俺が2年生だったある冬の日、貝塚体育館での練習中に見知らぬ人物が現れ、社会人同士でかわされるような丁寧な敬語で「稽古の一部に参加させてくれ」と頼まれた。拳がでかい、腕も太い、太ももは組技系の選手のように分厚い、それでいて、踏み込みが速く、懐に入られてワンツーでのされる恐怖が拭えないほどだ。.第2代主将の池田先輩のことである。
その日からほぼ毎週、時間にして20分弱、俺は池田先輩の対人稽古の相手役を務めることになる。その内容は顔面パンチの目慣らしで、互いのパンチが届かない間合いに立ち、相手のパンチに反応して防御する訓練だった。体は疲れないが、頭が疲れる、フルコンタクトと謳いながらも顔面パンチは反則という極真ルールの盲点を補うような、合理的かつ実戦的な練習体系を池田先輩は確立していた。
その年から少なくとも8年間、俺が博士課程を終えて、イスラエルに1年間滞在し、再び九大に戻り韓国に渡るまでの期間、池田先輩は歴代部員と稽古を通して交流し、自身の目標であった全日本格闘技選手権への出場を果たされ、試合指向の強い部員の技術指導もされていた。
空手以外に池田先輩から数多くのことを教わった。そのなかの一つがアウトドアの遊び方である。限られた時間を最大限に活用し、イベントごとに集まるコミュニティが異なり、移動は車が基本である、社会人の作法は、学生だった俺には新鮮な体験だった。
衝撃的だったのが能古島での菜の花見物である。草スキー場で段ボールのソリに乗り、斜面の最後の部分で豪快に転び、「こりゃあ、なんかおかしいぞ」と叫び、再度挑戦するもまた豪快に転ぶという、わざとやっているとしか思えない行動で、一行の座を盛り上げる人物がいた。池田先輩の奥様が通う英語教室の講師も一行の一人だったが、彼女に向けて「ミシェル」と呼びかけ、「ケンさん」と呼び返され、打ち解けていた。初代主将である柴田先輩のことである。同行の田中先輩と柴田先輩との風通しの良い会話を聞きながら、俺は「恐怖の柴田先輩」という先入観と実像との差異を修正していた。
その後も、池田ご夫妻のお招きで、球磨川キャンプや海水浴兼バーベキュー等のイベントに参加し、田中先輩、柴田先輩との交流が続いた。その流れから四年生にして初の年末納会に参加することになった。先輩方の人柄がわかり、「粗相や失言を恐れながらの緊張が強いられる重苦しい雰囲気の飲み会になることはないだろう」との思いはあったが、確信は持てなかった、稽古中は抜群の指導力を発揮し尊敬を集めるも酒を飲んで制御不能になってしまう社会人空手家の例を知っていたからである。
集合場所から一次会の会場までの道のりで、ゴツい革ジャンをまとった参加者と自己紹介し合った、小田先輩のことである。一次会は腹ごしらえ、二次会はカラオケだった。酒も十分に入っていて、参加していた下級生たちも大部屋のステージに上がり今にも踊りだしそうなリラックスした雰囲気だった。その時、
「おい、店員を呼んでこい」という野太い声が室内に響き渡った。その声の主は柴田先輩だった。店員が来ると、続けて、
「人数分の椅子がないぞ。準備してもらえんか」と言った。
それから2022年までの30年間、年末ごとに納会が開催され、その参加者数も増加していった。その理由を雄弁に物語るのが前述の逸話ではなかろうか。
ある時期から池田先輩の納会への出席が途絶えている。事業を興され年末が繁忙期になったのがその原因だ。叶うならば、共に納会に出席して40代にも及ぶ九大芦原空手部の歴史巻物を開いたかのような壮大な光景を味わい、昔話に花を咲かせ、柴田先輩、池田先輩、田中先輩、小田先輩の間で交わされる丁々発止の会話に耳を傾け、馬鹿騒ぎしたい。
『あしたのジョー』の影響で「脳へのダメージを伴う稽古は避けたい』という思いから、キックボクシングルールの組手を避けて来たのだが、池田先輩に食らいついて顔面パンチの修行に励めば、格闘技愛好家としての新たな地平が見えたのでは、と後悔している。