ホーム懐古録

懐古録

ヤパー二と呼ばれて(前編)

イスラエルにいた頃の話である。
下宿先の近くには二面のバスケットコートを横断するフットサルコートが設置されている。とある週末、いつものようにバスケットのシュート練習をしていると、ある男が近づいてきてこう言った。
「今からサッカーをやるからどいてくれ。なんなら俺らと一緒にやってもいいぜ」
「ああかまわないよ」と自信がなさそうな表情で答える。
その仮面の下で笑っている俺がいた。こう見えても小学校時代はサッカー少年だったのである。
目にものを見せてやる、とゲームに臨んだ。
イスラエルにはアメリカ系、ロシア系、中東系等の人種別、出身別のコミュニティーが形成されていて、今回のゲームは中東系とロシア系との対戦で、俺は前者に属することになった。
フットサルとの違いはタッチラインが鉄柵であること、従ってスローインは無く、壁を利用した攻撃も可能である。

ヤパー二と呼ばれて(中編)

ロシアチームは毎日練習しているかのような定石通りのパスワークで攻めてくる。中東チームは個人技主体でわざわざ狭いところにドリブルしに行って相手に取られるの繰り返しであった。それでも優勢なのは中東チームであった。最前線で待ち構える長身の選手のキープ力が凄まじく、奪われることは皆無だったからである。

俺は最初の一対一で負けてしまい気持ちが萎縮してしまったことで前に行かなくなり、誰からもパスを貰えない、所謂、ゲームから消えた状態に陥っていた。それならば守備で貢献しようと、鉄柵際のような頑張らなくてもいい場所で体を張り続けた。しかし、奪ったボールを後方の味方に渡そうするのをロシアチームに奪い取られた。
「チノ」という言葉が方々で聞こえた。
チノとは中国人を意味することくらいの知識はあったが、「俺は日本人だ」という反駁が躊躇われた。

攻撃も守備も空回りだったが、30分程経過した頃に転機が訪れる。試合開始当初は戸惑ったロシアチームのパス回しだったが、選手の特性を把握することと相まって、攻撃のパターンが読めるようになった。故意にマークする選手との距離を開けると、案の定、サイドから中央を経由して、その選手を位置を下げさせるようなパスが来た。
それを見逃さず、インターセプト、その蹴り足で、回転がかかったボールを前線に供給した。
長身のエースはトラップと同時に反転して守備を置き去りにして見事なゴールを決めた。
きっかけをつかんだ俺は積極的にボール狩りに関与し、奪ったボールをエースに集めた。
その作戦への対策としてロシアチームは長身エースの前後に守備を配する。
俺は緩くなった中盤でボールを保持して相手ゴール前のスペースに球を出す。
すると、普段はテレテレと歩いているエースが機敏に反応してワンタッチでゴールを決めた。

前半終了後、エースは言った。「お前は俺のアシストマンだ。名前は何というんだ?」
はるかに年下であろうそいつに「ミツグと呼んでくれ。日本から来たんだ」と答えた。

ヤパー二と呼ばれて(後編)

休憩が終わり、後半戦が始まる間際、エースはスクーターに跨りどこかに去っていった。
大黒柱を失った中東チームを支えたのは太っちょのゴールキーパーだった。スーパーセーブはないが、凡ミスもなかった。下手で投げる球出しは逆回転がかかっていて、受け手に優しかった。劣勢が続く中で逆襲で点を取る戦法に意思統一できたのも彼の意図を持ったフィードに依る所が大きかった。

俺の初ゴールの瞬間は唐突にやってきた。逆襲からのシュートの跳ね返りをそのまま打ち抜くと相手の守備とゴールポストの間の反射を繰り返しネットを揺らした。
「チノ」という掛け声が上がると「あいつはヤパー二だ」と推測される問答の後、
「ヤパー二」という単語が方々で聞こえた。
グーグルマップの精度が上がったな、という感じで気分がよかった。

俺は調子に乗って、前線に上がり、狂ったようにボールを追いかけた。
そこには連動してボールを狩る多数のチームメイトがいた。
圧力に呑まれたのかロシアチームは痛恨のハンドを犯す。
PKのキッカーに選ばれたのは俺だった。
疲労のため何も考えずに蹴ったのが功を奏し、GKの脇の下を抜くシュートを決めた。

極め付きは後半終了間際の逆襲時、ロシアチームは疲れの為に守備は戻ってこれない。
逆に中東チームは俺を中央に三人で攻めあがっている。
やや前方に位置する二人のどちらかにパスすることはできた。
しかし、ドリブルする俺はその二人を追い抜き、PKと同じコースに前方に移動する加速をそのままボールに伝えた。歓声が上がった。「ヤパー二」という言葉が聞こえる。
スタンドではペットボトルを抱えたエースが何かを叫んでいる。
「ヤパー二」に代わって、俺の名前が連呼される瞬間だった。

試合後、仰向けになり、どこまでも高い青空を眺める。
拍動に合わせた眼球の中の血液のうねりが虫のように飛び交っていた。
あのときの独尊的な選択の是非の答えは既に出ている。
地殻は破れマグマがあふれ出し、地表は新たなサッカー観に覆われたのである。

その日以来、以前にも増して更にサッカーに傾倒することになる。
運動場にも足繁く通った。しかし、不思議なことにあの時の中東チームのメンバーの誰とも会うことはなかった。

郡少年サッカークラブ(その一)

俺が竹松小学校4年2組にいた頃、昼休みは専らドッジボールやフットベースに興じていた級友達が突然サッカーをやりはじめた。

その当時の俺は好き嫌いが多く、とにかく食べる量が少なかった。背も前から3番目、足も遅いので運動会ではビリばかり、将棋が好きで、外遊びは今一、という虚弱体質を絵にかいたような児童だった。

そんな俺が4年2組を襲った空前のサッカーブームに巻き込まれるのである。
帰り道が一緒の級友は題目のサッカークラブに加入し、GKとして修行中の身であった。
その彼が「お前も入れ」と熱心に誘ってきた。
竹小から家までおよそ1.5キロ、入学時は登下校が苦行そのものであった。疲れ果てて家に戻るのに、それから竹小まで戻って2時間サッカーの練習に明け暮れるなんて正気の沙汰ではない。
そう思っていたが、「一回だけ来てみろ」という甘言にひっかかりボールを蹴ることになる。
あいにく、竹小の校庭は前日の雨で所々水たまりができていて、とてもサッカーをやれそうな環境ではなかったが、「これならすぐ終わるだろうな。雨だから長靴でも文句は言われまいし、仕方なく参加してるというように受け取ってもらえるだろう」
という考えが巡り、運動場に足を踏み入れる。

この日はコーチが来ない日で、輪を作ってボールをひたすら蹴る練習だったが、長靴のゴムの反発力は凄まじく、初めて蹴るサッカーボールは勢いよく水たまりの上を滑走していった。

何だろう。このボールを蹴る度に走るドキドキ感は。

その日の夕食時、俺は生涯で初めての「お代わり」を要求した。それを見た両親は非常に驚いたし、俺も自分の行動に戸惑いつつも誇らしい何かを感じていた。

郡少年サッカークラブ(その二)

加入して間もない頃、大村市内のサッカー少年団が競い合う試合についていった。
場所は浄水管理センターの敷地内にあるサッカー場である。

試合前、三年生でありながらCFを任せられているK君が彼の同級生と話している会話が耳に入った。
聞いたこともないようなカタカナが飛び交っていたが、どうやらサッカーシューズのメーカーの優劣の話のようだ。
そして、プラスティック製の容器に何らかの粉末を入れている。
そこにも見たことがないカタカナが粉末の包装紙に書かれていた。
その容器にストロー付の蓋を装着し、保冷用の包装カバーに容器を入れていた。

何もかもが初めて体験する新しい文化だったので試合はそっちのけで、
「あの粉末のジュースは一体どんな味がするのだろう」
ということが気になってしょうがなかった。

ハーフタイムになり、懇願して一口飲ませてもらったのだが、塩水のようであり、砂糖水のようであり、当時、コカコーラのような炭酸飲料水を至高のものと認識していた自分には大きなカルチャーショックであった。

全試合終了後、見事ゴールを決めたK君は所有のサッカーボールを頑丈な布製の網袋に入れた後、足で蹴りながら帰りの車に乗り込んでいった。

「うわあ、かっこいい」と思い、猛烈に真似したくなった。
しかし、サッカーシューズもサッカーボールも給水容器も持ってないため、その日の夕方、親にねだることなる。

親父はこう言った。
「どうせ、すぐ辞めるんだから、お金の無駄だよ。年末まで続いてたら、考えてやってもいいぞ」

もうすでにサッカーの楽しさに目覚めており、辞める気など毛頭なかったので、
「その三つの宝を得るのは時間の問題だな」
と心の中で高笑いしながら眠りについた。


郡少年サッカークラブ(その三)

初めてのお代わりをした次の日は快晴だった。
全体練習は短い距離のパス交換から始まった。
すると、上級生がインサイドキックの蹴り方とボールの止め方を教えてくれた。
不自然さを感じながらも足を開いて箒のように振り下ろすとボールが回転しながら対面の選手の足元に向った。
自他共に認める運動音痴である自分が教えられた動きを一回で実践できたことに驚きながらパス交換を続けた。

ここで大雑把にメンバー紹介をしよう。

前回登場したK君は喩えるならばラウルのような万能型のストライカーであった。
ボールを受ける姿勢、ドリブル時の安定感、シュートの正確さ、その気になれば三人くらい平気で抜ける突破力、ゴールへの嗅覚、全てが備わっていた。
同級生からは崇拝されており、上級生からも一目置かれている存在で、
「この中でプロになる奴がいるならこいつだろう」という雰囲気が漂っていた。

K君の舎弟のようにも見える三年生のS本君とS方君は左右のウイングの補欠として出場しており、その突破力に定評があった。
それからいぶし銀の光を放つY下君と顔がおにぎりに似ているためにそのまんまの渾名で呼ばれているK崎君がいた。

4年生は二組の運動神経を集積させたような面子で構成されていた。
長身で最速のK原君、鉄壁の守備を誇るS中君、6年生の正GKから指導を受けるT長君、その他数名が加入していたがこの時のメンバーで最後まで残ったのはこの三人だけだと記憶している。

5年生は体格を含めた総合力ではナンバーワンと噂されるD口君が君臨していた。
そして練習をサボるが守備力は折り紙つきのM人君がいた。
当時は気がつかなかったが、5,6年生には孤児院で生活する子が数名在籍していた。
その子達の総帥格が6年生のトシヤ君であった。

このトシヤ君は凄まじいまでの瞬発力とシュート力を有しており、
チーム得点王の座を明け渡すことはなかったと記憶している。
二学期終了式の日、重い荷物を持っての学校からの帰り道、
対面から自転車に乗って竹小に向うトシヤ君が現れた。
話したことは一度もなかったのだが、トシヤ君は
「後部座席に乗れ」と言う。
何がどうなるかわからないまま言われるとおりにすると、トシヤ君は方向転換し、
猛烈な勢いで自転車をこぎ、俺の家の前まで送ってくれた後、竹小方面に方向転換し、
「練習来るよな」と言い残して去っていった。

このトシヤ君は大村市の児童を代表して天正遣欧少年使節団を記念する行事でローマ法王に謁見したりするなど、とにかく、雲の上の人であった。

他の六年生は一緒に練習した期間が短かったせいか、正GKのK端君とMFのI川君以外はあまり覚えてない。
それから1,2年生も何人かいたような気がする。

クラブの会長はK近さんで、月謝の集金や試合時の送迎、等の裏方業務をなさっていた。
そして、火曜と木曜と土曜に現れる某石材店の御曹司であるK尾さんが実技指導を担っていた。
このK尾さんは大村サッカークラブの現役のストライカーだったらしい。
学校の先生とは全く異なるぶっきらぼうな話し方が逆に新鮮だった。

郡少年サッカークラブ(その四)

土曜日の練習はドリブルから始まった。
足の内側のみを用いてボールを運び、設置された空き缶を一周して次の走者に渡す。
これが終わると、足の外側のみ、足裏の内跨ぎ、足裏の外跨ぎ、引き球で背走、のように種目を変えて往復を繰り返すのである。

このメニューが終わりに近づく頃、いつもの時間にコーチのK尾さんが現れた。

「よーし、5人一組になって。今度はリレー形式で競争だからな。他の走者のボールを蹴って妨害するのもありだ」

緊張が走った。始めたばかりの俺はこの中では一番下手に違いない。
迷惑を掛けないように速くドリブルしなきゃな。

しかし、注意すべき点はそこではなかった。
足から離れたボールは他の走者の格好の標的となるのだ。
開始早々に、同級生のT長君の渾身の蹴りで、ボールは運動場脇の廻旋塔付近まで飛ばされた。
慌てた俺は全速力でボールを拾いに行く。
群集を避け、やっとの思いで味方陣地に達する直前、その横の新しい走者からまたしても妨害された。
今度の行き先は反対側の野球フェンス付近だ。
パニック状態になった俺は責任を果たせなかった悔しさのため半泣き状態でボールを拾ってきて、次の走者にボールを渡した。
他の組はもうすでに5往復が終わっていた。
嗚咽が止まらない俺にコーチはこう言った。

「悔しかったら『上手い』になれ」
コーチは上手いと言う形容詞を名詞として使用していた。
その一言で、
「ここにいる誰もが洗礼というべき、この仕打ちを受けていたんだ」
ということを悟った。

この弱肉強食リレーで生贄にならないためには防衛力とも言えるボールキープ力が必要となる。
しかし、サッカーは基本的に守備が優位な競技なので、実力差がない相手がボールを奪い取ることに専念してきたら、交わすのは容易ではないのである。
しかも、一対多という状況も起こりうる。
一方で、他の走者を邪魔することばかり考えていたら、争いを避けた走者が漁夫の利を得ることになるので、攻守のバランスが重要になる。
争いを避けるためにわざと遠回りをすることも重要な戦略であるし、時には下級生を威嚇したり、政治力で協力してパスし合うこともある。
CFのK君にボールを蹴られたDFのS中君がK君に一対一を挑む熾烈なバトルが勃発することもあるかと思えば、お互いに邪魔をしない平和な状態でリレーが終わることもある。

とにかく、「ここは第二次世界大戦時の国際情勢か」と思うくらいに、協力と裏切りが入り混じった複雑怪奇な様相が垣間見られるのである。

今になって思うと、このクラブで学校では習わないことを沢山教わった気がする。

郡少年サッカークラブ(その五)

全体練習終了後、初心者だけが集められた。
「リフティング10回やってから家に帰ろうな」

その頃の俺は足の甲にボールを当てて垂直方向にボールを浮かすことが出来なかった。
家に帰れなくなることを本気で恐れた俺は無い知恵を振り絞った。

ボールを持った状態で太腿を上げれば一回は確実にできる。
大きく跳ねないだろうから、二回は余裕だろう、後は足踏みするだけだから、運が良ければ5回くらいはできるはず。

その推論は間違ってなかったが、その後が続かない。

大人になった今、その理由が手に取るようにわかる。
片足を上げて静止する筋肉と平衡感覚が養われていなかったこと、
ボールの重心をとらえる技術が欠けていたこと、
軸足をスライドして移動する概念がなかったこと、
足の甲を全く使えないためにリカバリーできなかったこと、
回数が上がると10回を意識して過緊張していたこと、
日が沈み、薄暗がりの悪条件であったこと。

何よりも致命的だったのは、10回やることが目標になってしまい、
サッカーの技術を磨く、という本質を見失っていたことである。
リフティングだけでなく、あらゆる練習に対して、
小賢しい方法を講じて切り抜けようとしていたので、基本を徹底できなかった。
(その四)で述べたドリブル練習にしても、高い意識をもっていたなら、K君とS中君とのバトルのような真剣勝負の場を意図的に作り出して、一対一の技術を向上させたはずだ。
彼らは運動能力に自信があるからこそ勝負を挑むことができ、その本質的な修練の繰り返しで更にうまくなっていくのだ。
一方で、運動音痴の俺はその場しのぎで終わるために技術の向上が停滞してしまうのだ。

その日は10回出来ずに罰走として校庭を1週した後、家に帰った。


郡少年サッカークラブ(その六)

1982年、小5の俺がサッカーに関して知りうることは何だったのか紐解いていきたい。

「人はこっち、ボールはあっち」という見出しで図解されたペレの斬新なドリブル技術、
「白いペレと呼ばれた男」と紹介されたジーコのイラスト、
日本で開催されたワールドユースで大活躍したマラドーナの記事、等が収録された小冊子。
これは市内のサッカー大会で無料配布されたものだった。

識者がその影響をことあるごとに語る「ダイアモンドサッカー」の存在さえも知らなかった。なぜなら、当時の長崎には民放が二局しかなかったから。

大人も子供もプロ野球のナイター中継に熱狂していた時代だったが、
ごくたまに日曜の午後にJSLの試合が放送されることがあった。
父と一緒に視聴していたが、
「何だよ、その意図のないドカ蹴りは!」
「パスが3本も繋がらないじゃないか」
「両チームとも攻める気ないじゃん。眠くなるよ」
とサッカーを始めて間もない初心者同様の俺がくさすものだから、
「できもせんくせに、偉そうなことを言うな」と
父から大目玉を食らったことも今となっては懐かしい思い出である。

驚くべきことに、これらが田舎のとある小学生が得られるサッカー情報のほとんど全てだったのである。

調べてみると、漫画『キャプテン翼』の少年ジャンプでの連載が始まったのは1981年らしい。
その当時、ジャンプは少年誌とは思えないほど、過激な性表現と暴力描写であふれており、親に買ってくれとねだれるような雑誌ではなかった。
かといって、小学生の小遣いで定期購読をするのも現実的ではなかった。
そのため、キャプテン翼の単行本を手にするのは小5の2学期以降になる。

1982年6月、こんなジーコとマラドーナしか知らない俺が初めてワールドカップに遭遇するのである。

郡少年サッカークラブ(その七)

試合形式の練習中、K君が
「ルンメニゲ、ルンメニゲ、…」と連呼しながら守備二人を抜き去りシュートを決めた。

皆、できもしないオーバーヘッドキックに挑戦するものだから、
コーチが、呆れてなのか、安全対策だったのか、定かではないが、
「ゴールを砂場に移動。今からオーバーヘッドキックの特訓をする」と言い出した。

どれもこれもワールドカップの影響である。
しかし、試合の映像を見る機会は訪れなかった。
それもそのはずで、スペイン開催なので、全ての試合は夜10時から深夜にしか生中継されないのだが、その時間まで起きていることは許されない家庭だったからだ。
その当時、我が家には録画機がなかった。
そもそも、知らない国の知らない選手が出ている試合を見ようとは思わなかったし、
バレーボールの印象が強すぎて、サッカーのワールドカップが4年に一度だけ開催される五輪を超える規模の祝祭であることさえも知らなかった。

それでもテレビニュースでの有名選手の紹介には胸を躍らせた。
ブラジルの黄金の中盤を構成する4人の中で、最も体格で劣るが、最も創造的で得点力がある選手、というのが大いに心の琴線に触れた。
その選手とは、言うまでもなくジーコである。
しかし、残念ながらと言うべきか、情報弱者だったと言うべきか、ブラジルの試合を視聴する機会には恵まれなかった。

新聞で、アルゼンチンとブラジルの試合でマラドーナが退場になった、
ブラジルがイタリアに負けて4強入りを逃した、という記事を見ていたが、
映像がないために湧き上がってくるものがなかった。

ある日、学校から帰宅してテレビをつけるとチャンネルはNHKだった。
そこには白と青のユニフォームを着た大男達がいた。
中盤のさほど危険ではない地域でも激しいボールの奪い合いが続き、
時にはスライディングでドリブルする選手をふっ飛ばしていた。
「これは本当にサッカーなのだろうか?」
「これまで見てきたものとは全く違う競技だ」
そんな激しい守備には十分な説得力があった。
なぜなら、ゴールから遠い地域であっても、ほんの少しの余裕を許せば
まかり間違えばゴールにつながる際どいクロスが物凄い速度で飛んでくるからである。

それは二次リーグを勝ち抜いたフランスとドイツの準決勝だった。
録画かダイジェストかは定かではない。

湧き上がるものがあった。
「ああ、守備って、こんなにカッコいいんだ」


郡少年サッカークラブ(その八)

入団して半年が経ったが、少年団内の「上手い」の序列が上がることはなかった。
ボールが浮いている時しか浮き球を蹴れなかったし、ドリブルで抜かれることはあっても人を抜くことはなかったし、パスも近くの上手い奴に渡すだけだった。
運動音痴であることは自覚していたので練習について行っているだけで満足していた。

そんな俺に大きな変化をもたらしたのがW杯準決勝のドイツ対フランスの試合だった。
あの日以来、守備の重要性を強く意識するようになり、また、守備の面白さがわかるようになった。

左利きだったので左サイドを守ることが多かった。
それゆえ、紅白戦の相手チームの右ウイングを務めるS方君に相対峙することになる。
S方君は走力に物を言わせて外側をぶっちぎろうとする。
鈍足の俺が相手なら尚更そう思うであろう。
しかし、その意図があまりにも見え透いていた。
S方君のフェイントに引っかかった振りをしてS方君をライン際に誘い体を寄せると、ボールを奪取するまではいかなくても抜かれない守備をすることができた。
思い通りに突破できずカリカリしているS方君を見るのは快感であった。
味をしめた俺は、S方君にぴったりと貼りつき、S方君へのパスを遮断することを試みた。
体勢が入れ替わって抜かれたとしても、中央には鉄壁の守備を誇るS中君のカバーを期待できるという読みもこの作戦を後押しした。
そうすると、S方君が更にいらつき、ミスを繰り返すようになる。
相手チームの攻撃も自然と逆サイドに偏るようになる。
なんか凄いことをしでかしている気がした。
真空状態の左サイドでは
「このピッチで俺だけがこのサッカーの醍醐味を理解できるんだ」
という不遜な考えに酔っている自分がいた。

左サイドで暇を持て余していた俺は中央で圧力を受けながらドリブルするK君の背後に忍び寄り、ボールに一蹴り浴びせたりもした。
守備がうまくいって高揚していた俺はタッチラインを大きく超えたボールを
走って拾いに行く、等の、所謂、人が嫌がる事を、二重の意味で率先してやるようになった。

すると自然に体力も付いてくる。
リフティングもできるようなったし、息切れすることもなくなった。
そして、公式戦初出場の瞬間を迎えるのである。

郡少年サッカークラブ(その九)

その当時の大村市のサッカー少年団における覇権は、
玖島小、三城小、中央小、西大村小、竹松小によって争われていた。

注釈:竹松小の学区は郡地区の一部であるが、少年団員全員が竹松小出身であった。

ある日、中央小との練習試合が組まれた。
場所は中央小の校庭である。隣の芝は青い、というが、中央小の練習は統率が取れているように見えた。
背も高く技術もある垢ぬけた都会っ子が身に纏う橙色のユニフォームがやけにまぶしかった。
一方の郡のユニフォームは先輩からお下がりを貰い続けた結果のすすけた紫色である。

その見た目通り、練習試合は惨敗した。
その当時の6年生の層が薄かったことと、アウェーの雰囲気に呑まれたためであろう。
出足も悪く、失点してからはチーム全体として走る意欲を喪失していた。

大村市のサッカー少年団の指導者達は大村サッカークラブの選手でもあり、互いに顔見知りである。それゆえにこのような対抗戦は指導力の成果が現れる、言わば体面がかかった戦いの場なのである。

試合後のK尾コーチは明らかに機嫌が悪そうだった。
その日以来、練習後、ノルマが決められてない30m走とダッシュ&ターンのメニューが追加された。息切れして走れなくなった者が出ると、叱咤され連帯責任で走る量が増やされた。
この肉体的にも精神的にもきつい練習は次のような功罪を生み出した。

自分に関して言えば、体力のレベルが明らかに向上した。医学的に確かめたわけではないが、心臓が肥大して血液の供給量が増え、息切れしにくくなった気がした。

その一方で、辞めたり練習に来なくなったりする団員が続出した。
遊び盛りの小学生が、駄菓子屋でビデオゲームに興じたり、漫画をむさぼり読んだりということを放棄して、きつい練習に来る理由は全くなかったはずだ。

自分が上手くなったわけでもなく、棚から牡丹餅的な背景があったにせよ、この追加メニュー実施の結果として、俺は公式戦での先発メンバーとして初出場を果たす。
ポジションは左サイドバックだった。

郡少年サッカークラブ(その十)

野球用語で「ライパチ君」というのがある。少年野球の守備において最も重要度が低いと思われるポジションがライトで、投手の打順を除いて最も打席が回ってこない8番を複合させた用語で、9人しかいないチームで最も下手な奴のことを表しているのである。

少年サッカーにおいてライパチに該当するのが左サイドバックである。その当時は守備が攻め上がるという概念がなかったので、守備だけやればいいポジションだった。守備の責任もセンターバックに比べると微々たるものである。

5年生の夏休み、県大会に通じる大村市の予選が浄水管理センターの敷地内にあるサッカー場で開催された。このサッカー場は大人の公式戦で使用されるくらいだから、とにかく広かった。というより、いつも練習している竹小のコートやゴールが大人用と比べて半分の面積だった。

炎天下で日除けもないサッカー場で20分ハーフの競技を1日3試合こなすハードな日程だった。その3試合で左サイドバックとして先発出場を果たした。

相手チームの右ウイングが一対一を挑んでくれば、後ずさりして攻撃を遅らせ、守備の援軍が来るのを待てばよかった。こぼれ球には迷わずドカ蹴りかタッチラインに逃げ、相手チームが拾いに行っている間の休憩時間を作ることが仕事だった。奪い取ったボールは近くの上手い味方にパス、攻撃している時は守備ラインで休んでいればよかった。とにかく、普段やっていることをそのままやるだけなので全く緊張することはなかったし、走力が上がった攻撃陣が絶好調で、さしたるピンチも迎えないまま決勝に進み、宿敵である中央小にも付け入る隙を与えず見事優勝を勝ち取った。

この大会から卒業まで大村市の大会では無敗だった。K君も体が大きくなり、絶対的なエースとして君臨していたのがその最たる理由であろう。極まれに起こる1点を争う展開でもハーフタイムでK尾コーチからの檄が飛ぶと、後半からは全く違うチームになり力の差を見せつけて勝つことが出来た。

しかし、県大会では長崎市や島原半島のチームに大差で負けた。全くボールを取れそうな気がしない10人にパスで振り回され、気が付くとGKと一対一を作られ、あっさりと失点する。どうしてそうなるのか誰も教えてくれなかったし、あまりの力量差を見せられ呆然とするだけだった。

郡少年サッカークラブ(番外編)

セルジオ越後が大村にやってきた。
御存知ない方のために説明すると、サッカー解説や辛口批評で有名なセルジオ越後はサッカー選手としての晩年を日本で過ごし、引退後、手弁当で日本全国を行脚し長年に渡って少年サッカー教室を開いていたのである。

そのセルジオ越後が大村市浄水管理センターに相棒のカルロスを連れて少年サッカー教室の講師として現れたのだ。

炎天下の中、カルロスがリフティングを披露する。ボールを空中に浮かせて、その蹴り足でボールを跨ぐ技であった。その当時はそんな高等技術を見るのは生でもテレビでも初めてだったので度肝を抜かれた。

試技が終わった後、セルジオの講演が始まった。
「みんな、階段よりエスカレーターに乗りたいだろ?楽したいだろ?」
その当時はスポ根全盛時代だったので、その場の全員が「だけど、試合で楽をしちゃいけない」という結論が来るかと思いきや、セルジオはそんな予定調和を見透かすかのように
「どんどん楽をすればいいんだよ。そうやって人類は発展してきたんだ。サッカーだって同じだよ。楽しようと思って考えるから、いいプレーが生まれるんだ」と言った。
「みんな、学校でずるいことをしちゃいけないと教わるだろう?」
「でも、サッカーは相手を欺きゃなきゃいけない」
のようなマリーシアの進めも当時は斬新だった。

ミニゲームでは大勢の子供が群がってセルジオのボールを奪おうとするが、ただの一度も取れなかった。なにしろ、セルジオがボールを地面に押し付ければ誰が蹴ってもビクともしないのだ。その後はボールを上空に蹴り上げてテーブルクロスのように広げたシャツの上に落として笑いながら歩いていくのである。

この間、セルジオが座談会で話している動画を見て驚いた。白髪が増え完全なお爺さんになっていたからだ。日本代表の試合後の辛口コメントでネット上で「セル塩」と揶揄されるのも日常的な風景になって久しいが、一方で「サッカーファンにとって本当にいい時代になったなあ」と思う。

喩えは悪いけど、セルジオはネズミ講の親玉だったんだ。セルジオの指導を受けた子供たちが大人になり、そのまた子供たちにサッカーの楽しさを伝えているわけだ。セルジオの少しへそ曲がりな性格は子供たちにも受け継がれ、セル塩の解説に異を唱えながらもその当時を懐かしんでいるかのようにも見える。

セルジオにはそんな幸せな時間をずっと味わってほしい。心からそう思う。

郡少年サッカークラブ(その十一)

六年生になった俺は転校することになる。竹松地区の就学人口の増加により、竹松地区の一部の区域は新しくできた富の原小学校に割り当てられたのである。校歌も体育館もプールもない新設小学校での生活が始まると共に学友たちも半ズボンをはかない、休み時間にトイレの鏡を見て髪形を整える等の、思春期を前にした浮ついた行動をし始めた。

幸いに郡サッカー少年団が分裂することはなかった。しかし、富小組と竹小組のサッカーに対する温度差が次第に顕著になってきた。新たに加入した六年生は全て富小で、派閥を形成していた。富小組は夕焼けニャンニャンという夕方4時台に放送されていたテレビ番組を見てから練習に来るので遅れてくることが多く、ファミコンが出始めた時期だったので、サッカーよりもゲームに関心が傾いている雰囲気だったのである。

俺は自宅が他の富小組と離れていたので一緒に行動することはなかったし、彼らの風紀を乱す行動を苦々しくも思っていた。そして、K君を中心とする5年生やS中君とT長君の存在もあり、クラブの根幹と秩序は保たれていた。しかし、大村市内では無敵を誇っていたためクラブ全体として身近な目標を失っている状態だった。K尾コーチの出席率も下がっていた気がする。相変わらず県大会では一回戦の壁を破れなかった。

俺は6年生の冬に先発の座をサッカーを始めて1年足らずのI福君に奪われた。発端は厳冬の雨の中で開催された県大会で、体が冷え切ったせいで無気力プレーをしてしまったせいだ。それがK尾コーチの逆鱗に触れたのだろう。途中交代させられた後は二度と先発に戻ることはなかった。

元々は運動音痴だったので素質がある人に抜かれていくのは当たり前だと思っていた。そして基礎をおろそかにしてきたせいか技術的な成長も鈍化してしまった。I福君とはプロレス好きと言う共通項があったので、富小の近くのI福君の自宅でプロレス技の掛け合いをやった仲だったので、悔しさよりも成長した友を称える気持ちの方が大きかった。

後輩が先に管理職になってしまうサラリーマンの悲哀を齢十二にして味わうことになった俺は、多くのサラリーマンがそうするようにあれだけ愛していたサッカーを中学から辞めてしまうことになる。

サッカーをやっていたお陰で持久力が大幅に上がった俺は2月の校内マラソン大会を俊足で名高いS山君に次ぐ順位でゴールした。有り余る体力を新たな運動への挑戦に注ぎたいと思った。
結局、中学ではバスケ部に入る。しかし、指導教員もたまにしか顔を見せず、集まる人数がまばらなため女子バスケ部と合同練習になる。それはそれで楽しかったが、専門的な指導が受けられるわけでもなく、猛烈に走り回っていた小学校時代と比べてあまりにも物足りない練習だったし、先輩はほとんど来なくなったので、部の自然消滅に合わせて退部することになる。

新しく選んだ部活はバレー部だった。

郡少年サッカークラブ(最終回)

中学生になったばかりの頃、成長期を迎えた。飲んだ牛乳の分だけ身長が伸びる気がした。実際、短期間で10㎝以上も背が高くなった。サッカー部には入らずバスケ部に籍を置いていたので、サッカーボールに触らない期間が2カ月に及んだ時期の土曜日の夕暮れ時、サッカー部の一年生と遊びでやるサッカーのハーフコートゲームに加わることになった。なぜそうなったのかよく覚えてないのだが、推測するに球拾い中心でゲームをする機会に恵まれない一年生サッカー部員が練習終了後に鬱憤をはらすために他の部活から参加者を募ったものと思われる。

メンバーを見ると郡少年サッカー団出身のサッカー部員はS中くんのみで他は福重、松原出身者だった。

久しぶりのサッカーに心を躍らせた俺は精力的に小学校時代に馴染んでいた4号球よりやや大きくなった5号球を追い続けた。

何かが違う。その違和感の正体は空間だった。攻守にわたって急所となる空間が目に飛び込んでくる。そして、その空間をいち早く察知できるのも俺だった。その効果は攻撃でより顕著になった。空いたスペースに走り込み、ボールを受け、しかも奪われることのない俺には自然とボールが集まり、寄せてくる守備を見ながら前後左右に配給すればよかった。結果として、ゴールを決め、アシストを量産し、一年生で初心者も多いとはいえサッカー部が居並ぶ守備陣をずたずたに切り裂いたのである。

生涯で初めてオフェンスに開眼した瞬間だった。背が伸びたことでここまで劇的な変化が押し寄せるとは予想だにしなかった。まず、視野が広くなった。これは眼鏡をかけたままでプレーしたことも関係があるかもしれない。眼鏡をはずしてプレーしていた小学校時代には見えなかった細部の動きが手に取るように把握できた。キック力も向上した。5号球の大きさと芝生もどきの雑草が生えた地面も浮き球を蹴るのに適していた。更に、体が大きくなったことで間合いが広くなりキープ力が付いていた。

その翌週、郡少年サッカー団にお邪魔して練習に参加させてもらったが、自分でも驚くほど「上手い」になっていて驚いた記憶がある。ドリブルで相手を抜き去るということが出来ないのは相変わらずだったが、急所を見極める能力の改善はその欠点を補って余りあるほどだった。

この日以来、俺のサッカー観はオフェンスに傾倒していく。

三年生時の中体連が終わり、昼休みに級友たちと興じるサッカーでもこのオフェンス力は磨かれた。ポジションはセンターハーフ、守備陣が苦労して奪ったボールは俺を経由して、左右のウィングに供給される。中央に戻ってきたボールを止めてラストパスを出す、所謂、お山の大将的な役割は非常に楽しかった。その気になればどこからでもボールを奪取できる守備力もあったので、ゲームの勝敗を意のままに操る事さえもできた。

所詮は素人たちを集めた草サッカーだから出来ることだと言ってしまえばそれまでだが、俺には十分すぎるくらい大きな贈り物だった。贈り主はもちろん郡少年サッカークラブである。


ゴール列伝(その一)

学校指定の緑色のジャージと白の運動靴をまとった男子学生20名余りが寒風吹きすさぶ校庭で整列している。時は1989年、場所は大村高校の校庭、体育の授業で準備運動を終え、クラス内でのサッカーの紅白戦が始まろうとしていた。

6月の高校総体が終わるまでほぼ毎日体力の限界に挑戦するかのように部活に打ち込んできた面々である。受験勉強で体が鈍っているとはいえ、その身体能力は侮れない。ゲームが始まるや否や、ボールのゆく先々に人が密集する混沌とした状態でゲームは推移する。

俺はあえて密集から距離を置き、空いたスペースを彷徨っていた。案の定、密集からのこぼれ球が守備を経由して俺の足元に届けられた。即座に前方にドリブルを開始、位置はセンターサークルの左前方である。マークに来たのは柴田恭兵の物真似で名高いM君だった。右に行くと見せかけて左に切り返す。そのまま抜き去るつもりだったが、M君は態勢を崩しながらも並走してきた。前方には相手チームの守備選手が待ち構えており、直進すれば挟み撃ちに会う可能性大の状況で、俺のサッカー脳は瞬時に最適解を見出すのである。

抜き去った勢いをそのままに右足を強く踏み込みを左足を振りぬいた。その時の視線は足元のボールである。真芯を食ったボールはほぼ無回転で相手ゴールの左上に向かった。ゴールを守るのはボート部で全国大会に出場しスポーツテスト一級を誇るK本君だった。

恐るべきはK本君である。誰もが予想しないタイミングのシュートであったにも関わらず、きっちり反応し、俺とゴールの上隅を結ぶ直線上に手を伸ばしてジャンプしているのである。

ボールは勢いを落とすことなく、K本君の手のやや上空を通過し、ゴールラインを割るはずであったが、無回転であるが故、そこから急速に落下し、見事、ゴールの左上隅に突き刺さったのである。

その瞬間、大きな歓声が上がりチームメイトからもみくちゃにされた。「いや、本当は真ん中を狙ったんだけどなあ」という本音も謙遜に聞こえたようだ。

サッカーから遠ざかって5年半が経ったが、バスケ部、バレー部、柔道部の経験を通して、体の力、およびキック力が上がっていたのだ。この日のゴールは正に魁であった。

ゴール列伝(その二)

2016年12月某日、新設された人工芝蹴球場の苔落としとして、金井区区庁職員チームと釜山大教職員チームとの親善試合が催された。

釜山大総長の肝入りで実施された行事であったが、冬の寒空の下、大粒の雨が降り落ちるという最悪の天候で、
「いくら何でも中止だろう。見ているだけでも凍え死んじまうよ」
と誰もが思っていたのだが総長の鶴の一声で決行されることになった。

その総長は釜山大教授蹴球会の会員であり、自ら試合にも出場するというのだ。そんな彼に誰が中止の進言ができようか。

前半は水溜まりでボールが止まり、サッカーと言うよりは水遊びと言った趣で、総長がCFを務めていたので、接待と言う色合いが強かったが、雨が止み、時間が経つとともに真剣さの度合いが増していった。

俺のポジションは左MFである。この時は仕事が多忙で週一回の教授蹴球会の練習も欠席がちで、走力は全盛期の半分にも満たない状態であった。加えてこの悪天候のため、今一やる気が出ない状態だった。

しかし、染みついた本能と言うのは恐ろしいものである。相手チームのバックパスが水溜まりで跳ねて相手守備が後逸した瞬間、俺は獲物を狙う豹のように駆け上がり、追いすがる相手守備陣を尻目にそのままシュートを放つ。低い弾道のシュートは相手ゴール右隅に突き刺さり、遅れて倒れこむ相手GKとの構図は完璧だった。

観客席のテントの下で戦況を見守るのは大学本部で奉職している教授達で、数学科の同僚も含まれていた。前半が終わった休憩時間では職員から乾いたタオルを渡され、数学科の同僚から
「半端ないね」と言う意味の誉め言葉を韓国語で言われ、鼻高々だった。

後半に入ると総長はスーツに着替え、観客席に座った。空いたCFに指名されたのは俺だった。そして相手チームには前半出場してなかった若手数名が投入されていた。釜山大チーム守備陣は1対0で終わらせると息まいており、体も十分温まり本気度が増していった。実際、両チームの当たりが激しくなり、最前線に陣取る俺には投入された若手が眼を光らせることとなった。

明らかに俺より走力で勝る相手に真っ向勝負を仕掛ける俺ではなかった。一度、中盤に下がり、左右に流れてボールを受ける役割や味方の両翼を活用するプレーで相手チームCBの警戒度を下げることにした。案の定、最終ラインと中盤にぽっかりと空間が生まれ、そこに釜山大蹴球会の司令塔がパスを受け、左に流れていた俺のアイコンタクトに応じて、守備ラインの裏に球を出す。相手CBの視界の外からまくってきた俺に気付いたのは相手GKだけだった。俺は迷うことなく左足を振りぬき、そのボールはGKの足元を抜き、ゴール右隅に相手を嘲笑うかのように転がり込んだ。勝利を決定づける一撃に俺はチームメイト達とハイタッチを繰り返した。

「平均年齢50歳の釜山大チームに負けるはずがない」と思っていた区庁チームの尻に火が付いたのか若手を多数前線に供給してきて猛攻を掛けてきた。

しかし、そうなると守備に穴が開くのは自明の理である。相手陣深くに出された球を俺がキープしていると、相手CBが猛然と詰め寄ってきた。ボールを奪い取られそうになったのは実力の差であったが、勢いに乗じて一回転して倒れこんだため、DFの反則と判定され、FKを得た。そのボールを蹴るのはこれまで幾度も直接FKをゴールに叩きこんできたスポーツ体育学科のS教授であった。

俺は眼鏡を外し、FKのボールに合わせニアに動く。二得点の俺を守備陣が無視できるはずもなく、その背後に飛び込んできたのがいぶし銀のプレイを見せるA教授で、見事なヘディングを決めた。

結局、試合は3対1で終わり、俺はその場にいた釜山大教職員の間では伝説的存在になった。

ゴール列伝(その三)

大村高校では二年生から理系と文系に分割され、その各専攻ごとに成績別でクラス編成がなされる。旧校舎が取り壊され、同じ場所で新校舎の建設が始まるために、仮設のプレハブ校舎で授業を受けた思い出がある。

その頃の俺は全く勉強が手につかなかった。何しろ、部活の柔道の練習がきつかった。高総体で燃え尽きようとする三年生の気合は凄まじく、俺の両耳がレレレのおじさんの様に腫れ上がっても病院で血を抜いた翌日の練習に志願して出ていたほど影響されていた。三年生が引退した後も部活内の最上級生としての責任感から練習で手を抜くことが出来なかった。当時の俺の体重は55Kgで、部活内では最軽量、その俺が80~90Kgもある部員と乱取りをこなすのである。若かりし頃の無尽蔵のスタミナはこの時に培われたのは事実であるが、その代償として、学校の授業時間は常に睡魔との闘いを強いられることになる。
今思い出しても、この時期に何を習ったのか全く思い出せないのである。中間、期末、実力、あらゆる試験で点数は下降線を辿り、中学校までは得意であった国語と英語は悲惨な状態になっていた。

このような状況は俺だけでなく、クラスの誰もが抱えていた倦怠感だった。皆、部活で疲れ果てていたので休憩時間でも会話することもなく、仲良くなることもなく、ただ時間だけが過ぎていった一年だと記憶している。

ところがだ、大村高校の良いところは補習で勉強させるだけでなく、体育大会、文化祭、修学旅行等の行事によって適度な気分転換を促すと共にクラスの連帯感さえも高めてくれるのである。

そのような行事の一つが学期末試験後に実施される球技大会である。運動部に所属する生徒にとっては定期試験の一週間前は部活が休みになるので、心身を癒し、遊び呆ける絶好の機会だったのである。俺もその典型例の一人で勉強そっちのけで球技大会の練習の声がかかれば一目散に飛んでいった口だった。

前置きが長くなった。

二学期の球技大会の種目の一つはサッカーだった。俺は希望を出したわけではなかったがサッカーのメンバーとして登録されていた。寄せ集めであったが、スポーツテスト一級保持者が二名いたし駒はそろっていた。しかし、致命的だったのがサッカー部が一人しかいなかったことである。

大会初日目、我がチームは一年生チームを屠り、二日目の八強からなる決勝トーナメントに駒を進める。

大会二日目、不動のCFであったK村君が発熱のため欠席、主力を欠く中、失点を許さず幸運にも恵まれ緒戦を制す。

準決勝は優勝候補の一角である二年生理系クラスである。日頃から体育の授業で試合をやっているので手の内はわかっていた。そして、埋めがたい実力差があることも。その点で、我がチームの意思統一は明確だった。とにかく亀のように自陣に引きこもり、前後半を合わせた30分が過ぎるのを待ったのである。

狙い通り、試合はPK戦に持ち込まれるが、野球部である相手GKの身体能力が半端なかった。先行で迎えた一本目、左に飛ぶことを見越して真ん中に蹴られたボールを残り足で跳ね上げたのである。それを見た我がチームの面々は二本目を蹴るのを嫌がった。

普段は小心者であるが、PKの時は別人になれる俺である。
「なら、俺が行くよ」と申し出て、GKと相対峙した。

俺は左利きである。なので、ボールに向ってやや右側に立つ。
眼鏡越しにGKを観察すると、不審そうな顔をしている。俺は心理戦で優位に立っているのを感じていた。そしてGKは向かって左に飛びそうな気がした。なぜなら、GKは俺を右利きと思っているだろうから、今の俺の位置で右足で右に蹴るのはいかにも窮屈に見えるからだ。俺の読みがあっていたのか偶然なのか定かではないが、GKは左に飛び、俺の蹴ったボールは右隅にゴロゴロと転がりサイドネットを揺らした。

このPKで息を吹き返した我がチームは味方GKのファインセーブもあり、PK戦を制し、決勝に進出する。

決勝で俺らを待ち受けるのは郡少年サッカー団で同期であったU田君率いる断トツの優勝候補であった。U田君は小中高とサッカーを続け、その類まれな統率力から「大将」と呼ばれていた。しかし、彼の膝はボロボロでテーピングを幾重に巻いての出場だった。たかが球技大会にそこまでの献身を強いられることは前述の統率力の裏返しにも思えた。

我がチームの作戦は準決勝と同じ、そしてU田君をマークするのは俺の役割だった。防戦一方の一方的な戦いの中でも決定的な場面はそれほど多くなかった。違いを生み出せるU田君へのパスは俺が寸断し、通った場合には体を寄せて足をボールに絡めた。その時、U田君が倒れ膝を抱えて悶絶していた。現在であれば狂気の沙汰であるが、スポ混根全盛の当時では時々見られる光景である。体を寄せるたびに心が痛んだが守備の強度を落とすつもりは毛頭なかった。

スコアレスで後半終了の笛を聞いた後、再びPK戦を迎える。終了間際の相手チームには明らかに焦りの色が見られた。そして、準決勝のPK戦を制して決勝に来た俺達には精神的余裕があるような気がした。

三人目のキッカーは俺、ゴール裏には同じクラスの女子生徒がひしめいており黄色い声援を送っている。道端で同級生の女子とすれ違った時、挨拶できずに無視した格好になってしまい自己嫌悪に陥るほど奥手だった俺だが、ピッチに立っている時には別人と化すのだ。

俺は欲を出した。単にPKを決めるだけでなく、ネットを豪快に揺らす強烈な一撃を叩きこもうと。狙いは中央、GKの頭の上である。俺は助走を長くとった後、腰の力が足の甲に伝わるような蹴りを球の真芯に伝えた。狙いとは異なり、GKのやや右上に飛んだがネットを揺らすことには成功した。

その後の選手も成功して見事に優勝を飾るのだが、二回目のPKを決めた後の、何とも言えないもやもやとした爽快感が今でも心に焼き付いているのである。


ゴール列伝(その四)

大学に入ってから博士を取得するまで九大芦原空手同好会に出入りしていた。そこで学んだことは腰の入れ方である。手首のわずかな動きでうなりを上げる鞭のように、腰から始まる初動が手足の末端に伝わる頃には速度が最大になり、物体との衝突時に腰を入れることによって衝撃が増すのである。これを会得した時、蹴りの威力は勿論のこと、あらゆる挙動の斬れが増し、空手が更に楽しくなった。

しかし、この鍛錬がサッカーに生かされることはなかった。遊びでやるサッカーはミニゲームばかりで、大きな展開やシュート力を披露する必要がなかったからである。転機が訪れたのは韓国の浦項工科大学で研究員として在籍して一年が経ってからだ。研究漬けの毎日で数学以外のことは後回しだったのだが、一年経って生活に余裕が出てきたのだろう。校舎前のグランドで毎週一回数学科サッカー同好会の練習があるという情報が耳に入り、早速、飛び入りすることにしたのだ。土のグランドであったが広さは通常のサッカー場と同じであった。

俺は左の守備を任されることが多かった。韓国サッカーと言えば走力に物を言わせたフィジカルサッカーという先入観を持っていたのだが、意外や意外、浦項工科大学で展開されるのはショートパスを繋いで攻めるお嬢様サッカーだった。

だが俺の考えは違った。守備ラインからボールが来ると間髪入れず味方の攻撃手が動き出せるスペースを狙ってロングボールを蹴った。その頃の俺は空手で培ったキック力に加え、ボールの芯を捉えて振りぬく蹴り方に意識を置いて練習してきたため、俺の左足から放たれたボールは高い弧を描き羽が生えたように柔らかく地面に落ちるのであった。そのパスがゴールに直結することは一度や二度ではなかった。

ある時は、右サイドで手詰まりになった状態からバックパスを受け、ゴールに向かって曲がり落ちるセンタリングを放ち、決勝点を演出したこともあった。このように、ロングパスには絶対の自信を持っていたのだがゴールに恵まれることはなかった。

ある夏の日、集まった数学科の学生は16名しかいなかった。この天気この人数でフルコートゲームをやるのは自殺行為だろうということで、両側のゴールをゴールラインまで移動して、やや狭くなったコートで8対8のゲームをすることになった。

センターラインでボールを持った俺は思った。
「なんか、ゴールが近く見えるなあ。これなら入っちゃうんじゃないのか」
やや遊びの要素が入ったゲームだったし、暑いので誰も取りに来ないのをいいことに俺は左足を振り抜いた。ところが、足が上手く当たらずスライス回転が掛かったボールはあらぬ方向に飛んでいき、
「何をやっているんだお前は」という意味の口を押え指をさすジェスチャーさえ浴びてしまう結果となった。

その時は反省する振りはしたが、ピッチ上の俺はその程度でめげたりはしなかった。ゲーム終盤で疲れで全員の足が止まる頃、再びセンターラインからのシュートを試みた。そのボールの軌道はほぼ直線でジャンプして手を伸ばした長身GKの手をかすめてネットを揺らすという、実に絵になるゴールであった。

この日の成功体験が元になって釜山大での教授蹴球会でも数々のロングシュートを決めるようになったのであった。

ゴール列伝(その五)

釜山大学教授蹴球会が結成されたのは2007年の秋だった。その噂を数学科の先輩教授から伝え聞いた俺はその練習場である陸上競技場に赴いた。陸上トラックの内部は緑の人工芝が敷き詰められている。

小学生のころからずっと、サッカーをやるときは土かコンクリートか原っぱでやるのが相場で、緑の芝のフルコートでサッカーをするというのは夢のまた夢の世界だった。というわけで、目の前に広がる緑を見て感動で打ち震えていたのである。

この教授蹴球会というのは発足したばかりで体系的な練習は皆無で、体を慣らすために適当にシュート練習をやって、実戦形式のゲームを始めるのが常であった。驚くべきは、そのチーム分けが教授チームと経営学科サッカーサークルに属する大学院生チームとで試合をすることである。

教授チームは年齢も容姿も様々で、過去に実業団に所属していた教授がいたり、白髪の方が多い定年間際の教授がいたり、訪問教授として釜山大に滞在しているドイツ人、エジプト人、そして教授チーム最年少の日本人がいた。

一方の大学院生チームは足元の技術がしっかりしているのは5名くらいで、残りは素人に毛が生えた程度だった。それでも、走力で圧倒的な優位性を誇る大学院生チームは、教授達がパスを繋いで前掛かりになるのを見計らって怒涛のカウンターと正確無比な決定力で得点を重ねていくのだった。

教授側は失点してばかりで面白くないのか、経営学科所属の教授陣の権力と忖度力を行使して、オフサイドの判定を教授側に都合の良いように下したり、怪我させないように軽めの守備を学生に徹底させたりする、等の対策を講じていて、その結果、大敗はするものの気持ちよく攻撃ができるような関係を維持しながら、試合は推移していくのである。

その日の俺はスニーカーで試合に参加し、大差がついて学生たちが守備を甘くし始めた終盤で、相手ペナルティエリアからのバックパスでアシストを記録したのみだった。心の中では、
「みんなサッカーを楽しんでいる和気藹々とした雰囲気は素晴らしいなあ」と思う一方で、
嘲笑うようにゴールを重ね、如何にも接待していますという態度が見え見えの学生チームに対して、「いつか目に物を見せてやる」という恩讐の念が宿っていた。

俺はその日から数日間筋肉痛に苦しむこととなる。しかし、翌週の練習日には筋肉の超回復が起こり、その前の週よりも長い距離を速い速度で走れるようなった。そして、再度、極度の筋肉痛に悩まされ、超回復が起こり、スピードとスタミナに大きな改善がもたらされた。それが繰り返され一カ月も経つと、当時35歳の俺であったが生涯でも最高とも言えるフィジカルを得るに至った。

その時の俺は高速道路を時速200キロで縫うように走るポルシェとも言える存在だった。学生チームのエース格との一対一でも一方的にやられることはなかったし、攻撃だけやって決して守備に戻ってこない教授チームの中で前線から守備最終ラインまでの距離を走り、実質的な守備力を上げ得る唯一の存在だった。それまでフリーでボールを受けGKの位置を見ながら容易くゴールを奪っていた学生チームだったが、俺の守備力向上と俺に次ぐ若手のY教授のCB固定によって大量失点する試合は激減していたのだ。

攻撃陣はドイツ人であるガーノットの右ウイング定着とエジプト人であるオサマのCF起用で学生からの忖度を受けずとも好機を作ることが出来るようになっていた。日本人である俺は中盤の底で相手チームの逆襲の芽を摘み、奪ったボールを前線に供給する役割だった。

俺の初ゴールは正にそんな展開から生まれる。俺は奪ったボールをこねずにがら空きの右サイドに配給、そこにはガーノットがトップスピードで走りこんでいた。中に絞るDFの逆を突いて右サイドの最深部から前を向いたまま中へのセンタリングを供給する。そこに走りこんだのは勿論俺だった。ボールが地に着く前に足の甲に乗ったボールは掬い上げられ、ドライブ回転が掛かり、ゴールに突き刺さった。すかさず、オサマが駆け寄り、ガーノットが続き、喜びを分かち合った。

走りに走って守備で貢献しゴールを決めた時の気分は格別だった。

郡中賛歌 その一

今となっては信じてもらえないかもしれないが、35年前の日本の男子中学生の大半は坊主頭もしくはスポーツ刈りで学校に通っていたのである。俺が生まれ育った大村市内の中学校では坊主頭にすることが校則で定められていたが、唯一、郡中のみが頭髪の自由が認められていた。

体育館には「自主、自立、連帯、創造」という文字が大きなパネルに掲げられている。何でも、生徒会が校則の緩和を巡って教員側と折衝を続け、全校生徒の投票という民主的手続きを経て、勝ち得たものらしいのである。

産まれたばかりのアヒルが初めて見るものを親と認識して追跡するように、何の事情も知らず郡中に入学してきた俺は、「へええ、中学校ってそんな感じなんだ」という感想しか持ちえなかった。 

今、振り返ると、体罰が横行し、それを抑止するスマホがない時代にこの民主主義の模範のような事例は奇跡的ともいえるのではなかろうか。

「ああ、郡中、我が母校」
入学式にて、校歌の締めくくりのこの歌詞を何の疑問も持たずに歌っていた俺は、郡中の何たるかを一ミリも理解してなかった。

郡中賛歌 その二

小学生気分が抜けきれないまま詰襟の制服に着られていた俺は知り合いが数人しかいない教室の右側最前列の席で居心地が悪そうに座っていた。

舞台は郡中学校で、担任そして級友との初対面の日であった。席順はあらかじめ決まっており、男女が隣り合うように配置してあった

俺の右隣には色白でそばかすが目立つ猫のような顔付きの女生徒が座っていた。横目でその容姿を見た瞬間、俺は今後の中学校生活への期待に胸ならぬ鼻を膨らませていた。何故なら彼女は他の女子生徒とは異なる雰囲気を醸し出していたからだ。今になって思えば、セーラー服の上着も寸胴型でなく、ウエストを強調するようなワイングラス型だったし、髪もほのかに栗色で質感があるようにセットされていたし、鞄も極端に細かったし、いわゆる不良少女の走りのような格好で、それが琴線に触れてしまったというわけだ。

その鞄の極細さ故なのか彼女は頻繁に国語の教科書を忘れ、俺はその度に机を寄せて教科書を見せてあげていた。右側から頭を傾け教科書をのぞき込む彼女には中学生だけが持ちうる色香が漂っていた。俺の側からは教科書は見えず、栗色の髪の毛だけが見えた。

様々な校区から寄せ集められた互いの素性も碌に知らない集団であるのに授業の雰囲気は極めて良かった。教師が話すこと書くことを聞き写す授業から双方向型の授業への転換の必要性が叫ばれて久しいが、俺が所属する組では、教師が一言喋ると、生徒側からの野次、突っ込み、批評、ボケが10倍の量になって返ってくるという小学生気分の延長という言葉では済まされないほどの夥しい熱量に溢れていたのだ。

その頃の俺は無口ではなかった。授業中での応酬にも積極的に参加していたし、真面目そうな風貌と下ネタとのギャップを利用して笑いを取る事を得意技にしていた。例えば、彼女が両手に荷物を持っていて俺の机の上にその荷物を置いて事後承諾的に「置かして」(方言)と言うと薄笑いを浮かべて「もう一回言ってみて」と返すような証拠の残らない上品な下ネタを信条としていた。

日が進むにつれて彼女との会話も増えていったが、異性として意識する事はなかった。なぜならば、憧れの対象はあくまで先輩で同級生とかは子供っぽくて眼中にはない、というのが中一の男女に共通する不文律だったからである。

郡中賛歌 その三

郡中に入学すると同時に俺の体は第二次性徴を迎えた。声が変わり、乳頭が腫れ、背がぐんぐん伸びた。そんな思春期真っ盛りの俺を取り囲む中学校という環境は性的刺激に溢れていた。

過去の遺物となって久しいブルマーは、女子生徒全員が何の疑問もなく着用していたし、両太ももを露わにして体育の授業や部活動での練習着として活用されていた。そして専用の更衣室も部室もなかった。女子生徒たちはトイレや屋外で自らのスカートをカーテン代わりにして着替えていたし、体育館の舞台横の用具入れの空間を部室として使用していた。舞台の奈落は女子部員が着替えを行う場所で、その仕切りは押せば倒れるベニヤ板だった。そのため、新入部員は上級生の鉄砲玉となり、ベニヤ板に体当たりさせられたのである。そんな修学旅行的なノリが日常的に繰り返されたのである。

俺はバスケ部に入った。その当時のバスケ部は毎回顧問の教諭が指導に訪れ、中体連を目指す三年生は鬼気迫る雰囲気で練習していた。球拾いと基本ばかりの練習だけだったが、痛めた膝をかばいながら部員を引っ張る三年生の雄姿を見るだけで得した気分だった。しかし、中体連後、三年生が引退すると、顧問は一度も顔を見せず、二年生も外の練習には参加せず、日毎に部員が減っていき、体育館練習の時でもコートを全面使用したい女子バスケ部に吸収される形で合同練習をやる羽目になった。去勢されたような情けない気持ちで渋々合同練習に参加していたが、その当時の女子バスケ部の二年生は美女揃いだったので、辞めるに辞めれない状況が長引いてしまった。

このような環境で自意識過剰な中学生の求愛活動は頭髪によって表現された。女子はこれでもかと細かく櫛を入れ髪を整え、ある時は校則破りのパーマを天然と言い張り、男子は「涙のリクエスト」で歌い踊るチェッカーズの面々の髪形を競って真似た。

入学する前は「男一匹ガキ大将」のような身なりに鈍感なほどカッコいいという世界を想像していたので、俺を取り巻く全てにおいて軟弱な風潮に戸惑いはしたが、自分自身の肉体的成長に伴う未来への希望と光は高まるばかりだった。

郡中賛歌 その四

順風満帆であった郡中での生活であったが、秋の訪れに歩調を合わせるかのように様々な種類の陰りが真夏の太陽の光を遮っていくのだった。

その当時の郡中には体罰が蔓延していた。校則を守り教師に従順な俺であっても体罰を回避することは出来なかった。授業中の野次でその教員の頭髪に関することを口にしてしまい、怒りで顔を紅潮させた教員からの平手打ちを喰らったし、放課後に校内をヘルメットを付けずに自転車に乗ったという罪で職員室に呼び出され嗜めるというにはあまりにも威力のある拳骨を喰らったし、連帯責任やとばっちりなど様々な種類の体罰を受けてきた。

生活指導で摘発されるような気合の入った生徒は武闘派教員の鉄拳制裁を受け、涙を流して心からの反省をした後、同じことを繰り返すのだった。女子バスケ部の顧問は練習態度が悪いという理由で部員を殴っていたし、他の運動部でも喫煙事件が起こる度に暴力による指導が行われていたことだろう。

いつしか俺らは教員の名字を呼び捨てするようになった。授業中の応酬も鳴りを潜めていき、教師からの問い掛けにも「わかりません」が連発されるようになった。もはや教師は尊敬の対象でもなく絶対的な力を持つ存在でもなかった。おそらく、教師の目には生徒は悪鬼のように映ったはずだ。

俺も二学期になり練習をしないバスケ部に見切りをつけ、真面目に練習してそうだという理由でバレー部に転部することになる。

郡中賛歌 その五

小中学校の教師は民主主義の素晴らしさを声高々に語った。学級内で揉め事が起こると、帰りの会での話し合いの後に和解し、学級内の決め事は多数決に委ねられた。この民主主義ごっこは教師がスーパーパワーとして君臨している小学校では思想的な破綻なく運営されていたのだが、教員と生徒の利害関係が対立する中学校では途端にメッキが剥げてしまうのである。

中学校に入学して半年も経つと、生徒側に主権がないどころではなく、管理そして支配されるだけの存在だということを薄々感じるようになるものだ。司法、立法、行政の三権を握っているのは教員側で、労働団体に徹しきれない生徒会は傀儡政権に過ぎなかった。

では学校の統治形態が民主主義かというと決してそんなことはなく、校長先生の挨拶の時に私語をしていた生徒に怒号を飛ばす体育教師は親衛隊のように見えたし、服装や髪形は某社会主義国のように統制されていたし、一部の教員は書記や委員会という言葉を好んで使っていた。そして体罰の基準は各教師の裁量に委ねられており、その恐怖が無ければ秩序を保つことが困難であったのだ。

そんな状況を招いた理由を教師の体罰のみに帰すると主張する気は毛頭ない。あの当時の漫画「Be-Bop Highschool」の影響は凄まじく、小学校時代に学級の中心にいた奴らはこぞってリーゼントや剃り込みを真似し、某国の民族衣装と類似する変形学生服を身に纏い、それを摘発する教師から厳罰を受ける毎に箔が付くと言う風潮が形成されていたのである。一概に不良と言ってもその内訳は多様だった。女子生徒の気を引くためのファッションとして不良の格好をする者もいれば、家庭環境の悪さや勉強だけが強調される未来への絶望感から犯罪行為に走る者もいた。傘や自転車はすぐ盗まれ、部室や便所ではたばこの煙が上がり、リンチや恐喝の温床となっていたし、学生服のズボンの幅が学校内の地位の高さを示す階級社会だったのだ。

二年生になって部活の先輩が引退した時、学級内の雰囲気が大きく変わった。
不良グループに属さない大多数の生徒は恐喝やいじめの被害に遭わないように極力目立つことを避けて、口をつぐんで生きていく他なかった。こんな情報統制された暗黒社会で汲々としていたのである。

これが頭髪自由で自由民主主義の理想を掲げる郡中の内実だったのだ。

だのに何故、郡中賛歌と題したのか、その理由は俺がバレー部に転部したことと無縁ではない。

郡中賛歌 その六

俺が男子バレー部に転部した理由の一つが部員の多さだった。ここに入れば定期的な練習の場が確保されると思ったのだ。そして、当時身長が伸び盛りだったので、バレー部に入ればさらに伸びるかもという非論理的な願望も入部を後押ししていた。

練習に参加して驚いたことの一つがスパイクで放たれる球の速度だった。サッカーでは経験したことのない軌道で向かってくる球は恐怖そのものであった。1年上の先輩には何人か知っている人がいた。その一人が竹松小バスケ部のエース格だった人でその運動神経の良さ故に学年を超えて一目も二目も置かれている存在だったのだ。しかし、彼はバレー部において中堅格でしかなかった。その当時のバレー部にはY村さんという絶対的なエースアタッカーが君臨していたからだ。Y村さんが跳躍するとしばらく降りてこないのも不思議だった。反り返った上半身としなった右腕で打ちおろされる白球には強烈なドライブがかかり、ありえない軌道でコートに杭を打つように突き刺さるのである。その瞬間はコート上の誰もが視線を集める極上のエンターテイメントだったのだ。それは俺の主観だけではなかった。他校との練習試合の度に相手チームの監督から目を掛けられ進学先の指南までされていたし、実際、バレーの実力を認められて進学したと聞いている。

郡中バレー部はY村さんを中心に動いていた。その求心力の強さと眩しいばかりの人柄故に、他の部員が少々不良っぽいのは全く些末な事象に見えた。事実、他の一年生部員も先輩の前では甲斐甲斐しく球拾いをしていたし、服装や髪形も常軌を逸したものではなかった。

俺は背も低い初心者であったが、壁打ちやサーブが時間とともに上手くなっていき、スパイクに対しても反応して倒れ込めるようになってきた。所謂、初歩から中級への上昇曲線上にいる楽しさを味わっていた。いい部に入れてよかったなあと思い始めた頃、事件が起こった。

郡中賛歌 その七

バレー部の一年上の先輩の中に理不尽なキレ具合を芸風としている人がいた。個人的には技術指導もしてもらっていた優しい先輩の一人である。

ある日、バレー部の一年生全員で学校内をジョギングしていた時、水飲み場で休憩していた二年生の一人が立ち上がって、何かを投げつけてきた。1年生の一人が「うわあーっ」と声を出して笑いながら飛び抜けていたので、水風船か何かのいたずらだろうと思っていたが、部員の一人が額を朱に染めうずくまっているのを見た時、血の気が引いた。それは直径3㎝ほどの小石の散弾だったのだ。負傷者を保健室に連れて行き、顧問の教員の知る所となったが、暗黙の了解だったのか、一年生同士で口裏を合わせ、犯人は有耶無耶のままで事件が処理されたと記憶している。

俺はその場に居合わせなかったが、派手な格好をしつつあった一年生は体育館横の倉庫で二年生から粛清されたこともあったらしい。中学生時代の1年の差は顕著である。俺を除く1年生部員は上級生による愛の鉄拳によって抑圧された鬱憤が充満した状態になっていたようなのだ。

二年生になり、中体連の一カ月前、大村市内の中学校のバレー部が集まる練習試合で窃盗事件が起こった。犯人は特定されたらしい。俺を含むバレー部の2年生全員が呼び出され、顧問の教諭からこう言われた。
「お前らの誰かがやったという証拠が挙がっている。何のケジメもなしにやり過ごしたら、郡中バレー部全体の責任となり、対外試合禁止になるだろう。そのことをお前らの先輩に話したら、烈火のごとく怒っていた。もしお前らが犯人として名乗りでたらただでは済まないだろう。そこでお前らのことを思って提案がある。もう二度とこんな事を繰り返さないと対外的に示すために頭を坊主にして来い」

中体連後は部活内で最上級生になることを見越してツッパリ道を極めるような髪形にキメようと目論でいた時期だったので、彼らの葛藤は察するに余りあるのだが、出場停止と上級生からの粛清を避ける方法はほかに見当たらなかった。

その翌日、俺は生涯で初めての坊主頭で登校した。

この事件をきっかけに俺は周囲に心を閉ざすようになった。歯の矯正を始め、歯という歯に銀色の矯正器具を接着していたこともその理由の一つだった。授業中に指名されても「わかりません」と答えていたし、クラスの女子から話しかけられても会話が終わってしまうような返答しかしなかった。

二年生時の中体連終了後、それまで抑え込まれていた鬱屈した被支配者意識を物語るかのようにバレー部の同級生たちは奇抜な髪形と不良の階級を示す変形学生服の着用に精を出し始めたのだ。

郡中賛歌 その八

俺が中学二年生の時、郡中の荒れ具合は尋常ではなかった。校庭にはバイクの轍が残り、昼休み後に火災報知器の非常ベルが鳴らされ、全く火の手が上がってないのに全校生徒が校庭に避難することが何回も起こった。義務教育のために退学にならないことをいいことに髪形や服装は過激化する一方であったし、それを咎めようとする武闘派教師の体罰の度合いが増していったし、見せしめ的な体罰も横行していた。極めつけは「勇気ある生徒会長殴られる」という見出しで新聞沙汰になったことで、傀儡政権と反政府軍の対立の構図が浮き彫りになり、対外的なイメージは下げ止まることがなかった。

いじめにあわないよう、恐喝されないよう、目立たぬように、息をひそめて生活していた俺であったが、バレーの練習だけは欠かさず出席していた。俺を除くバレー部の同級生たちは例外なく髪形が派手で階級の高さを誇示するワタリ幅が広い学生ズボンを着用していた。このことは彼らが同学年の全男子に影響力を持つだけでなく、階級上位者の中で世論を形成する主流派であることも意味していた。彼らに迎合しない俺は部内では浮いた存在だったが、決して虐げられる存在ではなかった。「カツサンド買ってこい」などと使い走りを言い渡されたことは一度もなかったし、暴力の被害にあったこともなかった。彼らは気が合う仲間ではなかったが、少なくともバレー部の活動をする時は、ただバレーが好きな気がいい連中だった。俺は服装や髪形で彼らに迎合することはなかった代わりに、彼らの不良道にも一切干渉しなかった。

入部から1年半が過ぎ3年生になった頃、周囲に心を閉ざしていた俺の心に変化が起こった。朱に交わっても紅く染まらなかった俺でも、部室で一緒に弁当を食ったり、学校の近所に住む部員の家でBombやMomokoの鑑賞会をしたり、冬の寒い時期の外練習をわずか4人で乗り切ったり、馬鹿話や猥談に加わったりしてると、自然と彼らに対する親近感が湧くようになってきた。そのことは郡中の悪の上限が定まることを意味していた。何を言いたいかというと、荒れまくった郡中であるが、
「暴走族の予備軍に属していて上納金を得るために恐喝を繰り返す」
「ヤクザから渡されたシンナーを売りさばく」
「売春斡旋の片棒を担う」
「犬や猫を惨殺するサイコパスな事件が起こる」
「弱い者いじめを止める者がおらず自殺者が出る」
「校内をバイクで滑走し、授業中に堂々とマージャンをする」
のような悪とは無縁だったということだ。

弱い者いじめに関しては、バレー部内で下級生を粛清したことがあったらしいし、不良グループ内でのリンチもあったし、金品を要求する恐喝もあった。被害者の人には一生消えない心の傷となっただろうし、俺自身も起こった異常に対して積極的に関わろうとはせず、むしろ傍観者を決め込んでいたのである。この時の無力感が高校の時の部活に柔道を選ばせることとなった。

郡中賛歌 その九

中三になった。学級も再構成され、担任も変わった。担任だけでなく音楽と社会を除く全ての科目の担当教員が変わった。新聞沙汰にもなった郡中に対する県教委の処方箋だったのか定かではないが、新たに赴任してきた教員達は、若手熱血、中年風来坊、熟年人情、研究者肌、豪放磊落のように多様なタイプで構成されていた。郡中生徒とは体罰による確執がない状態だったことと中二病が治りつつあったことが重なったせいなのか、教員と生徒がぶつかり合いながらある種の信頼関係が醸成されていたような気がする。

話は脱線するが、前述の変わらなかった音楽と社会の教員に触れてみる。

音楽の教員は背が低いためか、名字ではなく名前をちゃん付けで呼ばれていた。笛吹けど踊らない生徒たちに合唱の指導をするのは並大抵の苦労ではなかったと思うし、過大なストレスを伴ったに違いないのだ。彼女の授業は、教科書を一切用いず、彼女が準備したドイツ語混じりの合唱曲を中心に据える方式だった。そこで学んだ曲の数々は32年経った今でも心に残っているということをお伝えしたい。

社会の先生は自由の素晴らしさを強調する人だった。彼の授業は歴史、地理、公民への興味と関心を大いに高める素晴らしい内容だった。授業の価値だけで飯が食える真のプロフェッショナルであった。

脱線ついでにまた脱線する。

郡中には、目の前で起こった交通事故で両親を亡くしたショックで精神分裂になったD君という生徒がいた。D君は合唱の時に奇声を発するので「Dの声が聞こえなくなるくらい大声で歌え」と指導されていたのを思い出す。その身の上から来る同情心からかD君は人気者で両脇を女子生徒に抱えられて廊下を歩いていた。郡中には特殊学級もあったがD君は普通学級に通っていたと記憶している。

生徒間の貧富の差は制服のお陰で露わにはならなかったものの、厳然として存在していたし、学習到達度もまたしかりである。様々な背景を持つ様々な性格を持つ者達が選別されることなく集められたのが郡中であり、そこは正に社会の縮図で、様々な矛盾や善悪の基準が入り乱れ互いにせめぎ合っていたのだ。

俺は三年間の苦悩と葛藤を経て、悪の上限を知り、嫌なことだらけの毎日でも些細な良い出来事に幸せを感じるようなこの社会を、在るがままに受け入れることが出来るようになった。だからこその郡中賛歌なのである。

郡中賛歌 最終回

二年進学時のクラス替え以来、あの右隣の彼女とはすっかり疎遠になってしまった。校内ですれちがうことはあっただろうけど、話すことはおろか目を合わせることもなかった。

二年生の冬、寒風が吹きすさぶ運動場で持久走大会か何かの行事があった。俺は計時係で風よけが付いた簡易テントの中に設置された二組の机と椅子の右側にジャージを着て座っていた。ストップウォッチや記録用紙を確認していると左隣にセーラー服の上にカーディガンを羽織った彼女が座って来た。その瞬間、偶然、俺の膝と彼女の膝がぶつかった。驚いて横を見ると、彼女は「久しぶりね」と言いたげな微笑をたたえていた。

そこにいた俺は入学式の時とは別人だった。第二次性徴が一段落して異性を意識するようになり、すれ違う女子生徒に挨拶も出来ない程、異性を遠ざけていた。

彼女は随分と大人びているように見えた。自意識過剰だった俺は彼女からの視線を度胸を試すような挑発的なものと感じた。俺は赤面した顔を隠すために反対側を向き、無言で計時の仕事をこなした。

この日の夜ほど自己嫌悪に陥ったことはなかった。


その出来事から季節が三回変わった。俺は三年生になり、相変わらず歯の矯正のために大村小の近くにある歯医者までバスで通院していた。その帰り道、自宅に最寄りの原口アパート前バス停で下車しようとする時、乗車するためにバスの前で待っている彼女の姿が目に飛び込んできた。

彼女の自宅は大村市北部に位置しているので、彼女がそこにいることは俺を困惑させた。以前の俺との違いは異性に挨拶できるようになったことだ。
「な、なんでここから乗ってくんの?」と俺が言うと、彼女は
「ちょっと、わけありなのよ」と言いたげな微笑を浮かべ、無言でバスに乗って行った。

あの時、バスに乗ろうとする彼女の腕を強引に引っ張り、
「次のバスに乗ればいいじゃん」とでも言えば、1年の時のように会話に花咲くこともあったかもなあ、と言うのは俺の勝手な妄想である。後日、彼女がこのバス停にいた理由が分かり、大いに失望することになるのだ。

三年の冬を迎え、教室の雰囲気は受験色に染まりつつあった。俺も例外ではなく、難関私立校の数学問題集を解いていて、あまりの難しさに知恵熱を出し、寝込んだりもした。
「彼女は何処の高校を受けるのだろうか?」と思いはしたが、同じクラスの級友達の動向や自分のことに関心が向いていたことは否定できない。彼女が何組にいるかさえ知らなかったし、調べようともしなかったからだ。受験の日が近づいてきて、俺はあることに気が付いた。それは同じ校舎で生活していても掃除時間や昼休み時間に彼女を目にすることが一度もないという事実である。しかし、目の前に迫る受験、その後に訪れる合格発表、旧友との別れを惜しむ時間、卒業式と言う時間の流れの中で、
「どこの高校に進学するの?」と彼女に会ったら聞いてみようという思いが忘却されていった。というより、その仮定が満たされることはなかった。

進学先の大村高校に入学する前、自宅の個室の模様替えをする時、中学の教科書を整理して処分しようと思い立った。しかし、空で言えるほど朗読を繰り返した詩や文章が掲載されている国語の教科書は棄てるに忍びない気持ちにさせる難物だった。もう一回だけ読み返してから捨てようと思い、一年生の教科書を思い出と一緒に頁をめくっていると、頁の間に、まるで長年発見されるのを待っていたかのような、栗色の長い一本の髪の毛が佇んでいた。

その瞬間、胸がきゅうっと締め付けられ、同時に大いなる喪失感が襲ってきた。
「もう彼女は自分の前には二度と現れない」
冷静に考えれば、狭い大村なのだからボーリング場やアーケードを歩けば偶然会うこともないわけではないし、俺に確固たる意志がありさえすれば卒業アルバムを頼りに連絡を取ることは可能なのだ。

しかし、直観したことがそのまま現実となっている。少なくとも現在までは。

昭和最後の五教祭

大村高校柔道部夏合宿の最終日、総仕上げの乱取りで巻き込み投げを喰らい鎖骨を折った。その一週間後、学級のHRで文化祭での学級対抗合唱コンクールに関する話し合いが行われた。俺は「面倒くさい事には関わりたくない」と思っていたのだが、それは休み時間も惜しんで予習復習に励む級友達と「行事で浮かれる期間を最小化したい」担任教諭との共通の思いでもあった。そうでなければ、立候補者が一向に現れない指揮者をジャンケンで決めたりはしないはずだ。

放課後の教室で茫然と立ち尽くしている男が誰かは言うまでもないだろう。

俺は鎖骨の痛みを抱えながら覚束ない足取りで音楽室に向かった。
「今度、指揮者をやることになったんですけど、鎖骨が折れていても出来ますかね?」
「無理です」と言われることを期待して切り出したが、音楽の先生からは
「指揮者とは巨人軍の監督と並び称されるほど名誉があり、やりがいのある仕事だ」と返され、三拍子の熱血指導が始まった。そのおかげか、俺の胸に青き炎が宿った。

一回目の全体練習は音楽の時間に行われた。
「あんまり声は出てないけど最初にしてはまずまずなのでは」と言う感想を抱き、何の心配事もなく時だけが過ぎた。

その当時、俺は学級内スクールカーストの最下層に属していた。中学校からの同級生は女子ばかりで、相談に乗ってくれるような級友はまだできてなかった。要するに俺が何を言っても他人事なのだ。そんな雰囲気の中、二回目の男女別練習を行った。

案の定と言うべきか、指導者不在の状態で声を出そうとする者はほとんどいなかった。俺は無言で両手を振り続けるだけの所謂空回り状態で、
「早く終わんないかなあ」という白けた空気の蔓延を肌で感じていた。何を隠そう、俺も同じことを考えていた。

その時、ピアノの音が止まった。驚いて振り返ると、伴奏者のHさんが悔しさを噛み殺したような表情で大粒の涙をこぼしている姿が目に入った。

そこから先の記憶は曖昧なのだが、
「ちゃんと声出して歌ってください」みたいなことを言って、声も出て意欲もある女子パートと合流してお茶を濁していたような気がする

本番前には、女子のKさんから
「ここであんたが発破をかけんば」と言われ、ありきたりの言葉で何か言って、本番ではそれなりの声が出て、最低限の体裁は保てたと記憶している。

今更後悔しても遅いのだが、
「あの時同調する者が誰もいなくても道化役として皆を鼓舞することが出来ていたらなあ」と思うし、Hさんには心からすまないと思っている。

NBA狂騒曲 その一

大学生協の電化製品売り場に陳列されていたのは、放送開始したばかりの衛星放送の室内アンテナだった。金欠に喘ぐ俺が生活必需品でないものを購入しようとは思うはずがない。しかも衛星放送ならではのキラーコンテンツがあったわけでもない。その当時、どのような心の変化が起こったのか定かではないのだが、俺はその室内アンテナを衝動買いしてしまう。時は1993年、俺は学部3年生だった。

その年の秋、自宅アパート近くにある洋食喫茶のカウンターで偶然にS君と隣り合った。S君は友達の友達で、一緒に麻雀を打ったことはあるものの顔見知り程度の間柄だった。

食事が出て来るのを待つまでの間、スポーツ新聞を読んでいると、横からS君が、
「おっ、7時からNBAの放送?ああ、なんだ衛星か」と言った。
「俺ん家で見れるよ。飯食った後、来る?」と社交辞令的に返事をすると、
「マジで?行く行く」という話になった。

NBAとは米国篭球協会の略字で、世界最高峰のバスケットボール選手が集まるリーグとして名高い。しかし、その日の試合はロケッツ対スパーズで、その当時の俺でも知っているような有名選手は一人もいなかった。

バスケ経験者であるS君によると、両チームのセンターである、オラジュワンとロビンソンはリーグを代表するスーパースターであるとのこと。なるほど、攻撃のほとんどは彼らにボールを預けるところから始まっているし、守備が何人寄ってこようとやすやすと得点を重ねるのも彼らだった。

S君は放送が終わる9時まで居座る勢いだった。気配りの人として知られているS君をここまで図々しくさせるNBAとは一体どれほどのものだろうか、という好奇心が勝り、俺も食い入るように画面を見つめ観戦を続けた。

その日の試合の終盤で最も華々しい活躍をしたのは、オラジュワンでもロビンソンでもなく、スパーズのエリオットだった。中から供給されるボールをことごとく3Pで沈め、外からのドライブでネットを揺らし続け、最終盤の勝敗を分ける緊迫した場面でも決めたのはエリオットだった。

この日以来、バスケットを見る目が変わった。この日から俺は見る方でもやる方でもバスケットに傾倒していく。

NBA狂騒曲 その二

衛星放送と言っても、NBAの試合を生中継してくれることはほとんどない。2時間内に収まるように編集された録画を週に4回ほど放送するだけだ。その当時は、7時から9時の放送を視聴するためにわざわざ家に戻るほど、あるいは録画して見るほど入れ込んではいなかった。エリオットの衝撃も薄れつつある頃、俺を再びNBAに誘い込んだのは深夜の再放送だった。

雀荘帰りのある夜、風呂に入って福岡ローカルの深夜番組を見て眠りにつくかという時のザッピングの最中に飛び込んできたのが、チャールズ閣下こと、バークリーだった。

バルセロナ五輪時のドリームチームの一員ということは知っていたが、バークリーのプレイを見るのはその時が初めてだった。
「想像してたよりも小さいなあ」というのが第一印象、
「意外とシュートが上手いんだ」
「ポストでボールを受けてゴリゴリやれば確実に点を取れるのでは?」と続き、走り回ってハイスコアゲームに持ち込み圧倒的な攻撃力で相手チームを捻じ伏せるフェニックス・サンズの個性豊かな面々を有無を言わせぬ強力な統率力で引っ張るバークリーの一挙手一投足に釘付けになり、気が付いたら時計の針は試合が終了する午前3時半を回っていた。

この日以来、サンズを応援するようになり、午後9時半からのNBAのその日の全試合の結果とハイライトを流すニュースを見るようになった。

NBA狂騒曲 その三

NBAにおいて、「ドアマット」とは敗戦ばかりでプレイオフの望みがないチームを意味する。その年のウォリアーズは紛う事無きドアマットで、強豪チームに蹂躙されていた。しかし、そんなドアマットでも個性豊かなスーパースター達がひしめいているのだ。クロスオーバードリブルを得意技として多用するティムハーダウェイ、スリーポイントの名手であるクリスマリンとミッチリッチモンド、三人合わせて、Run TMCと呼ばれたトリオは速攻主体のハイスコアゲームで相手チームを攻撃で圧倒するスタイルを持っていたが、守備の重要性が叫ばれていた時代においては苦戦を強いられていたのだ。

俺は宝探しをするような目でNBAの観戦を続け、リンク裏で敵チームのフリースローを声や手振りで妨害したり、フェンスを模した紙をかざして「D-fence」と叫んで守備を促したり、エレクトーンに合わせて声援を送ったり、アルマーニのスーツで決めた監督が選手を鼓舞したり、荒くれ男たちのトラッシュトーク、山本さんや北原さんのユーモアに溢れる解説、等の新たなスポーツ文化に触れ、勝敗や贔屓チームを超えてNBAを楽しむようになった。

NBAのプレイオフは東西の覇者が決勝で戦う仕様となっている。西は贔屓チームでもあるサンズが圧倒的な攻撃力で勝ち上がり、東はジョーダンを擁するブルズとユーイングを擁するニックスが雌雄を決することとなった。

バスケットボールの神様と形容されるジョーダンであるが、あまりにも完璧過ぎて親しみが持てなかった。ブルズの監督であるフィルジャクソンはトラップディフェンスとトライアングルオフェンスという概念を具現化しNBAファイナル二連覇中の名将で、ジョーダンとピッペンという才能が組織の中で生かされていた

一方のニックスは、ペイント内での制空権に絶対的な自信を持つチームで、NBAを代表する名将パットライリー、ユーイング、オークリー、メイソン、スタークスという濃ゆすぎる面々が君臨していた。

その両チームともハードワークを基調とした守備重視のセットオフェンスが得意なチームで、「守備は気の向いた時だけやる」とでも言いたげなサンズとは好対照をなしていた。

東の死闘を制したのはブルズ、かくして運命のファイナルの幕が切って下ろされた。

NBA狂騒曲 その四

ブルズの三勝二敗の王手で迎えたファイナル第六戦、場所はサンズの本拠地であるフェニックスで、そしてシーズン最高勝率の特典として第七戦も同地で開催される。

普段は決して帰宅しない時間帯であったが、その日に限っては何かに導かれるようにアパートに帰りテレビを点けると、俺を待っていたかのようにその試合の後半戦が画面に映し出された。なんと、それは生中継だったのだ。

「せっかくだから見てみるか」
「これはサンズの流れ、この勢いで行けば年俸を落として移籍したバークリーの悲願がかなうかも」
「ブルズの選手は委縮してシュートが全然入らん」
「スリーピートの商標登録も無駄になりそうだな」

こんな感じでサンズも楽勝ムードで迎えた第4Q残り5分のところで、ブルズの選手の中で黙々と得点を重ねる選手がいた。言わずと知れた神様ジョーダンである。それでも残り時間とサンズの攻撃力を考えたら焼け石に水のようなものだ。そう思っていたのは俺だけではなかったはずだ。そんな緩みのためかサンズのシュートが入らなくなり、頼みのバークリーも魔法にかかったかのように存在感を失っていた。逆にブルズの選手の動きが良くなり、試合終了間際に二点差まで詰め寄り、最後はパクソンのスリーポイントで逆転負けを喫した。

ここまで書いてきて、自分の印象と実際との差を比べるためにその試合の動画を視聴してみた。バークリーはシュートを外してばかりで、扇の要の不調をチェンバースやエインジの活躍で接戦に持ち込み、終盤のバークリーのオフェンスリバウンドで4点差のリードを保っていた状態で、慢心や余裕は微塵もなかった。むしろ、ジョーダンの爆発力に戦々恐々としているように見えた。

この試合の結末に衝撃を受けた俺はこの後数年間に渡りNBAにはまっていく。その水先案内人は数学科の同級生でバスケサークルを主宰するN君とその後輩で超が付くほどのNBAマニアであるM君だった。

NBA狂騒曲 その五

コービーブライアントと彼の13歳になる娘がヘリコプターの墜落事故で亡くなった。何という悲劇だろうか。何か追悼の言葉を綴りたいのだが、いつまで経っても書けない。おそらく、米国での数々の行事を目にして
「コービーはこんなに愛されていたんだ」
「初代ドリームチームの面々と比較すればジョーダンの次くらいに格付けされる選手かも」
「そんな偉大な選手に対しての俺の知識は浅はかすぎる」
「というか、俺の贔屓選手ではなかったんだよなあ。ジョーダンがいたし、アイバーソンがいたし、カーターがいたし、初めてファイナルを制した時もシャックがいてこそって感じだったしなあ」
「最初のセルティックスとのファイナルではガーネットの統率力に感動していた。しかし、この時初めてコービーのバスケットを知り尽くしたプレイに感銘を受けた」
「レブロンが出てきて、デュラント、カリー、ハーデン、ウェストブルックのように続々と得点力のあるガードが台頭してきて、全盛期を過ぎたコービーは沈みゆく太陽のような存在になって行ったんだよなあ」
「コービーの動画は山ほどあるから、何度でも見れるしなあ」
等の複雑な思いが込み上げてきて、追悼の言葉を書くと嘘っぽく見えるような気がしたというわけだ。

でもあえて言おう。

コービー、君がデビューしてから引退するまで、NBAファンとして同時代を生きられたことを幸せに思うよ。

コービー、今は安らかに眠ってくれ。

NBA狂騒曲 その六

NBAを視聴すると、そのプレイを真似したくなる。その衝動は抑えがたく、午前3時まで衛星放送を見た後、一眠りして、午前9時に開館する大学の体育館に赴き、一人でシュート練習していたほどだ。フェニックスサンズのシューターであったダンマーリーは一日百本の3Pシュートを入れるのが日課だという話に感動して、挑戦したこともある。舌を出しながらジョーダンステップを踏み最速のペネトレイトを追求したし、ラウーフのように高い弧を描きリンクのど真ん中にほぼ垂直に落ちるシュートを再現を試みた。シュートが入ればパットライリーのようにド派手なガッツポーズを作り「イエス」と叫び、ハイファイブをして空気と喜びを分かち合っていた。

誰もいない体育館でシュートを撃ち続けると、いつしか集中力が高まり、適度に疲労した状態で余計な力が抜け、膝と腰の力がボールに乗り移り、遠い距離からでも連続して「Nothing but Net」が決まるようになる。こうなると弓道と言うか求道者の世界である。

ある程度、シュートが上手くなると実戦で試してみたくなるのが人情と言うものであろう。その当時は漫画『スラムダンク』の影響で、ちょっとしたバスケブームが起こっていたのだ。数学科の同級生を集めたバスケの会合もあったし、体育館に集まった見知らぬ団体のゲームに加わることもあった。

NBA狂騒曲 その七

NBAの放送の終わりには、その試合のハイライトが「White men can't jump」という逆差別的な題名の曲と共に流されていた。俺は小さい頃から垂直飛びが苦手で、最高到達点はわずか230㎝だった。このことは高さが大きな比重を占めるバスケットボールにおいて致命的な欠点だった。実際、目の前にいる守備選手が手をかざしただけで、一人で練習して来たフォームは乱れ、シュートはあらぬ方向に飛んで行った。守備時には、目の前のジャンプシュートを止める術がなかった。そして、部活でバスケ部だった者と俺との間には埋めがたい実力差があるのを切に感じた。

それでも、バスケが楽しくて仕方がなかった。ゲームの中でたまに訪れるどフリーのシュートチャンスを決めるだけで満足して体育館を後にすることができた。そして、体育館に集まる奴らと顔見知りになり、素人ばかりの集団の中で和気藹々とゲームを楽しむ日々が続いた。

ある日、体育館に二人の新顔が現れた。後でわかったことだが、彼らの名前はイシイとビクターで、イシイは日系アメリカ人で体重100Kgを超える巨漢ながらゴール下でのターンやフェイクを器用にこなし長距離シュートも得意な奴で、ビクターは台湾系アメリカ人で小柄だが、ジャンプ力が頭抜けており、3Pラインの遥か手前の位置でも高確率でシュートを決めれる奴だった。彼らの日本語は片言で、彼ら同士の会話はスラングだらけの下町英語だった。

その日は九大で最強と目されるバスケサークルAの練習日で、イシイが彼らに近づいていって何かを話し始めた。何とイシイは素人の寄せ集め集団である俺達と部活経験者揃いのAとの練習試合を交渉していたのである。その日は柔道の重量級の選手で大学からバスケに目覚めたK君、部活経験者でまとわりつくシュートが得意なT君がいたので、全くの素人と集団と言うわけでもなかった。しかし、相手は如何にもスタイリッシュでバスケが上手そうなAの面々である。お呼びでないと思った俺は見学することにした。

イシイは背はそう高くないものの体格を利したプレイでゴール前での主役になっていた。Aの選手が三人寄って来ても体を回転してシュートを放つし、そのリバウンドにも絡んだ。シュートをねじ入れると相手をからかうような笑みを浮かべ、英語と日本語でAを煽りまくっていた。しかし、Aもさるもので、外側から綺麗にシュートを決めて来る。イシイが派手に点を取る割にはスコアでは負けているという展開が続いた。そんななか、守備時のリバウンドをイシイがもぎ取り、
「Take off」と叫び、矢のような豪快なパスをゴール前に投げた。その先にはビクターがいて打点の高いレイアップを決めた。

ここからがビクターのショータイムだった。背は高くはないが、その瞬発力は群を抜いていた。なにしろ、百戦錬磨であるはずのAのボール保持者からいとも簡単にボールを奪い取ってしまうのだ。「この選手は別格だ」という警戒の色が出てからもそれは度々起こった。その後はビクター単独の速攻が始まり、高揚を表現するような荒々しいレイアップを決め、相手を挑発する「ひょーーーっ」という雄叫びで終わった。セットオフェンス時も、「決めて当たり前」と言わんばかりに3Pを連続して沈め、逆転に成功した。

俺は目の前で起こっている出来事があまりにも衝撃的だったために口をあんぐりと開けて立ち尽くしていた。そして、自分の順番が回って来て試合に出なければいけないということをすっかり忘れていた。試合のスコアは均衡していたが、選手個人としてのマウントの取り合いは決着が付いた状態だった。にもかかわらず、「こんなのは本気でない、ただの遊びだ」と言いたげなAの選手の涼しげな表情とすかしたプレイがあからさまで、反感を覚えていた時でもあった。K君が俺との交代を促し、コートに立つことになった。

俺は攻撃時には安全なパスのみを選択し、衛星のように台形の外をぐるぐると周り、守備時には抜かれないことを第一にマークする選手にくっついていた。いつものようにイシイがゴール前でターンを繰り返していた。すると、俺の前にいたAの選手もゴール下に入って行った。それを見たイシイは俺の胸元にパスを出した。俺が立っていた場所は台形に向かって左手前の位置で、一人で練習していた時に最も多くの回数のシュートを投じた位置だった。

バスケがハビットゲームと呼ばれている理由がよく分かった。
「入れてやろう」とか「外したらどうしよう」とか全く考えず、普段やっている通りに投じたシュートは高い弧を描き、誰もが見つめる中、ネットとの快い摩擦音のみを残して、地面に落ちた。イシイが俺を指さしてニッコリと笑い、ビクターと手を打ち合い、T君は「美味しい所やわ」と言い、コート外のK君からは「おお、戦力になっとる」と言う声が聞こえた。

この日の試合の勝敗は覚えていないが、あの時のシュートの感触と軌道は今でも鮮明に覚えているのである。

NBA狂騒曲 その八

俺がNBAにのめり込んだ時期、M君と言う超が付くバスケマニアの勧めでNBAのイヤーブックを特注で購入した。イヤーブックと言うのはNBA全選手のスタッツと寸評が記してある年鑑のことで、衛星放送の度に引っ張り出して見るものだから、自然と選手の名前が頭に蓄積されていった。

当時スパーズに所属していたデニスロッドマンもそのような選手の一人だった。スパーズのエースだったロビンソンが試合の流れを決定づけるダンクを決めた時、真っ先に駆け寄って祝福していたロッドマンを見て、
「こいつは勝負が何かをよくわかっている」と思った記憶がある。

余談であるが、ウォリアーズ時代のラトレルスプリ―ウェルもお気に入りの選手の一人だった。前半終了間際にアイソレーションで1対1を挑み、ブザーに合わせて得点するシーンが印象に残っている。

1995年の夏、大学生の五輪であるユニバーシアードが福岡で開催された。アメリカのカレッジバスケットにも詳しいM君は、
「アメリカ代表の試合は絶対見に行った方がいいですよ」と力説していた。当時の俺は大学院生でそんなに暇ではなかったが、
「一試合くらいなら見に行ってもいいかな」と思っていたので、南区体育館で開催されるアメリカ対ロシアの一戦をM君と一緒に見に行くことになった。
M君との現地での待ち合わせ時間は午後3時だった。そこでM君と会って分かったのはその時刻は開場の三時間前だということだ。席は全て自由席なので早めに並んでいい席を確保したいというのがM君の言い分だった。俺は半信半疑だったが、その時刻でも相当な数の人々が列を作って待っていたので、3時間余りの時間をNBA談義やアメリカ代表の有力選手に関する講義を受けることで時間を潰すことにした。
「オバノン弟とケリーキトルズはドラフト上位指名確実です」
「あと、レイアレンもいい選手ですね」
「センターではティモシーダンカンですね。とにかく、このメンバーは将来のNBAのスター候補ばかりなんです」

期待に胸を膨らませて会場入りすると、M君の作戦通り、相撲で言えば砂被り席とも言える一階最前列のダンクが一番よく見える席に陣取ることが出来た。早速、両チームの準備運動が始まった。俺はレイアップの練習を見ているだけで口あんぐりだった。喩えて言うなら、フェラーリやカウンタックのようなスーパーカーがあえて低速運転している感じである。同じ人間とは思えない程、背が高く俊敏に動き回る彼らは神々しいオーラに溢れていた。

準備の段階で両チームの実力差は明らかだった。アメリカはロシアを軽くいなして勝つんだろうなと予想していたが、それは完全に間違っていた。試合開始の笛が鳴ると、アメリカは猛然とフルコートゾーンプレスでロシアに襲い掛かったのだ。ロシアはボールをハーフラインまで運ぶのにも苦労しており、点差は開く一方であった。その攻守の中心となったのが両チームで最も背が低いアレンアイバーソンだった。目の前で起きているのは誰よりも滞空時間の長いアイバーソンのダンクの連続で、アイバーソンと愉快な仲間達と言っていいほどその存在感は際立っていた。前半だけで大差をつけたアメリカは後半になるとやや流し気味に試合を進め、最後はアイバーソンのトマホークダンクで打ち止めとなった。

帰り道、いや帰ってから寝る前も、俺の頭は「アイバーソン」という名前にうなされた状態で、その日に受けた衝撃と興奮の余韻はしばらく続くことになるのだ。

それから何年か経った後、NBA現地観戦ツアーから帰って来たM君からもらったお土産は、アイバーソンを意味する「The answer #3」の文字が入った小物だった。また、M君とNBAの話ができる日が来たら、改めてお礼を言いたいものだ。

NBA狂騒曲 その九 終わり

1998年4月から1年間、イスラエルに滞在した。俺が住んでいた町、Ranaanaには、学校ごとに屋外のバスケットコートがある上に1㎢に一個の割合で誰もが使用できる多目的コートが設置してあった。そこでは自然発生的にスリーオンスリーのピックアップゲームが始まる。夕方の4時にはコートは学校帰りの子供達で埋まり、6時以降は大人の割合が増え、照明が消される9時までフットサルやバスケをする人々で賑わっている。

大村市でバスケをしようと思ったら、何かしらの団体に所属して決められた時間に集まって体育館でやることになる。それも悪くはないのだが、九大の貝塚体育館やRanaanaのように気が向いた時に見ず知らずの奴らとバスケをやる興奮を味わうことはない。その点において、俺は実に幸せな一年間を過ごした。

ボールを背後に隠しながらドライブしてくるやたらと好戦的な若者とマッチアップしけちょんけちょんにやられたことや、ニックバンエクセルのようなプレイスタイルの小学生にきりきり舞いしたことや、プロ養成機関にいたという人物と友人になり彼の実家に招かれビーフストロガノフをご馳走になったこと、緊迫した11点先取のゲームで決勝点とは知らずに放ったシュートが決まり「Very important shot」と言われたこと、NBAから始まったバスケ熱が様々な出会いを生み出し、俺の人生を彩っているのである。

2020年、プレイオフを控えたNBAはコロナウイルスの影響でその開催が危ぶまれている状況である。その圧倒的な存在感やハイライト集のインパクトから「ジョーダンを越えた」という声も聞かれるレブロンジェームス、眉毛の形だけでなくNBAの歴史に最強PFとして刻まれる潜在能力を有するアンソニーデービス、ユーロステップなどの多彩なオフェンス技術でMVPにも輝いたジェームスハーデン、有り得ないスリーポイントを高確率で決めガード新時代を築いたステファンカリー、一対一の技術をコービーに認められたケビンデュラント、シーズン成績トリプルダブルと言う凄まじい記録を達成したラッセルウェストブルック、二年目ながら創造的なプレイで得点を量産するルカドンチッチ、彼らだけにとどまらずきら星のごとくスーパースターがひしめき合っているのが今年のNBAなのである。

テレビで視聴することは叶わないがネット動画だけでも視聴できるだけ有難いと思う。俺のNBA狂騒曲はまだまだ続きそうである。

格闘遍歴 その一

俺が小学二年生の時、級友から4の字固めを掛けられた。自分の両足が4の字を作るように折り曲げられ、梃子の原理で自分のくるぶしがもう一方の足の脛に押し付けられ、激痛を生む技で、逃げようとしてもがくと余計にくるぶしが脛に食い込み痛みが増幅するというおまけもついている。これが生涯で初めて喰らうプロレス技で、泣き叫んでようやく技が解かれた記憶がある。級友達とふざけて笑い合っていた楽しい昼休みの時間が俺だけが泣いている理不尽さが心の重しとなった。

逆襲の機会が訪れたのは三年後だった。偶然に見たプロレス中継で、アントニオ猪木がスタンハンセンのウェスタンラリアットを喰らい息も絶え絶えになる場面が出てきて、本気で感情移入してしまった。俺はその日から欠かさず土曜夕方5時からのプロレス中継を視聴するようになった。新しい技を見ると真似をしたくなるのがプロレスの魔力なのだ。俺は五歳年下の弟を相手にプロレス技の研究に励んだ。サッカー少年団に通い始めて虚弱体質を脱しつつあった俺だがチビで非力であることは相変わらずだった。そんな俺が4の字固めのような腕力を要する技やコブラツイストのような身長を要する技を同級生に掛けるのは困難である。試行錯誤と研究の連続で導かれたのがキーロックという技であった。キーロックとは相手の腕の肘関節部に自分の手首を挟んで折り曲げ、自分の両足で相手の腕を固定する技である。要するに相手の片腕を両足で抑え込む技で、体が大きい級友でも「ギブアップ」に追い込めるのである。実際、多くの級友の顔を激痛で顔をゆがませることに成功したし、キーロックを巡る攻防はプロレスごっこの見せ場の一つとして楽しまれていた。

プロレス技は奥が深い。頸動脈を両腕で締め上げる裸締めのように相手を死に追いやる危険な技や腕ひしぎ逆十字固めのような柔道技を始めとする相手に深刻なダメージを負わせ得る技がある一方で、前述の4の字固めやキーロックやコブラツイストのように痛みや苦しみのみを与える技もある。不思議なのは、俺がプロレスごっこを楽しんでいた時代の子供達は危険な技とそうでない業の分別が出来ていたことである。その当時の憧れの技であったバックドロップや原爆固めを試すのは高跳び用のマット上に限られていたし、脳天を地面に打ち付けるパイルドライバーなどは試してはいけない技という共通認識があった。大人になって初めてわかるプロレスの虚々実々のやり取りが見事に子供達に伝承されていたというわけだ。

タイガーマスクの登場により空前のプロレスブームが巻き起こった。その当時に週刊少年サンデーに連載中だった漫画『プロレススーパースター列伝』はプロレスファン必読の書物となり、俺も大きな影響を受けた。原作者の梶原一騎は空手界と新日本プロレスとの繋がりが強い人物で、その漫画の端々に
「空手の修行がプロレスに生かされた」のような記述と
「毎日試合をやらないと勘が鈍ってしまう」のような猪木のコメントがあり、読めば自然と猪木信者になり、実戦空手への神秘性を高める構成となっていた。

タイガーマスクの引退後も俺はプロレスを追い続けた。藤波辰爾と長州力との名勝負数え歌、そこに割って入る藤原喜明、正規軍対維新軍の抗争、ダイナマイトキッドを中心としたジュニアへビー級の覇権争い、七色スープレックスで売り出し中の前田日明、ヤングライオン杯など、話題は尽きることがなかったからだ。しかし、謎の海賊男やスーパーストロングマシンが出てきた辺りで、違和感を感じるようになった。

「おかしい、プロレスは世界最強と公言する猪木がこんなお芝居じみたプロレスを容認するはずがない」

これは梶原一騎が仕掛けた時限装置が作動する瞬間だったのだ。

格闘遍歴 その二

アントニオ猪木の必殺技である延髄斬りは、相手の延髄部を飛び上がって蹴る技である。これを喰らうと催眠術にでもかかったように全身が麻痺し、フォールを奪われる。
「それまでピンピンしていた大男が後頭部に足が触ったくらいで倒れるものだろうか?」という疑問を露ほども抱かせないのが猪木の偉大さなのだ。考えてみてほしい。体重百キロを超える男が2m近い高さまで跳躍し、廻し蹴りを決めるのである。それ自体が神懸かりな動きであり、当たる場所が人体の急所である延髄というところが技の説得力を生むのである。

どんな相手でも殺気を充満させて鬼の形相で相対峙するのが猪木の流儀であった。一連の異種格闘技戦無敗の戦績もプロレス最強伝説に一役買っていた。加えて、プロレススーパースター列伝に仕掛けられた当て身攻撃の導入を前提とした総合格闘技への願望がプロレスファンの間で高まりつつあったのである。

タイガーマスクを脱ぎ捨て総合格闘技道場を創設した佐山聡、佐山について行くために新日本プロレスを辞めた山崎一夫、新日本プロレスの子会社として設立されたプロレス団体であるUWF、そのエースとして派遣された前田日明、頭突きよりも関節技の鬼として注目を集めた藤原喜明、ゴッチの愛弟子である木戸修、若手有望株だった高田延彦、プロレスを競技としての総合格闘技に昇華させようといううねりに引き寄せられるように人材が集まり、プロレスファンの支持を集めた。

俺は映像で見ることが出来ないUWFの試合結果と決まり技に釘付けになった。そこには、羽根折式腕固め、三角締め、アキレス腱固め、膝固め、等の未知の固め技で埋め尽くされていたからである。そして、そのどれもが相手を戦闘不能にする実践的な技だった。更に、蹴り技を多用する若手と関節技を得意とするベテラン勢との異種格闘技戦の様相を呈してきたのだ。

俺は試合を見れないが故にUWFに神秘性を感じ、週刊プロレスの「UWF上げ、SWS下げ」の偏向報道の影響を受け、格闘性の高いプロレスを志向するようになり、ひいては真剣勝負が当たり前の格闘技そのものに関心が向くようになった。

格闘遍歴 その三

中総体が終わると、三年生は部活を引退し、受験勉強を開始する。俺はバレー部に所属していて、大村市予選の最後の試合でピンチサーバーとして出場し、思い出作りをさせてもらった。その翌週、俺はとあるフルコンタクト系の空手道場の見学に行った。

初めて見る空手の稽古である。突きや蹴りの基本稽古の後はキックミット蹴り、約束組手があり、総当たりの組手がある。その本気度はかなりのもので、下級者は上級者の反撃を浴びるのを覚悟で猪突猛進に攻撃を繰り返さなければならず、上級者同士の対戦は更に殺伐としていた。それが終わると、拳を床についての腕立て伏せから始まる地獄の筋力鍛錬が三十分ほど続く。

緑帯以上の道場生は例外なくゴリラのような胸板と丸太のような両腕を誇り、それらは高校生を含む黄帯以下の道場生とを隔てる明確な境界となっているかのようだった。
「こんなことを週三回繰り返したら強くなるのは間違いない」
「しかし、上級者にボコボコにされそうだなあ」
「そもそも俺の体格でやっていける競技ではないのかも」
「しかし、あのキックミット蹴りは是非やってみたい」
などと考えていると、練習後に、若くて強そうな黒帯の指導員がどすの利いた声で
「ここの会費は決して安くない。入門したかったら保護者の許しをもらってこい」と言って来た。

その言葉に感化された俺は極道に入ろうかという勢いで両親に頼み込んだ。しかし、父親からも母親からも猛反対された。その理由は、月謝が高い、受験勉強に差し支える、その組織が信用ならない、ということで、泣き叫んで懇願したが裁定が覆ることはなかった。

格闘遍歴 その四

漫画『あしたのジョー』を知らない世代が増えてきた。しかし、俺の世代とその前後では言わずと知れた不朽の名作であり、
「立て、立つんだジョー」
「真っ白な灰になるまで燃え尽きる」等の思想が宿った台詞の数々は読者の人格形成に多大な影響を及ぼしているはずだ。

子供の頃は何回倒されても立ち上がり勝利するという展開に興奮したのだが、大人になって読むと、主人公である矢吹丈の言動や振る舞いに目が行くようになった。手足が細長いモデル体型の矢吹丈は何を着ても様になるし、常に傍らにいる丹下段平のずんぐりむっくりないで立ちとの対比から、カッコよさが倍増しているのだ。孤児院を渡り歩き少年院にまで行き、喧嘩っ早いという設定とは裏腹に作中での矢吹丈は実に育ちが良く気高い精神の持ち主として描写されている。

宿敵であるカーロスリベラとの一戦の後、ファイトマネーを受け取りに白木ボクシングジムを訪れた時、契約した額よりもはるかに多い金額を小切手に書き込んだ白木葉子に怒りだし、「俺とカーロスとの戦いを汚すな」と言う理由で契約通りの額に書き直させたり、金竜飛との試合当日、過酷な減量を終え、小さなステーキをナイフとフォークで扱い、上流階級を思わせるテーブルマナーで味わって食する場面があったり、実に魅力的に描かれているのが矢吹丈なのだ。

矢吹丈は俺の憧れのヒーローであったが、実際には「燃え尽きて廃人になってはならない」と言う反面教師として高校以降の俺の格闘遍歴に作用することになる。

格闘遍歴 その五

高校三年生の高総体、柔道最軽量級個人戦に出場した俺は三回戦でシードされた強豪校の選手と対戦し、不用意に掛けた背負い投げを押し潰されてそのまま抑え込まれて一本負けを喫した。この戦績は何よりも客観的に俺の大村高校柔道部での歩みを物語っている。

卑屈になっているのではない。一、二回戦に勝ってこその三回戦進出なのだ。そして、この日は初心者から始めた俺が初めて公式戦で勝った日でもあるのだ。しかし、たとえ一勝も出来ずに終わったとしても
「柔道部に入ってよかった」との思いは変わることはないだろう。

高校入学時の俺の体重は53㎏だった。腕は細く重心が高めの柔道には不向きの体格の俺が柔道部に入ろうと思ったのは、プロレスに出て来る関節技に興味があったことと
「目の前で起こる恐喝を制止できるほど強くなりたい」と思ったからである。

大村高校の格技場は板張りで東側半分に畳が敷いてある。西側半分は剣道場で東側半分が柔道場である。この当時の世界情勢は東西冷戦の真最中でベルリンの壁も健在だった。その冷戦構造さながらに、格技場の西側は剣道着を着た男女がひしめき合い、東側は柔道着を着た五人の男達が佇んでいた。入部を決定する初顔合わせにやって来た新入部員も五人、大企業と零細企業、新日とUWF、白木ボクシングジムと丹下ジム、俺は柔道部のマイナー感を一目で気に入ってしまった。見学だけと言う予定を覆して、体育用の柔道着に着替え、支えつり込み足から始まるダンスのような足技の基本練習、脇締め等の寝技の準備運動をこなし、受け身の基本練習の時に個人指導を受けた。

初心者は俺だけで、部内でも最軽量だった。三年生は、重量級で主将の浦岡さん、中菱級で高校から柔道を始めた村松さん、軽量級で背負いの名手の山口さんの三人、二年生は、軽中量級で次期主将の梅野さん、軽中量級で部内最強の浦山さんの二人、一年生は体重が大きい順に、松添、川口、野口、福田、そして俺だった。

格闘遍歴 その六

初日の練習後の翌朝、体のあらゆる部位の筋肉痛と肘や背中の擦り傷による痛みで目が覚めた。初心者への特別指導は最初の一週間のみで、その後は他の部員と同じ練習をこなすようになった。基本である前回り受け身のような単独でやる練習は楽について行けたが、打ち込み、投げ込み、乱取りのような対人練習は勝手が違った。袖をもって引っ張ってもびくともしない相手に打ち込みを繰り返すのは非常に疲れる。おんぶも出来ない巨漢をどうやって投げろというのか。初心者の俺は全身に力が入った状態で攻め続けなければならない。格闘技であるが故に闘争本能を剥き出しにして挑みかかるのだ。俺は毎日「真っ白な灰」になり、燃え尽きた状態で帰宅し、飯をたらふく食って、風呂に入って、学校の宿題を睡眠薬代わりに深い眠りについた。

こんな暮らしを毎日続ければ、いやがおうにも強くなるものである。しかし、俺の部内での序列が上がることはなかった。肩幅は広くなり大胸筋な張り出し、体幹も強くなったが、他の一年生は更に成長したため相対的には弱いままだった。中学生との練習試合でもいい所なく敗れた。強豪校との合同練習では
「何でお前がここにいるの?」という場違い感がありありだったし、ぼろ雑巾のように投げられた。

一方で「柔道部を辞めよう」と思ったことは一度もなかった。それは理不尽なしごきやいじめが皆無であったことと無縁ではないだろう。練習の苦楽を共にしていると連帯感も深まるものだ。

高総体後、三年生は部活を引退し梅野主将による新体制が始まる。

付録:乱取りは総当たりである。その組み合わせが過不足なく簡単に決める方法がある。4人の場合で、1と4,2と3が対戦すれば、次回からは1は動かず、2→3→4→2のように回転して行けばよい。5人の場合、1と4,2と3が対戦すれば、1→2→3→4→5→1のように回転して行けばよい。その他の場合も同様である。

格闘遍歴 その七

梅野先輩は闘争心の塊のような人で、ドカベンの岩鬼、キャプテン翼の石崎、リングに賭けろの石松、鬼滅の刃の伊之助、のような漫画に出て来るような熱血漢だった。

部活が始まる時間は一般生徒の下校時間と重なり、丘の上にある校舎から大勢の生徒が大高坂と呼ばれる坂を下って来る。それを見計らって、柔道着を着た一年生五人が大声を出して大高坂を駆け上がる。陣頭指揮するのはもちろん梅野先輩である。新入部員の通過儀礼でもあるこの練習は、最初、恥ずかしくてたまらなかったが、繰り返しているうちに快感を感じるようになった。

俺が最初に教わった技は小内刈りだった。打ち込みの指導は梅野先輩だった。その影響は戦い方にも及び、猪突猛進で攻めまくるスタイルを模倣していた。それが非力な自分が目指すスタイルでないことに気付いたのは三年生になってからである。部内最弱の俺の役割は乱取りの時に声を出し、戦う姿勢を前面に出し、全体の士気を維持することだった。繰り返すが、俺にとっての練習は過酷だった。乱取りの時に、俺以外の部員は俺と当たる時は手を抜いて休めるが、俺は全力で全員の胸を借りて攻撃し続けなければならないのだ。それは弱者に対しても手を抜かず引き回して投げまくる梅野先輩も同じだった。

梅野先輩が主将になってから練習は厳しさを増した。練習時間の間中、最高レベルの緊張を強いられた。全体練習後はバーベルを用いた筋トレが導入され、昼休みにも格技場に弁当を持ち込んでの自主トレが始まった。

一週間の夏合宿も実施され、朝6時に起床し、ロードワークをこなし、午前中、高校の補習を受けた後、午後と夕方の二部練習をこなした。浦山先輩の家は整骨院を経営しており、そのつてで二人の柔道家が合宿の午後練習に来ることになったのだが、打ち込みの本数は普段の三倍になり、寝技の乱取りでは容赦なく締め落とされ、乱取りの人数も増え、文字通りの地獄の合宿だった。合宿最終日、顧問の島崎先生が見守る中、一人が全員と一分ずつ戦う練習で締めることになった。川口の何人目かの相手が俺だった。普段の乱取りであれば、奥襟を掴まれた瞬間、投げられていたが、その日は何故か、奥襟を取られることなく粘ることが出来て、膠着したまま時間が過ぎていった。焦った川口は袖口だけ掴み体重差を利用して引き込む巻き込み投げを繰り出した。俺は見事に投げられ、おまけに鎖骨が折れてしまい、病院に運ばれた。

一ヵ月の休養後、練習に復帰した俺は野口に投げられ、くっついた鎖骨の横の部分を折った。

格闘遍歴 その八

浦山先輩は当時の大村高校柔道部で最強だった。強豪校との合同練習でも他校のエース格と互角に渡り合う浦山先輩は実に頼もしい存在だった。漫画で言うと、ガッチャマンのコンドルのジョー、リングに賭けろの剣崎、鬼滅の刃の富岡のような主人公を凌駕する力を持った陰の実力者という感じだった。相手を豪快に跳ね上げる内股が得意技で、柔道の理にも明るく、乱取り中の一言アドバイスは強くなるための示唆に富んでいた。

二回の鎖骨により二カ月間の見学を余儀なくされていた俺は他の一年生の成長を目の当たりにする。二年生にコロコロと投げられていたのは遠い昔の話で、福田は梅野先輩に位負けしなくなり、川口は技のキレが増し、誰もが手を焼くようになった。野口は産まれ持った肉体的素質が開花させる時期で、松添は重い腰がさらに重くなっていて返し技に磨きがかかっていた。練習に復帰した俺は取り残された気分だった。

夏場はサウナと化す格技場は随分と涼しくなり、日没が早まると共に部活全体の活動時間は短縮され、あれだけきついと思っていた練習が楽に感じられた。この時期は新人戦に向けて追い込む時期でもあった。俺も軽量級の個人戦に出場することになっていたが、まるで勝つイメージが湧かなかった。なにしろ、自分より弱い奴と乱取りしたことがないのである。それだけでなく、打ち込みでやっている小内刈りや背負い投げを乱取りで決めたこともなかったのだ。

梅野先輩が部員全員の頬を平手打ちし、全員に平手打ちをさせる儀式を経て、新人戦が始まった。他の部員の試合は憶えていない。俺の試合は、両者もつれて寝技になった時に、下になった俺が三角締めで相手を制したのだが、審判が「抑え込み」と発声し、三角締めを解けば本当に抑え込まれてしまうし、そのままでも抑え込みだし、相手を締め落とすしか勝つ道がない中、30秒が経過して、一本負けした。試合前の緊張と試合後の疲労の激しさに驚いた。5分もない試合時間でこの燃え尽きた感は一体何なのだ。練習と試合は全くの別物であることを学んだ一日だった。

格闘遍歴 その九

新人戦が終わると、2月の団体戦までは大きな大会はない。毎日、同じ顔触れで乱取りをやるので練習がマンネリに陥ったりもする。そんな時は、剣道部から竹刀を借りての剣道体験、梅野先輩の兄のつてでラグビーをやったり、大村公園近くの陸続きの小さな島までランニングした後に松ぼっくりを投げ合う戦争ごっこでガス抜きが実施された。疲れが溜まりがちな土曜日の2時間練習を回避してのリクリエーションだったので、童心に戻り一生懸命に遊んでいた記憶がある。

俺は昇段審査を二勝一敗二分で通過し、黒帯を締めるようになった。部内最弱であるのは相変わらずであったが、柔道を始めたばかりの中学生を寝技で仕留めるくらいの実力はついていたということだ。

年が明けて、昭和が平成に変わったある冬の日、島崎先生が部員を集めて沈痛な表情でこう言った。
「出場予定だった団体戦のことなんだが・・・。すまん。うっかりしてエントリーするのを忘れていた。本当に申し訳ない」

俺達は啞然とするほかなく、その日の練習は切上げられた。部活引退まで半年を切っていた二年生の動揺は激しかったに違いない。しかし、階級を落とすために減量を始めた梅野先輩には吉と出るのかも、明日から高総体に向けて練習すればいいいさ、と思っていた。

その翌日、練習前に部員を集めて梅野先輩が沈痛な表情でこう言った。
「今回の件で、俺はとことんまでやる気をなくした・・・・・・・・・・・・・・」
長い沈黙の後、慰めの言葉を口にする一年生を遮るように梅野先輩は言葉を継いだ。
「今から二週間、練習は休みにする。そのかわりに、予餞会の準備をするぞ。お前らはどう思う?」

俺は唖然とするほかなく、頭の中でいくつもの「?」が飛び交っていた。

予餞会とは大学別の二次試験に臨む三年生を歌や劇の余興で送り出す学校行事である。これまでの梅野先輩の言動は「如何にして柔道が強くなるか」その一点のみに焦点を置かれていた。練習中の尋常でない気合も上を目指すからこそのものだったはずだ。それなのに、二週間も練習を休むとはどういうことだ。予餞会で演劇をやるなんて、今まで向いていた方向とは対極にあたるのでは。俺らに意見を求められても、反対意見を受け入れることはまずないだろうしなあ。

一年生の中で何も言えない微妙な空気が流れる中、きつい練習からしばらくの間解放されるのも悪くないという心理が作用し、結局、予餞会で創作劇を披露することになった。

その翌日、創作劇のための話し合いがもたれたが、梅野先輩の意欲が空回りするだけで、何も決まらなかった。最後には一年生から「劇をやるために柔道部に入ったわけじゃない」という不満がこぼれ出し空中分解寸前にまで陥った。正論に対する梅野先輩の答えは「やると決めたらとことんやる」の一点張りで、意外にも浦山先輩も推進派に組した。そうなると、一年生も渋々ながらも協力するということになり、その日の話し合いは終わった。

俺はこの事が火種になり柔道部を辞める者が出ることを恐れていた。アドレナリン全開になる気合の入った練習を毎日続けることと毎日膨大な課題が出る進学校での学業との両立が難しいのは部員誰もに共通する悩みだったのだ。俺はこの事を考えに考えた挙句、積極的推進派に回ることを決断し、その日のうちに頼まれもしない創作劇の脚本を書き上げた。そのあらすじは、現代の柔道部に属する主人公が投げられた拍子に柔道の創始者である嘉納治五郎が生きる時代にタイムスリップして柔道の覇権を賭けて他流派と抗争するという内容で、格闘シーンも盛り込まれ、柔道部の宣伝にはもってこいの自信作であった。

次の日、部室で脚本を公開すると、梅野先輩の一存で採用が決まり、主役は福田、敵役は浦山先輩というように配役が決まり、大道具と小道具に話が推移していった。しかし、総監督である梅野先輩の構想は俺のような凡人には想像できない程ぶっ飛んでいた。

梅野先輩のやりたいことはミュージカルであった。場面が変わるごとに柔道着には不似合いな音楽に合わせ踊りまくるというビヨンセに扮する渡辺直美を先取りするギャップ萌えを狙った演出が盛り込まれた。

セリフや演技はどうにでもなるが、踊りの練習は難航を極めた。なにしろ、部員の中でダンスの素養がある者は一人もいなかったのだ。しかも、曲目は当時流行していたマイケルジャクソンの『BAD』だった。ここで浦山先輩の同級生で友人でもあるK先輩の登場となる。K先輩は頭の上からつま先までとにかくスタイリッシュな方で、ダンスの腕前もさることながら振付師としての指導力も相当なものがあった。夜遅く、野外で実技指導を受けていると、部員全員がノリノリになり、高揚感や一体感を感じるようになった。

本番では福田がタイムスリップする時に腰を炒めるというアクシデントはあったもののクライマックスの『BAD』が流れ、踊っている時に、観客からの大喝采を肌で感じるほどの盛り上がりがあった。

予餞会の創作劇は大成功に終わり、柔道部の結束はより強固なものとなり、高総体に向けて練習が再開される。

この予餞会の準備を通して、個人の強力な意志が全体を動かしえるということを知った。このことは俺のその後の人生に大きな影響を与えている。

格闘遍歴 その十

年度が変わり、新入部員が入って来た。出身中学の柔道部で主将を務めていた軽重量級の秋寄、経験者で軽中量級の古川、初心者で軽中量級の梶原の3人である。

相変わらず部内最軽量であった俺だが、部内最弱からは脱却できた。乱取りで秋寄とも互角以上に渡り合うことが出来たし、習得中の喧嘩四つに組んだ時の釣り手を巻き込む背負い投げの実験台として一年生に試す余裕まで出てきた。

彼らが受験勉強のために部活から離れていた期間に猛練習を積み重ねてきたのだから、当たり前とも言えるのだが、俺が体格も筋肉量も優る相手を小内刈りで倒して締め技で「参った」と言わせているのは新鮮な驚きだった。

高総体も間近に迫った五月のある日、いつものように部員総当たりの乱取りを立ち技と寝技で行い、精根尽き果てた状態で整列し正座になり、梅野先輩の
「黙想」と言う掛け声が道場内に響き渡った。
「梅野先輩と浦山先輩と稽古できるのもあとわずかだな」と感傷的になってもよさそうなものだが、当時の俺の心境は
「高い壁であり続けた両先輩方に食らいつき取って代わるのが二年生の役割だ」に近かった。家に帰って、大飯を喰らい、風呂に入って、くつろぐと、勉強しようという意欲は消え失せた。この頃は学校生活の要領を覚える時期で、部活の優先度は上がる一方なので、後回しにされがちな国語や英語の成績は下がるばかりであった。いつものように音楽を聴きながら小説を読んで眠りについた翌朝、異変が起こった。

両耳が異様に腫れあがっていて、その痛みで目が覚めた。その日の補習を休み、整形外科に直行して血を抜いてもらうと痛みは治まった。医者は
「耳が腫れたのは傷口からばい菌が入ったからです。柔道やラグビーの選手によく見られる症状で、放置しておくと耳の軟骨がぐちゃぐちゃになった状態で固まってしまい、餃子のような形態になります。今はゴムチューブで軟骨を元の形に整形しているので2週間ほど安静にしておくように」と説明した。

俺は学校に向かい、両耳が白い絆創膏で覆われた「レレレのおじさん」のような格好で授業を受けた。そして、放課後になると、柔道着に着替え、部活の練習に参加した。
「寝技だけ避ければ何とかなるさ」
「二週間後には高総体なのだから休むとかありえないだろう」
「柔道をやる者にとっては勲章みたいなもの」
「この姿を見せれば柔道部全体の士気も上がっていくはず」とカッコつけようとした結果、勢いで寝技の乱取りまでフル参加してしまい、ゴムチューブは外れ、医者に申し訳なくなり、病院にも行けず、俺の耳は餃子のように変形した。

大会に出るたびに思うのだが、世の中には強い奴がうじゃうじゃいるのである。陸上競技では鈍重に見える彼らだが、畳の上では
「あの体重でどうやったらあんなに速く動けるの」と感嘆するほど機敏なのだ。

あれほど情熱を注いで準備してきたはずの高総体であったが、俺の一回戦負けを含めて、部員全員の成績は期待とは程遠い結果に終わった。最後まで勝ち進んだのはやはり浦山先輩で優勝候補と目される選手との死闘を内股の一本勝ちで制した直後の試合で、格下の選手に金星を献上し、全てが終わった。

格闘遍歴 その十一

あれだけ多くの時間を共有したにも関わらず、卒業後、柔道部で一同に会したことは一度もない。梅野先輩とは運転免許試験場の実技試験待合所で偶然会ったのが最後、浦山先輩は黄疸が出て入院中のところに野口と見舞いに行って会ったのが最後、野口ともそれが最後、九大のアメフト部に入った川口とは貝塚体育館の筋トレ場で会ったのが最後、高校の頃、同じクラスだった福田と松添とは卒業後も会っていたが、福田とは大学卒業後会っていないし、唯一、蜜に連絡をとっていた松添ともお互いの結婚を機に疎遠になってしまった。秋寄、古川、梶原とは高校の卒業式の日に秋寄の実家で焼肉パーティで会ったのが最後、秋寄の実家は俺の実家の近所で、気が向きさえすれば赴いて連絡先を伝えることもできたのだが、それは叶わなかった。彼は胃がんを患い40代の若さで急逝したからだ。

久しぶりに合うことがあったとしても過ぎ去った年月の間に語りたくない事情もしくは語ることさえ叶わぬものもいるだろう。希望に満ち溢れていた高校時代はもう二度と戻ってこない。思い出は更新せず当時の記憶のままで保存するのが賢明なのだろう。

格闘遍歴 その十二

九州大学に入学した俺は福岡でのひとり暮らしを満喫していた。朝6時半に起きて補習に通っていた高校時代に比べると何もかもが自由で余裕のある生活だった。その一方で、教養部近くのバッティングセンター脇の道端で倒れたように眠る人がいたり、尾崎豊の歌詞が現実として現れる都会の冷たさとも隣り合わせの生活だった。そんな中、自由を束縛されない範囲で孤独を癒やすための人間関係を構築したいと思うのは自然なことだろう。

九大の公認サークルを紹介する冊子を片手に俺は以下のようなフィルタリングを行った。
「若いときしかできない種目の運動をやりたい」
「ほぼ毎日練習があるのは嫌だ」
「遠征等で費用がかかるのもパス」
「テニスサークルのように競技よりも交際に重きを置くのも合わなそうだ」
その結果、残ったサークルは唯一つであった。週明けの月曜日にはガイダンスがあるらしい。

俺は教室の後ろの方に座り、黒ジーパン、黒シャツ、黒革ジャンを身にまとった男の説明を聞いていた。
「漫画の空手バカ一代で有名な芦原英幸が創設した空手を学ぶサークルで・・・」
当時、その漫画を読んだことがなかったのでピンとこなかったが、極真会館の流れをくむフルコンタクト空手であることは確認できた。このとき、中3のときの記憶が蘇った。
親の干渉を受けない環境でやりたかったことをできる幸せ、柔道を経験したことで得られた格闘技に対する知見と体力、尋常ならざるものを感じさせる黒ずくめの男の佇まい、全てが一本の線で結ばれているように感じた。

これが九大芦原空手同好会並びに井上先輩とのファーストコンタクトである。

格闘遍歴 その十三

高校時代の柔道の練習に比べると同好会の練習は楽だった。心肺への負担は軽く、筋肉への負荷も微々たるものだった。新入部員の大半は初心者だったので、基本稽古に1時間以上が費やされ、前蹴りを下段払で受け肩口を取るという約束稽古で2時間の練習が終わった。しかし、
「物足りないなあ。茶道の作法じゃあるまいし、ちっとも実戦的でないなあ」とは決して思わなかった。当時の主将だった井上先輩の指導は超がつくほど理論的で各々の基本ごとにその必要性と上達法が解説され、弾丸のような体躯と肉厚の拳によって実践してみせられたからだ。井上先輩が前に立って指導し、前列の新入部員に後列の上級生がほぼマンツーマンで手取り足取り教える方式で、練習に来るたびに新しいことを体系的に学ぶ楽しさがあった。

正拳中段突き一つとっても、
「はい、両拳クロスして、ここがインパクトゾーン、弓を引くように右拳をひいて。ここで脱力、お前ら肩に力が入ってるよ。卵を握る感覚で拳を握り、インパクトゾーンで強く握り込み、同時に腰を入れる。じゃあ、各自やってみて」という説明の後、わざわざ窮屈な姿勢で突くのは腰を切ることを意識するためという補足が入った。

組手の構えから繰り出される右ストレートは切れ味抜群で、サンドバッグに拳大の穴を残し、見るものを驚愕させ、基本の大切さを実感させた。

土曜日の全体練習が終わると、有志を集めた組手が始まるのが通例で、その中で頭抜けた強さを誇っていたのはやはり井上先輩だった。当て身と掴みのハイブリッドとも言える「捌き」を基本理念とする芦原空手を体現するかのように、有利なポジショニングを築き上げ、打てるが打たれない状態で相手に負けを悟らせた。これを見て、前述の前蹴りからの約束稽古の重要性に気付くのである。

ラグビー経験者だった井上先輩の体にはナチュラルで分厚い筋肉が装着されていて、特に首が太かった。「何だ、バカヤロウ、コノヤロウ」と首を傾げながら言うのが口癖で、それはビートたけしを本気で尊敬しているが故とのことだった。六本松より福大に近いと思われる地域に位置する「ほうれん荘」という名前のアパートに住み、雨の日も風の日も筥松まで自転車で通い、脇を締めるように自転車のハンドルを握り、ほうれん荘の共同浴場では股関節の柔軟を行い、日常生活を鍛錬の場に変えていた。一度だけ訪れたことのあるアパートの自室では空手とボクシング関係のビデオテープが続々と披露された。

こんな漫画の世界から抜け出してきたような井上先輩の信奉者は部内に大勢いて、俺もそのうちの一人だった。それだけでなく、俺の命の恩人でもある。貝塚体育館での練習を終えた後での帰り道、俺と井上先輩は自転車で並走しながら格闘技談義に花を咲かせていた。けやき通りのとある交差点に差し掛かろうとするとき、「危ない」という声と同時に自転車のハンドルに井上先輩の手がかかり、俺は強制的に停止させられた。その目の前を車が猛スピードで駆け抜けていった。狼狽する俺に
「ドンピシャのタイミングだったなあ」と声がかかり、その後。並列走行は縦列走行に切り替わった。

練習日でない日の放課後、俺は教養部体育館内にあるトレーニングルームに通い、サンドバッグを蹴り続けた。俺の脳内では揺れ動くサンドバッグに井上先輩の組手構えが投影されていた。

格闘遍歴 その十四

憧れの存在に下剋上を挑むのは格闘技の世界ではよくあることである。長州力や前田日明の反逆をリアルタイムで見てきた俺には尚更そう思えた。しかし、体格も技術も圧倒されている俺が格闘家として井上先輩を上回ることは現実的ではないと判断し、とりあえずは井上先輩を倒す攻撃力を身につけることを短期目標に掲げた。

少年サッカー団で培ったキック力、柔道部で培った体幹、自主トレで培った股関節の柔軟性、芦原空手で学んだインパクトゾーン、脱力、腰入れの概念が融合して、俺のサンドバッグ蹴りは短期間のうちに目覚ましい進化を遂げていった。両腕を振りネジを巻くように上半身に溜めを作り、腰から伸びるムチのように小さく畳み込んだ膝下をサンドバッグの中心に設定したインパクトゾーンのやや手前で開放し、インパクト時の軸足の返しと腰入れを連動させると、サンドバッグは人体のように折れ曲がり、心地よい衝撃音が室内に響き渡った。

「これが当たれば流石に倒れるだろう」と思ったのはほんの数日だけだった。直立不動で静止しているわけないのだ。動く相手、しかも肘や膝での防御が容易な中段下段を全力で蹴り込むのはリスクが大き過ぎる。井上先輩は中肉中背で、俺の上段蹴りが届く位置に頭部がある。中段蹴り並みの威力で上段を蹴ることが課題になり、果し合いのその日が来るまでは井上先輩の前での上段蹴りを封印した。

単に上段を蹴るだけで当たるものではないことは百も承知だった。ハンデなしの組手なら片足で立つこと自体がリスクなので捌きの格好の餌食となるだろう。しかし、下級者の先制攻撃を上級者が受ける「捌き」であれば話は別だ。しかも先制攻撃は極真ルールに則ったもののみなので顔面パンチは禁止で上段蹴りは許される。このことを逆手に取って俺は次のような作戦を立てた。
1. 果し合いは捌きの練習時に決行する。
2. 前かがみに構え、胴部へのパンチから先制攻撃が始まると思わせる。
3. なるべく間合いを詰めた状態で始める。
4. 接近戦は井上先輩の得意とするところなので、間合いを離すことはないはず。
5. 中心線を狙った左ジャブは気合を込めるも即座に引き戻す。
6. 連動した右ストレートは相手の左肩を狙い、相手の目に俺の右足が死角となる位置に停止させる。
7. 前かがみから伸び上がる力を利用して右膝が右腕の外側に出る軌道で右ハイキックを振り切る。

決戦は木曜日、貝塚体育館での練習日である。

格闘遍歴 その十五

長々と説明したが、いうなれば「ワンツー右ハイ」である。誰もが用いる基本コンビネーションで、極真をやっていた同級生の北浦であればこれに後ろ回し蹴りと左ハイを追加することは朝飯前だったろう。

この一連の動作で鍵となるのは右ストレートである。上級者は触覚のように両腕を前に出し、下級生の攻撃の自由を奪うのが常だ。囮だからと生ぬるいパンチを出せば袖を取られて制圧されるのは明らかだ。上級者がパンチの威力を見切って間合いを更に詰めてくることも十分考えられる。いずれの場合も右ハイは放てずゲームオーバーである。

練習日でない日もトレーニング室に行けば、二年生の日高さん、野平さん、森脇さん、杉谷さん、小牟礼さんのうちの誰かが自主トレに来ていた。彼らは後輩に技術指導することを厭わなかった。俺は右ストレートの打ち方を彼らから学んだ。

左前半身の状態から右足の爪先で地面を踏みつけ勢いをつける。それは下半身から上半身に伝わり、肩を回転させる。左足で踏ん張ることにより体の左側に見えない壁を作り、回転を前方へ向かう力に変換、相手から拳しか見えない軌道で右腕を伸ばし、インパクト時に拳を返す。

教えられた通り全身を使って右ストレートを打つと射程距離が倍になり驚いた。俺の細い腕で胴体を打っても脅威にならないだろう。しかし、顔面であれば話は異なる。それを期待しての肩口への見せパンチなのだ。

最後の右ハイキックは遠目から放つ通常の回し蹴りではない。パンチの間合いで膝をほぼ垂直に振り上げ、膝下をスクリューのように捻り上げ、インパクト時に腰を入れる蹴りだ。ここで気づきがあった。この動作は基本の前蹴上げの焼き直しと言う事実である。このときから更に基本に傾倒していった。

前後に開いた骨盤を反転させ、足を振り上げるのと同時に骨盤を上下に向けて開くのが前蹴上げの骨子である。俺は鍛に錬を重ね、来たるべき日に備えた。

あれはいつ頃だったか覚えていないが、初夏のとある木曜日であることは確かだ。この頃は実際に当てる練習メニューも増えてきて、極真ルールでの組手や捌きに新入生も参加していた。

練習して威力が増した突きや蹴りを人体で試してみたいと思うのは誰しもが抱く偽らざる心境だろう。しかし、無防備な脇腹に渾身のミドルキックを叩き込む行為は人道的観点から躊躇わざるを得ない。それを可能にするのは同等以上の攻撃力を持ち、「打って、打たれるのが空手」と言う合意が形成されている場合に限られる。

もちろん、井上先輩はその中の一人である。捌きの稽古の順番を新入生側の列に並んだ俺は「機は熟した。今こそが決戦を挑むときだ」という気力の高まりを感じていた。

格闘遍歴 その十六

井上先輩は格下相手に余裕の笑みを浮かべるような人ではなかった。むしろ、うさぎを狩るのにも全力を尽くすタイプで、組手の構えに入ると、眼光がより一層鋭くなり、捌かれる新入生は萎縮するか窮鼠猫を噛むような心境になるかのいずれかだった。

俺は両袖を捲くりあげ帯を締め直して戦闘の準備を整えた。眼前には巻き込み投げで投げられた同級生たちが転がっていた。最後尾に陣取った俺の狙いは、十把一絡げの新入生という油断を誘うためと井上先輩を倒した後に練習の機会を失う同級生に配慮したためである。

俺の順番が来た。井上先輩と向かい合ってみて早くも誤算が生じた。想定していたのは接近戦の間合いだったが、本番では顔面パンチの間合いに広がっていた。頭は真っ白だった。しかし、それゆえ無心になることができた。小賢しい作戦に頼るのではなく、練習してきた技をぶつけてみようという開き直りが生じた。

そのときである。果し合いの火蓋は4年生で前主将である上野先輩の「Go」と言う掛け声とともに落とされた。

教えられた「脱力」は完璧だった。細かいステップで間合いを調整しながら緩慢に見せる左ジャブを放った後、閃光に見せる右ストレートを繰り出した。井上先輩の動きが一瞬止まったかのよう見えた。眼光の焦点もややずれているように感じた。俺は躊躇することなく右膝を振り上げ、無防備な顔面に右足の甲を叩き込んだ。

会心の一撃だった。その衝撃は十分すぎるほど右足に伝わっていた。「やった」と勝利の歓喜に浸る瞬間が訪れた。

だが、その時間は1秒もなかった。当の井上先輩は何事もなかったかのように組手の構えのまま前後にステップを踏んでいたからだ。俺の脳内では「なぜだ?」という文字が飛び交っていた。
「あれを食らって立っていられるのか?」と言う疑問の行き着く先は決して認めたくはないが認めざるを得ない「非力な俺は一撃必殺と言う幻想を抱いてはならない」という結論だった。

練習後、井上先輩が俺の前に来て
「お前の蹴り、効いたよ。耳にツーンときた」と言った。それは慰めにはなったが、俺に格闘技界の超えられぬカースト制度を暗示する言葉でもあった。

この日以降、俺の空手に対する接し方が
「ルールなしの無差別級の世界で強さを追求する」から
「格闘技ファンとして強い人達を仰ぎ見る」に変わった。それは少年が挫折を知って大人になる境目の日だった。

格闘遍歴 その十七

芦原空手には試合がない。他の流派が主催する大会に出場することも御法度である。日頃の鍛錬を披露する場は昇級審査に限られる。その内容は基本と型で、有段者が級位者を捌くのを館長自らの目で評価し、飛び級かそうでないかを判断する。

俺が「昇級審査」という言葉から連想するのは芦原英幸先代館長と島田先輩である。島田先輩は井上先輩の盟友というべき存在で、長身で手足が長く、目がくりっとしていて、異性にモテそうな外見と明るい性格で、漫画「北斗の拳」に出てくる雲のジュウザのような方だった。ただし、練習への出席も雲のように気まぐれで、そのせいか、井上先輩が黒帯を締めているのに、島田先輩は3-4級を示す緑帯を締めていた。

俺が先代館長を初めて肉眼で捉えたのは夏の昇級審査だ。会場は自宅アパートの裏に立地する城南体育館、福岡県のみならず他県の支部からも猛者が集まり、先代館長の一挙手一投足を凝視し、右往左往するような雰囲気の中、先代館長の講話が始まった。

挨拶は短いほうがいいとよく言われるが、先代館長の話は面白かった。その性格も型破りで「織田信長と接するときもこんな気持になるのかなあ」という想像を抱かせるほどの威厳に満ちていた。その一方で「この人は実は情に厚く、慈愛に満ちた人ではなかろうか」と思わせるような述懐が垣間見られた。例えば、袂を分かつ形で独立した二宮城光を慮ったり、愛媛県警への感謝の念を語っていた。話を聞いていると先代館長の家臣になったような気分になり「押忍」という返事に力がこもった。

技術指導の時間になり、先代館長がワイシャツ着のまま右ストレートを放った。それを見て度肝を抜かれたのは俺だけではなかったはずだ。上腕と袖がぶつかり「パーン」という音がこだまし、一瞬の静寂の後、場内の大多数は顔を見合わせ、しばらくの間ざわついた。正面からは拳しか見えない基本に忠実な右ストレートであるが、その速度、キレ、威力は異次元だった。そこに集まる支部長クラスの空手家をも震え上がらせる一撃で、それはすなわち、先代館長がその場にいるすべてのものを赤子扱いにするほどの強さを有していることを意味していた。

審査が始まった。基本は10人一斉に組手の型は一人ずつ行う。俺を含む白帯の審査が終わり、色帯の審査が始まった。そこで島田先輩の登場である。島田先輩は持ち前のリーチの長さを生かしてのダイナミックな演舞を披露した。それを見た先代館長が一言
「すごいなあ~番、これが空手だよ」

当然ながら島田先輩は飛び級、次回の冬の審査も飛び級で黒帯を獲得したと記憶している。それ以降ある事情で先代館長は審査に来なくなった。島田先輩の黒帯は先代館長から授けられた貴重なものとなった。余談であるが、その日の審査で俺以外の新入部員は全員黄帯、俺だけが青帯だった。

格闘遍歴 その十八

諸富先輩は骨太で驚くほど腕が太かった。指導は緻密で膝のバネを利かしたアッパーカットの実演は機能美に満ちており、凄まじい破壊力が容易に想像された。「この人とは本気の組手は避けねば」と思ったうちの一人である。

ある秋の日のことである。諸富先輩が青ざめた表情で何かを訴えている。一体何事かと耳を傾けると、「今年は学祭の場所が取れなかったなんて柴田先輩にどうやって申し開きするんだ。お前ら、なんとかしてくれ」ということだった。どうするも何も抽選で負けたというしかないだろうと思いつつも、あのイカツイ諸富先輩を恐怖に怯えさせる柴田先輩の存在が頭に刻まれることになった。

学祭では出店できず、よそのサークルのテントを間借りしてチョコバナナを製造し立売したが、柴田先輩の顔を見る機会は訪れなかった。この他にも卒業生が残した逸話の数々が部内に伝承されていた。例えば、殴ろうとしたらかわされて肩を痛めた先輩の容赦の無さ、蹴りでサンドバッグを落とした人がいるらしい、県警の暴力団担当でヤクザも一目置くような人がいるらしい、昔の組手は素手で防具をつけず顔面ありだったらしい、入部して辞めて極真の道場に通っている人がいて物凄い蹴りを放つらしい、怪獣のように強い人と酒癖が悪い人がいた、等である。

俺は白亜紀の恐竜に思いを馳せるような感覚でそれらの伝説を聞いていた。それから一年後、貝塚体育館に伝説だと思っていた恐竜が現れるのである。

格闘遍歴 その十九

話は井上先輩によるサークルガイダンスの日に遡る。新入生の集団で鋭い眼光を放つ者がいた。後の第9代目主将となる太田である。空手経験者の太田は練習初日からパンチングミットを持って井上先輩のパンチを受けたりと、極真出身で多彩な蹴りを繰り出す北浦と並んで新入部員の中では別格の存在だった。

今回は備忘も兼ねて同期の新入部員の名前を思いつく限り綴っていきたい。

高校時代にボート部だった近藤はとにかく真面目に練習に取り組む奴だった。型を忠実に再現し、マニュアル通りに捌くスタイルで、2年生になる頃には誰よりも鮮やかに1年生を捌いていた。しかし、多くの部員がそうするように2年後期以降は練習に来なくなった。

逆に2年後期から熱心に練習に来るようになったのが北村だ。髪型はチリチリのリーゼントで見た目は不良少年なのだが優しい性格だった。応用原子力専攻で、今頃はどこかの原発で勤務しているか、水素核融合の研究に勤しんでいるかもしれない。

秋光は薬学部で、同じ薬学部の井上先輩の舎弟という位置づけだった。手足が長く高身長だったが、その性格ゆえか才能が開花せぬまま時間が過ぎたという印象がある。研究者志望だったので、どこかの大学で教授になっていることだろう。

農学部の川瀬と檜垣とは仲が良く、秋光と俺の4人で五島の白浜海岸に遊びに行ったことがある。大学からキャンプ用品を借りて、砂浜にテントを張りサバイバル生活を実践した。夜に台風の直撃を受けても熟睡していたのは若気の至りというほかない。

体がタコのように柔らかい三島は入門した段階で部内の誰よりも美しい蹴りを放っていた。将来を嘱望されたが、痛いのが嫌いという致命的な弱点があったため、後期になると練習に来なくなった。

柔道経験者でサンドバッグ仲間だった渡辺とも仲が良かった。彼の故郷の久留米の繁華街のヤンキー率の高さに驚いた記憶がある。

学祭の旗振り役だったのが森部だ。くじで外れて出店できなかったのが辞めた原因だったのだろうか。
 
これだけ多くいた新入部員でも卒業まで練習に来ていたのはごく僅かで、年末のOB会に参加し続けているのは太田だけである。俺がしずかと結婚したのび太ならば太田はドラえもんのような存在で、時々未来の世界から遊びに来てくれる。50歳になってもなお空手を続けている太田には尊敬の念が自然と湧いてくる。

格闘遍歴 その二十

1年半に渡る教養部生活が終わると、学びの場を六本松から箱崎へ移しての学部生活が始まる。理系学科に所属する学生は研究室に配属され、実験とそのレポート作成に追われ生活が一変すると言われている。それ故なのか、この移行期間にサークル活動と距離を置く者が少なくない。実際、一年時の後期にはあれだけ多かった二年生部員も常時練習に来るのは後の第8代主将となる日高さんと蹴りの名手である藤田さんのみで、井上先輩超えの筆頭と目されていた藤井さん、先代館長との物怖じしないやり取りで名を馳せた阿久根さん、ジェットアッパーが得意技だった杉谷さん、格闘技評論家でもあった野平さん、顔面パンチの防御を練習していた小牟礼さんは冬の昇級審査以降は皆勤メンバーから外れていった。

ここで新入部員の指南役でもあった森脇さんについて書きたい。教養部図書館で雑誌を閲覧していたとき、近藤がやってきて、俺を新聞閲覧場に連れていき、この記事を読めという。そこには、芦原空手のTシャツを着た男が水死体で発見されたという新聞報道がなされた。近藤と俺はそうではないことを祈りつつ男子寮に向かい森脇さんの部屋を訪れた。その玄関には「行方不明中、森脇情報求む」と書かれた貼り紙があった。それからのことはよく覚えてないのだが、警察署に行って水死体を見た。その晩は眠れず、目覚めたときには森脇さんの実家に向かう弔問団の集合時間をとうに過ぎていた。

森脇さんは優しく謙虚で後輩の面倒見も良く、芦原空手をこよなく愛し、誰からも慕われる存在だった。追悼と九大芦原空手部の歴史に残さねばという思いから本欄で綴るに至った。

格闘遍歴 その二十一

俺が2年生だったある冬の日、貝塚体育館での練習中に見知らぬ人物が現れ、社会人同士でかわされるような丁寧な敬語で「稽古の一部に参加させてくれ」と頼まれた。拳がでかい、腕も太い、太ももは組技系の選手のように分厚い、それでいて、踏み込みが速く、懐に入られてワンツーでのされる恐怖が拭えないほどだ。.第2代主将の池田先輩のことである。

その日からほぼ毎週、時間にして20分弱、俺は池田先輩の対人稽古の相手役を務めることになる。その内容は顔面パンチの目慣らしで、互いのパンチが届かない間合いに立ち、相手のパンチに反応して防御する訓練だった。体は疲れないが、頭が疲れる、フルコンタクトと謳いながらも顔面パンチは反則という極真ルールの盲点を補うような、合理的かつ実戦的な練習体系を池田先輩は確立していた。

その年から少なくとも8年間、俺が博士課程を終えて、イスラエルに1年間滞在し、再び九大に戻り韓国に渡るまでの期間、池田先輩は歴代部員と稽古を通して交流し、自身の目標であった全日本格闘技選手権への出場を果たされ、試合指向の強い部員の技術指導もされていた。

空手以外に池田先輩から数多くのことを教わった。そのなかの一つがアウトドアの遊び方である。限られた時間を最大限に活用し、イベントごとに集まるコミュニティが異なり、移動は車が基本である、社会人の作法は、学生だった俺には新鮮な体験だった。

衝撃的だったのが能古島での菜の花見物である。草スキー場で段ボールのソリに乗り、斜面の最後の部分で豪快に転び、「こりゃあ、なんかおかしいぞ」と叫び、再度挑戦するもまた豪快に転ぶという、わざとやっているとしか思えない行動で、一行の座を盛り上げる人物がいた。池田先輩の奥様が通う英語教室の講師も一行の一人だったが、彼女に向けて「ミシェル」と呼びかけ、「ケンさん」と呼び返され、打ち解けていた。初代主将である柴田先輩のことである。同行の田中先輩と柴田先輩との風通しの良い会話を聞きながら、俺は「恐怖の柴田先輩」という先入観と実像との差異を修正していた。

その後も、池田ご夫妻のお招きで、球磨川キャンプや海水浴兼バーベキュー等のイベントに参加し、田中先輩、柴田先輩との交流が続いた。その流れから四年生にして初の年末納会に参加することになった。先輩方の人柄がわかり、「粗相や失言を恐れながらの緊張が強いられる重苦しい雰囲気の飲み会になることはないだろう」との思いはあったが、確信は持てなかった、稽古中は抜群の指導力を発揮し尊敬を集めるも酒を飲んで制御不能になってしまう社会人空手家の例を知っていたからである。

集合場所から一次会の会場までの道のりで、ゴツい革ジャンをまとった参加者と自己紹介し合った、小田先輩のことである。一次会は腹ごしらえ、二次会はカラオケだった。酒も十分に入っていて、参加していた下級生たちも大部屋のステージに上がり今にも踊りだしそうなリラックスした雰囲気だった。その時、

「おい、店員を呼んでこい」という野太い声が室内に響き渡った。その声の主は柴田先輩だった。店員が来ると、続けて、

「人数分の椅子がないぞ。準備してもらえんか」と言った。

それから2022年までの30年間、年末ごとに納会が開催され、その参加者数も増加していった。その理由を雄弁に物語るのが前述の逸話ではなかろうか。

ある時期から池田先輩の納会への出席が途絶えている。事業を興され年末が繁忙期になったのがその原因だ。叶うならば、共に納会に出席して40代にも及ぶ九大芦原空手部の歴史巻物を開いたかのような壮大な光景を味わい、昔話に花を咲かせ、柴田先輩、池田先輩、田中先輩、小田先輩の間で交わされる丁々発止の会話に耳を傾け、馬鹿騒ぎしたい。

『あしたのジョー』の影響で「脳へのダメージを伴う稽古は避けたい』という思いから、キックボクシングルールの組手を避けて来たのだが、池田先輩に食らいついて顔面パンチの修行に励めば、格闘技愛好家としての新たな地平が見えたのでは、と後悔している。