘く、刺身盛りが来る前に沢山食べて満腹になってはならないという自制心を簡単に崩壊させる。落花生豆腐もまたしかり、添えてある野菜がまた新鮮だった。

お酒が出てきて乾杯が繰り返されいい雰囲気になってきた所で、刺身盛りが登場する。韓国語ではフェというのだが、血を抜き熟成させる日本の刺身とは異なり、韓国では活き作りが主流である。日本では割り当てられた一人一切れを惜しむように味わうが、韓国のフェはとにかく量が多いので、そのまま食べるもよし、野菜で包むもよし、ワサビ醤油、コチュジャン、ニンニクが乗ったサムチャンの三種類の調味料を組み合わせて、2の3乗=8通りの味わいが楽しめるのである。
ヒラメやタイ、日本では高級魚と化しているイワシの身は歯ごたえがあり、小学5年生でしかない娘に「美味しい」と言わせるほどであった。

宴もたけなわ、内臓を煮込んでキツネ色になったアワビ粥が運ばれる。満福でこれ以上は食えないと思い、放置していたが、一口食べてその旨さに感服しているうちに平らげてしまった。

とどめはメウンタンと呼ばれる身が少ない魚を一匹用いて出汁を取り、唐辛子で真っ赤に染まった鍋だ。ただ辛いだけのメウンタンは何度も食べたが、この店は辛くて美味く、N回口に入れると、N+1回目を口に入れたくなる程の中毒性がある。

締めのデザートはミカンである。この店の概念を損なわい一貫性のある選択は清々しく、口の中もまたしかりである。

惜しむらくは食べ物に夢中で久しぶりに会った戦友達と言葉を交わせなかったこと。それでもいい。俺たちはピッチの上で幾万の言葉でも語りつくせいない何かを共有してきたんだ。何かを語ってもそれ以上のものが得られるはずもない。

骨付き肉鍋

今日は三男の運動会だった。野外用の折り畳み椅子に腰かけ日光浴をしながら、三男の徒競走に目を凝らす。しかし、スマホを手に持った父兄達が幼稚園児の走行レーンを取り囲むので何も見えない。頼みの綱の妻の撮影した動画も操作ミスで映ってなかった。

全種目が終了したのは午後1時、会場である小学校の真横に位置する自宅のアパートに移動する。妻曰く「知り合いの父兄家族で何処かに食べに行くみたいだから、家で待ってて」

待つこと30分、妻が大きなビニール袋を自宅のテーブルに置いた。中にあるのは、骨付き肉が入ったカルビタンと呼ばれるスープ料理だった。特筆すべきは骨と肉の大きさである。韓国生活も19年目であるがこのサイズを見るのは初めてである。

肉を骨から分離するときに手が汚れるのが難点であるが、肉の味わいもさることながら、スープが実に美味で、野外で冷え切った体が十分に温まった。

妻はと言うと、カルビタンを俺と長女に出前した後、三男と他の父兄が待つ食堂に戻っていった。いつも苦労かけてすまないなあ。

唐辛子雑菜

妻の得意技が炸裂した。
「この間、大学の近くの中華料理屋に案内されたんだけど、そこで食べた料理を再現してみたよ。でもレシピがあるわけじゃないから美味しいどうか不安なんだけど」

出てきたのは唐辛子と鶏の胸肉と椎茸をカキソースで炒めた大皿と市販のパオ(中華風パン)が8個だ。ハンバーガーのように具材をパオに詰め込み味わってみる。

「おそるべし。店で食べるより美味しいじゃないか」とは口にせず、心の中で舌を巻く。子供にも大人気でパオは追加で出てきて、大皿の残り汁さえもパオに吸われて綺麗になくなった。

白米御飯

健康のためにと言う理由で、通常は玄米か豆入りの御飯を食べている。

時は1980年代、少年ジャンプに連載されていた『リングにかけろ』というボクシング漫画で、主人公の高嶺竜児が両腕にパワーリストと呼ばれる鉛が入った重りを付けて鍛錬を積んでいた。

そのことと今の俺の玄米生活が重なった。今日の夕食に出てきたのは、鍋で炊いた眩しいばかりの白米だった。食欲の秋、しかも、新米と来れば、その美味しさは推して知るべきであろう。

件の高嶺竜児はパワーリストを外した時の自らのパンチの斬れに驚きとも怖れとも言える感情を吐露する。

家の外では白米を食べる機会もあるので、やや誇張が入るが、今日の夕食で味わった白米は玄米と言う重しを外した後の「なんて美味いんだ」という恍惚感を感じるには十分すぎるほどの美味しさであった。おかずはフライパンで炒めた焼肉で。タレは日本製の「焼肉のタレ」である。

常々、赤身を楽しむ韓国の焼肉を日本のタレに付けて食べたらどんなに美味しいのだろうか、と思っていたが、その願望が実現した瞬間であった。

「やっぱり、白米は美味いなあ」と言うと、妻から小言が返ってきそうなので無表情、無言で通した晩餐であった。

揚げ豆腐

大学からの帰りの車中で妻が言った。
「今日の夕御飯はありあわせでいいかな?明日の発表の準備がまだ終わってないんだ」
「もちろん、今日は他の家事はしなくていいから勉強しなよ」
30分後、食卓に出てきたのは揚げ豆腐であった。

長方形に切られた豆腐の表面がフライパンで少量の油と共に揚げられ新たな境界を形作っている。唐辛子入りの醤油を匙で掬い、揚げ豆腐の表面にまぶす。箸に載っている時の反り具合と弾力感がまた食欲をそそる。一口食べると、ほのかな塩味で驚くほどの美味しさであるし、御飯とも合う。あまりにも美味しそうに食べたので、その美味しさが子供たちの知る所となり、一人当たりの分量が減ってしまったのが悔やまれる点である。

後記:妻の名誉のために書き足しておく。この日のオカズは揚げ豆腐のみではなく、サンチュ、タッケジャンと呼ばれる鶏肉入りピリ辛スープも食卓に並んだ。

白菜漬け

玄関には白い発泡スチロールの箱が置かれている。
そうかついにやってきたか。

韓国では11月の中旬から下旬にかけて旬の白菜を漬物にするキムジャンと呼ばれる習慣がある。ちなみにこの時期の白菜は見た目の美しさもさることながら、そのまま食べてもシャキシャキとした歯ごたえで非常に美味なのである。キムチとは白菜漬けのみならずあらゆる種類の漬物の総称なのだが、唐辛子で赤く染まった白菜漬けはキムチの代表格であり、韓国の家庭の食卓には不可欠な存在として君臨しているのである。

その味付けは地域差がある。釜山地域のキムチは、イカや小エビ等の海産物で作った薬味を利かせる濃厚な味わいが特徴である。一方でソウル周辺ではより淡白な味付けが好まれるらしい。

冒頭に出てきた白い箱の送り主は浦項市に住む義父である。毎年この時期になると義母が漬けたばかりのキムチを送ってくれるのである。韓国に18年滞在しありとあらゆるキムチを食してきたが、義母が漬けるキムチは他を圧倒して美味いと断言できる。塩やチョッカルと呼ばれる薬味と赤唐辛子の粉を白菜にまぶして作るのだが、その工程の中の微妙な違いが厳然たる味の格差を産み出してしまうのだろう。ちなみに義母が作るキムチは長崎に住む母にも郵送される。母曰く、自分が食べる分を確保するのが困難な程、お裾分けをねだる周囲の声が高まっているとのことだ。

当然のごとく、今日の食卓には到着したばかりのキムチが並んでいる。緑色の葉の部分で熱々の御飯を巻き頬張る。このキムチと御飯の逢瀬の感動を何と形容すべきだろうか、そしてオカズである茹で豚肉との相性も抜群である。白菜の根元に近い部分の歯応えもまた良い。日数が経ってもこの歯応えそのままで発酵と言う名の熟成を遂げるのである。

極め付きは、一週間以内に食べることを前提として、多数の生牡蠣が白菜漬けの中に忍んでいるのである。今日は残念ながら別のビニール袋を開封してしまい、生牡蠣にはお目に罹れなかった。だが、想像してほしい。旨味成分の塊である生牡蠣が白菜の発酵と共に複雑かつ濃厚な味わいを紡ぎあげて行くのだ。期間限定のこの一品を皆さんにお裾分けできないのは残念極まりない。

豆腐団子

小さく刻んだ海老、ネギ、豆腐、卵、てんぷら粉を混ぜ合わせ団子にしてフライパンで炒める。これは妻の得意料理の一つでプッチンゲと呼ばれる。

今日はイスラエル、ロシア、スロバキアからの客人を我が家に招いた夕食会だった。第一品目の前菜として出されたプッチンゲは、箸を扱うのが初めてだと言うスロバキア人の口に運ばれる。
「これは実にテイスティーだ」と目を丸くして驚くのを見て、ロシア人も箸を伸ばす。普段は鉄面皮を崩さないロシア人の顔がほころぶ。続いたイスラエル人も「ワーオ」と満足の表情だ。

かく言う私も食べてみて驚いた。控えめの塩加減で味付けされたプッチンゲは結婚して以来最高とも言える出来映えだったからだ。焼き加減、表面の香ばしさ、食べた時の食感、全てにおいて最高水準に達していた。

この後、牛肉と茸のタレ焼き、塩焼き、生野菜サラダ、御飯、韓国風味噌汁が出てくるのだが、私的見解では前菜に美味しい所を持っていかれた印象である。

しゃぶしゃぶ

妻がしゃぶしゃぶ用の牛肉を買ってきた。
「豪州産だけど美味しそうだったから買ってきたよ」

食卓の上には持ち運び可能な電子コンロ、その上には水を張った鍋が置かれている。妻は、鍋が煮立ったところを見計らって、折りたたんだ乾燥昆布を、しばらくして、トビウオ節の粉末入りのパックを投入、味を見ながら二袋目のパックを投入、その脇には今が旬である白菜、ネギ、エノキダケ、春菊、豆腐、純白の韓国餅、椎茸、海老が美しく盛り付けられ、主人公である牛肉の赤身の包装が開封された。

薬味は酢醤油とチリソースである。鍋には白菜の一群が舞っている。我が家の鍋奉行は妻である。安全のためと言う理由で食卓の隅に置かれた鍋には他の誰も箸を入れることは出来ず、鍋奉行のみが食べごろの食材を各小皿に分配するのだ。

富の分配が独裁者に委ねられる制度であるが、この日に限っては不平不満が聞かれることがなかった。出し汁で一煮した白菜の旨いこと、旨いこと。野菜と肉が4対1の割合で鍋に入るので肉の有難味が増し、牛肉が絶妙の煮加減で引き揚げられるので牛肉の皴に酢醤油が絡み極上の味わいを生み出しているのである。

トッポギと呼ばれる円筒状の韓国餅は輪切りにされ、エノキダケ、椎茸と共に鍋の味わいの多様性に貢献している。

この日は酢醤油の出来が素晴らしく、チリソースは一度も使用することはなかった。6人で準備された食材を完食するという最適化さえ実現した晩餐であった。

アボガド

20年前、イスラエルでの生活を始めて間もない頃の話である。下宿している家は三階建てで、二階が共用の台所で俺は三階の小さな部屋を間借りしていた。女主人には三人の子供がいるが、上の二人は独立し、兵役生活を送る娘と女主人と内縁の関係であるノアがこの家に住んでいた。

ある日、大学から帰宅すると、ノアが一人で食事をしていた。食卓には小間切れにしたトマトとキュウリ、裁断されたバゲット、そして、真っ二つに切られ種が取り除かれたアボガドが乗っていた。ノアはよく熟れたアボガドをナイフでそぎ、バターのようにパンに塗っていた。わずか数秒の出来事だったが、そのアボガドを塗ったパンがとてつもなく美味しそうだったので、猛烈に真似してみたい衝動にかられた。

イスラエルのスーパーには金属探知機が設置されており、万全の安全対策でお客を迎えてくれる。イスラエルの物価はその当時の日本並みの高さであったが、生鮮食料品はその限りではなかった。3個で100円程のアボガドとバゲットを買い物かごに入れ、レジを抜け警備員に会釈をして下宿先に向かった。

アボガドをアボガドと認識して食べる初めての瞬間である。甘くも辛くもないアボガドであるがその独特の風味と食感はその時以来俺を魅了し続けることになった。

日本に帰ってからは、アボガド伝道師として家族や友人にアボガドの美味しさを紹介し続け、刺身のように切ったアボガドをワサビ醤油でいただくというアボガド賞味法の完成形に行き着いた。

先々週、出張で東京に行って来た。宿泊するホテルの裏口の真ん前には小さなイタリア料理店があり、その日のメニューを示す黒板には、「湯葉添えアボカド」と書いてある。

東京出張最終日の前日、12名の団体で予約を入れるが、席がないとの理由で断られる。しかし、最終日の夜、その料理店にはお客は一人もいなかった。一も二もなく、8名の団体客として店になだれ込み、念願の湯葉添えアボカドを前菜として注文した。

その味は俺の期待を寸分も裏切ることはなかった。何の工夫もなしに、アボガドの横にやや緑がかった湯葉が添えられているだけなのだが、その絶妙な食べ合せに舌鼓を打った。

恐るべしはアボガド、はたまた料理人であろうか、アボガド賞味法の最終形態を求める旅がまた始まった。

麻婆丼

「今日の夕食何にしようか?食べたいものがあったら何でも言って」
「久しぶりに麻婆豆腐を食べたいなあ」
「時間が掛かるから駄目よ。他のにして」
「・・・」

開いた口が塞がらないとはこの事だと埴輪顔でパソコンに向かい仕事を再開して一時間後、厨房から食欲をそそるいい匂いが流れてきた。

食卓に出てきたのは麻婆丼だ。ニンニクの細切りが餡の中に垣間見られる。挽肉と豆腐が絡まりあった餡からは湯気が上がっている。その下の御飯は保温されてない冷御飯だ。

何を隠そう、俺は幼少のころから仏壇に供えられた御飯に目がない重症の冷御飯マニアなのだ。炊き立ての熱々の御飯も良いが、冷御飯に熱々の麻婆豆腐が載せられお互いがお互いを高め合う関係に俺は美を見るのである。

今日の麻婆豆腐はトロミの加減が絶妙で御飯粒への浸透度も最適だった。後半のアクセントとしてキムチを載せて食べると旨さが増した。お代わり、そして三杯目を食べようとするとき、昼間に炊いた鍋の御飯が空になって打ち止めとなった。

Rosso Toscana 2016, Borgo Scopeto

「韓国料理に合うワインを紹介して」という要請を受けた酒屋の主人が選んだワインの銘柄が表題である。

数ある韓国料理の中で一体どの料理が頭に浮かび、どんな基準でワインが選ばれたのか、等の疑問は尽きないが、今宵の客人はその逸話と共に件のワインと名店から購入したケーキの詰め合わせの箱を手に提げて、我が家にやって来た。

食卓に並ぶのは、もやし、ほうれん草、ニンジン、タマネギを煮て、おひたしにしたものを円形に盛り付けた大皿が一つ、瑞々しいオーラにあふれた小エビ、鮭、イカ、タイの刺身盛り合わせである。

約束の時間よりも10分早い到着だったので、箸やグラスの準備がなされてない。妻が慌てて、おしぼり、箸置きを持ってくるが、肝心のものがないので、俺と客人はただ黙って座っているだけである。

相撲の立ち合いの間のように、旨いものを目の前にして待つ時間というのも悪くはない。その贅沢な時間を味わった後、濁り酒による乾杯が始まった。

次に出てきたのはホカホカと湯気の上がる海鮮ネギ焼きである。妻は慣れないフライパンで上手くできなかったと謙遜していたが、出し汁で溶いた小麦粉にイカとネギを絡ませて焼いた一品はなかなかの出来映えであった。

この晩餐の主菜として予告していたのが、タッカルビという鶏肉、タマネギ、ニンジン、韓国餅、唐辛子を煮込んだ料理である。この時を待ってましたとばかりにお土産のワインの栓が開けられた。

客人たちはタッカルビに舌鼓を打ち、ワインを口に入れた瞬間、眉が吊り上がり、お互いの顔を見合い、「これは恐ろしく相性がいい」と異口同音に語った。

俺はへそ曲がりなので、タッカルビには手を付けず、ワインを最初に口に含んだ。「何だろう。酸っぱさは抑え気味、奇抜な味わいは皆無で、唾液が誘発される感じ、そして無性に肉が食べたくなる」

恐るべきは酒屋の主人である。今までにも何度かお世話になり、「お酒の飲めない妻でも楽しめるワインを選んで」等の無理難題を押し付けてきたのだが、その選択が外れた試しはないのだ。

宴の締めは貝入りのワカメ汁と一粒一粒が光沢を放つ白米御飯だ。よく話し、よく食べ、よく飲み。よく笑った至福の時であった。

鰻丼

創業明治34年の老舗にやって来た。ここに着くまでの道のりは文字通り平坦でなく、ハンドルを持つ手が疲れるほど西海市の山道をグルグルと回り辿り着いたのだ。

お品書きには「鰻丼大、3450円」とある。20年近く海外生活をしていた俺には、この値段が何を意味するのか皆目見当がつかない。母曰く「ちゃんとした鰻専門店に行けば普通五千円は取られる」らしい。

そんな格付けに対する苦悩は注文した鰻丼を一口食べただけで吹っ飛んだ。山椒等の薬味が入っておらず、実に潔い、鰻の肉付と鮮度とタレの旨さのみで勝負する剛速球派の味わいなのだ。

通常であれば飽きが来る甘辛いタレであるが、この店に限っては最後の一口まで美味しさの感動が持続するほどであった。その前日まで消化不良であった妻に完食させ、「なんだか体が熱くなって力が漲ってくるみたい」と言わしめるとは、恐るべし名店の業である。

天丼

カツ丼は美味いと思う。しかし、油で揚げたサクサクの衣が煮汁と卵でシットリしてしまうのが残念でもあった。

牛丼も美味いと思う。しかし、某チェーン店の影響が強く、高級食材を扱っているのにもかかわらず高級な感じがしなかった。

鉄火丼も美味しいと思う。マグロと御飯と海苔とわさび醤油が合わされば美味しいに決まっている。しかし、値が張る割にはお腹が膨らまない。

天丼はこれまでの極私的丼番付の下位に位置していたため、生涯で注文した回数は10回以下だろう。

今日は、妻の「7年前に食べに行った店が非常に美味しかったのであんたにも食べさせたい」と言う誘いを受け、国道34号線沿いの天丼専門店に行って来た。店名はひらがな4文字である。白黒の看板は目立たないので、何度も通っているのにその存在に気付かなかった。

注文したのは海老魚天丼である。キツネ色に揚がった茄子、南瓜、薩摩芋の野菜類の上にキスと海老の天ぷらが盛り付けられている。天つゆの加減が絶妙で、天ぷらのサクサク観を損なわず、御飯との相性も抜群なのである。

あまりにも率直な表現であるが「非常に美味かった」としか言えない。

現在の俺において、天丼の番付は東の横綱である。

焼きそば

シーハットで開催された大村市福祉祭りの出店から妻が透明パック入りの焼きそばを買って来た。ところが、用意された自由席は他の家族連れで埋まっていた。仕方なくシーハットの建物沿いを歩くのだが、家族4人が座って食べるのに適当な場所はついぞ見つからず、一周して元の場所に戻って来た。

俺はビニール袋の中の焼きそばの状態が気になっていた。鉄板の上で熱々だった焼きそばは密封された容器の中で15分を経過して、ふやけ冷めてしまっているに違いないのだ。そんな俺の気持ちが伝わったかどうか定かではないが、折よく4人掛けのテーブルから立ち去ろうとする一団が目に入った。

着席し透明パックを開封すると、案の定、鰹節や青海苔は活力を失い、麺と野菜は窮屈そうに直方体をなしていて、全く期待できそうもない体たらくなのである。

しかし、一口食べてみると悪くない味だった。対面の長女と三男は既に「夢中で食べるモード」のスイッチが入っている状態で、貪るように麺をすすっている。二口目で味の解析を試みた。
「麺は極太でウスターソースを程よく吸い込んでいる。キャベツの火の通り加減も絶妙でほのかに甘い。少量のタマネギとニンジンも良い利かしになっている。それにしても、太麺が喉を伝わっていく食感は病みつきになるなあ」

焼きそば4箱はあっという間に空になり、お目当てであった演劇を観に移動しようとする道すがら、妻は焼きそばの出店に立ち寄り、
「どうやったらあんなに美味しく作れるんですか?」とあっけらかんと言った。店主は「企業秘密なんだけどなあ」と苦笑しながらも、
「焼きそばソースにウスターソースを加えて、最後に塩コショウを振ればいいよ」と教えてくれた。

以前にも書いたが、妻の特技は一度食べた料理を家庭で再現することなのだ。その日の夕食は当然の如く焼きそばで、海老入りで作り立ての焼きそばは7人家族の全員から称賛され、普段は野菜を避ける子供たちも一皿完食しておかわりを要求するほどの出来映えだった。

この日の焼きそばに鰹節と青海苔が入ってなかったのは今後の伸びしろという事らしい。

ゆでピー

殻付きの新鮮な落花生を塩茹ですると表題の品が完成する。実は、こんな何の変哲もない料理が大村市の名物として扱われているのだ。そのことを初めて知ったのは高校卒業後福岡で一人暮らしをするようになってからだ。他県というか大村市以外の人にとって落花生と言うのは煎ってカチカチになったもので、それを茹でるというのは味噌汁にトマトを入れるくらい奇想天外な事らしいのである。

幼い頃からゆでピーというのはおやつとして親しんできた。スナック菓子のような中毒性があり、一度口にしたらから一皿全部平らげることになり、その翌日はニキビが大量発生するのが常であった。

今日は買い物の途中で妻が大村市のとある名店に立ち寄り、一袋千円のゆでピーを購入して来た。一粒を味わってみて驚いた。豆に弾力があり噛み砕くとほのかな甘みが口の中に広がり実に美味しいのだ。しかし、何かが違う。俺が慣れ親しんだゆでピーはもっと粒が痩せていて塩水でふやけてゲル状になったもので、チープなB級テーストにあふれたものなのだ。こんな高級なものがゆでピーであってはならないのだ。

この論争に決着をつけるためには大村市の有権者全員が審査員となるゆでピー選手権を開催するしかないだろう。