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漫遊記

釜山市民公園

数年前までは米軍基地であったこの公園はとにかく広い。公園内で四方を見渡して先ず目に入るのは公園そのもので、その上空に広がるのは「空」である。

どこを見渡しても高層アパートしか見えない日常を送る身としてはそれだけでも別世界にいる感覚である。

東には雨雲、西には夕陽を浴びたウロコ雲が見える。公園内には丈の高い樹木が立ち並んでいる。その付近のベンチに腰掛け、空を仰ぐと、樹木の枝葉が茜色の空に影絵のように浮かび上がる様に目を奪われる。周囲に立ち並ぶ高層アパートも、この公園の中から見ると好ましく見える。この圧倒的な緑の空間が都会の真ん中に存在するという贅沢を知らしめてくれる役割を担っているからである。

帰り際、三男があらぬ方向に駆け出していった。ふり返ることなく走り続け、はるか遠方の人ごみに紛れそうになる。慌てた妻が長女を走らせる。彼は彼女に取れ戻された後、妻に大目玉を喰らっていたが、彼の走り出したくなる気持ちは痛いほどよくわかった。


五倫洞貯水池

市街地から高速道路下をくぐる通路を抜けると、貯水池の水質を維持するための条例で守られた緑地帯が広がる。
梅雨入りを実感させるあいにくの空模様であるが十分に潤った深緑の草木を眺めるのもまた一興である。

自宅から車で15分の距離にあるこの貯水池とはかれこれ十数年の付き合いになる。

車道の反対側まで枝葉を伸ばす桜のトンネル、
酷暑の中、週末農園での水撒き、
ススキ林をスリットにして見る対岸の風景、
厳寒期の凍り付いた湖面、
裸足で歩く黄土の散歩道、
小鳥やリスは定番で、鹿や狸に出くわしたこともある。
貯水池一周と最高峰登頂も達成した。

普段は「この前行ったばかりなのに、また貯水池なの?」というぞんざいな扱いをされている貯水池であるが、将来、子供達が独立した時、一同に会する場所はこの貯水池こそが相応しいのではないか、と思う。

済州島

韓国の人々にとって済州島とは想像しただけで心躍る自然豊かなリゾート地として認識されているようだ。釜山大に赴任した当時はその感覚がいまいち掴めなかったが、済州島に行く回数を重ねるに従って理解できるようになった。海や空気がきれいで、のんびりしていていかにも南国という雰囲気なんだけど、九州出身の自分には何も特別に思えなかったのがその理由だと思う。しかし、近年は観光開発が進み、テーマパークや豪華なホテルの建設が相次いでおり、
九州にはないゴージャスな景観が済州島のイメージを変えているのである。

備忘録として行ったことがある観光地を書き留めておきたい。

榧子林公園:ただ木が生えているだけの公園であるが庭園の造りがなんとも奥ゆかしいのである。案内してくれた知人に
「この公園の設計者の名前を調べる方法があるかな?」と尋ねて、公園の管理人にも電話して聞いてもらったのだが、結局、わからずじまいだった。

牛島:大学の研修旅行で行ったのだが、小さな島に大勢の人がたたずむ光景を山の頂上から見た時には戦艦の司令部にいるように感じた。

国際会議場:大韓数学会がサミットでも開けそうな豪華な会議場で開催された。周辺の溶岩が流れてできた岩の風景が圧巻である。

チェコ ピルセン

出張でビールで有名な街、ピルセンに滞在している。
二日目、夕食後、B教授夫妻とI教授と共にホテルに戻ろうとしていたその時、対面から若い大男とその連れの二人が歩いてきた。
I教授の手には食べきれなかったピザを詰めた折箱が。
その箱をめがけて、その大男は飛び蹴りをかましたのである。
あっけにとられていると、別の男が地面に落ちたピザの箱をI教授に手渡して去っていった。
一歩間違えば刑事事件、または乱闘になったかもしれない場面である。しかし、誰もが何も言わなかったことで、結果的に危機を回避できたわけである。

その夜、その出来事が頭にひっかかり眠れなかった。70歳前後の3人と持病のためまともに歩けない自分、事を荒立てないためというよりは、ビビッて何も言えなかったというのが真実ではなかろうか。

力無き正義は無力なり、という言葉が浮かんだ。

ピルセンビール工場見学

ピルスナーで名高いビール工場の見学ツアーに参加してきた。工場内では無数の瓶が消毒され、レーンに押し出されている。この烏合の衆がレーンを進むごとに整列され、一列となりビールが注がれるのである。こちらから見える範囲で、工員は一人のみである。ボタンを押すだけで巨万の富が生産されているのである。

ちなみにこのビール会社は朝日ビールに買収されたそうで、窓口には両ビールが並んで映っているポスターが飾ってあった。

一時間弱のツアーの最後に待っていたのは、気温9度に保たれた地下貯蔵庫の大きな樽から抽出する生ビール鑑賞会であった。

味は普通のビールと変わらなかったけど美味かったね。

松亭海水浴場

釜山はその地名とは裏腹に明らかに海の街である。東アジアの海運における拠点の一角となる港湾を有し、海岸沿いには漁村と海水浴場がひしめきあっている。海雲台は高級ホテルが林立する韓国を代表するリゾート地であるが、今回はその海雲台からバスで15分の距離に位置する松亭に来ている。

同伴者はウチの家族全員と研究室の大学院生達である。一年に一度の団体行動訓練合宿の会場として選定されたのだ。近くのペンションに荷物と食材を搬入し、入水可能な服装に着替えた後、ビーチに向かった。

砂浜の広さと人の多さに圧倒されるが、海雲台と異なり、繁忙期であっても20m四方の空間の確保が容易な所が松亭のいい所である。そしてその景観も海側だけ見れば海雲台に決して引けを取らない。

早速、訓練を始める。
その種目は20m先の旗を奪い合うバトルフラッグとフリスビーを用いたポートボールである。敗者は4人に手足を抑えられ海に放り投げられるという過酷なルールの下、激闘が繰り広げられた。

 「これは訓練なので決して楽しんではならない」と訓戒したにも関わらず、
俺を除く全員が満面の笑顔であったのが悔やまれる点であった。

当初の予定では男達だけが料理を準備し、女達はバルコニーで珈琲を片手に優雅なひと時を過ごすはずであったが、妻からの料理への駄目出しが入り、総動員の作業となった。

宴席には、
醤油に漬けた鶏肉を片栗粉でまぶし油で揚げる竜田揚げ、
牛肉と野菜を用いたミルフィーユ鍋、
モスリムのために特別に処理された鶏肉でパキスタンから取り寄せた米を煮込んだ料理、
炭火で焼いた肉と野菜、が所狭しと並んだ。

乾杯の前に
「今日は訓練の場だから決して白い歯は見せないように」と注意するものの、
従う者は皆無であった。
かくして、「指導教官の言うことを鵜呑みにしない」という伝統が行き渡り、自立の精神が培われるのである。

酔いも回ったころ、参加者の一人が「来年も開催できることを祈って」乾杯の音頭を取る。

そうだな。そうなるといいな。

順天湾湿地

妻は慶尚北道浦項市で生まれ育ったのだが、今までに一度も全羅道に行ったことがないとのこと。それならば車もあることだし家族で旅行しようということになり、目的地として選ばれたのが順天市である。

土曜日は妻の運転免許試験の日である。
2時間の運転練習と受験で疲労困憊の妻であったが合格した喜びのためか表情は明るい。

近くのコンビにで眠気防止のための缶珈琲とガムを買って午後3時に出発した。
一昔前なら3時間以上かかったであろう道のりは新しく出来た高速道路のお陰で2時間15分に短縮された。

昨冬慶州に行って以来、久しぶりの家族旅行である。
普段は小言と憎まれ口が飛び交う我が家だが、高速道路を走る緊張感からかこの日ばかりは一体感があった。

紆余曲折を経て午後6時に最初の目的地である順天湾湿地に到着した。
ここはムツゴロウや蟹が生息する干潟で夕陽に映える湿地は絶景との評判なのである。
しかし、小雨が降るあいにくの空模様。
壁で仕切られた公園内に立ち入るには入場料が必要で全コースを回るには二時間が必要とのこと。
「涼しいうちに少しでも見物しておこう」と主張するも、
「お腹もすいたし、とりあえずは宿舎に行って休もうよ。明日の朝に行けばいいじゃない」という妻の意見も一理あるので後者を選択した。

宿舎の主人は文氏13代目だそうで、現大統領もこの家系からでているとのこと。
そう言われると、家の佇まいや内装にただならぬ重厚感があるな。
ネット検索での宿舎名は英語表記、さらに6人一部屋で10万ウォンなので、おんぼろ民家を想像していたが、古風であるが清潔で、エアコンと現代式の浴室を備えた素晴らしい部屋であった。
更には主人のもてなしや品格のある言動に触れて
「土産物とか持って来るべきじゃなかったのか?」
「朝御飯が出るらしいけど手伝わなくていいのか?」と反省するほどであった。
また異なる季節にこの宿を訪れたいと思う。

翌朝、主人特製の鶏粥をいただき、身支度、写真撮影の後、丁寧にお礼を言って
宿を後にする。
目的地は順天湾湿地であるが、この日の朝は目が回るほどの猛暑で、野外活動の自粛の放送が流されていたほどであった。
実際、駐車場から入場門まであるくだけでも疲労がたまったし、
入場門から100mの距離にある展望台まで歩くと家族の全員が
「もう歩くのは止めよう。もうこれ以上歩きたくない」と言うほどであった。

展望台からの景色は雄大で美しくはあったが、干潟は遠く、期待していた風景ではなかった。
しかし、はるか遠方に見える第二展望台まで行く元気はない。
1時間後。あえなく、湿地から撤退。駐車場近辺の食堂街で昼食を取ることにする。
長男が「醤油漬け蟹を食べてみたい」と言うので、
「普段はハンバーガーやピザやラーメンのようなジャンクフードを嗜好する長男にしては
渋い選択だ」と思い、意見を聞き入れる。
が、しかし、入った店は観光地価格でおかずの数が少なく妻は終始お冠であった。

「このままでは何かを見て感動したという記憶がないまま家に帰ることになるなあ」
という懸念からドラマ撮影にも使われている民俗村に足を運んだ。
日光で焼けた車内に乗り込み田舎道を走ること30分、ようやく民俗村に着いたが、三男は熟睡中、仕方がないので、民俗村内の木陰で子守をして、残りの4人は敷地内を散策することになる。
この日は足の調子が悪かったのと炎天下の中を歩きたくはなかったので三男の寝顔を一時間見て過ごすことになった。

帰り道は二回休憩したので3時間半かかった。
無事故でよかったという安心感から横になる。
睡眠不足で頭痛がするという妻は甲斐甲斐しく夕食の準備をしている。
それを健気に手伝う長女が頼もしい。
次男はシャワー、長男はメールチェック、三男は残ったお菓子を物色。
我が家は男全員が怠け者である。困ったもんだ。

金陽小学校仮設プール

何を隠そう、我々が住むアパートは小学校の敷地のすぐ隣であり、現在は長女のみが通っている。
その校庭は非常に狭く、三方が校舎とアパートに遮られているために陽当たりが非常に悪い。

しかし、今週末は何かが違う。
台所の小窓から覗く校庭に色とりどりの造形物が陳列されているのだ。
妻曰く、「金井区庁の催しで、土日は野外プール場として無料開放されるみたいよ」
「あ、そう」と気にも留めてもなかったが、
寝不足で疲れている妻を「プールに行きたい」と叩き起こす三男の言いなりになる妻に深く同情して同行することにした。

行ってみてびっくり、夏休み中は閑散としている校庭が近隣住民で溢れかえり、幸せそうな嬌声があちこちで沸き起こっているのだ。その仮設プールも本格的で、幼児に配慮してか水深は浅いものの校庭を覆いつくすほどの広さで、滑り台やDJブースも設置され、オレンジのシャツを着た屈強な体躯を誇る監視員も多数配置されていた。

通常、お役所仕事というのは需要がつかめず、高い金を投じるものの閑古鳥が鳴いていることが多いのであるが、この日は違った。小さい子供をプールに連れていくのは
大人も相当の覚悟と時間と費用が必要なのだが、そんな苦労を全くしないでも涼と子供の満足が得られるのである。
~のワンダーランドと呼びたくなるほど、その光景に感動していた。
当初は見物だけの予定だったが、自宅に帰り、海パンに着替え、三男との水遊びに興じた。
そのうち、長女もやってきて、2時間弱、夏の思い出を作ることに成功した。

来年もまた水の中に入れるといいな。

国立釜山科学館

自宅から車で30分、郊外に位置している科学館は車で来る家族連れのために広大な駐車場があるに違いないと思っていたが、科学館の駐車場ゲートに続く道には何十台という車が列をなしている。その脇には路上駐車の車がひしめいている。

そうか、釜山は400万の人口を誇る大都市であり、今日は天気に恵まれた祝日である。どの家族も同じことを考えて、同じように行動することは、我が身に照らせば明らかな事実だった。

そこまで来たのと同じ時間を費やして何とか入場、自身初となる科学館に足を踏み入れた。

三階建て吹き抜けの場内の様々な展示物に目移りする中、特別展示室に歩を進める。そこには壁に映し出された映像があり、観客がその前に立って動くとその動きに呼応して画像が変化する展示物があった。小さな子供だけでなく大人までも手足を動かし、デフォルメされた映像を見て楽しんでいた。その脇には、Naoaki Fujimotoと書いてあった。

技術と計算処理速度の進歩もさることながら、それを人を楽しませることに繋げる発想力が素晴らしいと思った。現代美術との融合など、彼の未来にはやりたいことが無限に広がっているんだろうなあ、と勝手に想像した。

館内には、自動車、航空、船舶等の体験式の器具が展示されており、一日では足りないくらいだった。屋外の幼児用の遊び場も充実していて、三男に「もう帰ろう」と言っても聞いてもらえないほどだった。妻が三男を見ている間、日が暮れるまで長女と長椅子に座りおしゃべりし続けた。

映画館

長男は無類の映画好きだ。映画『インターステラ』を劇場で3回見てるし、BTVと呼ばれる通信型DVDレンタルで購入したものも合わせると、合計して30回以上は見てるはずだ。その長男から土曜日の午後7時に電話が入る。
「7時50分から『ボヘミアンラプソディ―』が開演するから、映画館に来て。僕は地下鉄で行くから」だそうだ。
ちなみに長男はこの映画を一回見ているが、もう一回見たいらしい。一方、俺も映画館でフレディ・マーキュリーの歌声を聞いてみたいと思っていたので、奇しくも双方の利益が一致したというわけだ。次男を車に乗せ、いざ温泉場駅の真ん前にあるCGVに向かう。

座席は中段の真ん中で一番いい席だ。日本では記録的な数の観客を動員していると聞いていたのだが、土曜の夕方にもかかわらず観客はまばらだった。

学生時代に聴きこんだせいか、QUEENのお馴染みのナンバーがかかると途端に涙腺が緩んでしまう。きっと、映像付きのフルコーラスで攻められたら子供の前で恥ずかしい思いをしたに違いない。

フレディを語るうえでゲイであることは避けられなかったとしても、男同士のキスシーンの鑑賞は避けたかった。俺にとっては映画のストーリーはどうでもよくて、ただQUEENの名曲が聴ければそれで満足だったし、最後のウェンブリースタジアムの大観衆の雰囲気には大きく心を動かされた。

長男が「どうだった?」と尋ねる。
「面白かったけど、やっぱり本物の方がカッコいいな」と答えると、
「僕もそう思うよ」と返された。

映画に誘ってくれた長男、歩くのが不自由な俺を介護してくれた次男、見事な親孝行であったぞ。

ベトナム旅行(その一)

釜山大の自然科学大学(理学部のこと)に所属する教授が参加する研修旅行の初日、一行はベトナム航空の飛行機で釜山からハノイへ向かう。

この研修旅行は教職員間の親睦を目的とした観光旅行であり、その費用は月々の給料から差し引かれる積立金で賄われている。しかも、最終日にはハノイ科学技術大学との提携合意調印式もある至って真面目な旅行なのである。

飛行機の各座席にはタッチパネル式の画面が装備されている。離陸後の数分は安全に関する説明やベトナム航空の宣伝を強制的に見せられる。欠伸が出て、瞼は半開きだったが、その映像の素晴らしさで一気に目が覚めた。

旅行で来た女性が数枚の写真を山岳地帯に住むベトナムの少年にプレゼントする。その中の一枚が大空を滑空する飛行機の写真で、その少年は木材を集めて飛行機に似せた乗り物を作り、山の頂上付近に設置する。少年はその乗り物に跨り、目を閉じ、両手で翼を形どる。その瞬間、写真で見たベトナムの様々な観光地が現れる、というベトナム航空の宣伝なのだが、その観光地の映像美もさることながら、少年の純粋さを表現する演出や構成には大いに心を揺さぶられた。

飛行機に乗って4時間後、ハノイ国際空港に到着、男女合せて約50名の集団は二台のバスで最初の目的地である昼食会場に向かう。メニューはフォーと呼ばれる米粉麺である。韓国ではベトナム料理店が多く、馴染みのある味で、胃に負担を掛けずに旅の疲れを癒すための最適なメニュー選択であった。

気になることがあった。食堂がやたら広くて、メニューや注意書きが全て韓国語のみで表記されているのである。

この時だけでなく、韓国資本のホテルに泊まり、朝食ビュッフェで見かけるのは韓国人旅行者ばかり、バスの行き先には、韓国人が説明する直売店ばかりで、4日間の昼飯、夕飯、ほとんど全てが韓国人が経営する韓国食堂だったのである。

折しも、到着した当日は東南アジアの国々がサッカーの覇権を争う大会の決勝の日で、ベトナム代表を率いるのは韓国人監督なのである。この方はベトナムでは英雄扱いで、ハノイ科技大のお偉方がスピーチで言及するほどの知名度と尊敬を得ている人なのである。市中にはベトナム国旗と太極旗を掲げたオートバイが走り回っているし、市内で最も背が高い高層ビルにはLotteの文字があり、韓国人用の高級アパートがひしめく地域があったり、とにかく、凄まじいばかりのベトナムにおける韓国の進出ぶりなのである。

ベトナム旅行(その二)

初めて行く国や地域には「こんな所でどうやって住むんだ?」「こんなの日本じゃありえないよ!」等の驚きがつきものである。例を挙げると、ヨーロッパ主要駅周辺にたむろする薬物中毒と思われる人々、マニラ市内のあちこちで見られる貧富の格差、上海の荒い運転と洗濯物、マシンガンを片手に市営バスに乗り込むイスラエルの女性兵士、などである。

今回のベトナム旅行も「どんなB級テイストで楽しませてくれるのやら?」と失礼ながら期待していたが、残念ながら上記のような驚きを感じることはなかった。

観光バスから降りて、6人乗りの電気自動車で市内の路地を走り回るツアーに参加したのだが、街行く人々の服装は日韓のそれと大差なく、不衛生に見える露店や店は一つもなく、ガソリンの匂いがやや気になるものの空気は綺麗で青空も澄んでいるし、オートバイの大群も自転車程度の速度でしか走らないので危険を感じることはなく、所々に雰囲気のいいカフェや食堂が散見され、社会主義国とは思えないほど活気に満ち、発展途上国とは思えないほど民度が高く街が清潔なのである。

12月のハノイの気温は20度前後である。灼熱の太陽が降り注ぐ夏を経験してないので断言はできないが、ハノイであれば十分に楽しく住めると思う。

電気自動車ツアーの後、一行は高速道路で2時間かけてハロン湾の宿舎に向かう。ホテルの部屋は新しく布団もフカフカだ。俺は長旅の疲れのせいかシャワーも浴びず服だけ脱いで深い眠りについた。

ベトナム旅行(その三)

下準備をせずに来たので、ハロン湾が何処にあるのか、どんな観光地があるのか全く把握してなかった。

現在、おさらいも兼ねてインターネットで検索しているのだが、ハロン湾に散らばる大小様々な奇岩群は何と世界遺産として登録されており、その島巡りクルーズが観光の目玉になっているとのことである。

船着き場には直径4mほどの大木を二つに割って作ったテーブルで海と通路が仕切られており、ベトナムの森林資源の豊富さを伺わせる。

6人掛けのテーブルが8台設置されているクルーズ船に乗船する。船内での昼食をはさんだ3時間の長旅である。この日のハロン湾は波が低く船は終始安定走行していた。天気は曇りだが視界は良好である。ガイドによると快晴でも霞がかかることがあり、この日の天気を幸運だと評していた。

景色は壮観の一言。海賊を取り扱った漫画でも出てきそうにないほどの奇天烈かつ非日常的な光景だった。そんな風景が船のゆく先々で連続して現れるのである。度肝を抜かれるとは正にこのことであった。

クルーズ船は一艘でも二艘でもない、何十艘もの船が洞窟観光のために岸壁に押し寄せるのである。強引に割り込まないと接岸できないので両脇の船と激しくぶつかり合う。しかし、それが日常茶飯事のようである。衝突して大声は出るものの言い争っている様子は全くなかった。

帰りの道のりはさすがに奇岩を見るのに飽きて熟睡していた。

ベトナム旅行(その四)

研修旅行三日目の目玉はニンビン手漕ぎ船ツアーである。
ニンビンとはハノイから車で二時間の地点に位置する観光地でここもまた世界遺産に認定されている。

昨日のハロン湾クルーズが凄すぎたので、ニンビンに行っても時間潰しにしかならないだろうと思っていたが、その考えはあっけなく覆された。岩山の間に生じた湖を船頭を含めた4人乗りの手漕ぎ船で周遊する。船と水面が近くアメンボになったかのような感覚を味わえる。船頭は器用にも両足で櫂を回している。騒音が生じるモーターボートが一つも走ってないのが良かった。自然の音だけを聞きながらそそり立つ岩山の脇や下を潜り抜ける時の光の移り変わりは非常に風情があり、日本には存在しえないであろう「和」を感じた。

写真を撮って現像して一枚1ドルで売り付けたり、往路の終点の水上で雑貨を販売するという商魂は可愛いものである。この環境が日本にあったら金の卵を産む鶏になるのになあ、と思った俺は心が汚れているに違いない。

帰りの飛行機でもベトナム航空の宣伝動画が出てきた。実際にこの目で見た観光地と最高の条件で撮影されたであろう動画の中の風景が重なったのは感動的だったが、それらはほんの一部であった。来た時には感じなかった驚きがこの国はあった。

虚心庁

地下鉄一号線温泉場駅から徒歩で5分の距離にある虚心庁とは、日本で言うところの、スーパー銭湯である。釜山に来てから今まで何度となく利用してきた浴場施設である。

日本との違いは、脱衣所で服を脱いだ後タオルを持たず素っ裸で風呂に向かう点である。体を洗う場所ではナイロン製のタオルが置いてあり、入念に体を洗った後、打たせ湯、ジャグジー、サウナ、露天風呂、等の各種の風呂をはしごして、疲れたらロックチェアーに仰向けになってうたた寝をするのである。

日本との違いはここからも出てくる。出口に常備してある乾いたタオルで体を拭き、サウナ用の服を着て、チンジルバンと呼ばれる石のドームが設置されている階に移動するのである。そこは男女共用で湯上りの男女が一堂に集う場となっている。日本ではこのような施設を目にしたことがないが、家族連れや恋人同士もチンジルバンで時間を共有することが出来るのだから合理的だという結論に至った。

このチンジルバンは遠赤外線で体が芯から温まるし、床暖房で熱せられた石が敷かれた床で寝そべっているのもまたおつなものである。

金海洛東江レールパーク

日曜の昼下がり、俺、妻、長女、三男というメンバーでドライブする中、妻の提案で金海まで足を伸ばすこととなった。ナビゲーションの最短ルートを選択したため農道をジグザグに走ることになり、予定よりも30分遅れて題目の公園に到着した。

この公園の目玉は韓国最長の河川として名高い洛東江を横切る鉄橋を線路に沿って進む4人乗りのレールバイクである。バイクと言っても、ペダルを漕ぐ自転車のようなもので廃線を利用した人気の乗り物なのである。

2月であるが風はなく日光が降り注ぐためにそれほど寒さは感じない。防寒具を全く用意してこなかったが、この恵まれた天候のお陰で初乗りが可能になった。俺と妻がペダルを漕ぎ、レールバイクは静かに動き出す。途中、車道を遮る踏切が登場し、本当の列車さながら、乗用車を待たせてレールバイクが走るのである。

対面から折り返して来る人々が総じて笑顔だった。幸運なことに前方には先行車両は一台も走っておらず、遠近法さながらに長く伸びる鉄橋が一点に収束する芸術的な光景を満喫することが出来た。両脇には洛東江が流れ、その向こうには広大な平地とそれを縁取る山々が見える絶景が広がっているのだ。

鉄橋の端には円盤状の路線切り替え機が設置されており、180度回転した後、復路に向かう。同じ風景を二度見るのは退屈ではないかと思いがちだが、さにあらず、沈みゆく夕陽が水面に反射して、光の国へ誘われているかのような趣なのだ。

妻は言う。「天国はきっとこんな光に包まれた世界なのよ」
すかさず、長女が「そんなことあるわけないじゃん」と話の腰を折る。
それを聞いていた俺と三男は大爆笑だった。

琴平スカイパーク

市会議員選挙が近いためか、選挙カーから発せられる候補者名の連呼に辟易している。その騒音から逃れるには山に登るに限る。

腸炎で幼稚園を欠席した三男を連れて長女の授業参観に妻と出席した帰り道に突然その考えが頭に浮かび、家族4人で琴平岳までドライブすることで話がまとまった。

琴平岳は大村市内にある海抜300mほどの山で小学校の時には遠足の目的地として度々訪れた馴染みの深い山である。その山頂付近は草スキー場や子供向けの遊具施設が整備されていて、琴平スカイパークと呼ばれている。その最大の見所は大村の街並み、大村湾に浮かぶ長崎空港と臼島、大村湾を形どる西彼杵半島の全てを一望できる展望台である。

数年ぶりに訪れたこの展望台、妻は感動した様子で、
「こんなに素晴らしい景色があるのに観光資源としての活用度が低いのが不思議でならない」と言い、子供達は景観には無関心で遊具や’自動販売機の中のアイスクリームに夢中であった。

俺はやや春霞がかかった全景を眺め、
「もっと空気が澄んでいて夕暮れ時であれば、今とは比較にならない程美しいのになあ」と残念に思っていた。これまでの経験から、5月の下旬、梅雨入り前の数日間が一番の見ごろなのだ。その時になったら家族全員で再訪しようと思う。

大村湾一周 前編

琴平岳や野岳から眺める大村の景観は素晴らしいの一言である。しかし、全てを疑う数学者という職業故に俺は次のような疑問に直面してしまった。

「美しいのは西彼杵半島に囲まれた大村湾であって、大村市自体は何処にでもある扇状地なのではないか?」

その疑問の真偽を確かめるべく、妻、長女、三男、母、俺の5人が購入したばかりの中古車に乗車しての日帰り旅行が始まった。

出発地点は実家のある大村市原口町である。ここから時計とは逆回りに大村湾を一周し、中間地で大村湾越しの大村を見てやろうという算段である。昨日は雨天、今日の天気は回復基調の曇り空で、空気は澄んでいて緑が眩しい。

国道34号線を北上して市境を過ぎると、海沿いを走る鉄道越しに入り組んだ大村湾の地形が伺える。その海の向こうの湾口を目指して車を走らせる。追い越し禁止の二車線は徐々に交通量を増しいている。それもそのはずで、連休の中日にはハウステンボスを目指して北上する家族連れを乗せた車でごった返すからだ。しかし、今日はほぼ予定なしほぼ手ぶらの気楽な物見遊山である。渋滞を楽しみながら、大崎半島のくじゃく園や川棚駅前の喫茶「あんでるせん」などの過去に訪れた名所の思い出を話題にして、車中での時間を楽しいものにすることが出来た。

ハウステンボスのシンボルタワーが見えて、5歳の三男が嬌声を上げる。

まずい、車はハウステンボスを素通りして新西海橋に向かうのだ。三男が「ハウステンボスに行きたい」と駄々をこね、泣き叫んだりしたら景観を鑑賞する雰囲気からかけ離れたものになってしまう。

幸運なことに、ハウステンボスに行ったことがない彼はそこがどんなところかを知らず、それ以上の興味を示さなかった。

西海パールライン料金所で二百円を払い、車は新西海橋を渡り、西彼杵半島の地を踏む。その間、大村湾口付近に浮かぶ島々を目にする。海から沸き立つ水蒸気越しでもはっきりと目に入る深緑と黄緑で彩られた島々の存在感が圧倒的で、普通は景色に関心を示さない長女までも「うわあ、きれい」と言わしめるほどであった。

大村湾一周 後編

西海パールラインの出口の一つである小迎ICにて右折すべき場所で左折してしまい、車はUターン出来ないバイパスを5㎞程南進する。そのせいで、ナビが示す目的地である昼食会場までの到着予定時間は大幅に遅延してしまった。こんな時でも頼りにするのはナビなのだが、ナビの指示通りに動くと、車が一台しか通れない細い山道に入った。過去に二回の脱輪を経験している俺は両脇に溝がある農道を縮み上がる思いで下り、30分後、目的地に到着した。

腹ごなしの後、大島大橋に向かう。30年前はフェリーで往来した大島に壮麗な大橋が架かっている。大島には造船所があるせいか、西彼杵半島の田園風景と比べると圧倒的に人気が多く感じる。しかし、お目当ての喫茶店はついぞ現れることはなかった。

そこから大村湾沿いの主要道路を南進し、長与に向かう。車窓から大村湾を眺めるが、角度が悪いのか天気が悪いのか大村らしき地形は一向に見えてこない。交通量も増え、田園風景とも縁遠くなった頃、長崎市境の標識が眼に入った。

旅は佳境に入る。時津、諫早、多良見の海岸線をドライブし、緑のトンネルを突き抜けていくのは爽快そのものだった。のぞみ公園で休憩を取り、夕暮れ時の琴の海の向こう岸に見える臼島と長崎空港を鑑賞した。

34号線に合流し、自宅に戻ったのは午後7時、かくして8時間にも及ぶ大村湾一周旅行の幕が閉じた。出発前は乗り気でなかった母も満足した様子だったし、妻は最初から最後まで大村湾の景観に関する賛辞を惜しまなかった。

「西彼杵半島から眺めた大村は一体どう見えるのか?」

期待していた角度からの眺望は叶わなかったが、旅行後に赴いた長崎空港からの帰り道でそのヒントが得られた。1千m級の山々の下に広がる扇状地、そこには美しくもなんともない、生まれてから今まで変わることのない大村の光景が広がっていた。

千綿駅

土曜日の午後、妻が言った。
「今日は5時に夕食を済ませて家族全員でドライブに行って、野外でロールケーキを食べに行こう」

おかしい。俺が知っている妻とは思えないリーダーシップに溢れる台詞である。俺は「いいよ」と生返事をした。妻の提案を後押ししたいのはやまやまであるが、それを実現するために超えるべき壁も厳然として存在する。そんなに早い時間に夕食を準備できるのか?その後の皿洗いの時間は?長男と次男は「行きたくない」と言って妨害活動に勤しむのでは?

結論を先に言うと、それらは単なる杞憂であった。驚くべくことに上記の全ての条件が満たされ、3世代にまたがる7人家族が6時20分に一台の車の中に会したのである。天気は快晴、空気は澄んでいる。当初の目的地は森園公園であったが、西日の高さから日没の時間を見積もり、急遽、千綿駅に変更することになった。

何故ならば、大村湾の海沿いに位置する千綿駅は、夕陽の鑑賞地として、知る人ぞ知る名所であるからである。駅の駐車場に到着したのは6時40分、その時すでに望遠レンズや携帯電話を夕陽に向ける人々で乗り合い場は賑わっていた。

橙色の夕陽からは大村湾を横断する光の道が伸びていて、そこにいる誰もが自分に向かってきていると思ったはずだ。夕陽の真下には分厚い雲が鎮座していて、雲への乱反射と線香花火の先っぽにも見える灼熱の太陽が雲の中に吸収されて行く様子は圧巻だった。

母が言う。
「沈む間際のまんまるの夕陽もいいけど、今回のも満足したね」
母だけではなくその場にいる誰もが最高潮を終えたと思ったはずだ。だが、さにあらず、雲と地上の間にはわずかな隙間があり、その長さは日没間際の夕陽の直径と一致していたのである。

「願いはかなう」と言いたくなるような劇的な展開に家族の皆が感動している、と思っていた俺が甘かった。お菓子の取り合いをしてはしゃぐ長男と三男を横目で追いつつ、太陽の終焉を見届けた。ロールケーキにのみ関心を示す次男と無感動を装う長女、駅舎内のテーブルでお茶会を開くのは周囲の目が気になり中止、場替えしようと車を走らせると「腹が痛い」と言い出すものが約一名、一行は仕方なく自宅に戻る。

振り上げたナイフの落としどころは自宅の庭に据えられた石の丸テーブルだった。三日月の光の下で、蚊が出てこない初夏の涼風を感じながら、熱いほうじ茶のお茶うけでロールケーキを頬張る、何とも贅沢極まりない時間であった。妻の勇断に敬意を表したい。

琴平岳

韓国から一泊二日の強行軍で我が家を訪問してくれた釜山大学数学科の同僚を高速バス乗場まで車で送る道すがら
「まだ時間もあるから山の上から望む大村湾を見ていけばどう?」と言うことで一行は琴平岳に向かった。

梅雨時で水蒸気がうっすらと立ち昇る正午過ぎ、
「もっといい景色をみせたかったなあ」と思いつつ、休憩所の裏にある急斜面を眼下に望む丘に向かうと、全身を無数の紐で結わえ付けられたガリバーのような格好で寝そべる翁がいた。
「今から飛ぶんですか?」と気さくに話しかけるのが妻のいい所だ。

そう、ここはパラグライダーの出発点で、その翁は色彩豊かなパラグライダーのエアバッグから伸びるロープを背負っていたのである。

翁は携帯で着陸地で待つ仲間と交信した後、すぐさま斜面を駆け下りた。すると、タンポポの綿毛のようにふわりと上昇気流に乗り、
「うおー、なんて雄大な景色なんだ」と言う歓喜の叫びが聞こえてきそうな軽快なターンを繰り返して、ふもとまで降りて行った。

さっきまで妻と世間話をしていた翁がはるか彼方に消えてしまった。何だろう、この現実ではないような刹那的な気持ちは。

俺と妻は再会を約束して同僚を送った。

佐賀県立宇宙科学館

駐車場から見上げる階段の壮麗さに息を呑んだ。身障者対応のエレベーター出口から通路も短距離走路のような造りで駆け出したいという衝動が湧いてくる。緑の森を反射する湖面と青い空の下方を縁取る遠くの山々、科学館の展示物を見ないでも、この景色だけで既にお腹いっぱいである、

特筆すべきは屋外テラスである。30m上方に設置された雨よけは天空を連想させ、澄んだ空気が荘厳な雰囲気を演出するのだ。いっそのこと結婚式場にしてしまったまえば申し込みが殺到するに違いない。

展示物については、うん、まあ、何だな。子どもの笑顔を見れるのが一番じゃないかなと思う。

遠藤周作文学館

車のナビゲーションで地域を絞ろうとするが、外海町が属する西彼杵郡が何処にも見当たらない。そうか、いつぞやの市町村改変によって地図がまるっきり変わってしまったのだった。しかし、西海市ではなく長崎市の一部になっているとは夢にも思わなかった。

日曜の昼下がり、家族の各々がやりたいことをやる散漫なベクトル場の中で最も強力な磁力を放つのは妻であり、いつの間にか母を含む全員を同じ方向を目指して進むメダカの群れに変えてしまうのである。小さな雲が舞う快晴の空模様、こんな日の夕陽はきっと特別なものとなるに違いない。そんな期待を実現すべく、大海を見渡す旧外海町に進路を定めたというわけだ。そう言えば長崎市出身のF教授の一押し観光地である遠藤周作文学館も同地にあるというではないか。出発時間は午後2時半、一行は長男が持参したギターの音色を聞かされながら車中での一時間を過ごした。

バイパスを抜け、海が見えると妻は歓声を上げた。西日を反射しありえない高さと量の白波が岸壁に打ち寄せる光景が海の近くで育った妻の琴線に触れないはずがないのだ。助手席に座る俺も内海である大村湾との違いに愕然としていた。
「こんなに波が高いと遊泳禁止だろうな」と呟くと、即座に母が
「あれは人かな、海鳥かな?」と言い出した。よく見ると黒の水着を着た小学生の集団がサーフボードを漕いで波を待っているのだ。後ろ髪を引かれるような思いで、その海辺を過ぎ去り、サンセットロードと称される海沿いの道を辿って目的地に到着した。

映画化もされている遠藤周作の代表作『沈黙』は隠れキリシタンの受難を描いた作品で、その舞台であったこととキリスト者である遠藤周作ゆかりの地であったことがこの場所に記念館が建てられた理由である。

その立地は海が間近に見える丘の上で、視界一杯に海が広がり、夕日を眺めるにはこの上ない場所に建っているのである。惜しむらくは閉館時間が午後5時であることだ。小説を片手に夕陽の終焉を鑑賞するような贅沢を奪うのは勿体無いと思うのは俺だけであろうか。

文学館に足を踏み入れた。夥しい数の作品群と足跡を紹介するパネルを眺めていると、文豪と称される人々と一般人との間には埋めがたい溝があることを実感した。手書きであれだけの分量を執筆し、売り上げと言う市場の評価を受け、毀誉褒貶に晒されながら、世間におもねることなく創造を続けるというのは超人でしか成しえない業であろう。

日没まで2時間以上残っている。海鮮を供する食堂を探して車で20分、妻の咄嗟の判断で入った居酒屋が大当たりだった。上寿司握り三人前、海鮮丼三杯、唐揚げ定食、焼き鳥盛り合わせ、どれもこれも美味で、大満足の晩餐であった。

ガソリンの残量を気にしながら、夕陽を追うように文学館のすぐ上にある道の駅に向かった。しかし、西の空は大きな雲に覆われて、夕陽が当たる部分の雲がほのかに橙色に輝くのみで、灼熱する太陽が水平線に溶解していく壮大な光景は見れずじまいだった。

帰り際、茜色と紫色の絵の具を混ぜた時に起こるグラデーションが南西の空を彩った。それは生まれて初めて見る景色だった。この地では毎日のように起こるごくありふれたことなのかもしれない。

長崎バイオパーク

西彼杵半島は呆れるほどに風光明媚である。内海と外海、その海岸と海峡、民家が見当たらない森林、各々に秘密がありそうな無人島の数々、それらが雲の間から照射される太陽光を反射して輝く様を想像してほしい。それは、全世界の人々に知ってほしいような、あるいは、誰にも知らせたくないような、季節ごと天候ごとに異なる一期一会の風景なのである。

これほどの観光資源がありながら、この地は、北は佐世保市の九十九島とハウステンボス、南は長崎市の異国情緒ワールドと原爆関連施設の挟み撃ちにされ、鉄道が通ってないというアクセスの悪さも災いして、その潜在力の割には影が薄い存在なのである。

今日は、金縛りにあって四方から動物たちが迫ってくる夢を見た妻からの提案で、西彼杵半島北部に位置する長崎バイオパークに行って来た。真冬で冷え込んだが風が無いのでそれほど寒いとは思わなかった。三連休の最終日ということもあり駐車場は車で埋まっている。そこで出迎えてくれたのは一頭のラマと二匹のオウムであった。この時点で既に三男の興奮度は最高水準に達しており、動物嫌いの長女もラマの耳の角度に講釈を垂れ、ゲーム狂いの次男も写真撮影に興じていた。節約が趣味である妻も追加料金が発生する「動物とのふれあい体験館」の入場券を躊躇することなく購入した。俺は、バイオパークの優秀な営業マンを間近に見て舌を巻いていた。

バイオパークは順路に従って山道を上り下りし、全ての展示動物を観覧する構成になっている。その山道を歩くだけでも自然の草木が目に優しく十分に快適で楽しい。展示されている動物達も、人間に危害を加えない家畜やリスのような小動物がほとんどだった。大型で家畜でないものはバク、カンガルー、カバ、キリンでどれも草食動物だ。そのため境界や柵はあっても檻はなく、手を伸ばせば届くような距離で動物を眺めることが出来る。よいと思ったのは、放し飼いに近い環境で生息する動物たちが幸せそうに見えたことである(実際にどうかは不明である)。

植物園でびくりとも動かないナマケモノ、本当に片足で立っているフラミンゴ、サボテンで覆われた岩山の頂上に佇むヤギ、首や肩に乗って来るリスザルの集団、正直言って、この年齢になって動物を見て驚き感動するとは思ってもいなかった。

西彼杵半島の底力と奥ゆかしさを垣間見た一日であった。

野母崎水仙まつり

いつの間にか長崎市に吸収されていた野母崎町に行って来た。長崎県を世界地図に見立てると、大村湾が地中海であり、南方に伸びる長崎市周辺はアフリカ大陸に相当する。アフリカ大陸の最南端には喜望峰という岬があるが、野母崎は正に喜望峰に相当する。

日曜の昼下がり、大村を出発した我々は、世界一過酷なラリーと言われるパリダカに挑む篠塚健次郎の気分で高速道路を滑走した。天候は不順、時としてワイパーが必要になる。高速道路を抜けると、道路幅が狭い片側一車線のトンネルに入った。「怖い、怖い」と言いながら速度を緩めない運転手の肝の太さに感心した。市街地を過ぎ、海が見えるとほぼ同時に、軍艦島が視界に入る。その名の通り、本当に軍艦のように見えるのは恐れ入るばかりだ。韓国では徴用工の問題と絡めてネガティブなに紹介されることが多く、妻や長女の反応が気になったが、見たそのままの感想を言うだけの大人の対応がなされたため波風は穏やかなままだった。

海は荒れ、波は高い。にもかかわらず海水の透明度が高いのは何故であろうか。海辺で育ち、海に造詣が深い妻は「夏には海水浴に来たい」と言った。

目的地である野母崎総合運動公園に到着すると、眼前に白い水仙が咲き並ぶ丘が見えた。その丘の向こうに、丘の斜面を覆いつくす水仙、岩に襲い掛かる白波、左右に広がる大海原、そして軍艦島を一望できる喜望峰があるのだろう。長女と三男は競うように丘の上に続く階段を上って行った。

真冬のこの時期、野外で長時間過ごすのは戦中生まれの母には苦痛であろう。そんな寒さに弱い人でも、隣接する軍艦島資料館で暖を取ることが出来るし、軍艦島での生活の様子が伝わってくる写真や映像も一見の価値ありである。

17時を過ぎると、出店も引き払い観光客も帰途につき閑散とした雰囲気になるのは、運営が公務員によってなされているからであろうか。夜におでんやラーメンを出す屋台があれば人が押し寄せお金を落としていくだろうに、と想像する俺は心が貧しいのかもしれない。

大村湾グリーンロード

平日の午前中、眼科に行った帰りに妻の運転で気分転換を目的としたドライブに出掛けることにした。こういった場合、妻は野岳湖に進路を取ることが多い。野岳湖は江戸時代に捕鯨業で財を成した深澤義太夫が資材を投じた治水のための人造湖であり、現在では小中学校の遠足の目的地としてよく利用される大村市民の憩いの場となっている。

野岳湖に着いたはいいが、人がいない。当然である。子供は学校へ大人は職場にいる時間帯だ。何の用事もなく野岳まで上って来れるのは俺みたいな暇人に限られるからだ。何となく後ろめたい思いがあったためか、車から降りもせず、野岳湖を一瞥しただけで引き返すことにした。

野岳湖から国道34号線に下りる道のりは大村湾と市街地と長崎空港を一望できる大村有数の絶景スポットであり、妻が野岳湖を選んだ理由もこのためである。この日の天気は快晴とはいかないまでも、冬特有の冷たい大気ゆえ、遠くの小さな島々の輪郭が見えるほど空気が澄んでいた。その絶景を拝む寸前、妻は車線を変え、右方向へのウィンカーを点灯させた。
「おい、おい、何処へ行くんだ」と言う俺の物言いを遮るように妻は
「前から行ってみたいと思ってたのよ。ちょっとだけ行って戻って来ようよ」と言った。

緑の標識には「大村湾グリーンロード」と書いてある。何のことはない、大村と彼杵を結ぶ農道をカタカナ英語で言い換えただけのことだ。

視界が開けた道路の両脇に生えた枯れすすきが黄金色と黒のシルエットを作る。それを愛でる妻に「戻って引き返そう」という意思は微塵も感じられない。海沿いを走る国道34号線から眺める大村湾を高台から見下ろすのも乙なものだ。妻のみならず俺もまた、この未知の道路への好奇心を抑えることが出来ない。車は更に前進し、佳境とも言える、空中に浮かんでいるように見える二つの橋梁を迎える。この時点で、俺の心はこの農道に奪われていた。

彼杵が近づくにつれて、眼前の風景が棚田から茶畑に変わっていく。彼杵と言えば有名な茶所で、一昨年は若手農家の活躍で「日本茶大賞」の栄誉も得たとのこと。刈り取られた茶畑が斜面一帯に広がる様は壮観の一言、その向こうには千綿側から見た大村湾が見える。この景色を見て育つ緑茶であれば日本一もさもありなんと言った趣だ。

帰り道、妻がこう言った。
「脇道にそれるのって人生みたいだね」
あれ?俺が知っている妻はそんなことは言わないはずなのに、これもグリーンロード効果なのだろうか。

平戸、生月島

俺の記憶する限り、我が生涯で平戸に行ったのは三回しかない。平戸とは長崎県北部に位置する大きな島であるが、平戸大橋により陸路での往来が可能なので、「島」という感覚は希薄である。

一回目は幼少の頃だ。両親に連れられて完成したばかりの平戸大橋を見物しに行ったが、物凄い渋滞で待たされた挙句、バカ高い通行料を払って平戸に上陸したものの、そこには子供が喜ぶような遊具施設は一つも見当たらず、子供心に憤慨した記憶が残っている。

二回目は大学生の頃だ。車好きの同級生二人と深夜のドライブに出掛け、後部座席で熟睡、目覚めた場所が平戸だった。辺りは薄暗がりで景色はよく見えなかったが、
「昼間に来れば絶景だっただろうな」と思った記憶がある。

三回目は今回である。小学校以来の同級生であるM君の提案に乗り、三家族14名からなる日帰りの海水浴旅行が実現した次第である。

大村から平戸北部に位置する生月まで車で二時間の道のりである。天気は快晴で猛暑日になることが予想される。青い空と眩しい緑、冷房が効いた車内で流れる景色を見ていると気分が高揚してくる。前方を走るM君運転のマイクロバスの後部で手を振っているのを見るからに、
「同じ時に、同じものを見て、同じように感じているんだな」との思いを馳せる。

高速道路を抜け、小規模の田んぼが連なる道路をひた走り、朱色に輝き天空を突き刺すような構造の平戸大橋を渡り、平戸市内に入る。そこにある数多の観光地には目もくれず、生月大橋を渡り、目的地である早崎海水浴場に到着する。

準備して来た浮き輪やサーフボードを小脇に抱え、子供達は海へ飛び込んでいった。海水の透明度は高く、遠めでも見て取れるほどだ。前方には渡ったばかりの生月大橋がそびえ立ち、その下を航行する船舶が白波を上げている。

インドア派の長男もアトピー性皮膚炎を患う次男も日焼けを恐れる長女も海水が傷口に染みると言っていた三男も、他の家族の子供達と打ち解けて、海の中で夢中になって遊んでいた。それを見ているだけで幸せな気持ちになった。

海水浴の後、生月島北部の大バエ燈台に向かった。絵の具をぶちまけたような海の青が視界一杯に広がる光景は圧巻で、目を奪われた。猛暑日でなかったらその場を動かず見入っていたことだろう。

帰りは緑に覆われた絶壁の下に白波が打ちつける海岸線を眼下に見下ろす道路を通り、信号や看板そして民家さえない自然そのものを堪能することが出来た。

平戸に戻り、隠れキリシタン由来の棚田を見学し、平戸大橋付近の海鮮食堂で胃袋を満たし、東彼杵の海岸線を走る経路で大村に向かった。

旅のフィナーレを飾ったのは大村湾越しに望む大輪の打ち上げ花火だった。コロナ禍で中止になったお祭りの代わりに三蜜を避けるように非公表の打ち上げ場所を分散して開催にこぎつけた花火大会だけに感動もひとしおだった。

この日以来、長崎県の天気図を見るたびに平戸に目が行くようになったのは旅の副作用というか後遺症なのだろう。